大夫志殿御返事(付法蔵列記の事)

 小袖一つ、直垂三具・同じく腰三具等云々。小袖は七貫、直垂ならびに腰は十貫、已上十七貫文に当たれり。
 夫れ以んみれば、天台大師の御位を章安大師顕して云わく、止観の第一に序の文を引いて云わく「安禅として化す。位五品に居す。故に経に云わく『四百万億那由他の国の人に施すに、一々に皆七宝を与え、また化して六通を得しむるすら、初随喜の人にしかざること百千万倍なり』と。いわんや五品をや。文に云わく『即ち如来の使いにして、如来に遣わされて、如来の事を行ず』と」等云々。伝教大師、天台大師を釈して云わく「今、吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること、群に特秀し唐に独歩す」云々。また云わく「明らかに知んぬ、如来の使いなり。讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」云々。
 如来はしばらくこれを置く。滅後の一日より正像末二千二百余年が間、仏の御使い二十七人なり。いわゆる、第一は大迦葉、第二は阿難、第三は末田地、第四は商那和修、第五は毱多、第六は提多迦、第七は弥遮迦、第八は仏駄難提、第九は仏駄密多、第十は脇比丘、第十一は富那奢、第十二は馬鳴、第十三は毘羅、第十四は竜樹、第十五は提婆、第十六は羅睺、第十七は僧佉難提、第十八は僧佉耶奢、第十九は鳩摩羅駄、第二十は闍夜那、第二十一は盤駄、第二十二は摩奴羅、第二十三は鶴勒夜奢、第二十四は師子尊者。この二十四人は金口の記するところにして付法蔵経に載す。ただし、小乗・権大乗経の御使いなり。いまだ法華経の御使いにはあらず。

 

現代語訳

小袖一つ、直垂と袴の上下腰三具等たしかに受けとりました。小袖は金子七貫文、直垂と袴の三具は十貫文であるから、以上合わせて十七貫文に相当するものです。

よくよく考えてみるに、天台大師の位を章安大師が顕わしていうには「止観第一に序文を引いていわく『天台大師は安祥として禅定に入って遷化された。その位は法華経分別功徳品に説かれている五品の位に居られる。故に法華経分別功徳品には、四百万億那由佗の国の人に施すのに、一人一人に皆七宝を与え、またこれを教化して六神通を得せしめるとしても、なお未だ五品中第一の初隨喜の人には及ばないこと百千万倍である。况んや五品の位に達している人に及ぶわけがないと。また法華経法師品には、即ち如来の使いである。如来に遣わされて、如来の事を行ずるのである』」といっている。

伝教大師は天台大師について「今、我が天台大師は、法華経を説き、法華経を釈し、特に群を抜きんでて、中国中に独歩して並ぶ者がない」と。又いわく「天台大師が如来の使いであることは明らかに知ることができる。讃めたたえる者は須弥山の如き大いなる福を積み、謗る者は無間地獄に堕ちる罪を得る」といっている。このことはしばらくおく。

仏滅後の第一日から正像二千余年の間に、仏の御使いは二十四人である。いわゆる第一は大迦葉・第二は阿難・第三は末田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者である。この二十四人は釈尊の記すところの「付法蔵経」に載せられている。ただし、これらの人々は小乗経や権大乗経を弘める御使いであって、いまだ法華経を弘める御使いではない。

 

語句の解説

直垂

武士の服装の一種。直垂は平安時代以来文献に出ているが、それは夜着の類で、これを衣服として着たのは武士であった。直垂は、同色同質の上衣と下衣とからなっていて、合わせて一具とした。

 

腰三具

袴のひも、すなわち白絹のひもを袴の腰というが、ここでは直垂の下衣すなわち袴をさしているとも考えられる。したがって「直垂三具、同腰三具」で直垂と袴の上衣・下衣の三そろいという意味になる。

 

初随喜

法華経修行の最初の位をいう。四信五品のうちの、五品の最初の位。法を聞いて、ただちに歓喜の心をおこすの意。一念信解、一念随喜ともいう。

 

