はるかにみまいらせ候わねば、おぼつかなく候。とうじとてもたのしき事は候わねども、むかしはことにわびしく候いし時よりやしなわれまいらせて候えば、ことにおんおもくおもいまいらせ候。それについては、いのちはつるかめのごとく、さいわいは月のまさりしおのみつがごとくとこそ、法華経にはいのりまいらせ候え。
さては、えち後房・しもつけ房と申す僧をいよどのにつけて候ぞ。「しばらくふびんにあたらせ給え」と、とき殿には申させ給え。恐々謹言。
十一月二十五日 日蓮 花押
富城殿女房尼御前
いよ房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給い候え。
現代語訳
日頂は立派な学生になった。つねに法門を聞かれるがよい。
はるかに遠く離れてお会いすることができないので、尼御前の御病気を心配している。今でも楽をしているわけではないが、むかし、とくに不自由であった時から御供養をお受けしてきたので、まことにご恩の重い方であると思っている。
それにつけても、いのちは鶴亀のように、幸福は月の満ち、潮の満つるようにと、法華経に祈りなさい。さて、越後房と下野房を伊予房につけておいた。しばらくの間、めんどうをみてくださるよう、富木殿に申していただきたい。
十一月二十五日 日 蓮 花 押
富城殿女房尼御前
語句の解説
いよ房
(1252~1317)。伊予阿闍梨日頂のこと。六老僧の一人。駿河国富士郡重須郷(静岡県富士宮市重須)の生まれ。幼くして父を失い母とともに鎌倉に住したが、母が富木常忍と再縁したのでその養子となったといわれる。文永4年(1267)大聖人に帰依。その後、真間弘法寺に住して教化弘通に励んだ。大聖人滅後は墓所輪番にも応ぜず、大聖人の正意に反する行動をとったが、乾元元年(1302)真間弘法寺を日揚に付して日興上人に帰依した。文保元年(1317)重須で死去した。
学生
仏道を修行する者のこと。修学僧・学僧。教え導く指導者に対して、学びきわめる弟子をいう。
えち後坊
(1239~1311)日蓮大聖人の門下で、日興上人の直弟子・越後坊日弁のこと。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷(山梨県山梨市牧岡町か?)の人で、富士郡下方荘熱原郷市庭寺(静岡県富士市伝法)の天台宗の寺院・滝泉寺の僧であったが、日興上人の富士弘教により、日秀・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導していたので、院主代・行智の迫害を受け、ここが熱原法難の因となった。この時、日秀と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。後に下総の日頂のもとに移った。富木殿女房尼御前御書には「さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ」(0990:04)と述べられている。その後日弁は上総・奥州地方まで布教したと伝えられているが、日興上人の弟子分帳には「背き了んぬ」とあることから、滅後の弘安年中には退転しているようである。晩年には富士に帰したともあるが明瞭ではない。
しもつけ房
(~1329)日秀のこと。日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。
講義
本抄は、富城殿御返事(0987)と日付けが同じであり、富木常忍への手紙と同時に、尼御前にも認められたものと考えられている。そこで御執筆の年次は弘安2年(1279)11月25日ということになる。両書ともに弘安3年(1280)とする説もある。本抄は御真筆が存している。
冒頭の「いよ房……」の御文は追伸である。「学生」は仏道を修学する者のことであるが、ここでは修学が進んで立派な弟子となったことをいわれている。子供の伊予房が立派になったことを述べられて、母である尼御前を励まされているのである。本抄以外にも、夫人に与えられた書で、大聖人はしばしば伊予房をほめられている。またこの御文は、たとえ子であっても、法門のことについては求めて聞く姿勢でなければならないことを教えられたものとも拝せる。
「はるかに見まいらせ候はねば・をぼつかなく候」の御文からは、尼御前の病弱の身を案じられる大聖人の御心がにじみでている。身延と下総(千葉県北部及び茨城県の一部)は、現在で想像するよりはるかに遠隔の地である。在家の中心的存在である富木常忍の尼御前の病身を思われ、つねに祈られていたことは、前述の「富城殿御返事」からも察することができる。
とくに、大聖人が最も苦境にあられた時から、御供養の誠を尽くしてきた尼御前の信心は、言葉にはあらわせないほどの尊いものであった。富木常忍は大聖人が佐渡流罪という苦境にあられた際にも、また身延入山後の種種不自由をされていた時も大聖人のもとを訪れ、また御供養の数々を差し上げているが、その裏にはつねに尼御前の内助の功があったことはうまでもない。「富木尼御前御返事」には「をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり」(0975-01)と仰せになっている。
苦境に陥ったとき、それまでついてきた人でも離れていくのが世の常である。逆にいえば逆境に陥ったときにこそ真実の友人・同志であるかどうかがわかるともいえる。大聖人がいかなる状況にあるときも変わらぬ誠を貫いて支えてきた尼御前の信心は尊く、そのゆえに「ことにをんをもくをもいまいらせ候」といわれているのであろう。
「いのちはつるかめのごとく」といわれているのも、尼御前の長寿を願われての激励である。さらに、たんに長寿を願うのみではなく、月が満ちて光を増し、潮がひたひたと満ちてくるように、幸せに満ちみちた生涯であるようにとの思いも込められている。大聖人のこうした激励・指南に応えてか、尼御前は病気がちではあったが、このあと20年以上も生き、常忍の死後は一子乙御前とともに富士の重須にきて晩年を過ごしたと伝えられる。
さて、文中、越後房・下野房が伊予房につけられて富木家に赴いたことが記されている。越後房は日弁、下野房は日秀で、ともに熱原法難の際、活躍した弟子である。
二人はもともと、富士郡熱原郷の南部、市庭寺にあった天台宗滝泉寺の僧である。日興上人の折伏によって帰依してからおおいに折伏に励み、それが機縁となって熱原法難が起こったのである。日興上人によって帰依した弟子のなかでも、とくにこの二人の活躍は目ざましく、熱原の三烈士をはじめ、法難の際に捕えられた農民達は、二人が折伏した信徒であることが弟子分帳に記されている。
三烈士が斬罪に処せられるなど法難が激しくなり、二人も熱原にとどまれなくなったが、よるべなき身でもあり、大聖人は日頂につけて、富木常忍に庇護を依頼されたものであろう。二人のうち日秀は後々まで信心を貫き、日興上人本弟子六人の一人として大石寺創建の際には理境坊を建立しているが、日弁は大聖人滅後日興上人に違背している。
このように富木常忍は熱原法難の際にも外護の任を果たしていることがうかがわれるが、それを尼御前をとおして依頼されているところにも、尼御前の信心の強盛なことが推察されるのである。