報恩抄
建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房
第三十一章(道善房への報恩)
本文
此の功徳は定めて上三宝・下梵天・帝釈・日月までも・しろしめしぬらん、父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん、但疑い念うことあり目連尊者は扶けんとおもいしかども母の青提女は餓鬼道に墜ちぬ、大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ墜ちぬ、これは力のまますくはんと・をぼせども自業自得果のへんは・すくひがたし、故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし・それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず、但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず。
現代語訳
この日蓮大聖人の死身弘法の功徳は、かならずや、上は仏法僧の三宝、下は大梵天王、帝釈天王、日天月天等までも承認されることになろう。ゆえに、わが父母も、故道善房の聖霊も、かならずやこの大功徳によって成仏するであろう。
ただし、一つ疑い思うことがある。目連尊者は母をなんとか助けようと思ったけれども、母の青提女を餓鬼道から救うことはできなかった。釈尊の子供であるけれども、善星比丘地獄におちてしまった。これは、わが力によって救おうと思っても、相手があまりに極端な謗法では、自業自得となって救いがたいのである。
わが師匠・故道善房にとっては、日蓮大聖人はかわいい弟子であるから、日蓮大聖人をば憎いとは思われなかったろうけれども、きわめて臆病であった上に、邪宗清澄山の住職を離れまいと執着した人であった。その土地の地頭、東条景信を恐れていたし、また、釈尊時代の提婆達多、瞿伽利という悪僧にも異ならない円智、実成などが、それぞれ清澄の上と下にいておどかしていたのを、ひじょうに恐れていた。そのため故道善房は、もっともかわいいと思っていた正法を奉ずる年ごろの弟子たちまでも、捨てたような人であるから、後生はいかがかと疑うしだいである。
ただ一つの幸いとしては、謗法の強かった東条景信と円智、実成とが、先に死去したということは、外からの圧迫が除かれたので、一つの助かりとは思えるが、しかし、彼らは法華経十羅刹の責めをうけて、早く死去したのである。彼らの死去の後に、じゃまがいなくなったために、故道善房が後には少し法華経を信じたということもあったが、なんとなく「けんかのあとの棒ちぎれ」のような感じがする。時が過ぎたあとの、いわゆる昼の灯火というものは役に立たぬものである。
その上、いかなることがあっても、子、弟子などというものは、まことに心にかかり不便と思うものである。故道善房は、力のない人でもなかったのに、この日蓮が佐渡の国まで流罪されたのに、一度もおとずれてこなかったことは、法華経を信じたということにはならないのである。それにつけても、心から思っていたので、故道善房がなくなられたと聞いたときには、火の中をくぐり、水の中にも沈み、走って行って、故道善房のお墓をたたいて、法華経一巻を読誦してあげたいと思ったけれども、賢人のならいとして、わが心では遁世とは思わぬけれども、世の人々はみな遁世と思っているのであるから、理由もなく走り出すならば、最後まで志をまっとうできなかったと、人々は非難するであろう。
ゆえに、いかに故道善房のお墓に参上したいと思っても、ここで行くべきではない。ただし、あなた方、浄顕房、義浄房のお二人は、日蓮の幼少の時の師匠であった。あたかも勤操僧正と行表僧正は、初め伝教大師の師匠であったが、かえって後に、伝教大師の弟子となられたようなものである。日蓮が東条景信にあだまれて、清澄山を出ようとしたとき、あなた方お二人が、この日蓮をかくまって、ひそかに道案内をして無事に逃してくださったのは、まことに天下第一の法華経に対するご奉公というべきである。それによって、あなた方お二人の後生の成仏は疑う余地のないことであり、堅く確信してよいことである。
語釈
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
目連尊者は扶けんとおもいしかども
目連は大目犍連の略称。釈迦十大弟子の一人で、神通第一。仏説盂蘭盆経によると、目連は天眼通を以て、母の青提女が慳貪の罪によって、五百生にもわたる餓鬼道に堕ちていたことを知った。そこで目連は餓鬼道に行き、母に飯をやったが、その食がまだ口に入らないうちに、炎と化した。神通を現じて水をかけようとしたら、水が変じて薪となり、さらに燃え上がった。自力では何としても救うことができず、釈尊の教えを仰いで十方の聖僧を供養し、その生飯を取って、やっと救うことができたという。しかし、目連の供養は小乗の教えによるもので、母を餓鬼道から救っただけであって、成仏させたのではなかった。盂蘭盆御書に「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429-05)と仰せの通り、目連が法華経に帰命し、多摩羅跋栴檀香仏となったとき、母・青提女も成仏することができたのである。
善星比丘
釈尊の出家以前の子といわれる。涅槃経巻三十三によると、出家して仏道修行に励み、第四禅定を得たが、これが真の涅槃かと思い、苦得外道に親近し悪見を起こした。そのうえ、釈尊に悪心を懐いたため、生きながら地獄に堕ちたという。
阿鼻地獄
阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
瞿伽利
瞿伽利は梵語。悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の出身で、浄飯王の命令により出家して仏弟子となったが、のちに提婆達多を師として舎利弗・目連を誹謗し、生きながら地獄へ堕ちた。
地頭景信
東条景信。安房国(千葉県南部)東条の地頭で、文永元年(1264)11月11日、日蓮大聖人、小松原法難のときの首謀者。
円智・実成
ともに清澄山の住僧とおもわれる。
いさかひの後のちぎりき
乳切木とは、地面に立てたとき、胸に達するゆえにいう。棒ちぎり。物を担うほか、護身用にも用いたという。棒の先に、鎖をつけた分銅を装着したものが、武具として今に伝えられる。「諍いの後の乳切木」とは、何の役にも立たないこと。次下の「ひるのともしび」と同義。
勤操僧正
三論宗の僧。伝教大師が、桓武天皇の前で南都六宗七大寺の碩徳十数人を論破したが、そのなかの一人であった。
行表僧正
伝教大師を得度させた師匠。後に勤操らとともに伝教に帰伏した。
講義
日蓮大聖人が師の道善房の恩に報いようとの御心情をお述べの段である。
日蓮大聖人の御一代にわたる大慈大悲のおふるまいからするならば、師の道善房も救われるに違いない。ただし、目連尊者の母が餓鬼道に堕ち、釈尊の子の善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちたので、このような自業自得果はどうすることもできないとのおおせである。じつに因果はきびしいのである。
道善房が日蓮大聖人の師匠となったことは、決して偶然ではない。そこには深い深い仏縁があるのである。しかるに、道善房はあまりにも臆病で、利己主義者で、事なかれ主義の小心者であったようである。ただひたすら権威を恐れ、地頭を恐れ、円智や実成を恐れて、清澄寺の住職たる自己の保身だけを考えていた。
自分の弟子たる日蓮大聖人が、地頭から追放されたり、佐渡へ流されたりしても、いっこうに助けようとも、慰めようともしなかった。しかも日蓮大聖人は、清澄寺大衆中によれば、東条左衛門景信の策動を封殺され、清澄寺のため、また領家のために戦われている。道善房はその御恩義も感じているはずである。
また、さすがの道善房も「後にすこし信ぜられてありし」(というていどに心は動いていた。にもかかわらず、本章では、自業自得果の辺は救いようがないとおおせられているのである。しかるに、報恩抄の最後には、「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と結ばれている。それは、いかに三大秘法の仏法が偉大であるか、しかも日蓮大聖人の大慈大悲によって、万年のほか未来永遠の衆生を救われるのであると断定あそばされた上で、最後の結論をお述べになっているのである。
清澄山時代の日蓮大聖人
ここで、日蓮大聖人が御幼少のころ、道善房を師匠として修学された清澄山時代のことを、若干のべてみよう。
日蓮大聖人は承久の乱後、まだいくばくもたたぬ承久4年(1222)2月16日、安房国東条の郷、小湊の漁家に御誕生になった。父は貫名重忠、母は清原氏で梅菊と申し上げた。御幼少のころから、ひじょうに英邁剛毅であられたことが、じゅうぶんうかがわれるが、残念ながら当時の資料は、ほとんど残っていない。しかし、日蓮大聖人の出家の動機については、御書を拝すると、次のようなことが考えられる。
まず、当時盛んに信ぜられた念仏を唱える人が、みな悪相を現じて苦悶にみちた死に方をしていたことである。幸福になるべき仏法を信じて、地獄におちていくさまを見て、ひじょうな疑惑をもたれたことである。また当時、日本に仏教が八宗、十宗とあるが、いずれが真に正しい仏教であり、幸福になるべき教えかという点にあった。さらに承久の乱において、なにゆえ朝廷方が敗れて、三上皇が島流しにあわれたかという疑問もあられた。
かくして日蓮大聖人は、一刻も早くこれらの疑念を一掃して一切衆生を救済したいという念願で、天福元年(1233)5月、12歳の御時に、出家を志され清澄山に上って習学、剃髪は16歳であった。当時の仏法の中心はなんといっても比叡山であり、また王法の都は鎌倉であった。小湊の地は比叡山からみて、はるかに遠国であり、名ある名僧智識も少ない辺国であったが、縁あって近くの清澄山に登られ道善房を師匠とされたのである。そして、これらの疑問を解決されるために、幼少の時より、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈られたことは有名である。
清澄修学の道にはいられてより4年余、16歳の時に出家剃髪され、名を是生房蓮長と改め、なおきびしく仏法の究明に力をつくされた。清澄寺は天台真言の寺であり、師の道善房は念仏にも心を奪われていた。日蓮大聖人は、やがて師の道善房に遊学の志をつげ、まず鎌倉に向かわれ、浄土宗、禅宗等の教義を討究され、ついで、比叡山、園城寺、高野山、天王寺さらに京中、またはいなかの寺々をたずねて、研究されたのである。かくて、日蓮大聖人は、ついに、法華経こそ釈尊五十年の説法の肝要であり、出世の本懐であること、また法華経神力の付嘱によって、三大秘法の南無妙法蓮華経の大仏法を、末法に流布して一切衆生を救うべきことを悟られた。そしていよいよ建長五年四月二十八日、御年三十二歳の時、清澄寺の持仏堂の南面で、御立宗あさばされたのであった。
本尊問答抄にいわく「然るに日蓮は東海道・十五箇国の内、第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに、我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに」(0370:08)云云と。
善無畏三蔵抄にいわく「而るを日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(0888:09)
破良観等御書にいわく「其の後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上……論師・訳者・人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん」(1292:18)と。
妙法比丘尼御返事にいわく「此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」(1407:14)云云と。
第三十二章(略して題目肝心を示す)
本文