第一は大迦葉

迦葉尊者、摩訶迦葉ともいう。摩訶は大の意。釈迦十大弟子の一人で頭陀第一と称せられ頭陀修行に秀でていた。阿難と共に小乗の釈尊の脇士で、仏滅後二十年間、小乗教を弘通した。

 

第二は阿難

詳しくは阿難陀。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。

 

第三は末田地

阿難から法を受けて、師の滅後加湿弥羅国に行って正法を弘めた。

 

第四は商那和修

法を阿難から受けて弘法に努めた。商那とは麻衣、または草衣と訳し、麻でつくられた僧衣のことと思われる。過去世に弊悪な衣を着た辟支仏を看病し、商那衣を供養した。この因行により、母胎より一生商那衣を着たままであったという。

 

第五は毱多

優波毱多のこと。商那和修に師事して法蔵を付せられた。阿育王を化導し八万四千の塔を建てて供養せしめた。弘法が盛んであったので仏滅後の第一人者と尊敬された。

 

第六は提多迦

優波毱多を師として、行解大いに努め阿羅漢果を得、三明六通を備えて教えを弘めたという。

 

第七は弥遮迦

正法の初めの五百年の間に世に出た中インドの人。初め八千の仙人の導師であって多聞博才で弁舌に勝れていた。提多迦の教化で仏法に帰依し、その後、付法を受けて大いに仏法の宣揚に努めた。

 

第八は仏駄難提

北インドの迦摩羅国の人。弥遮迦の教化で出家し、たちまち声聞の四果を得たという。のち、付法を受けて内心に大乗を奉じ外に小乗教をもって広く時の人々を導いた。

 

第九は仏駄密多

仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその大本を倒そうとして赤幡(あかはた)を持って王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。

 

第十は脇比丘

梵語パールシュバ(Pārśva)、訳して脇である。脇羅漢、脇尊者ともいう。迦弐志加王の命を受けて仏典の第四回結集を行なったといわれる。「大毘婆沙論」の編纂に中心的役割を果たしたとされ、論書中にその所説が記されている。大唐西域記には八十歳にして出家したとあり、高年齢で仏門に入り、誓いをたてて苦行を修し、脇をもって地に臥すことがなかったので、人は尊称して脇尊者と号した。即ち西域記に「城中の少年、すなわち之を誚りていわく、愚夫の朽老よ、一に何ぞ浅智なるや、それ出家の者に二業あり。一にすなわち定を習い、二にすなわち経を誦す。しかも今は衰老して進取するところなし。濫りに清流に迹し、いたずらに飽足を知るのみと。時に脇尊者はもろもろの譏議を聞き、因って時人に謝し、しかもみずから誓っていわく、われもし三蔵の理に通ぜず、三界の欲を断ぜず、六神通を得て八解脱を具するにあらざれば、ついに脇をもって席に至さずと。それより後は唯々日も足らず、経行し宴坐し住立し思惟して、昼はすなわち理教を研習し、夜はすなわち静慮に神を凝す。三歳を経歴して、学は三蔵に通じ、三界の欲を断ちて、三明の智を得たり。時人敬仰して因って脇尊者と号せり」とある。

 

第十一は富那奢

富那夜奢ともいう。中インドの華氏国の人。脇比丘から法を受け、波羅奈国に行化して馬鳴尊者を化導した。

 

第十二は馬鳴

仏滅後600年ごろに出現して、大いに大乗教を弘通した正法時代の正師。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。中インド華氏城で民衆を教化していたとき、北インドの迦弐志加王が中インドを征服し、和議の結果、華氏王に報償金九億を求めた。そこで華氏王は、報償金がわりに馬鳴と仏鉢と一つの慈心鶏をもって各三億にあて、迦弐志加王はこの申し出を納受した。こうして馬鳴は北インドに赴むき、迦弐志加王の保護のもと、おおいに仏法を弘め民衆から尊敬された。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」一巻、「大荘厳論」15巻等がある。

 

第十三は毘羅毘羅尊者

詳しくは迦毘摩羅という。摩竭陀国の人で、はじめ外道であり三千の弟子をもっていたとき、神通力を用いて馬鳴を陥れようとして、かえって論破されて弟子となった。馬鳴から滅後の付法を受け、南インドさらに西インド一帯を化導し、法を竜樹に付した。著書には「無我論」一百偈があり、その外道を破折している様子は、金剛石がいっさいのものを破るようであるといわれたが、著書は伝わっていない。

