曽谷二郎入道殿御返事 第一章(法華経の文を引き「其人」を釈す)

    日蓮
 去ぬる七月十九日の消息、同三十日到来す。
 世間のことは、しばらくこれを置く。専ら仏法に逆らうこと、法華経の第二に云わく「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」等云々。
 問うて云わく、「その人」とは、何らの人を指すや。
 答えて云わく、次上に云わく「ただ我一人のみ、能く救護をなす。また教詔すといえども、信受せず」。また云わく「もし人信ぜずして」。また云わく「あるいはまた顰蹙して」。また云わく「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」。また第五に云わく「疑いを生じて信ぜずんば、即ち当に悪道に堕つべし」。第八に云わく「もし人有ってこれを軽毀して『汝は狂人なるのみ。空しくこの行を作して、終に獲るところなからん』と言わば」等云々。
 「その人」とは、これらの人々を指すなり。彼の震旦国の天台大師は、南北の十師等を指すなり。この日本国の伝教大師は、六宗の人々と定めたるなり。
今、日蓮は、弘法・慈覚・智証等の三大師ならびに三階・道綽・善導等を指して、「その人」と云うなり。

 

現代語訳

先月の七月十九日の消息が、同月の三十日に到着した。

世間の事はしばらく置くとする。ただ仏法に逆らうことについていえば、法華経の第二の巻譬喩品第三には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と説かれている。

問うていう。法華経で説かれる「其の人」とはどのような人をさすのであろうか。

答えて云う。その経文の少し前に「唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も、而も信受せず」と説かれ、また「若し人信ぜずして」と説かれ、また「或は復顰蹙して」と説かれ、また「経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」と説かれている。また法華経第五の巻従地湧出品第十五には「疑を生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし」と説かれている。また、法華経第八の巻の普賢菩薩勘発品第二十八には、「若し人有って之を軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ。空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと」等と説かれている。譬喩品の「其の人」とは、これらの経文に説かれている人々をさすのである。中国では天台大師は南北の十人の学匠をさし、日本国では伝教大師は南都六宗の人々をさして譬喩品の「其の人」に当たるとしている。

いま日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師並びに、三階禅師信行・道綽・善導等を指して「其の人」といっているのである。

 

語句の解説

阿鼻獄

阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

顰蹙

顔をしかめて憎むこと。

 

憎嫉

憎み嫉むこと。善法や正法を弘通する人を憎み、嫉むこと。

 

結恨

恨みを結ぶこと。結んで解けないようなうらみを生ずること。

 

震旦国

中国の歴史的呼称。梵名チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。真旦・真丹とも書く。中国人の住処の意。チーナ(Cīna)とは秦の音写。スターナ(sthān)とは地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。おもに仏典の中に用いられた。

 

天台大師

538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。

【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

南北十師

中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三師・北に七師の合わせて十師に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

六宗

南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。

 

六宗の人人

南都六宗の高僧。善議(三論・空宗)・勝猷(華厳)・奉基(法相)・寵忍(不明)・賢玉(法相)・安福(不明)・勤操(三論)・修円(法相)・慈誥(不明)・玄耀(不明)・歳光(不明)・道証(法相)・光証(不明)・観敏(三論)等。

 

弘法

07740835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。

 

慈覚

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。

 

智証

08140891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(08911078歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。

 

三階

05400597)中国・隋の時代の僧で、名を信行といった。天台とほぼ同時代の人。三階の仏法を立てたのでこの名がある。8歳で出家し、のちに相州の法蔵寺で具足戒を受けた。隋の開皇のはじめ真寂寺で「三階仏法」4巻をはじめ多くの書をあらわした。三階仏法を主張して在家仏法のはじめとなった。隋の開皇14年(059755歳で死んだ。三階教は一時は長安、大興の都を中心にひろまったが、隋の文帝、唐代の則天皇后、玄宗などによって圧迫され、やがて亡びてしまった。

 

道綽

05620645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。

 

善導

06130681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

講義

本抄は、弘安4年(1281)閏71日、日蓮大聖人が60歳の御時、身延から千葉の曾谷二郎入道教信にあてられた御抄である。当時は陰歴を用いていて、平年を354日としていたため、一年に平均して11日のずれがある。そのため適宣に閏月を設けて調整していた。弘安4年閏7月はその調整月である。

御真筆は残っていないが、日興上人の御写本が北山本門寺にある。

本抄は曾谷教信からの書状に対する返書である。弘安4年といえば、弘安の役があった年であり、文永11年(1274)の文永の役に続いて、蒙古は再び日本侵攻を企て、5月には東路軍5万、翌6月には江南軍10万の大軍を派遣し、壱岐・対馬に攻め寄せた、曾谷教信の手紙は719日のものであるから、蒙古軍と日本軍の攻防戦の最中である。教信の手紙は、この未曾有の国難に触れられたものであったろう。本抄の末尾に「今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状已前に去る正嘉・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり」と仰せになっていることからも、それは推察できる。