問うて云く法華経・一部・八巻.・二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経・阿含経の肝心は仏説中阿含経・大集経の肝心は大方等大集経・般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経・雙観経の肝心は仏説無量寿経・観経の肝心は仏説観無量寿経・阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経・涅槃経の肝心は大般涅槃経・かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目・其の経の肝心なり、大は大につけ小は小につけて 題目をもつて肝心とす、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等・亦復かくのごとし、仏も又かくのごとし大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏・是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつて・かくのごとし、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり、問うて云く南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱うると斉等なりや浅深の功徳差別せりや、答えて云く浅深等あり、疑て云く其の心如何、答えて云く小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども大河ををさめず・大河は露乃至小河を摂むれども大海ををさめず、阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし、方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり、法華経は露・涓・井.江・小河・大河.天雨等の一切の水を一渧ももらさぬ大海なり、譬えば身の熱者の大寒水の辺にいねつればすずしく.小水の辺に臥ぬれば苦きがごとし、五逆・謗法の大きなる一闡提人・阿含・華厳.観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし、法華経の大雪山の上に臥ぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし・されば愚者は必ず法華経を信ずべし、各各経経の題目は易き事・同じといへども愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥なり、譬へば大綱は大力も切りがたし小力なれども小刀をもつて・たやすく・これをきる、譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破がたし、利剣をもてば小力も破りぬべし、譬へば薬はしらねども 服すれば病やみぬ食は服すれども病やまず、譬へば仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず。
現代語訳
問うていうのには、法華経一部、八巻、二十八品の中には、なにものが、もっとも肝心であるか。
答えていうのには、華厳経の肝心は大方広仏華厳経である。また阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、雙観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。
かくのごとく、一切経はみな、如是我聞の上にある題目が、その経の肝心なのである。大乗は大乗として、小乗は小乗なりに、ともかく、題目をもって肝心としているのである。大日経、金剛頂経、蘇悉地経等も、また、かくのごとくその経の題目が肝心である。
仏についても、また同じことがいえるのである。大日如来、日月燈明仏、燃燈仏、大通智勝仏、雲雷音王仏、これらの仏も、また仏の名のなかにその仏の種々の徳をそなえているのである。いまの法華経も、また同じである。
如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は、すなわち法華経一部八巻の肝心である。またそれだけではなく一切経の肝心である。さらにいっさいの諸仏、菩薩、二乗、天、人、修羅、竜神などの頂上の正法である。
問うていうのには、「南無妙法蓮華経」と、その経の心も知らないで唱えるのと、同じく「南無大方広仏華厳経」と、その経の心も知らないで唱えるのとでは、その意義は等しいか、また功徳の浅深、差別があるのか。
答えていうのには、それは明白に功徳の浅深がある。
疑っていうのには、しからば、その心はいかん。
答えていうのには、小さい河は、露や涓や井戸の水や、渠の水、江の水などは収めるけれども、大河の水を収めることはできない。大河は、露や乃至小河の水は収めるけれども、大海の水を収めることができない。阿含経は井江等や露涓などを収めた小河のようなものでる。方等経、阿弥陀経、大日経、華厳経などは、小河の水を収めた大河のようなものである。しかして、法華経は、露、涓、井、江、小河、大河、天雨などの一切の水を一滴ももらさず収めた大海のようなものである。
たとえば、身体が熱くてたまらない者が、大寒水のほとりに、いつづければ、涼しくなるが、小水のほとりに伏せれば熱くて苦しいようなものである。五逆罪、謗法の大きな一闡提人が、阿含、華厳、観経、大日経等の小水のほとりにいるのでは、大罪の大熱を散ずることができない。しかし法華経の大雪山の上に伏せれば、五逆罪、正法誹謗、一闡提等の大熱がたちまちに散ずるであろう。
されば、すべての愚者は必ず法華経を信じて功徳をうけるべきである。おのおのの経々の題目は、たやすいことである。同じようなことであるといっても、愚者なれども法華経の題目を唱える功徳は勝れ、智者なれども権経の題目を唱える功徳は劣る。その相違はまさに天地雲泥である。
たとえば、大綱は大力のものでも切ることができない。しかし小力なりとはいえ小刀をもって切れば、たやすく切ることができる。大網とは五逆謗法である。小刀とは法華経の題目である。また、たとえば、堅い石を、やわらかい鈍刀をもってしては、大力のものも破ることができない。しかし、堅い利剣をもてば小力のものでも破ることができる。利剣とは法華経の題目である。また、たとえば、薬は、その効能などを知らなくても、服しただけで病気はなおる。しかし、単なる食物では、いかに服しても病気はなおらない。薬とは法華経の題目である。また、たとえば、仙薬は寿命を延ばし、凡薬は病気はなおすが寿命を延ばすことはできない。仙薬とは法華経の題目である。
語釈
日月燈明仏
略して燈明仏ともいう。法華経序品第一の最初に、八万の大菩薩、万二千の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まったところ、天より曼陀羅華が降り、地は六種に震動し、仏は眉間の白亳より光を発ち、万八千の世界を照らした。大衆は不思議に思い、弥勒菩薩が代表して文殊師利菩薩にこの瑞相の訳を問いた。文殊が答えるには、「過去世に日月燈明仏がおられた。声聞に四諦の法を、縁覚に十二因縁を、菩薩に六波羅蜜の教えをそれぞれ説いて、菩提を成ぜしめた。さらにその次の仏、そして次の仏と、二万の仏が生じ、それがみな同一の仏号をもって出世した。その最後の日月燈明仏がまだ出家していないとき、八人の王子があり、みな父に従って出家した。そのとき、日月燈明仏は無量義経を説き、無量義処三昧に入った。その後、皆が今見ているところの瑞相を現じてのち、八百の弟子の上首である妙光菩薩によせて、法華経を説いた。その時の妙光菩薩とは、我、文殊である。日月灯明仏は法華経を説き終わって、涅槃にはいった。それがあたかも、いまの釈迦仏のようであった」と、無量義処三昧から法華経開説までの因縁を明かしたのである。
燃燈仏
燃灯仏とも書く。法華経序品第一に説かれる、過去の日月燈明仏の八人の子のうちの末子。父の高弟、妙光菩薩にしたがって法華経を修業し、八人の子がしだいに成仏した。その最後に成仏した仏が燃灯仏である。生まれたときに、身の光りが灯のようであったために、成仏後も、燃灯仏と称した。また太子瑞応本起経巻上によると、釈尊が、因位の修行のとき儒童菩薩として、五百の金銭で買い取った五茎の青蓮華を錠光仏に奉り、己の髪を道に敷いて仏に通らせた。その功徳をもって、仏は儒童菩薩に「汝は将来仏となり、釈迦牟尼仏という名で世界の燈明となるであろう」と授記した。この錠光仏とは、燃灯仏の別訳である。ゆえに錠光仏すなわち燃灯仏は、儒童菩薩すなわち将来の釈尊の師である。その燃灯仏は妙光菩薩すなわち文殊の弟子であるところから、文殊を釈尊の九代の師という。
大通仏
大通智勝仏のこと。法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。そのうちの第十六王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。佐渡御書にいわく「大通第三の余流にもやあるらん」(0958-14)と、すなわち末法の我々は、久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心すらしなかった衆生の余流なのであろうか、と言われている。
雲雷音王仏
法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。過去に雲雷音王仏が有して、その国を現一切世間、劫を喜見といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の妓楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たとされる。
一闡提人
一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
講義
この章では、略して法華経の題目が肝心であることを明かしている。
前章では師の道善房に対する報恩を明かし終わったのに、なぜここで法華経一部八巻の肝心を論ずるか。それは前章の結論が、道善房は法華不信の人であること、後すこし信ずるようであったが、昼の灯のようなものであったこと、その上、日蓮大聖人が佐渡へ流された時に一度も訪れなかったので、法華経を信じたとはいえない、自業自得果はのがれられないであろうと。
しかるに本章以後においては、日蓮大聖人は一代仏教の肝要骨髄たる三大秘法を弘通なされるのであって、最後には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と、結論なされるのである。すなわち三大秘法をあらわすための、問答料簡が始められるのであって、文旨は一連なのである。
如是我聞の上に妙法五字は即一部八巻の肝心
如是我聞の上の妙法に二義があり、一には就法、二には功帰である。はじめ就法に亦二意を含み、一には名通、二には義別である。
妙楽は「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」といっている。「略して経題を挙ぐ」は名通であり、「玄に一部を収む」は義別である。籤一には「妙法の両字は通じて本迹を詮す」と妙法の両字は名通であり、「通じて本迹を詮す」は義別である。
第二に功帰とは亦二意を含む。いわゆる本果と本因である。玄一にいわく「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり、三世諸仏の証得する所なり」と。籤一にいわく「迹中に説くと雖も、功を推すに在る有り故に本地と云う」と。
はじめに本果とは、本果所証の妙法をさして本地甚深等という。これは外適の辺で寿量品の文上である。次に本因とは、本因名字の所証をさして本地甚深等という。これは内鑑の辺で寿量品文底の意である。
さて、本因名字所証とは、すなわちこれ三大秘法総在の妙法蓮華経である。文に本地とは即これ本門の戒壇である。本尊の所住の地なるゆえに本地という。本尊所住の地は戒壇である。文に甚深とは、即これ本門の本尊である。実相甚深とは一念三千の本尊である。文に奥蔵とは、奥蔵とは能歎である。すなわち本門の題目である。題目の中に万行を包蘊するのである。
いま三大秘法総在の妙法に約するゆえに、この妙法蓮華経とは本地甚深の奥蔵なりという。今日の一部八巻二十八品は、もしその功を論ずれば、近は本果の所証に帰し、遠は本因の所証に帰す。ゆえに本因名字の所証を以て、本中の本、妙中の妙とするのである。
愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥
愚者なれども法華経の題目を唱える功徳は、おおいに勝れ、智者なれども権経の題目を唱うる功徳はおおいに劣るのである。ゆえに智者と愚者と唱うる功徳、雲泥というのである。
その余の譬えも、みなこの意である。
すなわち愚者なれども、いかなる悪人なれども、ひとたび御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる功徳は絶大である。これ悪人成仏、各階層の救済をみごとに示しておられるおことばである。
現代の指導者は、ただ虚栄をもって民衆の救済を叫んでいるにすぎない。真実に心の奥底から貧困のもの、病弱の人、苦悩多き人々の幸福を考えているのではない。現代にあっては、ただ、わが学会のみが、真剣に不幸な人々の真の味方として立ち上がっていることに深く思いをいたすべきではなかろうか。
「問うて云く南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱うると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱うると斉等なりや浅深の功徳差別せりや、答えて云く浅深等あり」
じつに大事なおことばである。宗教は信ずる対象すなわち本尊によって決まってくるのである。信仰は本尊と人との関係において感応利益を信ずることなのである。ゆえに、いかに信ずるかは、また別問題になってくる。
