曽谷二郎入道殿御返事 第九章(師壇の縁を説き励ます)
曽谷二郎入道殿御返事 第九章(師壇の縁を説き励ます)
弘安4年(ʼ81)閏7月1日 60歳 曽谷教信
日蓮
爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し、何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん、恐恐謹言。
弘安四年閏七月一日 日蓮花押
曾谷二郎入道殿御返事
現代語訳
思えば貴辺と日蓮とは師檀の一分である。しかしそうではあるが、有漏の依身は国主に随うものであるがゆえに、貴辺もこの蒙古襲来の難に値おうとしているのか。
その貴辺の立場を思うと感涙を押さえることができない。いずれの代に対面をとげることができるであろうか。ただ一心に霊山浄土に往くことを期されるべきであろう。たとえ身はこの難に値つたとしても、貴辺の心は仏心と同じである。今生は修羅道に交わったとしても後生は必ず仏国に居住するであろう。恐恐謹言。
弘安四年閏七月一日 日蓮花押
曾谷二郎入道殿御返事
語句の解説
師檀
師匠と在家の弟子のこと。
有漏の依身
煩悩の所依とする凡夫の肉身のこと。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757:06)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
仏国
仏の住む国土。寂光土。
講義
最後に大聖人と曾谷教信の師檀の縁を説いて信心を励ましておられる。曾谷教信は文応元年(1260)ごろに入信とされているから、この時点ですでに20年以上の信仰を続けてきたことになる。そして、大聖人を支える檀那として重要な存在であった。
このような師檀の関係をもつ大聖人と曾谷教信であったが、教信は幕府に仕える武士の身であるから、このような国難があると、それに従わなくてはならない。
このことについて大聖人が「感涙押え難し」と仰せられているのは、国主に従わなければならない身を嘆いていた教信に対して、こうした苦しみにあうことによって、深い罪業を消滅させることができるという意からであろうと拝される。
「何れの代にか対面を遂げんや」と仰せられているのは、曾谷教信にとって、戦争に赴くより、大聖人と今生に別れるはめでもなければ、これほど残念なことはなかったであろう。
まして、この時期は大聖人御自身、この12月に著された上野殿母尼御前御返事に「今年は春より此のやまい・をこりて秋すぎ・冬にいたるまで日日にをとろへ」(1583:04)と仰せのように、体が衰弱しておられる状況であった。
同じく弘安4年(1281)10月、富木上人にあてられたお手紙で、7月ごろ幾度かお手紙をいただいたが、病気のために返事も書けなかったと仰せになっている。しかし、曾谷教信が戦地に赴くかもしれないことを知られてこの手紙をしたためられたと考えられる。
大聖人はご自身の病気のことなどおくびにも出さず、ただひたすら霊山浄土を期していくよう御指南されている。
蒙古の襲来は日本国にとって末曾有の大難である。文永の役の時、いったんは引き揚げていったものの、日本側は蒙古の強さ、恐ろしさを身にしみて知ったのである。今回の襲来を迎え撃つにあたっては、当然、死を覚悟しなければならない。「今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」との御文は、先の「此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん」と対比して仰せられたのである。一国謗法のゆえに、正法を受持していようといまいと、修羅道は免れない。
人々の修羅道はそれが因となってまた阿鼻地獄に堕さなければならない輪廻の修羅道である。しかし、正法を受持した場合は、修羅道を経ることによって宿業を断ち切り、「仏国」に生ずることができるのである。