弥源太入道殿御消息

 一日の御帰路、おぼつかなく候いつるところに、御使い悦び入って候。御用事の御事どもは、伯耆殿の御文に書かせて候。しかるに、道隆の死して身の舎利となる由のこと、これは何とも人知らず、用いまじく候えば、とかく申して詮は候わず。
 ただし、仏の以前に九十五種の外道ありき。各々、これを信じて仏に成ると申す。また皆人も一同に思って候いしほどに、仏、世に出でさせ給いて「九十五種は皆地獄に堕ちたり」と説かせ給いしかば、五天竺の国王・大臣等は、仏は所詮なき人なりと申す。また外道の弟子どもも、我が師の上を云われて悪心をかき候。竹杖外道と申す外道の目連尊者を殺せしこと、これなり。苦得外道と申せし者を仏記して云わく「七日の内に死して食吐鬼と成るべし」と説かせ給いしかば、外道瞋りをなす。七日の内に食吐鬼と成りたりしかば、それを押し隠して、得道の人の御舎利買うべしと云いき。それより外に不思議なること数を知らず。
 ただし、道隆がことは見ぬことにて候えば、いかように候やらん。ただし、弘通するところの説法は、共に本権教より起こりて候いしを、今は「教外に別伝す」と申して、物にくるいて我と外道の法と云うか。その上、建長寺は現に眼前に見えて候。日本国の山寺の敵とも謂いつべきようなれども、事を御威によせぬれば、皆人恐れて云わず。これは今生を重んじて後生は軽んずる故なり。されば、現身に彼の寺の故に亡国すべきこと当たりぬ。日蓮は度々知って日本国の道俗の科を申せば、これは今生の禍い、後生の福いなり。ただし、道隆の振る舞いは日本国の道俗知って候えども、上を畏れてこそ尊み申せ、また内心は皆うとみて候らん。仏法の邪正こそ愚人なれば知らずとも、世間の事は眼前なれば知りぬらん。また一つは、用いずとも、人の骨の舎利と成ることは易く知られ候ことにて候。仏の舎利は、火にやけず、水にぬれず、金剛のかなづちにてうてども摧けず。一くだきして見よかし。あらやすし、あらやすし。
 建長寺は、所領を取られてまどいたる男どもの、入道に成って、四十・五十・六十なんどの時、走り入って候が、用はこれ無く、道隆がかげにしてすぎぬるなり。云うに甲斐なく死しぬれば不思議にて候を、かくしてしばらくもすぎき。または日蓮房が存知の法門を人に疎ませんとこそたばかりて候らめ。あまりの事どもなれば、誑惑顕れなんとす。ただ、しばらくにょうじて御覧ぜよ。根露れぬれば枝かれ、源渇けば流れ尽くると申すことあり。恐々謹言。
  弘安元年戊寅八月十一日    日蓮 花押
 弥源太入道殿

現代語訳

一日の御岐路を心配していたところに御使いをいただき喜んでおります。御用事の件等については日興上人のお手紙に書かれています。ところで道隆が死んで舎利となったとのこと、これはなんといっても世間の人には真偽は分かららないことだし、取り合わないであろうから、とやかくいっても詮議はしない。

ただし、仏の出世以前に九十五種の外道があった。各各はそれぞれを信じて死ねば仏になるといい、また人々も一同にこれを信じていたところ、仏が世に出現されて、九十五種の外道は、みな地獄に堕ちたと説かれたのである。五天竺の国王、大臣等は、仏はつまらないことをいう人であるといい、また外道の弟子達も、わが師のこととをいわれて悪心を抱いた。竹杖外道という外道が目連尊者を殺害したのはこのためである。

また苦得外道という者を、仏は予言して「七日の内に死んで食吐鬼となるであろう」と説かれたところ、外道は瞋りをおこした。しかし、たしかに七日の内に食吐鬼となったのである。外道はそれを押し隠して、悟りを得た人の御舎利を買いなさいといって歩いたのである。それ以外にも、奇怪なことは数しれない。

ところで、道隆の骨は見ていない事であるからどんなふうであろうか、ただし道隆の弘通する法門は、もともと権教から起っている。それを今は教外別伝といっているのは、気が狂って、みずから外道の法といっているようなものである。そのうえ、建長寺のありさまは、現に眼前に明らかである。日本国の諸山・諸寺の敵ともいうべきような状態にあるが、なにとか権威を借りるので、人々は恐れて何もいわないのである。これは今生を重く見て後生を軽んずるゆえである。したがって、現身に建長寺のゆえに、国が亡びるであろうといったことがそのとおりになっている。

