上野殿御返事(適時弘法の事)
弘安2年(ʼ79)12月27日 58歳 南条時光
白米一だ、おくり給び了わんぬ。一切のことは時によることに候か。春は花、秋は月と申すことも時なり。仏も世にいでさせ給いしことは法華経のためにて候いしかども、四十余年はとかせ給わず。その故を経文にとかれて候には、「説時のいまだ至らざるが故なり」等と云々。なつ、あつわたのこそで、冬、かたびらをたびて候は、うれしきことなれども、ふゆのこそで、なつのかたびらにはすぎず。うえて候時のこがね、かっせる時のごりょうは、うれしきことなれども、はんと水とにはすぎず。仏に土をまいらせて候人、仏となり、玉をまいらせて地獄へゆくと申すこと、これか。
日蓮は、日本国に生まれて、わわくせずぬすみせず、かたがたのとがなし。末代の法師にはとがうすき身なれども、文をこのむ王に武のすてられ、いろをこのむ人に正直もののにくまるるがごとく、念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値って法華経をひろむれば、王臣・万民ににくまれて、結句は山中に候えば、天いかんが計らわせ給うらん。
五尺のゆきふりて、本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たえて命すでにおわりなんとす。かかるきざみに、いのちさまたげの御とぶらい、かつはよろこび、かつはなげかし。一度におもい切ってうえしなんとあんじ切って候いつるに、わずかのともしびにあぶらを入れそえられたるがごとし。あわれ、あわれ、とうとくめでたき御心かな。釈迦仏・法華経、定めて御計らい給わんか。恐々謹言。
弘安二年十二月二十七日 日蓮 花押
上野殿御返事
現代語訳
白米を一駄、お送りいただいた。
一切の事は時によるのである。「春は花、秋は月」という事も、時をいっているのである。仏も世に出現されたのは法華経のためであったけれども、四十余年は説かれなかった。そのわけを法華経方便品には「説時未だ至らざる故に」等と説かれている。
夏に厚綿の小袖、冬に帷をいただくことはうれしいことではあるが、冬の小袖、夏の帷にすぎることはない。飢えている時の金、渇している時の御料はうれしいことであるが、飢えた時の飯や、渇している時の水に過ぎることはない。土の餅を差し上げた童子は仏となり、玉を上げた人が地獄へ堕ちたというのは、この、時をわきまえなかったということである。
日蓮は日本国に生まれて、人を惑わしたことも、盗みをしたこともなく、世間の失は一切ない。末法の法師としては過失の少ない身であるのに、文を好む王の世には武は捨てられ、色好みの者に正直者が憎まれるように、念仏、禅、真言、律宗を信ずる時代に生まれあわせて、法華経を弘めたので、王臣や万民に憎まれ、あげくにこの山中の身となった。諸天がどのようにはからわれるのであろうか。五尺も雪が積もり、もともと人の通わない山道は塞がり、訪ねて来る人もいない。衣服も薄くて寒さを防ぐこともできない。食物も絶えて生命もすでに尽きようとしているときに、生命を妨げるご訪問、一たびは喜び一たびは歎かわしく思う。いっそ、一度に思い切って飢え死にしようと覚悟をきめていた時に白米をお送りいただいたことは、消えかけた灯に油を注がれたようなものである。なんと尊く、めでたい御志であろうか。釈迦仏、法華経が定めて御はからい給われたのであろうか。恐恐謹言。
弘安二年十二月二十七日 日 蓮 花 押
上野殿御返事
語句の解説
四十余年
釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
説時未至故
法華経方便品第二に「未だ曾て説かざる所以は 説時の未だ至らざるが故なり 今正しく是れ其の時なり 決定して大乗を説く」とある。
こそで
袖口を狭くした方領の服。平安末から貴族が装束の下に用いた筒袖の肌着で、鎌倉時代からは袂をつけて男女の表着として使用するようになった。冬期の防寒用に厚綿を縫い込んだものもあった。
かたびら
ここでは、夏に着る、麻、木綿、絹などで作った単衣の着物の意。
ごれう
ここでは、供物を敬っていう言葉。
仏に土をまいらせて候人・仏となり
得勝童子、無勝童子のこと。得勝童子は徳勝童子とも書く。二人は王舎城で乞食行をしていた釈尊に砂の餅を供養した。徳勝が供養し、無勝は横で合掌したという。その功徳によって釈尊滅後百年に徳勝は阿育大王と生まれ、無勝童子は阿育王の后、あるいは阿育王と同じ母のもとに生まれたという。
玉をまいらせて地獄へゆく
この御文の出典については未詳
わわく
「おうわく」の変化した語。道に外れた事をして人を惑わすこと。不正、無法。
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
禅
禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
律
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
いのちさまたげの御とぶらひ
身延山中において、食べ物、着る者などすべて不自由し、苦しい生活をされていた大聖人が、飢え死にの覚悟をされていたときの睺供養であると喜ばれている。