 

第十四は竜樹

仏滅後700年ごろ、南インドに出現して、大乗の教義を大いに弘めた大論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に、「十二門論」1巻。「十住毘婆沙論」17巻。「中観論」4巻等がある。

 

第十五は提婆

提婆菩薩、迦那提婆のこと。南インドの婆羅門の出である。提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に施したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家し諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうとして、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じて提婆に危害を加えた。しかし提婆は命尽きる前に、かえってその加害者を救ったという。

 

第十六は羅睺

インドの迦毘羅国の人で浄徳長者の子。生来聡明であった。提婆菩薩について出家し、大いに正法を弘めた。

 

第十七は僧佉難提

訳して衆河という。室羅閥城の宝荘厳王の子で、法を羅睺より受け、化導が終わってから法を僧佉耶奢に伝えた。

 

第十八は僧佉耶奢

訳して衆称という。摩竭陀(まがだ)国の人。仏法の正統を伝えて教化盛んであった。滅する前に法を鳩摩羅駄に伝えた。

 

第十九は鳩摩羅駄

訳して童受という。出家後、若くしてことごとく師の説法を領解し、頑愚な一国を化導したが、全部の人が信受しなかったので、自分の前を鉄馬万騎をよぎらせ一見しただけで間違いなく人名、馬色、衣服の姿を説明したので、人々は全部信伏したという。多くの書を著わして各国を遊化した。

 

第二十は闍夜那

鳩摩羅駄の弟子で、盛んに正法を弘通した。

 

第二十一は盤駄

婆修盤駄のこと。博識で、智慧勝れ、弁舌の才に富んでいて、広く衆生を救った。

 

第二十二は摩奴羅

インドの那提国王の子で、南インドで正法を弘めた。

 

第二十三は鶴勒夜奢

鶴勒夜那ともいい、略して鶴勒といった。インドの婆羅門の家に生まれた。出家し、摩奴羅に会って法を受け、中インドで仏法を弘めた。

 

第二十四は師子尊者

師子または師子比丘といわれる。最後の伝灯者である。中インドに生まれて鶴勒夜奢から法を受けた。のちに罽賓国に遊化して衆生を化導し仏法を大いに宣揚した。この国の二人の外道がこれを嫉んで、相謀って乱を起こし、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日ののちに命が終わったという。

 

付法蔵経

仏滅後、正法千年間に、仏の付嘱を受けて仏法を弘めた付法蔵の24人の因縁伝が記されている。6巻より成り、吉迦夜と曇曜の共訳がある。

講義

本抄では仏の使いはだれかを論じられ、天台大師によせて説かれている。

まず、仏の使いについて、天台が仏の使いであると述べられたあと、付法蔵の二十四人をあげて検討されている。これらの人々は、たしかに、仏の予言通りに出現して時にかなった法を弘め、衆生を救ったのであった。しかし、これらの人々は正法の前五百年においては小乗教、後五百年においては権大乗教を弘めたのであって、法華経を弘めてはいない。竜樹なども一念三千の法門がすばらしいことは知っていたが、それを外に向かって説くことはなかった。したがって、この付法蔵の二十四人は法華経の使いとはいえない。

法華経法師品第十にいわく「若し是の善男子・善女人は、我が滅度の後、能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」と。すなわち、法華経を説く人が仏の使いであるとの意である。しからば、付法蔵の二十四人は仏の使いとはいいがたい。法華経を宣揚した天台が、仏の使いであるということができよう。

それでは、仏の使いとして天台大師が果たしたものはなにか。それは、法華経が唯一最高の哲理であることを顕掦し、もって末法の御本仏日蓮大聖人御出現の準備をしたのである。

