三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十九章(仏説に背く諸宗を破折)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十九章(仏説に背く諸宗を破折)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり皆是方便なり兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと悞りの中の悞り迷いの中の迷いなり。
  徴佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに四教を出でず頭辺に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推ね徴めよ我が四教の行相を以て並べ検えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば果として成ず可き無し如し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を逐うて理に準じて我が宗の理なり徴べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門なり権りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以に論ずる時は四依撃目の志を存して之を執着すること莫れ又須らく他の義を将つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや

現代語訳

四十二年の化他の経によって立てた宗々は、華厳、真言、達磨、浄土、法相、三論、律宗、倶舎、成実等の諸宗である。

これらは皆ことごとく法華経を説く以前の八教のなかの教で、皆、方便の教えである。兼・但・対・帯の義をおびた、方便誘引のための経教である。

これは三世諸仏の説教の順序次第である。この順序を糾して、法門を談ずるのであり、もしこの順序に違うならば、仏法とはいえないのである。

一代教主の釈迦如来も、三世諸仏の説教の順序を糾して一字も誤りなく、我もまた同様であるとして、法華経方便品第二に「三世諸仏の説法の儀式のように、我も今またこのように無分別の法を説く」といっている。

もしこの順序を違えるならば、永く三世の諸仏の本意に背くことになるのである。他宗の祖師達が、おのおの自宗を立てて法華宗と争うことは、誤りのなかの誤り、迷いのなかの迷いである。

山王院の智証が著した授決集の巻一にある「徴佗学決」には、このことを破折して述べている。

「およそ一代聖教は八万法蔵といわれるが、その行相をまとめてみると、四教を出でない。それは巻頭に示したとおりである。

蔵・通・別・円はすなわち声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、仏乗である。ゆえに真言宗、禅宗、華厳宗、三論宗、唯識を説く法相宗、律宗、成実・倶舎の二論等で説く能詮の教も所詮の理もどうしてこの四教を超えることがあろうか。

もし超えるというならば、もはや外道邪義ではないか。また、もし出ていないというならば、その宗の所期すなわち、四乗のうちではどの乗(果)を目的としているのかを問うべきである。そして、その答えにしたがって、その宗の極理を尋ね、誤りを徴めよ。

そして我が四教の行相にあてはめて検討して決定せよ。他宗の目的としている果がもし我が宗のそれと違うならば、その果の違いを問い詰めよ。

今しばらく華厳宗についてみれば、同宗では一代聖教を五教に分け、それぞれに修因・向果を立てるから、初・中・後の因行が一様でない。そのゆえは一教に一果を目的としているからである。

しかし、それらがもし蔵・通・別・円の因と果とでなければ、これは仏教ではない。このように徴めるべきである。

また三論宗では三種の法輪をもって一代聖教を判別し、法相宗では三時教判を立てているが、その教理について是非を定めるべきである。そして汝の宗では何をもって目的とすべき乗とするかと問うべきである。

もし仏乗であるといえば、汝の宗では、いまだ成仏の観行を説いていないではないか、と難詰すべきである

もし菩薩乗であるといえば、菩薩の修行する中道にも即・離の異なりがあって、汝の宗では正しくいずれを取るかと問うて、もし離の中道を取ると答えたならば、別教では有教無人といって仏道を成就する菩薩はいないから、果を成ずることはないと破すべきである。

もし即の中道を要とすると答えたならば、仏乗を目的とすると答えたときと同じように難詰せよ。

また誤って真言を読誦しても、一心三観の妙旨を会得しなければ、別教の人と同じように妙理を証することはできないであろう。それゆえに他宗の目的とする極理を追い求めて我が宗の妙理に照らして徴めるべきである。

また因明の道理は外道に対して説かれたもので、多くは小乗および別教に説かれる法門である。

もし法華、華厳、涅槃等の経に比べるならば、摂引(誘引)するための法門であって、仮に衆生の機根に対して設けられた方便教である。

終には正法に引き進ませるための教であって、外道・小乗の徒を開会して真理に至らしめるためのものである。

ゆえに仏教を論ずるときは、四依の人が時機に応じて化導した精神を踏まえるべきで、その教えそのものに執着してはならない。

また、正法を求めるためにはすべからく他宗の教義をもって自宗の義と対照検討し、その是非を決定すべきである。

いたずらに自宗の義に固執して、相手を怨んではならない。要するに、他宗の教義は大概三教に属するもので、円教の妙旨はきわめて少ないのである」と。

先徳智証大師の所判は以上のとおりである。諸宗が立てるところの教義をこの鏡にかけてみると、陰りなく明白である。末代の学者は、どうしてこれを見ないで勝手に一代聖教の勝劣を判じてよいものであろうか。

