曽谷二郎入道殿御返事 第八章(法華行者迫害の重きを示す)
弘安4年(ʼ81)閏7月1日 60歳 曽谷教信
日蓮
爰に日蓮彼の依経に無きの由を責むる間・弥よ瞋恚を懐いて是非を糺明せず唯大妄語を構えて国主・国人等を誑惑し日蓮を損ぜんと欲す衆千の難を蒙らしむるのみに非ず両度の流罪剰え頸の座に及ぶ是なり、此等の大難忍び難き事・不軽の杖木にも過ぎ将又勧持の刀杖にも越えたり、又法師品の如きは「末代に法華経を弘通せん者は如来の使なり・此の人を軽賤するの輩の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎたり」等云云、今日本国には提婆達多・大慢婆羅門等が如く無間地獄に堕つ可き罪人・国中・三千五百八十七里の間に満つる所の四十五億八万九千六百五十九人の衆生之れ有り、彼の提婆・大慢等の無極の重罪を此の日本国四十五億八万九千六百五十九人に対せば軽罪中の軽罪なり、問う其の理如何、答う彼等は悪人為りと雖も全く法華を誹謗する者には非ざるなり又提婆達多は恒河第二の人第二は一闡提なり、今日本国四十五億八万九千六百五十九人は皆恒河第一の罪人なり然れば則ち提婆が三逆罪は軽毛の如し日本国の上に挙ぐる所の人人の重罪は猶大石の如し定めて梵釈も日本国を捨て同生同名も国中の人を離れ天照太神・八幡大菩薩も争か此の国を守護せん。
去る治承等の八十一・二・三・四・五代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり、猶鷹駿と金鳥との勝負の如くなれば天子・頼朝等に勝たんこと必定なり決定なり、然りと雖も五人の大王は負け畢んぬ兎・師子王に勝ちしなり、負くるのみに非ず剰え或は蒼海に沈み或は島島に放たれ、誹謗法華未だ年歳を積まざる時・猶以て是くの如し、今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状已前に去る正嘉・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。
現代語訳
このようなときに、日蓮はかの依経に成仏の道がないことを責めたので、いよいよ瞋恚を懐いて、その是非を糺明しないで、ただ大妄語を構えて国主・国人等を誑惑して日蓮を損じようとしたのである。そして多くの難を蒙むらせただけでなく、伊豆と佐渡の二度の流罪と、あまつたえ竜の口の頚の座におよんだのがこれである。これらの大難の忍び難いことは、不軽菩薩の杖木にも過ぎ、はたまた勧持品の刀杖の難にも超えている。
また法師品第十には「末代に法華経を弘通する者は如来の使いである。この人を軽賎する者の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎている」等と説かれている。
今、日本国には提婆達多・大慢婆羅門等のように無間地獄に堕ちることになっている罪人が三千五百八十七里の国中に四百五十八万九千六百五十九人もいるのである。かの提婆・大慢等の無極の重罪もこの日本国の四百五十八万九千六百五十九人の罪に対するならば、軽罪中の軽罪である。
問うて云う。それはどうゆう道理によるのであろうか。
答えて言う。彼等は悪人であるといっても、全く法華を誹謗した者ではないのである。また、提婆達多は恒河第二の人である。第二の一闡提なのである。今、日本国の四百五十八万九千六百五十九人は皆、恒河第一の罪人である。したがって、提婆が三逆罪は軽毛のようなものであり、日本国の上に挙げたところの人々の重罪は大石のようなものである。梵天・帝釈も日本国を捨て、同生天・同名天も国中の人々の肩を離れることは間違いないであろう。天照太神・八幡大菩薩もどうしてこの国を守護するであろうか。
治承等の代に、八十一代・八十二代、八十三代、八十四代、八十五代の五人の大王と源頼朝・北条義時とがこの国を争った。それは天子と民との合戦であった。けだし鷹駿と金鳥との勝負のようなものであったから、天子が頼朝等に勝つことは間違いないはずであった。しかし、五人の大王は負けてしまったのである。兎が師子王に勝ったようなものである。それも、ただ負けただけではなく、あるいは蒼海に沈み、あるいは島々に流されたのであった。法華経誹謗の年月がそれほどに積もらない時ですらこのようなものであった。今度はそのときの比ではない。彼はただ国の中での災いだけであった。そのわけをあらかた考えるに、蒙古国の牒状以前に、正嘉・文永等の大地震・大彗星の瑞相を見ることによって再三奏上していたが、国主はあえて用いることをしなかった。しかし、日蓮の勘文がほぼ仏意にかなうかのゆえに、蒙古国との合戦が既に起こっている。この国の人々は今生には一同に修羅道に堕ち、後生には皆、阿鼻大城に入ること疑いないのである。
語句の解説
瞋恚
怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
誑惑
たぶらかすこと。
両度の流罪
①伊豆流罪。弘長元年(1261年)5月12日から同3年(1263年)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260年)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272年)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274年)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。
