三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第二十一章(一大事因縁を説いて勘誡)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり、然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して値い難き善知識の縁に値いて五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可し今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し。
弘安二年己卯十月 日 日 蓮 花押
現代語訳
三世の諸仏はこれを一大事の因縁と考えられて世間に出現されたのである。一大事因縁の一とは中道であり、法華経である。大とは空諦であり、華厳経である。事とは仮諦であり、阿含経、方等経、般若経である。以上は一代聖教のうえに立てた総の三諦である。
この総の三諦を悟り知るときは仏果を得るゆえに、諸仏にとって出世の本懐であり、衆生にあっては成仏の直道なのである。
因とは、一切衆生の身中に総の三諦があって、常住不変であるということで、これを総じて因というのである。
縁とは、三因仏性はあるといっても、善知識の縁に値わなければ、これを悟らず、知らず、また顕れることもない。善知識の縁に値えば必ずあらわれるゆえに縁というのである。
しかるに今、この一と大と事と因と縁との五事が和合して、値いがたい善知識の縁に値って、五仏性をあらわすことに、なんの滞りもないのである。
春のときがきて風雨の縁に値えば、無心の草木も皆ことごとく萠え出でて、華も咲き栄えて世間に出る気色である。
秋になって月の光の縁に値えば、草木は皆ことごとく実が熟れて、一切の有情を養育し、その寿命を延べて長く養い、ついに成仏の徳用をあらわすのである。
これを疑い、信じない人があろうか。無心の草木でさえ、なおこのとおりである。まして人間においてはなおのことである。
我らは迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることもできる。
しかも、宿縁に促されて、生を仏法流布の国土に受けたのである。善知識の縁に値えば因果を分別して成仏できる身であるのに、善知識に値っても、草木にも劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるであろうか。
このたび、必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきである。今から以後は、夢のなかの法門を心にかけてはならない。
三世の諸仏と我が一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきである。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて曇りはないのである。三世の諸仏の勘文はこのとおりである。秘すべきである。秘すべきである。
弘安二年己卯十月 日 日 蓮 花 押
語句の解説
三因仏性
三種の仏性(仏になるべき性分)のこと。正因・了因・縁因の三仏性をいう。正因仏性とは、一切衆生が本然的に具えている仏性(法性・真如)のこと。了因仏性とは、法性・真如の理(正因仏性)を覚知する智慧をいう。縁因仏性とは、了因仏性を縁助して正因仏性を開発していくすべての善行をいう。
五仏性
正因・了因・縁因・果性・果果性の五つのこと。正因・了因・縁因は三因仏性の語訳参照。果性とは菩提の果。果果性とは涅槃の果のこと。菩提の智をもって涅槃を証するゆえに果の果という。法華文句巻十上には「仏性に五有り。正因仏性は本当に通亘し、縁了仏性は種子本有にして、今に適まるに非ざるなり。果性・果果性は定んで当に之を得べし。決して虚しからざるなり」とある。
講義
本抄全体の結論として、ここでは三世の諸仏の「一大事因縁」という重要な法門を取り上げられて、法華経を信ずる門下に対する勧誡を説いて締めくくられている。
まず〝一大事因縁〟の意義について、〝一〟とは中道の法華経、〝大〟とは空諦の華厳経、〝事〟とは仮諦で阿含・方等・般若をさしており、〝因〟とは一切衆生の身中に総の三諦があって常住不変であること、〝縁〟とは、三因仏性が善知識の縁に値ってあらわれることであると示されている。そして、これら一と大と事と因と縁との五事が和合したとき、正・了・縁・果・果果の五仏性が滞りなくあらわれ、成仏することが可能となると仰せられている。
次に、非情(無心)の草木でさえ、風雨や月光を縁として生命活動を営んでいることを例に挙げられ、「何に況や人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れ有る可きや」と述べられて、人間としてこの世に生まれ、善知識に値った我々は「此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤に還つて生死の紲を切る可」きであると述べられ、これ以後は夢中の法門を心にかけてはならないと戒め、妙法蓮華経を修行し、開悟していくよう勧められている。