講義
本抄は、弘安2年(1279)12月27日、日蓮大聖人58歳の御時に身延においてしたためられたものである。年の暮れの12月27日、南条時光が米二俵を御供養してきたことに対し、それが食糧不足で苦しんでおられた時だけに、時にかなった御供養であると感謝されている。
御真筆は大石寺に現存する。
最初に「一切の事は時による事に候か」と仰せられ、上野殿の御供養した白米が、身延山におられる日蓮大聖人にとって、いかに時宜を得たものであるかを述べられるにあたって、まず、時が全てにおいて大切であることを強調されている。
世の中の一切の事象は、時候や時勢の如何によって、その価値・効力に相違が生ずるからである。
一般に「春は花・秋は月」という慣用語があるが、花も月も、ともに四季を通じてあるにもかかわらず、こう言われるのは、春という時節における桜の花、秋の季節に見る月が最も美しいからであり、このことは、時の大切さを示しているのであると述べられる。
次に、仏法上に例を求められ、釈尊が世に出たのは、法華経を説くためであったけれども、成道後の40余年の間は、華厳・阿含・方等・般若等の爾前権教を説いて法華経を説かなかった。その理由は、法華経方便品に「説時未だ至らざる故に」と明かしているように、時によったのである。
さらに、贈り物の例を挙げられ、夏に厚綿の小袖、冬に帷を贈られることは、戴くことにおいては感謝すべきではあるが、しかし、冬に小袖、夏に帷のほうが、時にかなってもっとありがたいことであると述べられている。また、飢えている時の金、渇しているときの御料もありがたいが、これもやはり、飢えている時は御飯が最もありがたいし、渇している時は水に過ぎるものはないと仰せである。
同じことは、仏への供養についてもいえる。仏に土の餅を供養し、その果報で阿育王となった例もあれば、逆に、玉を供養したために地獄に堕ちた例もあると述べられている。
次に「日蓮は日本国に生れてわわくせず・ぬすみせず・かたがたのとがなし、末代の法師には・とがうすき身なれども」と述べられ、大聖人御自身に、いかなる世間上の罪もないにもかかわらず、邪法の信仰をされている世に正法を弘めたため種々の難にあい、ついには身延に入山することになったことを仰せである。
人をたばかったり、盗みをしたりなどのさまざまな世間的な罪を一つも犯していないと説かれていることは御出家の身としては当然のことに思われるが、あえてここに述べられたのは、大聖人御在世時代には、出家僧でありながら、世間上の罪を犯す者が数多くいたからに相違ない。そのことは次の「末代の法師には・とがうすき身」という御文で、大聖人御自身が、末代の出家僧としては過ちの少ない身であるといわれていることにも、うかがわれる。
その大聖人が、身延の山中での御生活を余議なくされているのは、爾前権教の仏教宗派が信仰されている時代に、実教たる法華経を弘通して、日本国中の上下万民に憎まれたためであるといわれており、ここでも、「時」の問題が関連していると拝することができよう。
「文をこのむ王に武のすてられ・いろをこのむ人に正直物のにくまるるがごとく」と仰せのように、国王が文を好む時には武は遠ざけられ、また、色好みの者には正直者は憎まれることを例とされて、大聖人御自身、念仏・禅・真言・律という権教の四宗を人々が信ずる時代に、果敢に法華経の弘通をなされたために、王臣万民に憎まれて、結局、身延の山中に住む身となられたのである。
このことは、一面から見れば、大聖人が「時」にさからっているようであるが、大集経や法華経における釈尊の予言からいって、実教である法華経こそが末法適時の教えであることは明らかである。末法の衆生は法華経による以外救われないのである。にもかかわらず、当時の日本国の衆生は、かたくなに権教に執着して、末法の御本仏・日蓮大聖人の獅子吼に耳を貸そうとしなかった。そればかりか、二度にわたって流罪に処し、その他、さまざまな迫害をもってこれに応えたのである。したがって、本当の意味で〝時〟を知ることができなかったのは、当時の日本国の上下万人であることを知らなければならない。
一日本国という狭い世界でみれば大聖人は〝時〟に外れているようであるが、仏法の広大なリズムのうえでは大聖人こそ〝時〟にかなっておられるのである。ゆえに大聖人は、別の御書で御自身の弘法の正しさを教・機・時・国・教法流布の先後の五綱に照らして示されるのである。
最後に身延山中での御生活の厳しさを述べられ、時宣を得た上野殿の御供養をたたえ感謝されている。
「五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし……食たへて命すでに・をはりなんとす」と記されているように、十二月末といえば冬の厳しい最中であり、交通も途絶して、食物も乏しくなっていたであろう。
そうした時に、白米一駄を御供養してきた南条時光に対して「あわれたうとく・めでたき御心かな、釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか」と、その信心を賛嘆され、そうした時光の信心に必ず、御本尊の加護があると述べられて、本抄を結ばれている。