日蓮はこのことを知って、たびたび日本国の道俗の誤りを諌めたので、これは今生には迫害を受けて禍であっても、後生には福となるのである。ただし道隆の振る舞いは日本国の道俗は知ってはいるけれども、幕府を恐れるからこそ尊んでいるとはいえ、また内心は、皆疎んでいるであろう。仏法の邪正こそは愚人であるから知らなくとも、世間のことは眼前の事実であるから分かっているであろう。また仏法は用いなくとも、人の骨が舎利となったかどうかは、容易に知られることである。仏の舎利は火に焼けず、水にも濡れず、金剛の鎚で打っても摧けない。こころみに一度道隆の骨を摧いてみよ。まったく簡単なことである。

建長寺は、所領を取り上げられて行先のない男達が入道となって、四十、五十、六十歳になった時に逃げ込んできた者達の集まりで、なんの働きもなく、道隆の陰に隠れて暮らしてきたところである。ふがいない死に方をしたのが不思議であるのを、このような説を流して隠し、しばらくも過ごしたのである。

または日蓮の存知の法門を人に疎ませようとして、噂を仕組んだものであろう。しかしあまりの仕打ちであるから、その誑惑が露見しかけているのである。ただしばらく我慢してご覧なさい。根が露われれば枝は枯れ、源が渇けば流れは途絶えるという道理である。恐恐謹言。

弘安元年戊寅八月十一日                日蓮花押

弥源太入道殿

 

語句の解説

伯耆殿

12461333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(133327日、88歳で没した。

 

道隆

鎌倉時代の禅僧(12131278)。蘭溪道隆のこと。中国西蜀培江の人。姓は冉氏。諱は蘭渓。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)、紹仁と共に九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に留まり、のちに北条時頼(12271263)の帰依を受け、時頼が建長5年(1253)建長寺を建立すると、迎えられて開山一世となった。門下に告げ口されて前後2回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(1278724日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に師敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永5年(126810月、立正安国論に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状到来で的中した旨を、十一通の書状に認めて北条時宗をはじめ、時の権力者に諫暁をなされたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永8年(12719月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下より出たことから考えても明らかである。

 

舎利

梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。

 

九十五種の外道

釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。

 

五天竺

インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。

 

竹杖外道

古代インドの仏教以外の修行者の一派。目連は舎利弗と共に王舎城を巡行中、竹杖外道に出会い、その師を破したため、杖で打ち殺されたという。

 

目連尊者

梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。

 

食吐鬼

人の吐いたものを食う餓鬼のこと。

 

権教

実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。

 

教外別伝

「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139:09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181:06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179:04)である。

 

建長寺

神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長51125日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。

 

山寺

寺院のこと。

 

現身

①現世に生きている身、現在の身。②仏・菩薩が衆生救済のために種々の身を化現することをいう。

 

道俗

出家と在家のこと。

 

仏の舎利

仏の遺骨のこと。

 

入道

仏門・仏道に入ること。本来は出家と同義。日本では平安時代から在家のままで剃髪した人を入道といい、僧となって寺院に住む人と区別するようになった。

 

誑惑

たぶらかすこと。

講義

本抄は弘安元年(1278811日、北条弥源太入道から、建長寺道隆が死亡したことを報じた手紙に対し、その御返事として身延で書かれたものである。

道隆の骨が舎利になったと、その弟子達がいいふらしたことに対し、痛烈に破折を加えられている。

まず釈迦在世の外道の例を引かれ、苦得外道の場合と同様であるとし、次に道隆の邪義と生前の振る舞いよりみて、道隆の骨が舎利となったかどうかの真偽が推し量れると指摘され、なお、信用できなければ、その骨を一砕きしてみればはっきりすることであって、「仏の舎利は火にやけず・水にぬれず・金剛のかなづちにて・うてども摧けず」と説かれているが、道隆の骨は簡単に砕けてしまうであろうと、揶揄的に破折されている。最後にこのような虚偽を構えたのも、日蓮大聖人に対抗して、道隆の法門が勝れていると吹聴したいためのたくらみであって、このような子供だましはすぐ露見するであろうといわれ「根露れぬれば枝かれ・源渇けば流尽くると申す事あり」と、道隆一門の末路を予見されている。

 

道隆について

 

