下山御消息 第五段第一(律宗は小乗の小法)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
しかるを、今、邪智の持斎の法師等、昔捨てし小乗経を取り出だして、一戒もたもたぬ名ばかりなる二百五十戒の法師原有って、公家・武家を誑惑して国師とののしる。あまつさえ、我慢を発して大乗戒の人を破戒・無戒とあなずる。例せば、狗犬が師子を吠え、猿猴が帝釈をあなずるがごとし。今の律宗の法師原は、世間の人々には持戒・実語の者のようには見ゆれども、その実を論ずれば、天下第一の大不実の者なり。その故は、彼らが本文とする四分律・十誦律等の文は、大小乗の中には一向小乗、小乗の中にも最下の小律なり。在世には十二年の後、方等大乗へうつるほどのしばらくのやすめことば、滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺なり。これまた一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり。されば、日本国には像法の半ばに鑑真和尚、大乗の手習いとし給う。教大師、彼の宗を破し給いて、人をば天台宗へとりこし、宗をば失うべしといえども、後に事の由を知らしめんがために、我が大乗の弟子を遣わしてたすけおき給う。しかるに、今の学者等はこの由を知らずして、六宗は本より破れずしてありとおもえり。はかなし、はかなし。
背景と大意
伝教大師によって叡山に大乗戒壇が建立されてより、当然のことながら小乗戒を中心としていた律宗は衰退の一途を辿っていきました。興福寺の実範が天永2年(1111)頃、鑑真開基の唐招提寺を訪れた時のことを記していますが、それによると寺は荒れ果てて衆僧もいず、わずかに野良仕事に従事する禿丁が一人いるだけだといいます。いかに衰退したかがうかがえます。
しかし、平安末期から鎌倉期にかけて南都仏教の復興の機運が現れてきました。治承4年(西暦1180年)12月、平清盛がその子重衡をもって南都を襲わせた際、南都が炎上し、東大寺・興福寺の二大寺も焼失しましたが、その再建が機となって南都仏教は復興の道を歩むのです。特に、戒律の重視・研究は、当時の延暦寺や京の諸寺の退廃への反動でありましょうが目覚ましいものがありました。その先駆者が実範であり、その後、興福寺の覚盛や西大寺の叡尊等が現れ、大いに戒律を宣揚しました。
とりわけ、西大寺の叡尊は、真言と戒律を融合した独自の教学を打ち立てて真言律宗を開き、上皇から庶民に至るまであらゆる階層にわたって教化し、急速に勢力を伸ばしていきました。この叡尊の弟子・良観は、鎌倉に招かれ北条氏の手厚い保護のもとで関東における律宗興隆の立役者となったのです。日蓮大聖人は本抄の第五段と第六段で、当時、興隆を誇っていた律宗の根本教義を批判するとともに、極楽寺良観を名指しで、その表裏にある言辞と行状とを厳しく告発されています。
良観が奈良・西大寺から関東に下ったのは建長4年(西暦1252年)のこととされています。関東入した良観は、まず常陸の三村寺を改宗させることに成功し、以後ここを拠点として鎌倉進出の機会をうかがっていました。弘長2年(西暦1262年)2月、北条実時の要請によって叡尊の鎌倉下向が実現した、その陰には良観の働きかけがあったろうと推察されています。
叡尊は鎌倉滞在中に、関東における律宗の中心を三村寺から鎌倉新清涼寺釈迦堂に移し、北条一門をはじめ多くの人々に戒を授けました。叡尊の鎌倉滞在は約半年にわたりましたが、この間、良観も鎌倉に滞在し師の活動を助けたことはいうまでもありません。またこれを機会に良観と北条家とのつながりが一層強められることになったのです。叡尊が鎌倉の地を去った後も、良観は鎌倉に残り本格的に勢力を拡大していきます。