「たとい発心真実ならざる者正境に縁すれば功徳猶多し、もし正境あらずんばたとい偽妄なきも亦種とならず」の言、よくよく思うべきである。
現在の知識階級の考え方は、まったく迷倒している。宗教の正邪、本尊の正邪などということを夢にも考えず、ただ信ずる人々の精神状態のみを問題にしているかのごとくである。また、はなはだしきにいたっては、朝晩の勤行が横隔膜を刺激して健康によいだろうぐらいに考えているのは、宗教の本質を知らぬ言語道断のことばというべきではないか。
第三十三章(広く題目肝心を明かす)
本文
疑つて云く二十八品の中に何か肝心ぞや、答えて云く或は云く品品皆事に随いて肝心なり、或は云く方便品・寿量品肝心なり、或は云く方便品肝心なり、或は云く寿量品肝心なり、或は云く開示悟入肝心なり、或は云く実相肝心なり。
問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり、其の証如何阿難・文殊等・如是我聞等云云、問うて云く心如何、答えて云く阿難と文殊とは八年が間・此の法華経の無量の義を一句・一偈・一字も残さず聴聞してありしが仏の滅後に結集の時・九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに先づはじめに妙法蓮華経とかかせ給いて如是我聞と唱えさせ給いしは妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心にあらずや、されば過去の燈明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝えんとす前題に一部を挙ぐるなり」等云云、霊山にまのあたり・きこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云章安大師の云く記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述す」等云云、此の釈に文心とは題目は法華経の心なり妙楽大師云く「一代の教法を収むること法華の文心より出ず」等云云、天竺は七十箇国なり総名は月氏国・日本は六十箇国・総名は日本国・月氏の名の内に七十箇国・乃至人畜・珍宝みなあり、日本と申す名の内に六十六箇国あり、出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝・人畜乃至寺塔も神社もみな日本と申す二字の名の内に摂れり、天眼をもつては日本と申す二字を見て六十六国乃至人畜等をみるべし・法眼をもつては人畜等の此に死し彼に生るをもみるべし・譬へば人の声をきいて体をしり跡をみて大小をしる蓮をみて池の大小を計り雨をみて竜の分斉をかんがう、これはみな一に一切の有ることわりなり、阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども但小釈迦・一仏のみありて他仏なし、華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏いまさず、例せば華さいて菓ならず雷なつて雨ふらず鼓あつて音なし眼あつて物をみず女人あつて子をうまず人あつて命なし又神なし、大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし、彼の経経にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各各・当体の自用を失ふ、例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ諸の鉄の一の磁石に値うて利性のつき大剣の小火に値て用を失ない牛乳・驢乳等の師子王の乳に値うて水となり衆狐が術・一犬に値うて失い、狗犬が小虎に値うて色を変ずるがごとし、南無妙法蓮華経と申せば南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も観世音菩薩の用も一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用皆悉く妙法蓮華経の用に失なはる、彼の経経は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのものなるべし当時眼前のことはりなり、日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく塩のひるがごとく秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ。
現代語訳
疑っていうのには、法華経二十八品の中には、何が肝心であるか。
答えていうのには、ある人がいわく「法華経二十八品の品々がみな事に随って肝心である」ある人がいわく「方便品、寿量品が肝心である」ある人がいわく「方便品肝が肝心である」ある人がいわく「寿量品が肝心である」ある人がいわく「開示悟入が肝心である」ある人がいわく「実相が肝心である」と。
問うていうのには、汝が心はどうであるか。
答えていうのには、南無妙法蓮華経が肝心である。
問うていうのには、その証拠はどうであるか。
答えていうのには、阿難、文殊等は「如是我聞」等といっている。
問うていうのには、その心はどうであるか。
答えていうのには、阿難と文殊とは、八年の間、この法華経の無量の義を、一句一偈一字も残さず聴聞したのである。そして、釈迦仏の滅後、一切経の結集のとき、九百九十九人の阿羅漢が、筆を染めたが、まず初めに妙法蓮華経と書いた。次に如是我聞と唱えたのは、妙法蓮華経の五字は、一部八巻二十八品の肝心であるという証拠ではないか。
ゆえに、過去の日月燈明仏のとき以来、法華経を講じていたといわれる光宅寺の法雲法師は「如是とは、まさに所聞(しょもん)の法を伝えようとしているのである。しかして、前題に法華経一部をあげたのである」等といっている。
霊鷲山において薬王菩薩として出現し、まのあたりに法華経を聴聞した天台大師は「如是とは所聞の法体である」といっている。さらに章安大師は「記者(章安大師)がさらに天台大師の解釈のうえに釈していわく、蓋し序王とは、法華経の玄意を叙述したのであり、その玄意は文の心を叙述したものである」と。
この釈に「文の心」というのは、題目は法華経の心であるという意味である。妙楽大師のいわく「一代の教法を収むることは、法華の文より出たことである」と。
天竺は七十箇国である。総名を月氏国という。日本は六十箇国である。総名を日本国という。月氏の名のなかに七十箇国はもちろん、人間も畜生も珍宝もみな含まれている。日本という名の中に六十六箇国が含まれる。出羽に産する鳥の羽も、奥州の金も、また国の珍宝、人間、畜生等、さらに寺塔も神社も、みな日本という二字の名の中にすべて収まっているのである。
天眼をもって日本という二字を見るならば、日本の六十六国あるいは人間、畜生等を見ることができる。法眼をもって見るならば、人間や畜生などが、ここに死し、かしこに生まれるのを見ることができる。たとえば、人の声を聞いて、その体を知ることができ、足跡を見れば、その人の大小を知ることができる。また、蓮の花の大小を見て池の大小をはかり知ることができ、雨のようすを見て竜の姿を想像することができる。これらは、みな一つの姿にいっさいの姿が現われているという道理を示しているのである。
かくのごとくみれば、阿含経の題目には、おおむねいっさいが含まれているようであるけれども、ただ小乗教の釈迦一仏のみあって、他仏は含まれないのである。華厳経、観無量寿経、大日経などには、一切経が説かれているようであるけれども、じつは、声聞、縁覚の二乗を仏にする法門と、久遠実成の釈迦仏のことは説いていないのである。これは、たとえば花が咲いても果実がならず、雷が鳴って雨が降らず、鼓があっても音が出ない、目があっても物が見えない、婦人でありながら子供を生まない、人間であるが命がなく、また精神活動がないようなものである。
すなわち、大日如来の真言、薬師如来の真言、阿弥陀如来の真言、観世音菩薩の真言なども、同じくこのようなものであり、魂のない姿である。かの大日経、薬師経、阿弥陀経などの経々では、各経の題目は大王、須弥山、日月、良薬、如意珠、利剣などのように思っているようであるけれども、法華経の題目に対すれば、雲泥ほどの勝劣があるのみでなく、みなおのおの当体のみずからの働き、功徳というものを失ってしまうのである。
それは、たとえば、多くの星が一つの太陽のために光を奪われてしまう。あるいは、多くの鉄があっても、一つの磁石にあうことによって吸いつけられて、たちまち鉄の利性は尽きてしまう。また、大剣はいかに切れ味がよくとも、小火にあっては、なまくらになってしまう。牛乳や驢乳が師子王の乳にあえば水になり、多くのキツネの術も一犬にあって失われてしまう。また狗犬が小虎にあっては、あわて恐れるようなものである。
南無妙法蓮華経ととなえれば、南無阿弥陀仏の働きも、南無大日真言の働きも、観世音菩薩の働きも、みな、ことごとく妙法蓮華経の働きのために力を失ってしまうのである。かの経々は、妙法蓮華経の働きを借りなければ、みな、役に立たない、空しい教えになってしまうのである。これらは、この時代にあって、とうぜんのこととしてうなずける道理である。
日蓮が南無妙法蓮華経ととなえ弘めることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出て月がかくれるような状態になり、潮が引いていくような姿であり、秋冬の草が枯れていくような、あるいは氷が太陽の光りにあって溶けるような、衰えゆくようすを、はっきりと見なさい。
語釈
開示悟入
法華経方便品第二の広開三顕一の文。「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう」。広開三顕一とは、広く三乗を開いて一乗を顕わすこと。法華経以前には、声聞、縁覚、菩薩の人を分けて説き、これを三乗の法といったが、法華経にいたって、真実の仏の教えはただ一つであるとして、一仏乗の法を説かれたのである。方便品第二より人記品第九までの間に、三乗の法を開会して一乗の法を説かれたものである。御義口伝には「開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり」(0716:第三唯以一大事因縁の事:09)と申されている。
過去の燈明仏の時より法華経を講ぜし
報恩抄に「或人夢く此人は過去の燈明仏の時より法華経をかうぜる人なり」(0298:13)(ある人の夢に「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという)とあり、光宅寺の法雲が当時、過大に評価されていたことを皮肉ったもの。
光宅寺の法雲法師
(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。7歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(058五)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園における法華経の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じたという。普通6年(0523)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
霊山にまのあたり・きこしめしてありし
呵責謗法滅罪抄にいわく「薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳云云」(1128-09)。これらの因縁は、法華伝記巻二の智顗伝の中にある。「宣律師、天に問うて曰く、陳の国の思、隋の国の顗は、神の徳、倫を超えたり。昔、霊山に在って同じく法華を聴く。昔、誰なるか審かならず……答えて云く、倶に是れ遊方の大士、本是れ古仏なり。思は是れ観音。普門一品の其の利を説く。顗は是れ薬王。日月浄明徳の世に興し、頓て一身を捨て、法に供養す」等とある。天台自身、南岳の下で四安楽行を授け、そののち薬王品の「是真精進、是名真法」の文で開悟したこと、南岳が普門品を用いたことからも、天台が薬王菩薩の後身、南岳が観世音菩薩の後身といわれるわけである。
天台大師
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。天台大師、智者大師ともいう。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
章安大師
(0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
蓋し序王とは
章安大師が、天台大師の法華玄義の序王の要点を説明したものである。すなわち、大師の序王は法華経の玄意を述べたものであり、玄意である妙法蓮華経は、法華経一部の文の心である、と。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
出羽の羽
「風土記」の文に「しかるに允恭天皇の御代に鷲の羽をたびたび御調物にそなえたてまつりけるに、御褒美ありて、かの羽の出る所になぞらえて、出羽の国と名付け給いしなり」とある。