しかし、蒙古襲来の原因等については、曾谷教信はよく存知していたはずである。ただ、その先の御文のあとの「有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか」との仰せからすると、いよいよ戦況が差し迫り、曾谷教信が戦場に赴かなければならないかもしれないという具体的な状況にあったことを報告し、身の処し方の御指南を仰いだことが考えられる。

その教信の報告に対して、大聖人はこの未曾有の国難はひとえに一国謗法のゆえであり、とくにその元凶は、弘法・慈覚・智証の三大師であると破折されている。そこから、本抄には「破三大師」との別名もある。

本抄では真言こそ一切の不幸の根源となっているとされ、念仏等は残余として扱われている。念仏の悪については、大聖人は御化導の初期に既に徹底的に破折されている。念仏の幼稚な教義に比べ、真言は邪智が巧みであるため、時期を待って佐渡以後に本格的に破折されていく、それとともに、蒙古襲来に関し、その調伏を幕府・朝廷が真言宗及び天台真言に盛んに行わせていたことから、真言に焦点を当てられたと拝察される。

内容は、最初に法華経誹謗の者は阿鼻地獄に堕ちるとの法華経の文を挙げられ、その地獄に堕ちる者は、弘法・慈覚・智証等、また道綽・善導およびその流れを汲む念仏等であり、更に、それらの教えを信じ、法華経を誹謗している日本国の一切衆生であると述べられている。日本国の一切衆生のなかには、善人もいれば悪人もいるのに、どうしてすべてを束ねて同じ業をおかしているのかとの疑難を設けられ、それに対して、小善・小悪があっても、法華経を誹謗するという大悪のまえには一切、区別がないと教えられている。そのように一国謗法をもたらした元凶は弘法・慈覚・智証の、いわゆる三大師であり、それは彼らが法華経を第二・第三とののしったゆえであると仰せられている。そして、大聖人が彼らの誤りを正しく糾弾されてもますます瞋恚の念を抱いて、大聖人を迫害し、提婆達多さえ軽罪となるほどの重罪を犯すに至っているのであり、そのゆえに未曾有の大難が起こっていることを明らかにされている。最後に曾谷教信は大聖人の檀那であり、たとえ大難に巻き込まれるようなことになったとしても、霊山浄土は疑いないと励まされている。

さて曾谷教信が719日に出した手紙は、7月30日に大聖人のもとに着いた。大聖人が返事をしたためられたのが、翌日の閏71日である。そのことから考えても、曾谷教信が世の中が騒然としていることを大聖人に報告し、身の処し方について指導を受けたのに対し、さっそく御返事を出されたことが分かる。

最初に「世間の事は且らく之を置く」と仰せになっている。これは、世間のあわただしい動き、またその予測、原因等を世間の次元で述べるのはさておくと仰せられていると考えられる。とくにあとの仰せから考えると、そのような事態に立ち至った原因を教信は尋ねたのかもしれない。

大聖人は、仏法の次元から述べると、これらの原因がはっきりしている。と仰せられている。それは「専ら仏法に逆う」ゆえである。大聖人は一往「世間の事」はさておくと仰せではあるが、世間の次元では考えられるさまざまな原因は、いずれも真実の原因ではないのであり、一国挙げての大難は、すべて仏法に逆らうことが根本原因であると仰せなのである。

大聖人は仏法に逆らうことが不幸の最大の原因であるとの文証として、法華経譬喩品第三の「其人命終入阿鼻獄」の文を引用されている。

そして、この譬喩品の文に当てはまるのはいかなる人であるかについて、問答形式を用いてその内容を釈される。まず、この譬喩品の文の前の部分を引用されている。

この文を大聖人が用いられた理由について考えるのに、長くなるが、この文をもう少し引用してみよう。「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す。復教詔すと雖も、而も信受せず(中略)又舎利弗、憍慢懈怠、我見を計る者には、此の経を説くこと莫れ。凡夫の浅識、深く五欲に著せるは、聞くとも解すること能わじ、亦為に説くこと勿れ。若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん。或は復顰蹙して、疑惑を懐かん。汝当に、此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き教典を、誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝今復聴け、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」

この文の最初の部分は、釈尊が主師親の三徳を有することを述べたところで、大聖人はそのような主師親三徳具備の仏が説いた教えを信受しようとしないことが阿鼻獄に堕ちる因であることを指摘されている。