日蓮大聖人もまた、御自身を仏の使いと断言されている。御義口伝には「法華の行者は如来の使に来れり、如来とは釈迦・如来事とは南無妙法蓮華経なり。如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり」(0736:第三如来所遣行如来事の事)と。だが、日蓮大聖人を仏の使いといっても、再往、この仏とは、久遠元初の自受用身如来のことである。日蓮大聖人を、久遠元初の自受用身の再誕として、末法の民衆を救済されることが、仏の使いの真意である。この文に「如来事とは南無妙法蓮華経」また「如来とは十界三千の衆生の事」とあることをもって、如来とは、色相荘厳の釈迦仏ではないと知るべきである。

しかして、われらは、末法の御本仏日蓮大聖人の使いである。およそ使いとは、仏の法、仏の遺命をそのまま果たすのが使いである。仏の法とは、御本尊であり、仏の遺命とは、広宣流布のことである。

されば、われらは、全人類の幸福をもたらす、地涌の使者であり、この使者をば、どんなにか全民衆は渇仰していたことであろう。破壊と殺戮の魔の使者の横行するなかに、真実の仏の使者として戦うわれらの責務に奮い立つべきであると思う。

 

現在の四信・滅後の五品

 

天台が五品の位に居しているというのは、どういうことであろうか。法華経分別功徳品第十七には、仏の在世及び滅後において、法華経を修行する者の功徳を校量するのに、四段階の信心状態と、五種の品に分けている。これが四信五品である。四信は釈尊在世の行者の位であり、五品は滅後の行者の修行の位である。ここでは現在の四信・滅後の五品とはどういうものか、またわれわれにおいては、なにが肝要かを考えてみたい。

現在の四信とは①一念信解②略解言趣③広為他説④深信観成の四つである。

一念信解とは、法華経で釈尊が発迹顕本し、五百塵点劫の昔から三身常住の仏であることを明かしたのを聞いて、ただ一念に信解する、瞬間の生命の働きをいう。

略解言趣とは、一念の信心が進んで、教えの内容をほぼ理解するのをいう。

広為他説とは、教えの内容がわかったことにより、心に歓喜を生じて、広く他のために説くことをいう。

深信観成とは、深く信心が透徹して、仏と同じ境涯を得ていくようになることである。

次に、滅後の五品とは①初隨喜品 ②読誦品 ③説法品 ④兼行六度品 ⑤正行六度品である。

初隨喜品とは法を聞いて隨喜の心を起こすことである。読誦品とは経典を読誦すること、説法品とは他人に向かって法を説くことである。兼行六度品とは自他ともに救う六度の修行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を心がけることであり、正行六度品とは、まさしく、この六度の修行を行ずることである。

すなわち天台は、法を聞いて隨喜し、読誦し、説法し、六度を行ずるよう心がけ、六度を行じたのであって、この故に仏の使いであるというのである。

さて、日蓮大聖人はこの現在の四信・滅後の五品について、次のように説かれている。

四信五品抄にいわく「分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要・在世・滅後の亀鏡なり。荊谿の云く『一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり』と云云、其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり」(0338:08)と。また御義口伝にいわく「一念信解の信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり、信の一字は名字即の位なり仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり、信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり此の事理の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり、此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有る可からざるなり、信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(0760:第一其有衆生聞仏寿命長遠如是乃至能生一念信解所得功徳無有限量の事)と。すなわち、天台仏法においては、一念信解から略解言趣、さらに広為他説、深信観成と登り、滅後の五品についても、初隨喜から読誦、説法、そして兼行六度、正行六度と段階を踏んでいくわけだが、大聖人の仏法においては、これらの段階を踏むことは必要ないのである。すなわち四信のなかの最初の一念信解、五品の最初である初隨喜品が大切であると説かれているのである。

これらの一念信解、初隨喜品が他に比べ重要であるからとか、最初の出発だから重要だというのではない。一念信解のなかに四信が全て包含され、初隨喜品のなかに、すでに正行六度にまでいたる五品が摂入されていることを示されているのである。

日寬上人の三重秘伝抄に「三惑を断ずるを名づけて成仏と為す」とあるように、成仏とは三惑を断ずることである。この三惑のなかで最も大きな、最後の惑は中道障無明の惑である。この無明惑について、円教では四十二品を立てるが、そのうちの最後を元品の無明という。これを断破するのは信の一字であり、妙法に値遇した隨喜の一念なのである。したがって、他の三信、四品の修行をこと改めて立てることは、全く必要ないのである。これらの段階を、一つ一つ踏んで修行していくことを必要とすることを説いているのが天台の仏法であり、一念信解、初隨喜品にいっさいを含むと説いているのが大聖人の仏法である。