良観を熱心に外護したのは、北条氏一族の中でも、前連署の重時とその子業時でした。重時は五代執権・北条時頼の妻の父で、六代執権・長時の父であったので、良観は幕府権力の中枢とつながることに成功したといえます。重時は息子の長時を動かして大聖人を伊豆流罪に処した張本人でしたが、弘長元年(西暦1261年)5月、流罪に処した翌月に病に倒れ、その年の11月に狂死しています。それはともかく、翌弘長2年(西暦1262年)の春には業時が多宝寺を創建し良観を招きました。
良観は文永4年(西暦1267年)、重時が創建した極楽寺の別当に請じられ、以後、摂津の多田院・四天王寺等、多くの別当を兼任しつつも、死去する嘉元元年(西暦1303年)に至るまで、37年間極楽寺に住し、名声と権威をほしいままにしました。
現代語訳
しかし、今日、邪智の持斎の法師らの中には、昔捨てられた小乗経を取り出して、一戒も持たないで二百五十戒の法師とは名ばかりのものどもが、公家・武家を誑惑し、自ら国師であると僭称しているのです。
のみならず慢心を起こし、大乗戒を持つ人に対して破戒・無戒の者であると恥辱しています。これは、例えて言えば犬が師子を吠え、猿が帝釈を恥辱するようなものです。
今日の律宗の法師どもは世間の人々には持戒実語の人のように見えるけれども、その実は天下第一の大不実の者です。その理由は、彼らが依文とする四分律・十誦律等の文は大乗・小乗の中では専ら小乗教に属し、小乗教の中でも最下級の小律だからです。釈尊在世にあっては、阿含時十二年の後、方等時で説かれる大乗教へ移るまで、しばらくの間、仮に説いた教えであり、釈尊入滅後では、正法時代の前半の五百年にあって専ら小乗教の寺で持った戒律です。これもまた専ら大乗のみを行ずる寺では毀謗の対象となすべきためのものです。故に日本国では像法の中頃に鑑真和尚がこの小乗教を、大乗教に入るための手習いとされたのです。
伝教大師がかの律宗を破折され、その人々をば天台宗へ帰伏された折、宗派としては廃止すべきところでありましたが、後世にこの経緯を知らしめるために自身の大乗の弟子を遣わして助けおかれたのです。ところが今日の僧たちはこの経緯を知らないで、六宗はもとより破折されていないと思っています。実にはかないことです、はかないことです。
講義
律宗の教義への批判
さて、日蓮大聖人は、こうした真言宗の本質を鋭く見抜かれていました。まず彼らの教義について本抄では端的に「彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり」と喝破されています。
日本における律宗は、中国の道宣律師によって開かれ、鑑真によって日本に伝えられた四分律宗の流れを汲んでいます。インドから中国に伝わった律蔵は、法蔵部の四分律、説一切有部の十誦律、化他部の五分律、上座部の僧祇律があり、これを総称して四律、あるいは四部律といっています。道宣はこのうち四分律を所依として一宗を開いたのです。
大聖人がここで四分律のみならず十誦律等も含めて述べられているのは、大乗の立場から見るならば、四分律、十誦律はいずれも比丘・比丘尼のために説かれた小乗の戒律経典で共通しているからです。
ところで、小乗の三蔵を戒定慧の三学に配すれば、律蔵は戒学、経蔵は定学、論蔵は慧学にあたります。そして、三蔵経においてこれら三学の勝劣は「戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、 故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり」(御書全集390頁7行目、一代聖教大意)と仰せのように、三学中で最も劣っている戒を重視しているのが律蔵であることから、大聖人は本抄で「小乗の中でも最下」と指摘されたものと拝されます。
四分律によれば、比丘・比丘尼が持つべき具足戒として比丘に250戒・比丘尼に348戒があります。このような戒律は、およそ通常の生活を営む人々には実践できるものではありません。試みに在家の男性のために立てられた最も基本的な五戒について考えてみましょう。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒です。