奥州の金
第四十五代聖武天皇の天平21年(0749)、奈良の大仏を造立するとき国内から黄金を産出せんことを祈ったところ、陸奥国守の百済王敬福が、国内より産出したといってたてまつった。
久遠実成
釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
講義
この章は広く題目肝心を明かしている。「二十八品の中に何か肝心ぞや」の問いに対し、六箇の惑義をあげている。これは天台の学者の異議をあげられたのであろう。さてその六義は、
或は云く品品皆事に随いて肝心なり。
或は云く方便品、寿量品肝心なり。二乗作仏、久遠実成が今経の骨髄なる故。
或は云く方便品肝心なり。既に仏の出世の正意顕実を釈する故。
或は云く寿量の一品肝心なり。顕本遠寿を以て命と為す故。
或は云く但開示悟入の一文肝心なり。是れ迹要なりと雖も顕本し已れば即本要となる故。
或は云く諸法実相の一文肝心なり。本迹二門倶に諸法実相を以て体玄義となす故。
このように、種々の論議が行なわれてきたが、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経肝心なり」と断定あそばされているのである。四信五品抄にいわく「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(0342-04)と。
あたかも天竺とか、日本という名の中に、一切の山川草木、人畜等を含むように、妙法蓮華経の五字には一切を具すのである。華厳経や観経や大日経には、一切があるように見えても、二乗作仏と久遠実成がない。
その次の七譬のうち、①華さいて菓ならず ②雷なって雨ふらず ③鼓あって音なし ④眼あって物をみず ⑤女人あって子をうまずは二乗作仏なきに譬え ⑥人あって命なし ⑦又神なしは、久遠実成なきに譬うるか。また七譬通じて二箇に譬うるなりと、日寛上人はお述べになっている。
しかして、諸宗の仏も題目もことごとくその用を失い「小犬が小虎の前に出て色を失う」ような状態である。しかも「当時眼前のことわりなり」と絶対の御確信をお述べになっている。
次に「題目肝心」とは、法体をさしていうのである。すなわち本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」と同意である。これ日蓮大聖人が「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(1124:11)とおおせの十界互具の三大秘法の御本尊であられる。
「日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく塩のひるがごとく秋冬の草の・かるるがごとく冰の日天に・とくるがごとく・なりゆくをみよ」
ひとたび三大秘法の南無妙法蓮華経があらわれれば、権小の諸経の功徳が滅尽することをのべられているのである。上野殿御返事に「正法・像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)とおおせられているのも同じ意味である。
また現在にあてはめて考えるならば、わが創価学会の出現によって、つい最近まで羽ぶりをきかして民衆をだまし不幸にしてきた新興諸宗教や、葬式や法事や墓守りのみに窮々とする形骸化した既成仏教各宗派が、潮のひくがごとく力を失っていく姿こそ、この原理の現れといえよう。
さらに、西洋哲学にしても、ヘーゲル以後、マルクス主義、実証主義、実存哲学、プラグラティズム論理分析学派、サイバネティックス等の多くの哲学が派生したが、日蓮大聖哲の大生命哲学が現われた以上、すべて日光の前の燭火にすぎないのである。
また、政治、経済、教育、芸術など、文化一般についても、既成の思想、宗教、哲学を基礎にしたものは、どうしようもない行き詰まりと内部分裂におちいって、色心不二の生命哲学を根底とした第三文明によってくさびを打たれることは必然である。
第三十四章(馬鳴竜樹等の大乗弘通)
本文
問うて云く此の法実にいみじくばなど迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく・すすめ給はざりけるやらん、答えて云く此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず、馬鳴・竜樹菩薩等は仏の滅後・六百年・七百年等の大論師なり、此の人人世にいでて大乗経を弘通せしかば諸諸の小乗の者・疑つて云く迦葉・阿難等は仏の滅後・二十年・四十年住寿し給いて正法をひろめ給いしは如来一代の肝心をこそ弘通し給いしか、而るに此の人人は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給いしに今.馬鳴・竜樹等かしこしといふとも迦葉.阿難等にはすぐべからず是一、迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり、此の人人は仏にあひたてまつらず是二、外道は常.楽・我.浄と立てしを仏・世に出でさせ給いて苦.空・無常.無我と説かせ給いき、此のものどもは常楽我浄といへり、されば仏も御入滅なり又迦葉等もかくれさせ給いぬれば 第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり、されば仏法のあだをば頭をわれ頚をきれ命をたて食を止めよ国を追へと諸の小乗の人人申せしかども馬鳴・竜樹等は但・一二人なり昼夜に悪口の声をきき朝暮に杖木をかうふりしなり、而れども此の二人は仏の御使ぞかし、正く摩耶経には六百年に馬鳴出で七百年に竜樹出でんと説かれて候、其の上楞伽経等にも記せられたり又付法蔵経には申すにをよばず、されども諸の小乗のものどもは用いず但めくらぜめにせめしなり、如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり、提婆菩薩の外道にころされ師子尊者の頚をきられし此の事をもつて・おもひやらせ給へ。
現代語訳
問うていうのには、この南無妙法蓮華経の仏法が、じつに、そのようにりっぱであるならば、どうして、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、あたかも善導が南無阿弥陀仏とすすめて中国に弘通したごとく、また慧心や永観や法然が、日本国をみな阿弥陀仏の信者にしたように、南無妙法蓮華経をひろめなかったのか。
答えていうのには、このような疑難は昔からある疑難であって、いま急にいわれはじめられたものではない。馬鳴、竜樹菩薩は、釈迦仏の入滅後、六百年か七百年後ごろに出現した大論師である。これらの人々が世に出て大乗教を弘通したので、多くの小乗経信仰のものたちが、疑っていうのには、
「迦葉、阿難等は、釈迦仏の入滅後、二十年、四十年とこの世に住して正法をひろめられたのは、釈迦如来の一代仏法の肝心をこそ弘通されたのであろう。しかるに、この迦葉、阿難という人々は、ただ苦・空・無常・無我の法門をこそ、もっとも詮要とされたのに、馬鳴、竜樹等は、また違った法門を立てている。いま、馬鳴、竜樹等が、いかに賢明であるといっても、迦葉、阿難等よりも勝れているというわけはないであろう。これ第一の理由である。
迦葉は、直接に釈迦仏にあって理解をした人である。この馬鳴、竜樹という人々は、仏に会われるということはなかった。これ第二の理由である。外道のものたちが、人生は常、楽、我、浄であると立てたのを、釈迦仏がこの世に出現されて人生は苦、空、無常、無我であると説かせられたのである。しかるにこの馬鳴・竜樹というようなものどもは、また常楽我浄であると唱えたのである。されば、おそらく釈迦仏も御入滅になり、また迦葉らも死なれてしまったゆえに、第六天の魔王が、この馬鳴、竜樹らの身に入りかわって仏法を破り、外道の法としようとしたのであろう。ゆえに、彼の馬鳴、竜樹らは、仏法の怨敵であるから、頭を破り、首を切れ、また命を断て、食をとどめよ、国を追い払ってしまえ」
このように、多くの小乗教の信者たちが叫んでいた。しかして、馬鳴や竜樹たちは、ただ一、二名にすぎなかったがゆえに、昼も夜も小乗の徒の悪口の声を聞き、朝に夕暮れに杖や木でうたれたのである。しかしながら、事実はこの馬鳴、竜樹のふたりは釈迦仏のお使いであったのである。まさしく摩耶経には、釈尊滅後六百年に馬鳴が出現し、七百年には竜樹が出現するであろうと説かれているのである。その上、楞伽経に記せられているし、また付法蔵経にあることは申すまでもないことである。
しかしながら、多くの小乗経のものどもは、この仏説を用いないのである。ただ理不尽に大乗仏教を攻撃したのである。「この法華経を説くのに、如来の現在すら、なお怨嫉が多い。いかにいわんや如来の滅度の後においてをや」という法華経法師品の経文は、この時にあたって、少しは、馬鳴、竜樹等の身につまされて知ることができたのである。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が首を切られたのも、このことをもって、思いやるべきである。
語釈
慧心
(0942~1017)。比叡山第十八代座主。慈慧大師の弟子で権少僧都・慧心源信のこと。大和国葛城郡当麻郷(奈良県北葛城郡當麻町)に生まれ、9歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。13歳で得度し源信と名のった。32歳のとき宮中の論議に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。42歳の時、権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。43歳で「往生要集」を作り念仏の行に帰依した。浄土宗門徒が慧心をわが国浄土宗の先駆に崇めるようになったのは、この故である。しかし、慧心は、その後悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」を著した。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる慧心流台学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一=日本国中は、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいない」と述べた文は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。76歳没。著書は他に「法華科文」「法華略観」「法華弁体」などがある。
迦葉
迦葉尊者、摩訶迦葉ともいう。摩訶は大の意。釈迦十大弟子の一人で頭陀第一と称せられ頭陀修行に秀でていた。阿難と共に小乗の釈尊の脇士で、仏滅後20年間、小乗教を弘通した。
阿難
詳しくは阿難陀。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
馬鳴
梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。
竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
慧心
(0942~1070)。恵心とも書く。叡山第十八代座主・慈慧大師の弟子。恵心院源信と呼ばれた。天台宗恵心流の祖。大和国葛城郡に生まれ、9歳で比叡山に登り、13歳で得度し源信と名のった。以後、横川の恵心院に止住。44歳のときに著した「往生要集」は、後年、法然が浄土信仰に入る動機の書ともなっている。元来、恵心の本意は、爾前の念仏の利益と法華経の一念信解の功徳を較べて、一念信解のほうが念仏三昧より百万倍もすぐれると結論するためのものであったが、往生要集は、念仏臭が強かったのである。このことに気づいた恵心は、65歳のときに「一乗要決」を著わして、法華最勝の深義を論じている。以後、弟子の訓育と著述に努め、天台の観心の法門を宣揚した。行年76歳。
永観
(1032~1111)。平安中期の僧。奈良東大寺に住して、三論、法相、華厳を修したが、京都禅林寺で浄土教を布教。東大寺別当に任ぜられ、務めた後も念仏を布教した。著作に「往生拾因」等がある。
第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
摩耶経
詳しくは、摩訶摩耶経とも仏昇忉利天為母説法経ともいう。斉の曇景訳。仏が母の摩耶夫人の恩を奉ずるために、忉利天に4月15日に昇り7月15日に帰るまでの90日間に説法し、初果の益を得させた。この経には貧者の一灯の教えがある。すなわち願って多くの財を布施しても信心が弱くては仏に成ることはできないが、たとえ貧しくても信心が強く志が深ければ、仏に成ることは疑いないということである。のちに、仏が入滅したことを聞いた摩耶夫人は急ぎ忉利天より下り、涅槃の場にかけつけ仏の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、仏は大神通力をもって金棺の蓋をあけ、身を起して毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて、母子が相いまみえた。仏は母のために世の無常の理を説き、説き終って再び棺の蓋を閉じたと説かれている。