頚の座
竜口法難のこと。文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が相模国竜口(神奈川県藤沢市片瀬)で斬首刑に処せられようとした法難。発端は、大聖人との祈雨に敗れた極楽寺良観が幕府の要人や女房達にとりいって画策したことに始まる。これを受けて内管領で侍所所司でもあった平左衛門尉頼綱は武装した多数の兵を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲って大聖人を捕らえた。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。身柄は一時、北条宣時の邸に預けられたが、何の取り調べもなく深夜、竜の口の刑場に連れ出された。刑吏が大聖人の頸を斬ろうとした時、巨大な光り物が上空を横切り、武士達は驚き怖れ、刀を捨てて逃げ伏し、ついに処刑は行われなかったのである。この法難の模様については「種種御振舞御書」に詳しい。
不軽の杖木
不軽菩薩は法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
勧持の刀杖
法華経勧持品第13に「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらん」とある。
一中劫
20小劫のこと。
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
恒河第一の罪人
涅槃経に説かれる「生死の河」を渡る人々を7種類に分けたものの第一。涅槃経32ではは入水即沒・36では常没。この衆生は、生死の河に溺れて沈んでしまい、浮かび上がることができない。妙法を信ずる心がなく、正法正義に背くゆえに生死の迷いや苦しみに沈没せざるを得ない。
提婆が三逆罪
提婆達多が犯した五逆罪のうちの三つ。破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢をいう。
梵釈
大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
同生同名
倶生神のこと。人が生まれた時に倶に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行為を記して閻魔王に報告するとう同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によって倶生神を一人といい、男女の二人にするなど一様ではない。薬師瑠璃光如来本願功徳経に「諸の有情には倶生神有って、其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之れを書して、ことごとく持して琰魔法王に授与す。その時、彼の王は其の人に推問して所作を算計し、其の罪福に随って之れを処断す」とある。
天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
頼朝
(1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
義時
北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
天子
天命を受けて国に君たる人の称。古代中国では、天が民を治めるものとしたので、天に代わって国を統治する者の意。天皇のこと。
鷹駿
優れた鷹のこと。
金鳥
雉のこと。金色の羽毛があることから、この名がある。
蒼海に沈み
第81代安徳天皇が壇ノ浦の合戦で源義経の軍に破れ、海中に沈んだこと。
島島に放たれ
承久の乱で敗北した朝廷方は第82代後鳥羽天皇は隠岐・83代土御門天皇は土佐・84代順徳天皇は佐渡に流罪されたこと。
蒙古
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
牒状
まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。
再三之を奏す
三度の高名のこと。「撰時抄」に説かれる。日蓮大聖人が3度の国主諫暁をされた際に難が起きることを予言され、それが後に現実のものとなり、大聖人の正しさが示されたこと。①文応元年(1260年)7月16日、時の最高権力者・北条時頼に「立正安国論」を提出し、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言したこと。②文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難において不当に捕縛された際、平左衛門尉頼綱を厳しく諫め、同じく二難を予言したこと。③文永11年(1274年)4月8日、佐渡流罪を赦免されて鎌倉に帰られ、幕府要人から諮問を受けた際に再度、頼綱を諫め、蒙古襲来が近いと予言したこと。
勘文
勘え文。平安時代には、朝廷の諮問に対して博士・儒家・史官・神祇官等が自分の考えを書いて奉った意見書を勘文といったことからはじまる。大聖人は「立正安国論」を勘文の書として、時の執権に提出されている。
今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
修羅道
阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。
後生
未来世。後の世のこと。また未来世に生を受けること。三世のひとつ。