三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第八章(自行の法について明かす)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第八章(自行の法について明かす)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり、是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し、之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり、但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり、譬えば衆流を大海に納むるが如きなり仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周徧して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず、仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり、十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり、夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、 

 

現代語訳

第二の自行の法とは、八年間の法華経の説のことである。この経は仏の寤の本心を説かれた経である。ただ衆生が夢のなかの心地に思い慣れているので、その夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えたのである。したがって、言葉は夢のなかの言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えているのである。法華経の文とその釈の本意はこういうことであり、このことを明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのである。

ただし、この化他のために説いた夢のなかの法門も寤の仏の本心に備わった徳用の法門であり、その夢のなかの教えをとって寤の本心に収めるのであるから、四十二年の夢のなかの化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのである。これを法華経の開会というのである。たとえば衆流を大海に納めるようなものである。

仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心のなかに摂めるゆえに、心の外には法はないのである。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来である。このことを法華経方便品第二には「如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)」と説かれている。これを三如是というのである。

この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのである。このゆえに我が身は本覚三身如来の身体なのである。法界にあまねくいきわたり、しかもそれは一仏の徳用であるから一切の法は皆これ仏法なのである、と釈尊が説かれたとき、その座に連なっていた、もろもろの四衆・八部・畜生・外道等は一人も漏れずに、皆ことごとく妄想の僻目・僻思いが、たちどころに散り止んで本覚の寤に還って、皆仏道を成じたのである。

仏は寤の人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。

十方の仏土は、まちまちに分かれているけれども、法は通じて一乗の法であり、方便の教えがないゆえに無分別法である。十界の衆生はそれぞれ異なっているけれども、実相の理は一つであるゆえに無分別である。百界千如・三千世間の法門は異なっているけれども、十界互具するゆえに無分別である。夢と寤と虚と実と各々別々で異なっていても、一心のなかの法であるゆえに無分別である。過去と未来と現在とは三つであるけれども、一念の心のなかの理なので無分別である。

語句の解説

心法妙

諸法の心法(心・心のはたらきの意)が妙であること。天台大師の説く迹門の十妙のうちの三妙法(衆生法妙・仏法妙・心法妙)の一つ。法華玄義巻二上には「心法妙とは安楽行の中の如し。『其の心を修摂して一切法を観ずるに、動ぜず退せず』と」とある。なお仏法妙は、同品に「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と、衆生法妙は方便品第二に「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめん」等と、あるのがこれである。

 

仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むる

衆生が本覚の如来とあらわれる時、仏の妙なる心法も衆生の妙なる心法もともに衆生の己心に収まることをいう。

講義

ここからは〝自行の法〟について説かれる。

まず「自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり」と、法華経こそ、仏の悟った真理をそのまま説き明かした随自意の経、すなわち自行の法であることを示されている。ただし、この法華経も言葉は九界の衆生の語によっていることを「是の経は寤の本心を説き給う唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借りて寤の本心を訓る故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ法華経の文と釈との意此くの如し、之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり」と述べられている。

法華経は仏の悟りの真理、つまり寤の本心をそのまま説き明かした経であるが、いうまでもなく、九界の衆生に対して説かれたことは論をまたない。

したがって、法華経の場合も九界の衆生の夢中の言葉を使って説いているが、その意は寤の本心を教えているのである。つまり、法華経の経文とこれを釈した釈文とは、九界の衆生の言葉を使用していても、その意は仏の悟りの本心を説いたものであると明確に把握していかなければ「経の文と釈の文とに必ず迷う可きなり」という結果となるのである。

逆に、爾前権教も法華経の悟りのうえから設けられた方便の教えであるから、爾前の一切経も妙法蓮華経のなかにおさまり、その体内の一分となる。このことを「但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば夢中の教を取つて寤の心に摂むるが故に四十二年の夢中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり」と述べられている。

これまで、一切経を化他の経と自行の法との二つに立て分けて論じられてきたのであるが、ここでは〝法華経の開会〟によって、化他の法門も寤の本心(悟り)に具わっている徳用=すなわち〝働き〟=からあらわれ出た法門であるゆえに、結局、四十二年の化他方便の法門は妙法蓮華経の寤の本心に摂せられる、と仰せられ、これを「衆流を大海に納むるが如きなり」とたとえられているのである。

更に次の「仏の心法妙・衆生の心法妙と此の二妙を取つて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり」との御文は、化他夢中の法門が自行の寤の本心である妙法蓮華経に摂せられる、という法華経の開会を心法に約して論じられたのである。

すなわち、前文においては、法門の立場から開会を論じられ、ここでは、心法の立場から展開されているのである。

〝仏の心法妙〟は仏界、〝衆生の心法妙〟は九界にあたり、この二妙が〝己心〟に摂せられるので「心の外に法無きなり」と結論されている。つまり、九界と仏界ともに具えた十界具足・一念三千の法体が己心即妙法蓮華経なのである。

この「心」を、己心と心性と心体の三つの側面からとらえて、それが本覚の三身如来であると説かれたのが法華経であるとして「是を経に説いて云く『如是相・応身如来、如是性・報身如来、如是体・法身如来』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」と仰せられている。

「己心」とは現実にあらわれている自分の心で「如是相・応身如来」にあたり、「心性」はその自分の生命の性分で「如是性・報身如来」にあたる。そして「心体」が自分の生命の体で「如是体・法身如来」にあたると拝される。

