三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第七章(権実は浄土に無きことを示す)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第七章(権実は浄土に無きことを示す)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

是の方便の教は唯穢土に有つて総じて浄土には無きなり法華経に云く「十方の仏土の中には唯一乗の法のみ有つて二無く亦三も無し仏の方便の説をば除く」已上、故に知んぬ十方の仏土に無き方便の教を取つて往生の行と為し十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして成仏す可き道理有る可しや否や一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文し給いて言く三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば我も是くの如く一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周徧して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして全く浄土には無き方便の教を取つて成仏の行と為さんは迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に穢土に立ち還りて穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に次第に誘引して方便の教を説くを化他の教とは云うなり、故に権教と言い又方便とも云う化他の法門の有様大体略を存して斯くの如し。

 

 

現代語訳

この方便の教えは、ただ穢土にのみあって、浄土にはないのである。法華経方便品第二には「十方の仏土のなかには、ただ一乗の法のみがあって、二乗の法も三乗の法もない。仏の方便の説を除くのである」と説かれている。

ゆえに十方の仏土にはない方便の教えをとって往生の行とし、十方の浄土にある一乗の法を嫌い、それを取らないで成仏できる道理があるかどうかを知るべきである。

一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文し、こう言われている。三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心でかんがえられた説法の儀式であるので、我もこのように三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのである、と。すなわち方便品にいわく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と。

無分別の法とは一乗の妙法である。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵のなかにも、それぞれが十法界の法を具足している。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心のなかに収まって瞬時も離れることがない。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、このほかには、仏の法はないのである。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのである。

この一乗妙法の修行を選択しないで、全く浄土にはない方便の教えをとって成仏の行とするのは迷いのなかの迷いである。

自分が仏になって後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入れさせるために次第に誘引して方便の教えを説いたのを化他の教というのである。

それゆえに権教ともいい、方便ともいうのである。化他の法門のありさまは、略していえば大体このようなものである。

 

語句の解説

方便品

妙法蓮華経の第二章。同品では、諸法実相が説かれ、一切衆生の生命に仏界がそなわっていることが明かされている。法華経迹門(序品第一より安楽行品第十四までの前半十四品)の中で最も重要な品。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、法華経では、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのであり、そのことを方便品に明かしている。

 

草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す

非情の草木等が十法界を具すること。法華経の本門で一念三千の法門が説かれることによって、非情にも十法界を具していることが明らかになった。妙楽大師の金剛錍論には「一草一木一礫一塵、各一仏性各一因果あり。縁了を具足す」とある。

 

依報・正報

報とは果報のことで、過去の行為の報いをいう。この報い(果報)を受ける主体である衆生の心身を正報といい、正報のよりどころとなる環境・国土を依報という。一念三千の法門においては五陰・衆生の二世間が正報、国土世間は依報であり、ともに一念のなかに含まれ、依正は不二となる。現象面では二であるが、相互に深い関係性があり不二である。

 

講義

ここでは、法華経方便品第二の「十法仏土の中には 唯だ一乗の法のみ有り 二無く亦た三無し 仏の方便の説を除く」の文によって、十方の仏土にある法は、実教である一仏乗の法華経のみであって、方便権教の教えはないことを示され、浄土宗が十方の仏土にない方便権教の教えを立てて一仏乗の法華経を嫌っていることの矛盾を破折されている。

方便化他のために、まず種々の法を説き、しかる後に無分別の一乗の法を説くのは、三世の諸仏の説法の儀式であり、釈尊もそれと同じにしたのであるとの方便品の文を引かれ、この無分別の法すなわち、一切万法が我が己心に収まる、という妙法こそ仏の悟りであり、仏はこの無分別の法から立ち返って、穢土の衆生を仏法界に入らしめ、説いたのが、「化他の経」であることを述べられて、これまでの〝化他の経〟についての論を結ばれている。

以上の論述からも明らかなように〝化他の経〟といっても、本来〝自行の法〟があってのものであるゆえに、これまでの展開においてもすでに化他の経の説明のなかに自行の法についての記述が、かなりの比重を占めて説かれていたことはいうまでもない。

逆に、以後の〝自行の法〟が明かされていく文中においても、〝化他の経〟にしばしば触れられていくのである。

 

無分別の法とは一乗の妙法なり……

 

〝化他の経〟をもって誘引し、その後に〝自行の法〟を明かすのは三世の諸仏が踏まれる順序であることを述べた方便品の文中にある「無分別の法」を説明されたところである。

自行の法は次章で「二に自行の法とは是れ法華経八箇年の説なり」という御文から説かれるが、ここでも、化他の経との関係性のうえから自行の法に通ずる〝無分別の法〟について説き明かされている。

まず、法華経方便品第二の「三世の諸仏の 説法の儀式の如く 我れも今亦た是の如く 無分別の法を説く」という経文を挙げられ、この経文中の〝無分別の法〟について、その義を述べられたのがこの文である。

方便品の文は、三世の諸仏は説法の儀式として必ず始めに方便の教えを説いて、次に悟りの法門である〝無分別の法〟を説いて衆生を開悟させるという順序次第を踏むように、釈尊も全く同じ儀式を踏まえるということを述べたところである。

この〝無分別の法〟について大聖人は次のように釈されている。

「無分別の法とは一乗の妙法なり善悪を簡ぶこと無く草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周徧して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し故に無分別法と云う是なり」。

この御文を拝するにあたり、分別と無分別の相違について明確にしておく必要がある。通常、凡夫の世界は〝分別〟の世界である。自己と他人、自己と環境世界、善と悪、心と身体等などというように、すべてを区別していく。その区別は人間の使用する言葉の有する分割の働きに応じて、ますます細分化していく。

仏の悟りは、そうした言葉による分別を超えた世界にある。すなわち善人であれ悪人であれ、有情であれ非情の草木・国土であれ、すべてが十法界の法を具足している。そして、妙法蓮華経の当体である我が生命は、十方の国土に周遍しているとともに、十方の浄土のすべてが、我が己心中に収まっているというのが、仏の悟りの境地である。これが「無分別の法」ということである。

凡夫は常に自己とすべての環境世界、身体と心等というように分別・区別して生きている。これは〝夢を見ている〟状態である。

「草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す」との御文は、自己と環境世界とを分別する考え方を超えたものである。

我々の心のなかに十法界があるととらえるだけでは、草木、樹林、大地等の環境世界が我々に従属していることに変わりはない。その意味ではまだ「分別」である。

しかし、仏の悟りにおいては、寤の本心と全世界の事物・現象とが一つであるから〝一微塵〟のなかにも十界が具足することになる。そこでは、仏の寤の本心と一微塵が分別されていないからである。

また「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周徧して闕くること無し十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は我が心の中に有つて片時も離るること無き」との仰せも、仏の寤の本心と十方の浄土とは一つで〝分別〟されていないことを示している。

寤の本心は十方の浄土に〝周徧〟しているとともに、逆に十方の依報・正法の功徳荘厳が寤の本心のなかにあって片時も離れることがないのである。

更に「三身即一の本覚の如来にて是の外には法無し」と仰せのように、今度は、悟りの知見においては、寤の本心と身体とが〝分別〟されていないから、法身・報身・応身の三身即一身が説かれているのである。

仏はこの境地に立って衆生を導くために、自らこの悟りの境界から穢土に立ち還り、方便権教、つまり化他の経を説いたのである。

ゆえに権教といい、また方便ともいうのであると仰せられて、以上が「化他の法門」のありさまの大要であると結ばれている。

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