富木殿御消息
文永6年(ʼ69)6月7日 48歳 富木常忍
大師講のこと。今月、明性房にて候が、「この月はさしあい候。余人の中、せんと候人候わば申させ給え」と候。貴辺いかん。仰せを蒙り候わん。また、御指し合いにて候わば、他処へ申すべく候。恐々謹言。
六月七日 日蓮 花押
土木殿
現代語訳
大師講の事、今月は明性房の所であるが、この月はさしさわりがあり、また、余人の中で引き受けようという人がいたら、お願い申し上げたい、とのことである。貴辺はどうか、御返事をいただきたい。さしさわりがあれば、他の人に申しつけよう。恐々。
六月七日 日 蓮 花 押
土 木 殿
語句の解説
大師講
天台大師の命日である11月24日に報恩謝徳のために営まれた法会。毎月24日にも講会が営まれ、信者が輪番でその宿をつとめたものと思われる。
明性房
日蓮大聖人御在世当時の弟子で、伊東八郎左衛門尉となんらかの縁があった人と推測される。
さしあい
ぶつかりあってうまくいかないこと。
講義
本抄は文永6年(1269)6月7日、大師講に関して富木常忍へ出されたお手紙である。御真筆が存し「六月七日」とあるだけで年号の記載はないが、古来、文永6年で通り、異説はない。同じく大師講について書かれた金吾殿御返事に「大師講に鵝目五連給候い了んぬ、此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候」(0999:03)とあり、これが文永7年(1270)の御書とされるところからも、文文永4・5年(1267・8)ごろから大師講が始められていたと考えられる。
大師講は天台大師講である。これは11月24日に行われるもので、先の金吾殿御返事は11月28日に著されているから、その直後のお手紙であることがわかる。ところが本抄は6月7日のお手紙である。大師講は他に伝教大師の大師講があるが、これは6月4日から行われるもので、本抄は6月7日付であり、伝教大師のものではないことがわかる。「此月」とあるから、毎月24日に大師講を行い、毎年11月24日に規模を大きくして行ったものであろう。金吾殿御返事のものは11月のそれであり、本抄にある大師講は毎月それぞれの門下のところで回りもちで行われたものを指すと考えられる。
この大師講について触れられているのは、このほか諸御抄に散見される。建治2年(1276)11月29日の「富木殿御返事」に「鵞目一結天台大師の御宝前を荘厳し候い了んぬ」(0978:01)とあるのも、日付からして大師講と考えられるし、文永10年(1273)9月の「辧殿尼御前御書」にも「辧殿に申す大師講を・をこなうべし・大師とてまいらせて候」(1224:01)とあり、佐渡御流罪中にも休まず続けられていたことがわかる。天台大師への報恩とともに、法華・止観を講ずるなかに、末法における正法の弘宣を図られたのであろう。
さて本抄では、この月行われるはずであった大師講について、明性房の関係で行われる予定であったが、明性房から今月は少しさしさわりがあるから、だれかほかの人でできるところがあればいってほしいという申し入れがあったと述べられている。そして大聖人は、富木常忍のつごうはどうかと聞かれ、もし常忍もつごうが悪いようであれば、他へいうけれども、といわれているのである。
明性房という人はどういう人であるかは明確ではない。名前が出てくるのは、本抄のほかに、わずかに「辧殿御消息」に「伊東の八郎ざゑもん今はしなののかみは・げんに、しにたりしを・いのりいけて念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが・かへりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ぬ」(1225:08)とあるのにみえるくらいである。大聖人が伊豆に流罪になられていた時、地頭の伊東八郎左衛門尉が病気で死ぬところを大聖人が救われ、念仏者にはならないと明性房にいったが、結局は謗法になってしまったとある。このことから、明性房は伊東八郎左衛門尉とはなんらかの関係にあった人であろうと考えられる。本抄で触れられている、大師講を開くのにさしさわりがあるといってきたことについても、それがいかなるさしさわりであったかは全く不明である。
いずれにしても、本抄から当時、大師講が活発に行われ、研鑽の波が広がっていたことが拝せられる。
大師講について
大師講は、天台宗において、
①天台大師智顗の忌日11月24日、また、
②伝教大師最澄の忌日6月4日に行われる法会である。また真言宗では、
③弘法大師空海への報恩として月ごとの21日に行う講会を指す。
④民間では全国的に、11月23日夜から24日にわたり、家ごとに小豆粥などを供える忌籠りが行われたといわれる。
地域により、天台大師・伝教大師の他、元三大師良源、あるいは弘法大師空海を「大師」と祀ったが、歴史上の大師とはまったく関係のない独自の伝承が、数多く伝えられるという。
この民間行事が行われた旧暦霜月23夜は、ほぼ冬至に該当する。この日を境に、太陽が再び力強い生命を持つに至るのであり、大師講は、冬越しの行事に宗教的意味合いが加わったものと知れる。
北欧においても、冬至祭がキリスト教伝播以前より存し、その習俗が転用され、誕生日が聖書に記されていないキリストの生誕祭を、12月25日に祝うものとなったと推測されている。
ともあれ、大聖人御在世当時、大師講はその内容を混沌としながらも、年中行事として、世に定着していたわけである。大聖人は、権実雑乱の時なればこそ、仏法の正統なる法流を明確にする機会と捉えられたと思われる。すなわち「大師」とは天台大師のことと定め置かれ、大師講のたびごとにその意義を一門に説かれたものと、拝察するのである。