語句の解説

兼・但・対・帯

爾前の教のもつ四つの義。兼は一つの教に他の教を兼ねて説くこと。但はただ一分の真理のみを説くこと。対は相対して説くこと。帯は他の教を帯びて説くこと。天台大師は法華玄義で、前四時(爾前)の教にはこの四義があり、法華経はそれを超えており、このことは法華経が純円一実で、前四時の教はその方便となることを示すと説いた。玄義巻一上に「華厳は兼、三蔵は但、方等は対、般若は帯、此の経(法華経)は復兼但対帯なし。専ら是れ正直無上の道なり。故に称して妙法と為すなり」と説かれていることによる。すなわち、華厳部は円教に別教を兼ねて説いているゆえに兼、阿含部は但だ蔵教のみを説き通教・別教・円教を説いていないゆえに但、方等部は四教(蔵教・通教・別教・円教)の機に対して具に四教の法を説くゆえに対、般若部は通教・別教の二教を帯びて円教を説くゆえに帯との意である。

 

徴佗学の決

「ちょうたがく」とも読む。比叡山延暦寺第五代座主・智証大師円珍(08140891)が弟子の良勇に与えた授決集の五十四決のうち、第五十二条・佗(他)学に徴するの決のこと。「徴」は徴()めること、徴らしめることの意。「佗」は他の意。「佗学」は他宗のこと。「授決集」二巻は智証が唐に留学中、天台山禅林寺の良諝から授けられた口決や、その他の覚書を五十四項にまとめて、弟子の良勇に授けたもの。最初に条目を述べ、あとでこれを訳す形をとり、華厳宗や三論宗との議論が収められている。天台宗寺門派(園城寺系)ではこの書を根本聖典として、秘密に伝授した証として「秘巻」と証した。

 

山王院

法華鎮護山王院のこと。比叡山延暦寺東塔の叡山九塔の一つ。伝教大師が安置したと伝えられる千手観音像があり、千手堂ともいう。唐から帰国した智証が山王院に住んだので、智証のことを山王院と呼ぶことがある。

 

成倶の二論

成実論を依所とする成実宗と俱舎論を依処とする俱舎宗のこと。

成実宗はインドのハリーヴァルマン(Harivarman)、音写して訶梨跋摩の「成実論」に基づく学派。成実論は、経量部の立場から説一切有部の主張を批判し、大乗仏教に通じる主張も含んでいる。我も法も空であるという人法二空を説き、万物はすべて空であり無であるとする。この空観に基づいて修行の段階を二十七(二十七賢聖)に分別して煩悩から脱すると説いている。五世紀の初めに鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、弟子の僧叡(そうえい)・僧導らによって研究が盛んに行われた。しかし三論宗が興って成実論が小乗と断定されてから衰えた。日本では南都六宗の一つとされるが、三論宗に付随して学ばれる寓宗(他に寄寓する学派)である。

俱舎宗はインドのヴァスバンドゥ(Vasubandhu)、漢訳して世親の「俱舎論」に基づく学派。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、訳して付法蔵という。教義は、小乗有門(我空、法有)の思想を根拠とする。中国では、陳の真諦(しんだい)が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の寓宗として伝来し、奈良時代に大いに研究されたが、一宗派を形成するにはいたらなかった。

 

因明

理由(因)の学問(明)という意。五明(声明・工巧明・医方明・因明・内明)の一。仏教の論理学。その形式は、宗(論証すべき命題)と、因(その成立理由)と、喩(例証として宗と因との関係を明らかにする)とからなる。このなかで因が最も大事であるから因明という。

 

四依撃目の志

四依の菩薩が目撃してその意思を通じさせたような志。すなわち、四依の菩薩が正法弘通のためにさまざまな状況に遭遇して多くの人々や事柄を見ながら、正法を弘通してきた意思・志のこと。

 

先徳大師

08140891)。智証大師円珍のこと。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。数え年十五歳で叡山に登り、初代座主義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)に入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺座主となる。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。

講義

法華経こそ自行の最勝の法であり、一切衆生の成仏の直道であることは三世諸仏の総勘文であるにもかかわらず、華厳、真言、達磨、浄土等の諸宗が四十二年の化他の経を依りどころとしている誤りを、智証の微佗学の決を引いて、厳しく破折されている。

 

徴佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに……之を怨むこと莫れ」

徴佗学の決は、比叡山延暦寺第五代座主・智証大師円珍の著、授決集(全二巻)にあるものである。

この授決集は、智証が唐に留学中、天台山禅林寺・良諝から授けられた口決や、その他の覚書を五十四項にまとめ〝五十四決〟として、弟子の良勇に授けたものである。

ここでの〝徴佗学の決〟というのは、この授決集のうち、第五十二番目の「佗学に徴するの決」の全文である。

〝佗〟とは〝他〟のことで、佗学とは、他宗派のことをさす。〝徴〟とは〝責めること〟〝懲らしめること〟を意味し、結局、他宗派を破折するための覚書や口決を記したものである。