三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり……五仏性を顕さんこと何の滞りか有らんや
三世諸仏の〝一大事因縁〟ということから、成仏の原理を説き明かされている。
一大事因縁というのは、仏がこの世に出現した本意のことである。法華経方便品第二においては、衆生をして仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめることこそが諸仏の一大事因縁であると説いている。
この〝一大事因縁〟について、法華文句巻四上では次のように釈している。すなわち、「字を分かちて釈せば、『一』は即ち実相なり。五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず。故に『一』と言うなり。其の性広博にして五三七九より博し。故に名づけて『大』と為す。諸仏出世の儀式に名づけて『事』と為す、衆生此の機ありて仏を感ず、故に名づけて『因』と為す、仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて『縁』と為す。是れを出世の本意と為す」と。
更に、この文を受けて御義口伝巻上には「一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云……又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」(0716:第三唯以一大事因縁の事:05)と説かれている。
以上の法華文句と御義口伝の二つの御文からも「一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり」との御文の意味されているところは明白であろう。
〝一〟とは「一実相」をさし、三諦のなかでは中諦にあたり、一代聖教のなかでは法華経にあたる。
次に〝大〟とは、一実相の性が広博であることを示し、ここから三諦のなかでは空諦にあたり、一代聖教のなかでは華厳経にあたる。
更に〝事〟とは、諸仏がこの世に出現する具体的な儀式をさしているゆえに、三諦のなかでは仮諦にあたり、一代聖教のなかでは、阿含部・方等部・般若部の諸経にあたるのである。
この〝一大事〟が表す内容はそのまま〝一代の総の三諦〟である。この一代の総の三諦が「出世の本懐」「成仏の直道」なりといわれているのは、一代聖教全体が衆生を成仏させるために説かれたものであり、そのすべてを説くことが出世の本懐であるというのである。
ただし、そのなかに法華経が円教、他は不完全な権教であるとわきまえることも含んでの仰せであることは、いうまでもないであろう。
次に、「一大事因縁」の〝因〟とは、一切衆生の生命のなかに総の三諦、すなわち一代聖教に説かれた生命の法理が本来、ことごとく具わっていることである。
しかし、衆生内在の三因仏性、総の三諦も、善知識の縁に値わなければ悟り知りあらわすことができない。これを〝縁〟というのである。
以上のことから、結局、衆生が成仏する原理は、〝総の三諦〟としての〝一大事〟と、この〝因〟としての〝総の三諦〟(三因仏性)を悟りあらわしていくための善知識の〝縁〟が和合する、すなわち、〝一〟と〝大〟と〝事〟と〝因〟と〝縁〟の五事が和合することこそ、五仏性(因としての正・了・縁の三因仏性と、果としての果性・果果性)を顕現して成仏していく、根本の法則となるのである。
御義口伝の御文に「円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり」(0717:09)と仰せのように、末法今時においては、三大秘法の御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱えることが、この五事の和合となるのである。
此の度必ず必ず生死の夢を覚まし……秘す可し秘す可し
本抄全体の最後にあたり、末法の大白法に巡りあった門下に対し、必ずこの一生で成仏を遂げるよう勧められているところである。末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈大悲の心がひしひしと伝わってくる結びの御文といえよう。
「此の度必ず必ず」との御言葉のなかに、人間として生を受け、仏法流布の国土に生まれ、善知識に値うことのできた〝今生においてこそ〟という意味が込められている。
そのためには、「今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり」と戒められ、また「三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く開悟す可し」と仰せられているように、三世の諸仏の心と一つになって妙法蓮華経の五字(三大秘法の南無妙法蓮華経)を修行して開悟、成仏すべきであると促されている。
最後に「自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し」と仰せられ、自行と化他の二教の差異は三世の諸仏の勘文として鏡に照らして曇りないことを、再度確認されるとともに、これが本来、深秘の法門であることを「秘す可し秘す可し」の結語に込められて、本抄全体を結ばれている。