もし、この五戒を厳格に遵守すると日常生活に支障をきたすことは明白です。例えば、西大寺の叡尊とその弟子・良観は不殺生戒を人々に徹底しようとしました。それを受けて殺生禁断が強圧的に押しつけられた地域では、魚師や猟師等が生きていけなくなる事態が生じたのです。
このように小乗戒は人間の煩悩をなくすことを目指しながら現実には人間生活を成り立たなくしてしまうのです。煩悩を押し込め、あるいは滅尽し悟りを得ようとする小乗教に対して、むしろ煩悩をより高い次元へと昇華することを教えたのが大乗教です。そして、この煩悩を昇華する原動力としての智慧を明かし、万人の成仏の道を示したのが法華経でした。であればこそ、伝教大師は自ら小乗戒を捨てて法華経を根本とする大乗戒を立てたのです。
日蓮大聖人が本文で律宗の四分律を「最下の小律」と仰せになっているのは、以上の理由からも理解できるでありましょう。そのような小乗戒が立てられたのは、あくまで大乗教を説くに先立って、衆生の機根を調養するための方便であったのです。
また、仏滅後、正法時代の500年に小乗教が広まり、小乗寺院が建てられましたが、これらの寺院は、やがて大乗教の寺院が登場すれば、その使命を終えていったのです。したがって、日本に小乗教の戒をもたらした鑑真和尚も、あくまで大乗教が確立されるにあたっての土壌作りとして、東大寺以下、三ヵ寺に小乗戒の戒壇を建立したのです。
鑑真が小乗戒の戒壇を建立してから約半世紀後、伝教大師が出現し、鑑真が招来した天台三大部を読んで法華経こそ一切経の中にあって最高・甚深の経典でることを日本に明らかにしました。高雄山で延暦21年(西暦802年)1月より始まった法華会がそれです。南都七大寺の学匠を前に天台三大部とともに、法華経第一を講説したその講筵は、桓武天皇の注目・称賛するところとなりました。以後、桓武天皇は伝教大師を支援し、伝教大師の入唐を実現し日本天台宗の開創の大きな力となりました。また、善議等が天皇に奉った謝表文に明らかなように法華経の妙理によって打ち立てられた天台の宗義の優越性が明確化されたのです。
日蓮大聖人は、この高雄山寺の法界の歴史的意義については諸御書にふれられていますが、本抄でも、各宗がこの帰伏の結果、廃されてしかるべきであったのに、廃されないで残されていたのは、伝教大師の考えによってであったことを述べられ、にもかかわらず当世の学者が、南都六宗の教義がいまだかって破られたこともないと思い込んでいる姿は、まことにはかない拙いことでると嘆かれているのです。
これまで、律宗が基本的に小乗の戒をもとにしたものであることを述べてきました。しかし問題はそれにとどまりません。むしろ当時の律師たちの問題は、人々の説いている戒律に彼ら自身が違背していることにありました。大聖人が本抄で、鎌倉における律宗の代表者たる良観の偽善者の仮面をはいで、その実像を白日のもとにさらし、「邪智の持斎の法師」とか「一戒もたもたぬ名計りなる二百五十戒の法師原」と痛烈な非難を加えられている所以がそこにあります。
極楽寺良観に対する具体的な批判は後で触れることにし、ここでは次のことを指摘するにとどめておきます。それは、今日に伝わる良観に関する伝記は性公大徳譜、元亨釈書など幾つかありますが、それらはいずれも良観の没後にできたものであり、しかも、例えば大聖人に祈雨の勝負で破れた事実がどの伝記にも見られないことからもうかがえるように、崇拝者の立場からしか記されていないといってよいものです。
良観はその外面においては慈善事業を推進した慈悲深い宗教者であり、伝記でもっぱらそのことに多くの紙幅が費やされています。しかし、それは彼の私利私欲を満足させるための手段であり仮面に過ぎなかったのです。大聖人は同時代人として、この良観の偽善者としての本質を如実に見破られていたのです。もし大聖人が良観について書き残されていなかったならば、彼の真実の姿は覆い隠されてしまったに違いありません。