智証は第三代慈覚大師円仁とともに、理同事勝を唱え、天台宗を真言の教えに堕さしめ、三大秘法抄で「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬ」(1023:01)と、日蓮大聖人に厳しく破折されている邪師であるが、この決は中国・天台宗より他宗を破る法を受けて伝えたものであり、その内容は用いることができるので、引用されているのである。

それは、後に「先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや」と仰せられているように、自行の法華円教と化他の権教方便とを明確に立て分けるべきことを主張し、かつ、諸宗派の立てる教義をことごとく〝権教方便〟として破折している点において、本抄の主題にふさわしい文証として、これを採用されたものと考えるべきであろう。

今、簡単に、その内容について触れておくことにしたい。

初めに、八万法蔵といわれる一切経の〝行相〟すなわち、教えと修行の内容は、蔵・通・別・円の〝化法の四教〟を出ず、声聞・縁覚・菩薩・仏の四乗の法に収まる。

真言宗、禅門(禅宗)、華厳宗、三論宗、唯識(法相宗)、律業(律宗)、成俱の二論(成実論を依拠とする成実宗と倶舎論を依拠とする倶舎宗)などの諸宗派の〝能所の教理〟、能詮の教と所詮の理も、この四教を出ないのである。

もし、これらの諸宗派のなかに、化法の四教を過ぎた内容を説いていると主張する者があるならば、その宗派は外道や邪宗であるというべきである。

もし化法の四教を出ないというならば、では、修行の結果、四乗のうちの、どの結果に到達することを目指すかについて問い詰めていくべきである。

それに対する相手の答えに応じて、相手の宗派が極理としているものを尋ねて、それを責めていくべきである。

そして、こちら(比叡山延暦寺)が基準としている化法の四教の〝行相〟にて照らして、相手の極理がどの段階のものであるかを検討して決定すべきである。

その宗派のいう修行の目当てとしているものが、もしこちらの基準に異なっているならば、これを詰めていくべきである。

例えば、華厳宗の場合は、小乗教、大乗始教、大乗終教、頓教、円教と一切経を〝五教〟に立て分けているが、それぞれの〝教〟において〝修因・向果〟、つまり、因としての修行を修めて果徳の悟りに向かうことが説かれている。

したがって、初めと中ごろと終わりの修行が一定していないことになる。一教に対して一つの果、ということを目的としているのである。

もし蔵、通、別、円の四教に説く因の修行とその結果でなければ、これは仏教ではないのである、と華厳宗に対する破折の在り方が述べられている。

次に、根本法輪、枝末法輪、摂末帰本法輪というように一代聖教を〝三種の法輪〟に立て分ける三論宗や、一代聖教を有時、空時、中時の〝三時の教〟に立て分ける法相宗などでは、法華経も仏の本意の教えのなかに含めて論を立てているが、これらに対しては、教えの中に踏み込んで、その価値を決定すべきであり、相手の宗が四乗のうち、どれをもって目的としているかを問い、もし仏乗を目的としているといえば、その目的成就にかなうところの〝成仏の観行”が示されていないと責めること、また、菩薩になることを目指しているというならば、〝即の中道〟(法華円教で説く三諦円融に基づく中道)を行じているのか、〝離の中道〟(別教で説く三諦が別々のなかで、空と仮から離れて孤立した中道)を行じているのかによって、菩薩になる修行が異なることを述べ、相手の宗がどちらの中道を採るのかを問い詰めるべきである。

そして、〝離の中道〟を採るというならば、果として成就する者はいないことを明言し、もし〝即の中道〟を要として修行しているというならば、仏乗を目的としていることを述べたときの破折と同じように、三諦円融が示されていないと難詰して責めるべきである。

もし誤って真言を誦唱しても〝三観一心〟(一切万法の三諦を正しく観ずることにより己心をとらえていく観法)という妙行により開会しなかったなら、結局、別教を修行する人と同じで、〝妙理〟を証得することができない、と破折していくよう促している。

仏教の論理学である〝因明〟の道理は、外道を打ち破るために立てられたもので、多くは小乗、別教にある。

これを法華、華厳、涅槃等の諸経と比べると、あくまで真実の教法へと導く方便の摂引門であるにすぎず、結局、邪教や小乗の徒を導いて最後に真理へと至らしめるため、仮に衆生の機根に応じて設けられたものである。

したがって、四依の菩薩達が衆生のさまざまな機根を考慮しながら粘り強く、種々の方便や手段を用いて導いてきた志に着目して、ただ〝因明〟の道理だけに執着することのないように柔軟な姿勢で弘通に励むべきである。

また、他宗の教義はあくまでこちらの義と対比し検討することにより是非を決すべきであって、これに執着して怨み合ってはならない、と説いている。

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