道隆は、極楽寺良観とともに、日蓮大聖人迫害の急先鋒であった。その道隆を知るためには、まず鎌倉時代の禅宗について述べなければならない。

禅宗は始祖の菩提達磨以来、中国において五家七宗といわれる各派が生じたが、日本に伝来した主な禅は、中国臨済義玄を祖とする臨済宗と、青原行思系統の曹洞宗である。日本には鎌倉時代初期に、臨済宗が栄西によって弘められ、曹洞宗は道元によって伝えられた。

臨済宗を伝えた栄西は、はじめ叡山に顕密二教を学び、二度の入宋で臨済黄竜派の禅をつぎ、帰朝後おおいに禅風を宣揚しようとしたが、叡山側をはじめとしてさまざまな迫害が起こり、やむなく、顕密禅の三宗兼修の形で弘教していった。弘教の方法として、権力階級に接近し、積極的に権力を利用し勢力を強めている。鎌倉においては、北条政子の寺である寿福寺の住持となり、のち建仁2年(1202)に源頼家によって京都に建立された建仁寺の開山となった。

栄西の三宗兼修の禅は京都禅と呼ばれるが、それに対して、鎌倉禅といわれる禅一宗を興したのが、中国より渡来した蘭渓道隆と、円覚寺開山の無学祖元である。

道隆は南宋・西蜀蜀培江の人で、無明慧性に師事し禅を学んだ。33歳の時日本に渡来し、九州筑前の円覚寺、京都の泉涌寺にあり、のち鎌倉にのぼって寿福寺・常楽寺に住した。北条時頼の帰依を受け、建長5年(125311月に建長寺の開山となり、13年間同寺にあって、幕府中枢との強い結託を保ちながら、鎌倉仏教界に君臨したのである。しかし、禅の修行自体が経論の厳格な研鑽などを無視したものであることから、本抄に述べられているように、集まった門弟も、きわめていいかげんな人々であったようである。

 

今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか

 

もとより、これは禅宗の邪義、道隆の狂乱を破折していわれているのであるが、仏法についてはなんらかの主張をする者の、絶対にふまなければならない原則を示されていると拝することができる。

仏の正統の教えは、すべて経典に記されている。したがって、もし経典を根拠としないで勝手な論議を立てるのは邪義であり、みずからの経典以外のものによるというならば、それはみずから外道であるというのと同じである。

したがって、日蓮大聖人は、あらゆる議論、御述作において、かならず経文を証拠としてしめされている。文底深秘の法門であるがゆえに文の面にあらわれていないことを明かすにあたって、かならずその裏づけを示されているのである。事実、経文という不変の根拠に立脚しないで論議を始めたならば、客観的な判断が拒否され、主観的な、勝手な己義がまかり通ることになってしまう。このゆえに仏法は、あくまで証文と道理と現証との明確な裏づけを重視するのであり、これは永久に忘れてはならない鉄則と知るべきである。

今、末法において仏道修行に励む者は、末法御本仏・日蓮大聖人が、激闘の中にみずからしたためられた御書こそ、もっとも拠りどころとすべき経文であり、この御書の外に仏法の真義が伝えられていると主張するのは、この文に仰せの「教外別伝」と同じであり、「物にくるひて外道の法と云う」に等しいであろう。

 

是は今生を重くして後生は軽くする故なりされば現身に彼の寺の故に亡国すべき事当りぬ、日蓮は度度知つて日本国の道俗の科を申せば是は今生の禍・後生の福なり

 

権力と結びつき権威の笠をきた邪義を責めるならば、今生に禍を招くことは当然である。だが、その正義を護る勇気ある言動は、必ずや後生、未来世の福運を招来するのである。破邪顕正の戦いを貫かれた日蓮大聖人のご一生は、文字どおり、今生の大なる禍の連続であった。しかし、それゆえに「後生の福」すなわち、未来に成仏の境地に住することは疑いないとの大確信の御言葉である。

これに対し、他の宗教界の人々、世間の人々は、今生の安穏を願うあまり、邪義を邪義としりつつ、それが強大な権力と結託しているのを恐れてせめなかったのである。だが、そのために後生の禍を招くことは明らかであり、のみならず、現身に蒙古襲来という大禍を招来している。いかなる立場、いかなる時代であれ、どんなに「今生の禍」を惹起しようとも「後生の禍」のために、正義を貫き、邪悪に対しては敢然と責めていく大聖人の精神に生きる人こそ、日蓮大聖人の真実の弟子である。

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