楞伽経
「楞伽阿跋多羅宝経」「入楞伽経」「大乗入楞伽経」の三訳が現存する。禅宗の依経の一つ。仏が楞伽山頂に住して、大慧菩薩の問いに答え、種種の法門を説いた経。達磨(だるま)は、この経を如来の極説として、慧可に授けた。
付法蔵経
仏滅後、正法千年間に、仏の付嘱を受けて仏法を弘めた付法蔵の二十四人の因縁伝が記されている。6巻より成り、吉迦夜と曇曜の共訳がある。
提婆菩薩
迦那提婆のこと。付法蔵の第十五。南インドの婆羅門の出である。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に施したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて提婆に危害を加えた。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだという。
師子尊者
師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
如来現在・猶多怨嫉・況滅度後
法師品の文。「如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」と読む。如来の現在とは釈迦在世。滅度の後とは正像末に通ずるが、その正意は末法である。日蓮大聖人は末法の御本仏として四度の大難等に遭われたのである。
講義
前章は日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経が、権経の邪義邪宗を悉く打ち破って、一切衆生をお救いになることを述べた。しからば、それほど威力のある正しい仏法が、なぜ過去にインドや中国や日本に広まらなかったのであるか、という疑いがある。これに答えて「此の難は古の難なり今はじめたるにはあらず」と仰せられている。
ということは、日蓮大聖人が三大秘法をお立てになる最初からの論難である。じつに三大秘法は後章に詳述されるごとく、仏の滅後二千余年の間、だれひとり弘めることもなく、名前さえも説き出した者がない。末法の初めにおいて、久遠元初の自受用身が再誕せられて、初めて、お立てになる三大秘法である。
常忍抄にいわく「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり」(0981:08)。
右の御抄にも明らかなとおり、第三の法門たる種脱の相対、三大秘法はいまだかつて顕われていない。世間にはほぼ夢のごとく一二をば申しているが第三は顕われてないのである。しかも末法の初めは、白法隠没、闘諍堅固の時代であってみれば、信じ難く解し難いのもとうぜんである。
また、これとは意味は若干異なるが、創価学会の建設期においても、「そんないい宗教なら、なぜもっと早く広まらなかったのか」とか、「指導階級の人や知識人が、そういういいことを知らないというのはおかしい」などという疑問がよく提起されたものである。しかし、創価学会の偉大な発展につれて、まもなくそのような疑問は消えて、かえって「創価学会はなぜそんなに発展したのか」という疑問に変わってきている。
さて馬鳴、竜樹菩薩は、正法時代の大論師であるが、大乗教を弘通するにあたって、やはりそうとうの迫害があったのである。
馬鳴菩薩は付法蔵の第十一で富那奢に師事して、大乗の大論師となったのである。馬鳴という名は、馬鳴菩薩の過去の因縁談すなわち輪陀王の故事によるのである。過去世に輪陀王という大王があった。千の白馬がいて、はなはだ好声であった。白馬が鳴くと大王は徳を増し、白馬が鳴かないと大王は徳を損じた。これらの白馬は白鳥を見るときに、よく好声で鳴き、白鳥を見ないときは声を出さなかった。そのため大王は広く白鳥を求め捜したがいなかったので、次のような布告を出した。「もしバラモン外道が、白馬を鳴かせれば、仏教を破って外道を尊信しよう。もし仏弟子が白馬を鳴かせれば、外道を破って仏教を尊信しよう」と。馬鳴菩薩は一僧であったが仏教の流布を願って、三世十方の仏に祈って千の白鳥を現じさせ千の白馬を鳴かせ、ついに正法をこの国に打ち立てた。世の人々、尊んで馬鳴と名づけて呼んだという。
ここで日蓮大聖人は曾谷殿御返事に「白馬は日蓮なり・白鳥は我らが一門なり・白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」(1065:03)とおおせである。
もったいなくも、私に会通を加えるならば、この原理は、白馬のいななきとは、恩師の指導また幹部の真心こめた信心指導にあたるといえよう。これによって、学会員が力をえて信心折伏に励む姿があるといえるのである。
第三十五章(天台伝教の迹門弘通)
本文
又仏滅後・一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり陳隋の代に天台大師出世す、此の人の云く如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり、迦葉・阿難等は一向に小を弘め馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば或は但指をさして義をかくし或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三・北七の十流が末・数千万人・時をつくりどつとわらふ、世の末になるままに不思議の法師も出現せり、時にあたりて我等を偏執する者はありとも後漢の永平十年丁卯の歳より今陳隋にいたるまでの三蔵・人師・二百六十余人をものもしらずと申す上謗法の者なり悪道に墜つるといふ者・出来せり、あまりの・ものくるはしさに法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも・ものしらぬ者と申すなり、漢土はさてもをけ月氏の大論師・竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり、此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり鬼をころすにもすぐべしとののしりき、又妙楽大師の時・月氏より法相・真言わたり漢土に華厳宗の始まりたりしを・とかくせめしかば・これも又さはぎしなり。日本国には伝教大師が仏滅後・一千八百年にあたりて・いでさせ給い天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給いしかば在世の外道・漢土の道士・日本に出現せりと謗ぜし上・仏滅後・一千八百年が間・月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和の国・東大寺の戒壇は同く小乗臭糞の戒なり瓦石のごとし、其を持つ法師等は野干・猿猴等のごとしとありしかばあら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん、殷の紂・夏の桀・法師となりて日本に生まれたり、後周の宇文・唐の武宗・二たび世に出現せり仏法も但今失せぬべし国もほろびなんと大乗・小乗の二類の法師出現せば修羅と帝釈と項羽と高祖と一国に並べるなるべしと、諸人手をたたき舌をふるふ、在世には仏と提婆が二の戒壇ありて・そこばくの人人・死にき、されば他宗には・そむくべし我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ・あらおそろしおそろしとののしりあえりき、されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ、されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ 天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬・重病には仙薬・弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。
現代語訳
また釈迦仏の入滅後、一千五百年にあたって、月氏の東に漢土という国があった。この中国の陳隋の代に、天台大師が出現したのである。
この天台大師のいうには「釈迦如来の聖教に大乗経あり小乗経あり、また顕教あり密教あり、また権教あり実経がある。迦葉・阿難等は、釈迦仏のおおせのままに、いっこうに小乗教を弘めた。馬鳴、竜樹、無著、天親等は、権大乗経を弘めて、実大乗経の法華経をば、あるいは、ただ指をさして義をかくし、あるいは経の面をのべて始中終をのべず、あるいは法華経迹門をのべて本門をあらわさず、あるいは法華経に本門迹門あって観心なし」と説いたので、南三北七の十流の末流が、数千万人、それを嘲笑して次のようにいったのである。
「世も末になってくると、不思議な僧も出現するものだ。時にあたって、われらを偏執するものはあったとしても、後漢の永平十年丁卯(ひのとう)の歳より、今の陳隋の世にいたるまで三蔵、人師、二百六十余人を、物も知らない人々であるというばかりでなく、彼らは謗法で、悪道におちたという、とんでもないことをいう者が出てきた。あまりにも、物狂わしさに、法華経を持ってきた羅什三蔵をも、物知らないものであると申すにいたった。漢土における人々はさておき、月氏の大論師の竜樹、天親等の数百人の四依の菩薩たちも、いまだ実義をのべることはなかったというのである」
こうした大悪見のものであったから、「これらの人を打ち殺した人は、鷹を殺したようなものである。鬼を殺したよりも、すぐれているのである」と、大声でわめいていた。
また、妙楽大師の時代に、月氏より漢土に法相宗や真言宗が渡ってきて、さらに漢土に華厳宗の始まったのを、妙楽大師がとかく責めたので、このことについても、また騒ぎ出したのである。
日本国には、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年にあたって、出現され、天台の御釈を見て、欽明天皇より以来二百六十余年の間に出た六宗を責められたので、人々は「釈尊在世の時の外道や、漢土の道士が、いま日本に出現したのだ」といって、伝教大師を誹謗した上、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年の間、月氏、漢土、日本になかった円頓の大戒を立てんというのみでなく、西国の観音寺の戒壇、東国下野の小野寺の戒壇、中国大和の国、東大寺の戒壇は小乗臭糞の戒である、瓦石のごとくである。それらの小乗戒を持つ僧たちは野干・猿猴等のごときであると申したので、人々は「ああ、不思議な、法師に似た大蝗虫が日本の国に出現したものである。これでは、せっかくの仏教の苗が、一時になくなってしまうであろう。中国の大悪王である殷の紂王や、夏の桀王らが、法師となって日本に生まれたのであろう。後周の宇文や唐の武宗が、二たび世に出現して破仏法を強行したようなものである。仏法も、ただいま、滅失してしまい、国も亡びてしまうであろう」とののしる大乗、小乗の二類の法師どもが出現したので、修羅と帝釈が、また項羽と高祖が一国に並んで出現したようなものであると、諸人は手をたたき、舌をふるって恐ろしがった。
「釈尊在世には、釈迦仏と提婆達多の二つの戒壇があって、若干の人々が死んだのである。されば、他宗にはそむいてもいいが、わが師、天台大師の立てられなかった円頓の戒壇を立てようという不思議さよ、ああ、恐ろしいことだ」と高声でののしり騒いだのであった。
しかしながら、経文に明白にあったがゆえに、とうとう比叡山の大乗戒壇は、すでに立ってしまったのであるゆえに、内証は同じだとはいっても、仏法の流布からいえば、迦葉、阿難よりは、馬鳴、竜樹等はすぐれ、馬鳴らよりも天台大師はすぐれ、天台大師よりも伝教大師は超過しているのである。
世が末ともなれば、人間の智慧は浅くなり、仏教は深くなるのである。たとえば、軽病には凡薬をあたえ、重病には仙薬をあたえ、弱い人には強い味方があって助けるようなものである。
語釈
始中終をのべず
釈尊一代に説かれた教の始、中、終の相異をのべないとのこと。
南三・北七の十流
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
三蔵
経・律・論に通達した高僧。
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
円頓の大戒
伝教大師が提唱した法華経の義から導き出された大乗戒のこと。弘仁10年(0819)3月15日に著された天台法華年分度者小向大式には「凡そ仏戒に二あり。一には大乗大僧戒。十重、四十八軽戒を制して、以って大僧戒と為す(中略)凡そ仏受戒に二あり。一には大乗戒。普賢経に依りて三師証等を請す。釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す。文殊師利菩薩を請して菩薩戒の羯磨阿闍梨と為す。弥勒菩薩を請して菩薩戒の教授阿闍梨と為す。十方一切の諸仏を請して菩薩戒の証師と為す。十方一切の諸菩薩を請して同学等侶と為す。現前ひとりの伝戒の師を請して以って眼前の師と為す。若し伝戒の師無くんば千里の内に請す。若し千里の内に能く戒を授くる者無くんば、至心に懺悔して必ず好相を得、仏像の前に於いて自誓受戒せよ。今、天台の年分学生並びに回心向大の初修行の者には、所説の大乗戒を授けて将に大僧と為さん」と円頓戒について記している。この大乗戒は、南都七大寺が採っていた小乗戒と相容れないものであった。小乗戒とは「小乗律に依り、師には眼前の十師を請して白四羯磨す。清浄持律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」である。この伝教大師の上表は南都七大寺の高相によって拒否されたため、伝教大師の生前には、大乗戒壇の勅許はおりなかった。
