法華経と大日経・華厳・般若・深密・楞伽・阿弥陀経等の経々の勝劣・浅深等を先として説き給いしを承り候えば、法華経と阿弥陀経等の勝劣は、一重二重のみならず、天地雲泥に候いけり。譬えば、帝釈と猿猴と、鳳凰と烏鵲と、大山と微塵と、日月と蛍炬等の高下・勝劣なり。彼々の経文と法華経とを引き合わせて、たくらべさせ給いしかば、愚人も弁えつべし。白々なり、赤々なり。されば、この法門は大体人も知れり。始めておどろくべきにあらず。
また、仏法を修行する法は、必ず経々の大小・権実・顕密を弁うべき上、よくよく時を知り機を鑑みて申すべきことなり。しかるに、当世日本国は、人ごとに、阿みだ経ならびに弥陀の名号等を本として、法華経を忽諸し奉る。世間に智者と仰がるる人々、我も我も時機を知れり時機を知れりと存ぜられげに候えども、小善をもって大善を打ち奉り、権経をもって実経を失うとがは、小善還って大悪となる、薬変じて毒となる、親族還って怨敵と成るがごとし。難治の次第なり。
現代語訳
まず法華経と大日経・華厳経・般若経・深密経・楞伽経・阿弥陀経などの経経との勝劣・浅深等などから説きになったのを承っておりましたところ、その内容はおおよそ次のようでありました。
法華経と阿弥陀経などの勝劣は一重二重の差にとどまるのではなく天地雲泥の差であり、それは譬えてみれば、帝釈天と猿、鳳凰とカササギ、大山と微塵、日月とホタル火の差に匹敵するほどの高下勝劣です。それらの経文と法華経とを引き合わせてくらべられれば、愚者にもはっきり分かるほど、その勝劣は明々白々です。従って法華経と他経との差が天地雲泥であるというこの法門は、大体は人も既に知っていることであり、改めて驚くべきことでもありません。
また仏法を修行する方法については、必ず経典の大小・権実・顕密を分弁すべきで、そのうえによくよく時を知り、機根を考えて説くべきものです。
それなのに今の日本国はすべての人が阿弥陀経や弥陀の名号などを根本として法華経をおろそかにしています。世間から智者として仰がるる人々は、自分こそは時と機根を熟知していると思っておられるようであるけれども、実際には小善をもって大善を打ち、権経を以て実経をそこなわしめているので、小善はかえって大悪となり、薬は変じて毒となり、親族がかえって怨敵となるように、救いがたい状況となってしまっています。
講義
諸経と法華経の勝劣
大日・華厳・般若・深密・楞伽・阿弥陀経等の諸経と法華経との勝劣は天地雲泥であり、そのことは「愚人も弁えつ可し白白なり・赤赤なり」と仰せです。しかもそのうえで「されば此の法門は大体人も知れり始めておどろくべきにあらず」と述べられています。「此の法門」とは、言うまでもなく権実相対の法門を指しています。つまり、法華経が諸経の中で最勝の教えであることは常識であるというのです。そして、この経の勝劣を第一に判断の根本としたうえで、次に時機を考えるべきであると言われています。しかし、当時の念仏宗は、法華経の勝れることを認めながら、末代の機に適っているのは念仏であると唱えて法華経をないがしろにしているのです。
ところで、いずれの経も、自行の功徳を讃嘆する語は少なくないですが、明確に他経との比較において自経が最勝であると説いている経典はあまり見られません。また、あったとしても限られた諸経の中での比較にとどまっています。ところが、法華経においては明確に一切経を比較の対象とした上での法華経の最勝性がいたるところで説かれています。
その例を挙げると、まず法華経の法師品第十には「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり…我が所説の経典、無量百千倍にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」とあり、已説の爾前経、今説の無量義経、当説の涅槃経に対して、法華経こそ釈尊一代の諸経の中で最も難信難解であり、最第一であると明かしています。
このことについて大聖人は報恩抄で「法華経の文には已説・今説・当説と申して此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず 後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う」(御書全集300頁7行目)と述べられ、また「諸経と法華経と難易の事」では「易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり」(御書全集991頁7行目)と仰せられています。釈尊が衆生の機根にかかわらず、その内容の覚りをそのまま説き示した法華経は随自意の教えであるが故に、難信難解なのです。
また法華経安楽行品第十四にも「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」とあり、更に薬王菩薩本事品第二十三には「譬えば一切の川流、江河の諸水の中に、海為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し」等と十種の譬喩を挙げて、法華経が諸経の中で最高の教えであることを示しています。
法華経が最高であることについては、法華経の開経である無量義経に「四十余年には未だ真実を顕さず」、法華経方便品第二には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」とあり、これから説く法華経において真実の悟りを明かすことを述べています。
また、涅槃経如来性品第四には「法花の中に、八千の声聞・記莂を受くることを得て、大果実を成ずるが如く、秋収め冬蔵めて更に所作無きが如し」とあります。つまり、八千の声聞は、法華経で成仏の記別を受けました。それはそこで収穫が終わったということであり、涅槃経においては、もう何もすることがないとの意です。これは明らかに涅槃経と法華経の勝劣を明かしています。