しかも、この三如是の本覚の如来は「十方法界を身体と為し」(法身如来)「十方法界を心性と為し」(報身如来)「十方法界を相好と為す」(応身如来)のであるゆえに、法界のことごとくがこの一仏の体内に収まって「一切の法は皆是仏法」となるのである。

この法理を説き明かしているのが法華経方便品第二の〝諸法実相・十如是〟の説法であり、この説法により、一切衆生の成仏が可能になったことを「其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず」と仰せられている。

そして、このように衆生が〝生死の夢〟から覚めて〝本覚の寤〟に還ることを「即身成仏」といい、それを可能にした法華経を「平等大慧」とも「無分別法」とも「皆成仏道」ともいう、と述べられているのである。

「平等大慧」とは、即身成仏であるゆえに一切衆生を平等に成仏に導くことができるからであり、「無分別法」とは、一切衆生に対して分別を設けないからであり、「皆成仏道」というのは、いかなる衆生も成仏できる道が開かれたことをさしている。

このうち「無分別法」については更に詳しく次の五つの観点から説かれている。

①十方の仏土はまさに別々に存在するが、一仏乗の妙法は十方仏土に通じて方便なく遍満しているということ。

②十界の衆生はそれぞれに相互に異なるが実相(妙法)の理は十界の衆生に共通して妥当するということ。

③百界千如・三千世間の法門はこれを構成する十界、十如、三世間の法門に関してはそれぞれに異なっているが、十界互具しているから分別することができない。

④夢、寤、虚、実の内容はそれぞれ異なるが、いずれも一心のなかの法であるから一つである。

⑤過去・未来・現在の三つといっても、いずれも一念の心中の理であるから分けることができない。

以上の五点である。

 

己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり……我が身は本覚三身如来の身体なり

 

まえの御文で、「自行の法」としての法華経が仏の〝寤の本心〟を説いていることを明かされて、仏の心法妙も衆生の心法妙もともに己心におさまって「心の外には法無きなり」と展開された後、この仏の寤の本心の三つの側面を説かれ、それが「己身の本覚の三身如来」となることを教えられている。ここで注意すべきことは、己〝心〟の三側面が己〝身〟の三側面となっていることである。〝心〟とは法華経迹門での説法の次元であるのに対し〝身〟は法華経本門に説かれるところである。

ゆえに法華経方便品の十如是中の三如是を挙げられ、それが本門の三身如来と対応することを「如是相・応身如来、如是性・報身如来、如是体・法身如来」と示されたのである。如是相は己心で応身如来、如是性は心性で報身如来、如是体は心体で法身如来、となるのである。

更に、この己心・仏身が十方法界と一体であることを「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」と説かれている。

 

十方の仏土は区に分れたりと雖も……一念の心中の理なれば無分別なり

 

ここは〝無分別〟について五つの観点から述べられたところである。

すでに無分別法については、化他の経について述べられた最後の部分で、法華経方便品の経文中の「無分別法」についての釈として説かれたところであるが、ここでは自行の法を明らかにしていくなかで説かれている。

五つの観点というのは、まず第一は「十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり」と述べられている。すなわち、法華経方便品の「十方仏土の中には 唯だ一乗の法のみ有り 二無く亦()た三無し 仏の方便の説を除く」という経文にあるように、十方仏土にはただ一仏乗のみあって、二乗のための乗り物や三乗のための乗り物はない、言い換えれば、十方の仏土にはただすべての衆生を成仏させる仏の乗り物のみがあって、方便として分別された二乗や三乗に導く乗り物が存在しない、という意味で〝無分別法〟なのである。

第二に「十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり」と説かれている。これは法華経迹門の中心主義である〝諸法実相〟を十界の立場からとらえられたものである。

すなわち〝諸法〟(さまざまな事物・現象のこと)は、地獄から仏界に至る十界の差別があるが、〝実相〟(諸法の真実の相)は一理であり、分別が無いゆえに〝無分別法〟なのである。

第三に「百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり」と説かれている。これは〝百界〟〝千如〟〝三千世間〟というように、一念三千の法門を構成するそれぞれの法門は細かく分別されているが、十界の各界が十界を互いに具すという十界互具の関係になっているので、結局は、円融円満して〝無分別〟になるということである。

第四に「夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり」と説かれている。夢と寤、虚と実は別々のものであるが、〝一心〟のうえでの現象形態(法)にすぎないので、本来〝無分別〟なのである。

第五に「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」と説かれている。過去・現在・未来の三つも、〝一念の心〟に収まるのであり、そこにおいては〝無分別〟なのである。

〝一念〟は、一瞬、瞬間の生命である。仏の〝一心〟や〝寤の本心〟は、一瞬の心=一念の心に過去・現在・未来の一切が収まっている、というのが〝一念の心中の理〟なのである。

〝一心〟や〝心法〟に万物・万象が具わるということは、単に空間的な側面のみでなく、この時間的な側面を含んでいることを示されているのがこの御文である。

ただ、〝一瞬〟〝瞬間〟〝ひと思いの心〟のなかに三世が収まるということにおける〝一瞬〟とは、通常、我々が経験的にとらえている過去→現在→未来という一方的な時間の流れのなかの現在における一瞬ではない。

三世常住、久遠即末法という、大聖人の仏法の深遠な法理に立った意義を、〝一念〟という言葉を用いて示されているのである。

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