西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和の国・東大寺の戒壇
唐から来朝した鑑真が、天平勝宝6年(0754)、奈良に来てから東大寺の戒壇を建立し、ついで天平宝字5年(0761)、西国の人々のために筑紫(福岡県)の観世音寺と東国の人々のために下野(栃木県)の薬師寺とに、おのおの戒壇を築造した。
野干
射干とも書く。狐に似た獣の一種。翻訳名義集巻2に「悉伽羅。此に野干という。狐に似て而も小型なり。色は青黄にして狗の如し。群行して夜狼の如く鳴く」とある。
後周の宇文
(在位0560~0578)。北周の第三代皇帝、武帝のこと。姓は宇文、諱は邕。儒教を重んじ釈教を排し、慧遠法師等の抗議もきかず、ことごとく経像を破り、僧侶と道士とを還俗させた。武帝の死後3年にして、暗君の後嗣のために北周は滅亡した。
唐の武宗
(在位0840~0846)。唐の第十五代皇帝、武帝のこと。道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真等を用いて、会昌5年(0845)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏という。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。
修羅と帝釈
観仏三昧経巻一によれば、香山の乾闥婆の娘と阿修羅王との間に生まれた娘の悦意を、帝釈が求めて妻とした。ある時、帝釈が多くの綏女と歓喜園で遊戯しているのをみて嫉妬した悦意は、父の阿修羅王に訴えた。父王は激怒し、四兵を出し、帝釈の住む喜見城、須弥山を動かし、四大海の水を波動させて帝釈を攻めた。帝釈はなすところを知らず、善法堂で大名香をたき、般若波羅蜜を持して仏道を護持する大誓願を発して修羅の退散を念じた。このとき、虚空から大刀輪が下りてきて、阿修羅の耳・鼻・手・足を切り落とした。阿修羅は恐れおののいたが遁げるところがなく、小身となって蓮の絲の孔の中にかくれたとある。佐渡御書にいわく「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり、例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」(0957:10)。
項羽と高祖
漢の高祖・劉邦は、秦の始皇帝死去の翌年(前0209)、楚の懐王を擁し兵を挙げた。また項羽は楚の武将の子孫で、会稽で兵を挙げ、秦の都咸陽を攻略して西楚の覇王と称した。秦の滅亡後、高祖は、懐王を殺した項羽の不義をいさめ、天下をかけて5年にわたり争いを展開した。垓下の戦いのとき、漢軍が四面に楚歌するのを聞いて、項羽は漢がすでに楚を得たものと思い、囲みを破って南走し、最後は自ら首をはねた。紀元前0202年、高祖は皇位につき、都を長安に定めて漢朝を創業した。
そこばく
若干、幾許。①いくつか。いくらか。②多数。多く。たいそう。はなはだ。ここでは②の意か。
仏と提婆が二の戒壇
提婆達多は釈迦に対抗して象頭山に戒壇を建立した。
講義
正法時代の迦葉・阿難・馬鳴・竜樹に次いで、この章では像法時代の天台大師、伝教大師について説かれるのである。
天台大師が南三北七を破って法華経を立てられたときの十派のありさま、また伝教大師が小乗の戒を破って円頓の大戒を立てようとなされたときの模様をお述べになっている。
邪法邪智の流行する時代には、正法はなかなか弘め難い。太平洋戦争中に弾圧をうけて牢死なされた牧口初代会長も、終戦後の焼野原と化した東京で、ただお一人で広宣流布を叫ばれた戸田会長も、初めは同じような物笑いにされたり、悪人として扱われ、国賊にされたりしながらも、三障四魔と戦い抜かれて、いまの創価学会の広宣流布の基礎を築かれたものである。
いまはあらゆる戦いに勝利を飾ることができているが、われわれはつねにこの草創期の尊い御精神を忘れてはならないのである。
世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる
釈尊の在世よりも滅後正法時代、正法時代より像法時代、像法時代より末法の時代へと、しだいに人の智慧は浅くなる。しかして、末法の衆生は三毒強盛であり、本未有善の衆生である。
したがって、劣れる衆生を救わんがためには、仏法はより高い、より深い正法でなければならなくなる。ゆえに迦葉阿難よりも馬鳴菩薩が勝(すぐ)れ、馬鳴等よりも天台は勝れ、天台よりも伝教が勝れているのである。しかるに伝教は法華経迹門の導師であり、法華経本門の大導師は日蓮大聖人であらせられる。日蓮大聖人こそ無上の中の極無上の大導師であらせられ、御本仏であらせられるのである。
インド、中国、日本における戒壇の歴史
戒壇とは、一般に、仏道修行の身口意三業をととのえるための戒法を授ける道場である。戒とは防非止悪の義で定慧と並んで三学と称せられる。戒定慧三学は仏法において必須の要法なのである。
しかしながら、小乗、権大乗、法華迹門、法華本門、文底独一本門と、それぞれ定慧が異なるように、戒法もしたがって戒壇の様相も相違がある。
歴史的に戒壇の発祥を求めるならば、インドの祇園精舎である。すなわち釈尊が成道して10年、摩訶陀国において弗迦沙王のために説法を行なった。そのときに楼至菩薩が比丘に受戒せんと請うて祇園精舎の外院の東南に小乗戒壇を建立した。
この戒壇の構造は、唐の南山道宣律師「戒壇図経」によれば、三重からなり、仏像等はなく、四隅に四天王像が受戒の儀式を守る形で安置された。
インドにおいては、これにつづいて多くの戒壇が建立されたが、いずれも小乗戒壇であり、後世の中国、日本の戒壇のような国家的意義はなかった。一般に小乗教は戒を重んじて定慧の比重が軽く、したがって受戒者も授戒者も資格をきびしく問われた。
中国においては、後漢末、西紀0067年に仏教渡来とされ、戒壇が初めて建立されたのは西紀0249年、曹魏第三代斉王の世、天竺曇摩迦羅三蔵によるもの。あるいは西紀0434年、劉宋文帝元嘉11年、求那跋摩による南林寺の戒壇とされる。その後、つぎつぎと各地に戒壇が建立され、数百もの小乗戒壇が建立されてその地方の僧尼受戒の中心地となった。
中国大乗戒壇の初めは、唐、代宗の永泰元年(0765)大興善寺の方等戒壇であり、以後数10か所に及ぶ。大乗戒壇では四天王をおかず、釈迦像をおいている。なお、天台大師においては観法の理を重んじて行動の事を軽んじ、したがって一応、円頓の理戒を設けたが、受戒は小乗を用いていた。
日本においては西紀753年、鑑真が中国より伝え、まず奈良・東大寺、唐招提寺、つづいて東国は下野・薬師寺、西国は筑紫・観音寺とそれぞれ小乗戒壇を建立した。東大・薬師・観音を小乗三戒壇と称し、東大寺ではまず天皇・皇后・太子・公卿430余人が受戒するなど、小乗ながら国家的意義をもったと考えられる。
しかし、戒壇についてもっとも注目すべき偉業を達成したのは、比叡山延暦寺に法華迹門の戒壇を建立した最澄・伝教大師である。伝教大師は22歳で比叡山寺を開基、後、唐に留学して道邃和尚より大乗円頓戒を受法、帰朝して天台宗を開き、天皇はじめ万民の尊崇のなかに法華迹門の弘法に尽した。
しかして南都六宗の諸寺諸僧の邪義を破折して法華迹門の円頓戒壇建立のために身をささげた。この願望は没後7日にして勅許が下り、弟子義真によって実現されたのである。すなわち叡山円頓戒壇は、国内全僧侶の受戒すべき根本道場として、宗教界・思想界の中心となったのである。
東大寺の本尊は釈迦多宝二仏並座の多宝塔を中央に四天王が四隅を守る、薬師寺の様式はいまでは不明、観音寺は盧遮那仏を本尊に文殊弥勒が脇士となっている。叡山の戒壇は文殊弥勒を脇士とする釈迦像である。
以上、正像2000年における戒壇の歴史を略述したが、これらの共通点は、僧尼等に戒を授ける道場であったことである。そして、それによって仏教界ひいては思想界の統一と国の繁栄、民衆の幸福を期したのである。
いま、末法にはいり日蓮大聖人の三大秘法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。
ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法」である。すなわち、現在全国、全世界に本尊建立がなしとげられていって、その総意の結果として事の戒壇が完成される。この戒壇に安置したてまつる御本尊こそ、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊である。
第三十六章(本門三大秘法を明かす)
本文
問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉.阿難等・馬鳴・竜樹等.天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下あり池に随つて蓮の大小あり雨の大小は竜による根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながしと・いうこれなり、周の代の七百年は 文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。
「我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得せしむること無けん」等云云、此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ迦葉尊者は光明如来とならじ目犍は多摩羅跋栴檀香仏とならじ阿難は山海慧自在通王仏とならじ 摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とならじ、三千塵点も戯論となり・五百塵点も妄語となりて恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち多宝仏は阿鼻の炎にむせび十方の諸仏は八大地獄を栖とし一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし・いかでかその義候べき、其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり、
現代語訳
問うて言う。しからば天台大師や伝教大師の、いまだ弘通していない正法があるのか。
答えて言う。ある。
求めて言う。それは、いかなるものか。
答えて言う。それは、三つある。これ末法の世のために、仏が留めおかれたものである。これは迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかったところの正法である。
求めて言う。その形貌はいかなるものか。
答えて言う。一つには本門の本尊である。日本乃至、一閻浮提の人々は一同に本門の教主釈尊を本尊となすべきである。いわゆる、宝塔の内の釈迦多宝、そのほかの諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきである。二つには本門の戒壇である。三つには本門の題目である。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智にかかわりなく、一同に、他事をすてて南無妙法蓮華経と唱えるべきである。 このことは、いまだ弘まっていない。一閻浮提の内に、釈迦仏の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮大聖人お一人が、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と、声も惜しまず唱えているのである。
たとえば、風にしたがって波の大小があり、薪によって火の高下があり、池の大小にしたがって蓮の大小があり、雨の大小は竜、すなわち雨雲の大小によるようなものである。根が深ければ枝しげく、源遠ければ流ながしというのは、これである。
中国の周の代が七百年もの長い間つづいたのは、ひとえに文王の礼孝によるものである。反対に、秦の世が、ほどもなく滅びたのは、始皇帝の無道の行いによるものである。
日蓮大聖人の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。
極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。
春は花が咲き、秋には果実が実る。夏は暑く冬は寒い。これも時のしからしむるによるところではないか。