そのあとの文は、仏が舎利弗に対して、どういう人に法を説くべきかを教示しているところである。この文は妙楽大師の法華文句記巻六下によって十四誹謗として分類されている。仏は正法を誹謗する者に説いてはならないと論じているのであり、そのなかで正法誹謗の者にはどのような罪報があるかを説いていくのである。

すなわち、

1.嬌慢  増上慢と同意。慢心、奢りたかぶって仏法をあなどること。

2.懈怠  仏道修行を怠けること。

3.計我  我見と同意。自分勝手な考え方で、仏法の教えを判断すること。

4.浅識  仏法の道理が分からないのに、求めようとしないこと。

5.著欲  欲望にとらわれられて、仏法を求めないこと。

6.不解  仏法の教えを分かろうとしないこと。

7.不信  仏法を信じないこと。

8.顰蹙  顔をしかめること。仏法を非難すること。

9.疑惑  仏法の教えを疑って、迷うこと。

10.誹謗 仏法をそしり、悪口を言うこと。

11.軽善 仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にすること。

12.憎善 仏法を信じている人を憎むこと。

13.嫉善 仏法の信者を怨嫉すること。和合僧を破る働きをすること。

14.恨善 仏法を修行する人を恨むこと。

の者の罪報は、命終して、阿鼻獄に入るというものである、と説いている。引用の文はここで終わっているが、このあとの経文は正法誹謗の者の罪報を詳細に説き、結論としてそういう者に法を説いてはならない、と舎利弗に教えているが、大聖人の引用の意はそこにあるのではなく、「7」・不信以降の文を引用され、また後の部分も省略されているのである。

大聖人はこの譬喩品の文のあと、法華経第五従地湧出品第15の文と、第八普賢菩薩勧発品第28の文を引用されている。

「願わくは仏未来の為に、演説して開解したまえ。若し此の経に於いて、疑いを生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし、願わくは解脱したまえ」

「若し後の世に於いて、是の経典を受持し、読誦せん者、(中略)若し人有って、之を軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ、空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと」。

涌出品の文は、地涌の菩薩が出現したことに対して弥勒菩薩が、いつこれらの菩薩を教化したのかと問うているところである。我々は仏の教えを信ずるが、滅後の者は疑いを生ずるであろうとし、そうすればその者達は悪道に堕ちると訴えて、仏に説法を請うのである。この文は「若し此の経に於いて疑いを生じて信ぜざる」とあるように、妙法への不信が悪道に堕ちる因であることを示している。

また勧発品の文は、ここに引用した文の前に「若し如来の滅後、後の五百歳に若し人有って、法華経を受持し、読誦せん者を見ては、応に是の念を作すえべし」とあって、末法の時代をさしていることは明らかである。そして「若し人有って之を軽毀し」の“之”とは法華経を受持・読誦する人をさしており、すなわち法華経の行者を軽毀することが阿鼻獄に堕ちる因であるとの文である。

大聖人は、これらの文を挙げて、譬喩品の「其人」であると仰せになって、末法において法華経及び法華経の行者を誹謗する者は地獄に堕ちることを御教示されている。

具体的に「其人」とはだれをさすかについて大聖人は天台大師は南三北七を、日本において伝教大師は南都六宗を、地獄に堕ちるべき「其人」と定めたと仰せられ、大聖人自身は「弘法・慈覚・智証等の三大師・並びに三階・道綽・善導等」を「其人」と仰せられている。

法華経の文からいえば「其人」はとくに邪師に限るわけではない。正法を誹謗しているすべての人に当てはまる。したがって日本一国すべての人が該当する。しかし、一国が謗法に陥った所以といえば、衆生に邪宗邪義を教えた邪師にこそある。そこで大聖人は彼らを別して「其人」として挙げられたのである。

弘法・慈覚・智証については、後に詳しく触れられるが、ここに中国の三階・道綽・善導が並び挙げられている。三階は三階教の師・真寂寺信行のことで、道綽・善導は中国浄土宗の祖である。三階教は日本では流布しなかったが、中国では一時流布した宗派である。末法においては普賢普正法を信ずべきであるとして法華経の修行を堕地獄の因とした。後に中国でも禁止された宗派である。これを邪師の代表に挙げられている理由は、その主張するところが念仏の立義の淵源となっている、とのお考えからであると思われる。撰時抄にはつぎのように仰せである。

「漢土の三階禅師の云く教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり末代のためには我がつくれる普経なり法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかどもわづかの小女の法華経をよみしにせめられて当坐には音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり、今の善導・法然等が千中無一の悪義もこれにて候なり」(0279:06

この仰せからも分かるように、信行の説は念仏の説と軌を同じくしており、後世の念仏の主張の淵源となった悪義であるとして、信行を挙げられたのであろう。

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