三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第三章(権実の相違を夢と寤に譬える)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第三章(権実の相違を夢と寤に譬える)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

又十界の中には前の九法界なり又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、

 

現代語訳

また十界のなかでは、仏界に対して、まえの九法界である。また夢と寤のなかでは、夢のなかの善悪を説いた教えである。

夢を権といい、寤を実という。夢は仮にあるもので、本体や性分はないので、これを名づけて権というのである。寤の心は常住であり不変の体であるから、これを名づけて実とするのである。

四十二年のもろもろの経教は生死の夢のなかの善悪の事を説いているので権教というのである。夢を見ている衆生を誘い導き、目を覚まさせて法華経の寤の世界に入れようと思われて、その支度方便として説かれた経教であるので、権教というのである。

このことから、権と実との文字の読み方を明らかにして、その違いを心得ていくべきである。

権という字は権と読む。権であることの手本は夢を根本とするのでる。また実という字は実と読む。実事の手本は寤である。生死の夢は権であって本体や性分がないので権であることの手本なのである。ゆえに妄想というのである。本覚の寤は実であって生滅を離れた心であるから真実の手本である。ゆえに実相というのである。

このように、権実の二字の意味を明らかにして一代聖教のなかの化他の権教と自行の実教との差別を知るべきである。

四教のなかでは前の三教と、五時のなかでは前の四時と、十法界のなかでは九法界とは皆、同じく夢のなかの善悪のことを説いているのであり、ゆえに権教というのである。

語句の解説

十界

十法界ともいう。凡聖迷悟の一切の世界を十種に分類したもの。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいう。「十界」の明文は経論にはないが、法華経法師功徳品第十九には「三千大千世界の下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る、其の中の内外の種種の所有る語言」として挙げられているなかに、地獄声・畜生声・餓鬼声・比丘声・比丘尼声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声などがある。また大智度論巻二十七には「四種の道あり。声聞道・辟支仏道・菩薩道・仏道なり……復六種の道あり。地獄道・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅道なり」とあり、十界の名称が出そろっていたことが分かる。これらの経釈を受けて、天台大師の法華玄義巻二上には「気類相似を取って合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり」とある。十を通じて法界と名づける理由について、法華玄義巻二上には「今権実を明かすとは十如是を以って十法界に約す、謂く六道四聖なり。皆法界と称することは其の意三あり。十数皆法界に依る、法界の外に更に復法なし。能所合称するが故に十法界と言うなり。二には此の十種の法は分斉同じからず、因果隔別し凡聖異あるが故に、之に加うるに界を以ってするなり。三には此の十は皆即ち法界にして一切法を摂す。一切法は地獄に趣く、是の趣過ぎず。当体即ち理にして更に所依なきが故に法界と名づく。乃至仏法界も亦復是くの如し」と釈している。 

本覚

始覚に対する語。本来そなわっている覚り。金剛三昧経では「常に一覚を以って諸の衆生を覚し、かの衆生をして皆本覚を得せしむ」と説かれている。すなわち、衆生が本来清浄な覚体であることをいっている。また馬鳴(めみょう)作と伝える大乗起信論では、本覚と始覚とは相対概念であるとし、覚らない(不覚)状態があるから始覚ということがいえるのであり、内に本来覚りの性を具えている(本覚)から、始めて覚る(始覚)ことができるとしている。これは起信論の解釈分のなかで真如門(永遠界)と生滅門(現実界)の二門を立てるなか、本覚は生滅門のなかで衆生の内在原理とされているのである。南岳大師は本覚について「中実本覚の故に、名づけて心となす。故に自性清浄心と言うなり」と、本覚を清浄心としている。妙楽大師の著書のなかでは本覚の言葉はみえないが、北宋(趙宋)代の四明智礼になると、華厳宗に影響された山外派が興るに及んでこれを破るために本覚の語を使っている。例えば金光明経玄義拾遺記巻一に「性はこれ本覚、修はこれ始覚なり。本覚は無念にして一切処に遍ず」と、法性の体を本覚とし、修行の智を始覚としている。

講義

ここでは、化他の経の内容が、十界のなかでは九法界に関するものであることを述べられ、これを夢と寤の関係にたとえられている。

まず「又十界の中には前の九法界なり」とは、十界のなかでは九界に関する法門であるということである。

このことは「故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く」との仰せに明らかである。

化他の経は、生死の夢のなかにいる衆生を目覚めさせるための方便として、仏が夢中の衆生に合わせて説かれたものであるから、化他の経自体、夢中の法門なのである。

つまり、六道の衆生を声聞・縁覚・菩薩の境界に導くことを目指したのが爾前経であるから、所詮これらは「夢中の善悪」にすぎないのである。

この夢と寤のたとえによって、〝権〟と〝実〟の内容について言及されていくのであるが、「夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり」と仰せのように、夢のなかで見る物や事柄は仮の存在にすぎず、その実体や本性はない。

ゆえに、これを〝権〟とするのであり、これに対して「寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す」と仰せのように、寤の状態とは常住・不変の心の本体が働いていることをいう。ゆえに常住不変の仏の心を明かした法華経が〝実〟となると仰せられている。

「故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う」と仰せられているように、一代五十年の説法のうち、前四十二年に説かれた経教は、迷いの生死の夢のなかにいる衆生を法華経の〝寤〟へと誘引する準備的手段である方便として説いたものであるから、〝権教〟というのである、と述べられ、このように権=かり、実=まこと、という文字の読みを解明すると、権教、実教の意義が理解できると仰せられている。

そして「故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり」と、〝かり〟であることの手本が夢であり、〝まこと〟なることの手本は寤であると仰せられている。

「故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う」と述べられ、生死の迷いが夢であり妄想であるのに対し、本覚こそ寤であり実相である、と仰せられている。

更に、以上の叙述を結んで「是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う」と、一代聖教を自行と化他とに立て分けると、実教が自行の法、権教は化他の経であり、化他の権教とは、四教(蔵・通・別・円)のうちの蔵・通・別の三教にあたり、五時(華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時)のなかでは前四時に説かれた経教であり、十法界のなかでは九法界の事象である、と要約されている。

 

夢と寤との中には夢中の善悪なり

 

夢が十法界のなかの九法界で、化他の権にあたるのに対し、寤は仏界で、自行の実にあたることは、御文に明白であるが、「夢中の善悪」と仰せのように、九界のなかに善悪が立て分けられるのである。

例えば、天台大師の法華玄義巻二上においては、十法界を「一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏」と分類している例がある。

その場合、六道のなかの地獄・餓鬼・畜生を三悪道として〝悪〟とし、修羅・人・天を〝善〟とすることもあれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅までを四悪趣とし、人・天を〝善〟とすることもある。

〝悪〟とは苦悩の境界をいい、〝善〟とは苦しみのない境界をいうので、このように立て分けられるのである。

根本的には九界はすべて苦を免れないので〝悪〟であり、仏界のみが真実の〝善〟となるのであるが、ここでは、九界のなかに善悪があることを述べられているのである。

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