法華経の薬王品に、釈尊は「わが入滅の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提において、断絶して悪魔、魔民、多くの天竜、夜叉、鳩槃荼等に、その便りを得せしむるようなことはないであろう」等と予言した。
もし、この法華経薬王品の予言が的中せず、経文むなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならず、迦葉尊者は光明如来とならず、目犍連は多摩羅跋栴檀香仏とはならず、阿難は山海慧自在通王仏とならず、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならず、耶輸陀羅比丘尼(は具足千万光相仏とはならないであろう。
三千塵点も戯論となり、五百塵点も大妄語となって、おそらくは教主釈尊は無間地獄におち、多宝仏は阿鼻地獄の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を住み家とし、いっさいの菩薩は、一百三十六の地獄の苦しみをうけるであろう。どうして、法華経薬王品の経文がむなしくなるという義があろうか。その義がなければ、日本国は一同に南無妙法蓮華経と唱えるのは決定的である。
語釈
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
本門の教主釈尊
法華経本門文上説かれる久遠実成五百塵点劫の釈尊ではなく、文底にあらわれた久遠元初の自受用法身如来・日蓮大聖人のこと。
周の代の七百年は文王の礼孝による
文王は中国周王朝の基礎をつくった君主、理想の名君とされている。周の治世が700年もつづいたのは、文王が礼厚く、至孝であったからである。姓は姫、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。死後、子の武王が殷王朝を滅ぼし、周王朝を建てるにおよんで、文王と諡された。
秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり
秦の始皇帝の治世は37年、二世胡亥の代三年、三世子嬰はわずかに46日、前後40年という短期間だったのは、始皇帝の横道によるものである。
夜叉
梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。
鳩槃荼
梵語クムバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を喰らう、馬頭人身の鬼。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある鬼の一つ。
舎利弗は華光如来
舎利弗は梵名シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。法華経譬喩品第三には、方便品第二に説かれた「諸法実相」の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けた
迦葉尊者は光明如来
迦葉は梵名マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写。摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって8日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、付法蔵の第一として、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。法華経信解品第四には、須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、「三車火宅の譬」をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことをまのあたりにし、歓喜踊躍したことが説かれ、さらに法華経授記品第六において、迦葉は未来に光明如来になるとの記別を受け、他の三人も記別を受けた。
目犍は多摩羅跋栴檀香仏
目犍は梵名マハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)の音写、摩訶目犍連のこと。大目犍連、目犍連とも書き、目犍、目連は略称。釈尊十大弟子の一人。摩竭陀国・王舎城の近くのバラモン種の出で、幼少より舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈尊の教えを求めて250人の弟子とともに仏弟子となる。神通第一と称され、盂蘭盆経上によると、母が餓鬼道に堕ちていたことを神通力で知るが、自分の力では救えず、釈尊に教えを乞い、供養の功徳を回向して救うことができたという。迦葉、阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品第六で、多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。
阿難は山海慧自在通王仏
阿難は梵名アーナンダ(Ānanda)の音写、阿難陀の略。釈尊の十大弟子の一人。常随給仕し、釈尊諸説の経に通達していた。多聞(たもん)第一と称される。提婆達多の弟で、釈尊の従弟。仏滅後、摩訶迦葉のあとをうけて付法蔵の第二として諸国を遊行し、衆生を利益した。法華経授学無学人記品第九で山海慧自在通王如来の記別を受けた。
摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏
摩訶波闍波提は梵名マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢刺闍鉢底とも書く。また〝釈迦族の女性〟の代表としてゴータミーと呼ばれ、憍曇弥と音写する。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で一切衆生憙見如来の記別を受けた。
耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏
耶輸多羅は梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。耶輸大臣の女である。悉達太子の正妃で、羅睺羅の母。釈尊が成道して12年目に、迦毘羅衛国に帰ったとき、釈尊より化導され、比丘尼となった。法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
三千塵点劫
法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」と説かれている。釈尊の成道は五百塵点劫という遠い昔にあり、この久遠五百塵点劫より以来、師弟の関係をもっていることを説き、永遠の生命を説き明かしたのである。
教主釈尊は無間地獄に堕ち多宝仏は阿鼻の炎にむせび
無間地獄は阿鼻地獄の意訳。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、無間と訳す。大阿鼻地獄、阿鼻大城ともいう。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。ここでは、たとえ仏であっても法華経薬王品の「後の五百歳中、広宣流布」の予言が的中しないならば、最悪の地獄に堕ちざるをえないと言われ、裏を返せば、仏の予言は絶対に的中するとの大確信であらせられる。
一百三十六の苦
一百三十六の地獄のこと。八大地獄にそれぞれ十六の小地獄があり、小地獄の百二十八と大地獄の八を加えて百三十六となる。罪の軽重によって堕ちる地獄が異なる。法華玄義巻六下には「重き者は遍く百三十六を歴、中なる者は遍くせず、下なる者は復た減ず」とある。
講義
いよいよ、この章において、本門の三大秘法を明かすのである。送文に「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」とおおせられたのも、この三大秘法を明かされたゆえである。
御一代を通じ五大部と称せられる御書の中にも、立正安国論、開目抄、観心本尊抄、撰時抄といずれも三大秘法の名目すら明かされていない。ゆえに本抄を「大事の大事」とおおせられているのである。
一、先聖の未弘と日蓮大聖人の弘通
日蓮大聖人の三大秘法は、仏の滅後、迦葉、阿難等、馬鳴、竜樹等、天台、伝教等のいまだかつて弘通したことのない大白法である。
常忍抄にいわく「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり」(0981:08)と。
しからば、なぜこれらの先聖が、三大秘法を弘通されなかったのか。それは次の四つの理由がある。
曾谷入道等許御書にいわく「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028:16)と。
しからば、日蓮大聖人の御弘通は、一には自身能堪なる故、二には所被の機有る故、三には仏より譲り与うる故、四には時来るが故である。いまここに日寛上人の文段から、さらにこの四つの故を明らかにしよう。
(一)に彼は堪えず、此れは能く堪うる故。観心本尊抄にいわく「夫れ文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩は宝威仏の弟子なり一往釈尊の行化を扶けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門の菩薩なり本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」(0251:15)と。爾前迹門とは今日の迹本二門通じて迹門と名づく。是れ則ち迹中所説の故なり。久遠名字の妙法を本法と名づくるなり。
当に知るべし観音、薬王等、迹中の番々に於て、迹本二門の説法を聞く。能く之を所持すと雖も未だ文底秘沈の久遠名字の妙法の付属を受けず。何ぞ之を所持すべけんや。是れ則ち世々番々に付属せざる故なり。
然るに本化の菩薩は久遠名字の御弟子にして、能く此の本法を受持し給えり。故に久遠名字已来本法所持の菩薩なり。故に此の経を弘むること猶魚の水に練れ、鳥の虚空に自在なるが如し。故に観音薬王等は自身既に堪えざる故に之を弘めず、わが日蓮大聖人は自身能く堪ゆる故に之を弘め給うなり。
(二)に彼は所被の機無し此れは所被の機有り。立正観抄にいわく「天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり、故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり」(0529:15)と。
彼は既に帯権の円機にして、本門の直機に非ず。何ぞ本門の大法を授けんや。此れは是れ法華本門の直機なり。直機とは直ちに本因下種の機なり。故に日蓮大聖人は本因下種の要法、三大秘法を弘め給うのである。
(三)に彼に譲り与えず此れに譲り与うる故。観心本尊抄にいわく「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず、末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250:09)と。
内証の寿量品とは文底本因妙の事である。ここに他方本化の前三、後三、迹化本化の前三、後三があるが、これを略す。
(四)に彼は時来らず此れは時已に来る故。すでに本化の菩薩に付属し已って、正しく流布の時を指示す。云く後五百歳中広宣流布と云云。故に知んぬ三箇の秘法は末法流布の大白法である。何ぞ正像に於て之を弘通すべけんや。
二、教主釈尊を本尊
そもそも当流の宗義の大網は、宗教の五箇と宗旨の三箇である。宗教の五箇とは、教、機、時、国、教法流布の前後であり、宗旨の三箇とは本門の三大秘法である。
なぜ本門の三大秘法というかといえば、本門寿量品文底秘沈の大法なるゆえである。
曾谷入道等許御書にいわく「大覚世尊仏眼を以って末法を鑒知し此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう……爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや……所謂妙法蓮華経の五字・名・体・宗・用・教の五重玄なり」(1030:15)と。
妙法五字とは即ち本門の本尊である。本尊の所住の処は本門の戒壇であり、本尊を信行するが本門の題目である。寿量品に是好良薬、今留在此、汝可取服と。是好良薬は本尊、今留在此は戒壇、汝可取服は題目である。
さて本文に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とある。これは人本尊を示されたものである。教主釈尊には多くの義があり、蔵教、通教、別教、法華経の迹門、本門、文底のそれぞれに教主釈尊がある。いまここにおおせの教主釈尊とは、本門寿量品文底下種の教主釈尊である。すなわち久遠元初の自受用身であらせられ、末法に日蓮大聖人と御出現の教主であらせられるのである。色相荘厳の在世の釈尊は、法勝人劣であるが、久遠名字の教主釈尊は、人法一箇であらせられる。ゆえに本尊となすところの教主釈尊とは、事行の一念三千の大曼荼羅であらせられるのである。