すなわち、大聖人が一念信解、初隨喜品を末法の衆生に教えられたのは、信心の要諦を明かされるためであったといえよう。

今ここで、四信五品を大聖人の仏法を信ずる者の立場にあてはめて考えてみよう。

まず一念信解とは御本尊を、ただ一念に直ちに信じ奉ることである。略解言趣とは大聖人の仏法を学び、その偉大さをほぼ知ることにあたるといえよう。広為他説とは折伏である。そして深信観成とは御本尊への絶対の確信であると共に、御本尊即大聖人と観じ、わが身のなかに、その仏界の生命を湧現していくことであるといえる。しかして、これらは御本尊を信ずる一念より発することは明らかであろう。

また五品についていえば、初隨喜品とは御本尊におあいして歓喜することである。読誦品とは御本尊に向かって勤行・唱題すること、説法品とは折伏、兼行六度品および正行六度品とは、まさしくこれらを行じ、立派な人格を備えている姿ともいえよう。もちろんここにおいても、これらの段階を経ることなく、生命の奥底においては、初隨喜品の瞬間に全てが含まれるのである。

四品五品抄にいわく「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり」(0340:12)と。ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることこそ、末法の仏道修行の要諦であり、これ以外に修行を求める必要もなければ、また、ありえないのである。

最後に、一念信解と初隨喜品の関係について考えてみよう。

御本尊を信ずるとは、一点の疑いもさしはさまないことである。隨喜とは表面的に隨喜の姿を見せることではない。

御本尊の偉大さに歓喜することは、御本尊を信ずる故である。御本尊を信ぜずして歓喜の生命は起こり得ない。御本尊を信ずることによって、師子王のごとき偉大な生命力が湧現する。これが隨喜であり、すなわち信のなかに隨喜を含むのである。すなわち、隨喜とは信心であり、信とは隨喜である。

かように考えれば、一念信解といい、初隨喜品といい、二にして二にあらず、全く等しいことがわかる。われわれの仏道修行においても、この信、そして隨喜の心を瞬時も失ってはならない。

 

此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す、但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず

 

付法蔵の二十四人は、釈尊の付嘱をうけて正法時代に出現し、小乗・権大乗を弘めた人々である。大集経によれば、正法の前半は解脱堅固であり、後半の五百年は禅定堅固である。解脱堅固の時には小乗、禅定堅固の時には権大乗が衆生の機根にかなった教えであり、付法蔵の二十四人は、時にかなった教えを弘通したのである。

仏の使いは、必ずその付嘱の法を弘通する。もし付嘱をうけていなければ、法を弘めることはないのである。たとえば迦葉・阿難が大乗を弘めなかった理由を曾谷入道殿許御書には「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028:16)と、仏から付嘱のない場合は、たとえ正法を知っていても弘めないことが明らかにされている。竜樹・天親が法華経を弘めなかったのも、天台・伝教が下種仏法を弘めなかったのも同じ理由からである。

さて、付法蔵二十四人は、真実の仏の使いではないと仰せになっている。それはなぜだろうか。

それは真実の仏の使いとは、法華経を弘通する人でなければならない故である。釈尊の出世の本懐はなにか。それは法華経を説くことにあった。爾前の教えは、法華真実の教えを説くための権の教えだったのである。その故に、法華経を弘めなければ、仏の真実の使いではないのである。

付法蔵の二十四人が小乗あるいは権大乗をひろめて、当時の衆生を救ったといっても、教行証御書等によれば、在世に法華経に縁を結びながら、機根が熟していないため、正法時代に生まれてきて、小乗や権大乗を持って法華真実の教えを悟って得道していったのである。あくまでも正意は法華経にあるのである。

したがって、付法蔵の二十四人は、一往、釈尊から付嘱をうけて法を弘めた人達ではあるが、再往からいえば法華経の使いではない故に、本抄の論議では、はずしておられるのである。

タイトルとURLをコピーしました