三、他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱う
本門の題目に信行を具す。信は是れ行の初め即本因妙である。行は是れ信の終わり即本果妙である。これすなわち刹那の始終、一念の因果である。いまの御文に「一同に他事を捨てて」とは信心である。「南無妙法蓮華経と唱う」とは修行である。
四、日蓮が慈悲曠大
前の段に三箇の秘法を明かし、いまここには日蓮大聖人の三徳を明かしている。
日蓮が慈悲曠大 ……………… 親の徳
一切衆生の盲目をひらく …… 師の徳
無間地獄の道をふさぎぬ …… 主の徳
「教主釈尊を本尊とすべし」と明かされて、御自身の三徳を明かされるのは、日蓮大聖人が本因妙の教主釈尊であらせられ、末法の人の本尊であらせられるのである。
「万年の外・未来」とはまた重大な意義がある。いかなる仏でも正法何年、像法何年等と定められているのに、日蓮大聖人の仏法は、未来永遠の衆生を救われて、尽きるところがないのである。
「極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず」とは、竜樹・天親よりも、天台・伝教よりも、日蓮大聖人の功徳の最も勝れておられるのを明かしている。また正像二千年の間の楽な弘通の功徳は、末法の一時の修行にも劣るものであるとの意であるが、今末法におけるわれわれの信心の上においても、比較的、楽な条件のもとで信心した功徳と、困難と戦いつつ信心をつづける功徳との比較と考えることもできる。
すなわち経済的にも家庭的にも、また時間やそのほかのあらゆる生活条件にめぐまれず、交通不便の中で戦っている同志の方々がいる。一面はひじょうにたいへんであるが、人間革命の功徳は絶大なのである。ゆえに、どんな悪条件の中にあっても、けっしてひるんだり、いじけたり、愚痴をこぼしたりしてはならない。そこで、ひるまず活動しきっていくことは、偉大なる功徳の源泉となっていくのである。逆にいろいろな点でめぐまれている人も、けっしてゆだんをせずに仏道修行に励んでいきたいものである。
生死一大事血脈抄に「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」(1338:08)とおおせであるが、これは題目を真剣に唱え、広宣流布への最高の活動である学会活動に力強く励み、社会に意欲的に参加していく、自覚ある学会人こそ、この御金言にあたるものといえるのである。
「時のしからしむる耳」とは、まことに甚深なるおことばと拝するのである。三大秘法抄および身延相承書には「時を待つべきのみ」とおおせられたが、今は正しく化儀の広宣流布の時ではないか。
「冬きたりなば春遠からじ」「冬は必ず春となる」仏法においては、とくに「時」が重要なのである。だれが疑おうが、だれが怨嫉しようが、だれが反対し、だれが弾圧しようが、日蓮大聖人の三大秘法の仏法は、必ず全世界に流布され、絶対の功徳あることは、冬が春になり、太陽が東から西にはいるよりも確実なことなのである。これ、ひとえに「時のしからしむる耳」のゆえである。
世界広布、大白法の流布の途上には、多少の弾圧や摩察がおこるのはとうぜんである。三障四魔が競いおこることは御本仏の御金言である。しかし、高き水が低きに流れるがごとく、三大秘法の御本尊、すなわち日蓮大聖人の大生命哲学は必ず全世界に流布されていくことは必然である。
「恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち」とは、たとえ仏であっても法華経薬王品の「後の五百歳中、広宣流布」の予言が的中しないならば、地獄に堕ちざるをえないという、きびしいおことばである。裏を返せば、仏の予言は絶対に的中するとの大確信であらせられるのである。ゆえに「其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」とおおせであり、「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360:10)「梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし」(1539:15)と同義であることを知るべきである。
「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957:佐渡御書:17)「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974:聖人知三世事:01)の御金言を、よくよく肝に命ずべきである。そして、日蓮大聖人の御予言は、すべて的中したことを知らなければならない。また、わが創価学会は断じて日蓮大聖人のおおせを虚妄にしないとの自覚をもって前進していこうではないか。
透徹した、時代、社会への、洞察眼を開いて、はじめて未来を予見することができるのである。いまの評論家、学者等は、よくよくこの御金言を肺腑に染むべきであろう。「戸田会長なきあとは、学会は分裂するであろう」「停滞するであろう」「学会が発展したのは戦後の一時現象である」などと、煙のごとき夢のごとき予想をのべたものが多かったが、すべて的中しなかったことを、じゅうぶんにわきまえていくべきである。日蓮大聖人に命を賭されての民衆救済の御予言があり、また、われわれに、不自惜身命の広宣流布への自覚と実践があるならば、広宣流布は絶対に実現しないわけがないことを、強く主張するものである。
第三十七章(正しく報恩を結す)
本文
されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
建治二年太歳丙子七月二十一日 之を記す
甲州波木井郷身延山より安房の国・東条の郡・清澄山・浄顕房・義成房の許に奉送す
現代語訳
されば、花は根にかえり、菓は土にとどまる。この功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
建治二年太歳丙子七月二十一日 これを記す
甲州波木井郷身延山より安房の国、東条の郡、清澄山、浄顕房、義成房のもとに奉送す。
講義
本抄は一部の総結である。
文段には「廻向の文なり」とおおせられている。すなわち三箇の秘法広宣流布の功徳は、道善房の御身に帰すべしといわれているのである。
すでに自業自得果の辺は救われないこと、しかも道善房はついに日蓮大聖人の信仰に帰しないままに死なれてしまっている。それにもかかわらず、三大秘法の功徳が絶大のゆえに、しかも日蓮大聖人の大慈大悲は、末法万年のほか未来までも流布すべきゆえに、この功徳が故道善房の御身に集まるであろうとのおおせである。愚痴でおろかで信心まことに薄かった道善御房に対して、日蓮大聖人の報恩のお心の強さに、ただただ感激したてまつるのみである。
願わくは、広宣流布に励む、われわれのつたない功徳をもって、報恩をはかっていきたいものである。われわれの功徳を積み、報恩をはかる道は、ただ三大秘法の御本尊を広宣流布するための折伏以外にはないことを、ふたたび、ここに確認したいと思うのである。
華果成就御書にいわく「さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし・あらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(0900:06)と。
この御文は、さらにくわしく、師匠と弟子の関係をおのべになった御書である。三大秘法の大仏法を弘められる功徳は、御幼少の時の師匠であった道善房に帰し集まるとのおことばである。まことに、師弟相対のきびしき御姿と拝せられる。日蓮大聖人の師を思う真心にかかわらず、道善房は正法を信ずること、ひじょうにたよりない姿であったことは、たびたびのべてきたとおりである。この上に、日蓮大聖人のこのようなおことばを拝して、われわれは日蓮大聖人の御報恩の深さ、師弟の不思議に涙せずにはおられないのである。いわんや、化儀の広宣流布に邁進する、われら学会員においてをやの感をあらたにするものである。
報恩抄送文
本文
御状給び候い畢わんぬ。
親疎となく、法門と申すは、心に入れぬ人にはいわぬことにて候ぞ。御心得候え。
御本尊図して進らせ候。この法華経は、仏の在世よりも仏の滅後、正法よりも像法、像法よりも末法の初めには、次第に怨敵強くなるべき由をだにも御心えあるならば、日本国にこれより外に法華経の行者なし。これを皆人存じ候いぬべし。
道善御房の御死去の由、去ぬる月ほぼ承り候。自身早々と参上し、この御房をもやがてつかわすべきにて候いしが、自身は内心は存せずといえども、人目には遁世のように見えて候えば、なにとなくこの山を出でず候。この御房は、また内々人の申し候いしは、「宗論やあらんずらん」と申せしゆえに、十方にわかちて経論等を尋ねしゆえに、国々の寺々へ人をあまたつかわして候に、この御房はするがの国へつかわして当時こそ来って候え。
またこの文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ。詮なからん人々にきかせなば、あしかりぬべく候。また、たといさなくとも、あまたになり候わば、ほかざまにもきこえ候いなば、御ため、またこのため、安穏ならず候わんか。
御まえと義城房と二人、この御房をよみてとして、嵩がもりの頂にて二・三遍、また故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては、この御房にあずけさせ給いて、つねに御聴聞候え。たびたびになり候ならば、心づかせ給うこと候いなん。恐々謹言。
七月二十六日 日蓮 花押
清澄御房
現代語訳
御状いただき拝見しました。法門というものは、親しい人であっても疎遠な人であっても、とにかく信心のない人には、軽々しく話すべきものではない。このことは、よくよく心得ていきなさい。
御本尊を図顕してさしあげた。この法華経は釈迦仏の在世よりも釈迦仏の滅後に、また正法時代よりも像法時代に、さらに像法時代よりは末法の初めに、しだいに怨敵が強くなり、法を弘むることも困難となるのである。このことを、よく心得ておられるならば、日本国においては、この日蓮以外に法華経の行者はいないことは明らかであろう。そして、このことは貴僧はじめ、みんなが承知しておられるところである。
道善御房が御死去になったということは、前の月に、だいたいのことは、うけたまわった。日蓮みずからが早速、清澄山に参上し、またこの報恩抄をもたせた御房(日向)をも、やがて遣わさなければと思っていたのである。しかし、私自身の内心では、そう思っていないのであるが、世間の人々からは遁世のように見られているために、この身延の山を出て清澄山に墓参におもむくということはできないのである。
この御房は、また多くの人々が内々にいっていることは「近いうちに宗論があるのではないか」ということである。そこで、十方に手分けをして経論等を尋ね集めるために、各国々の寺々に人を多く派遣していたのである。いま、この御房は駿河方面へ遣わしていたのであるが、ちょうどいま、ここに帰ってきていた。ゆえにこの御房を清澄山に遣わしたわけである。
また、この報恩抄には、ずいぶん大事な中の大事な法門を書いたのである。ゆえに、事情のわからない人々に聞かせることは悪いことであるから、絶対に聞かせてはならない。また、たとえ、事情のわかる人であっても、数多くの人に聞かせたならば、しぜんに、ほかの信心のない人たちの耳にも聞こえることとなって、貴僧等のためにも、この法門のためにも安穏でいることができなくなるであろう。
ゆえに、あなた(浄顕房)と義成房との二人が、この御房を読み手として、嵩が森の頂上で二、三べん聞いて、また故道善御房の御墓の前で一ぺん読みなさい。その後は、この御房にあずけておいて、つねに聴聞しなさい。そのように、たびたび聴聞するならば、法門やその他のことについて、なるほどと心から気がつくことにもなるであろう。恐恐謹言。
七月二十六日 日 蓮 花 押
清 澄 御 房
講義
本状はいうまでもなく、報恩抄の送り文である。
初めに法門を軽々しくいってはならないとは、清澄寺内にまだ三大秘法に反対するそうとうの勢力があったものとみえる。しかし次の「御本尊図してまいらせ」とあるから、浄顕房らは御本尊をいただくほどになっていたことも知られるのである。
「此の御房」とは日向である。日向は駿河方面へつかわされていたこともあるようで、これは富士方面の日興上人の弘教の援助の意味もあったと考えられる。日向の駿河派遣については、異体同心事に「はわき房さど房等の事」(1463:01)とある、さど房が即ち日向である。
富士方面は、いかに弘教が盛んであったかは、日興上人の直門としての多くの弟子檀那の御活躍が残されているし、またこれから2、3年の後に惹起した熱原の法難によっても、うかがわれるのである。
「又此の文は随分大事の大事どもを書きて候ぞ」大事の大事どもとは何か、これこそ、日蓮大聖人の出世の御本懐、三大秘法の御教示にほかならないのである。
「嵩が森の頂で読め」とは、華果成就御書によっても、当時の状況をしのぶことができるのである。