三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十八章(自行化他の力用の優劣示す)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
自行と化他とは得失の力用なり玄義の一に云く「薩婆悉達・祖王の弓を彎て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓を中り一つの鉄囲山を貫ぬき地を洞し水輪に徹る如きを名けて用と為す自行の力用なり諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず已上化他、今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損ず、但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩倶に益するのみに非ず法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す化の功広大に利潤弘深なる蓋し玆の経の力用なり已上自行」自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり能く能く之を見よ一代聖教を鏡に懸たる教相なり、極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず故に生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり、法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり、後心の菩薩とは等覚の菩薩なり但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり本門には法身と後身との菩薩を利益す但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に化の功広大なり化他の徳用、利潤弘深とは自行の徳用円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用此くの如し化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し故に成仏の人も無し今法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し、薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり第一の譬に云く諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云取意、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用を顕す、諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し自行と化他との勝劣是くの如し一を以て諸を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり人の語を入れず此の旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰り無し此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり敢て人の会釈を引き入る可からず三世諸仏の出世の本懐なり一切衆生・成仏の直道なり、
現代語訳
自行と化他とは、得るか失うかの力用の相違がある。法華玄義の巻一には「薩婆悉達が祖王の弓を満月のように引き絞ったところを力と名づけるのである。そして放たれた矢が七つの鉄鼓を突き破り、一つの鉄囲山を貫き、地を通し、水輪まで突き抜けるようなところを用と名づけるのである(これが自行の力用である)。これに対してもろもろの方便教は、その力用が微弱であることは、あたかも凡夫が弓矢を射るようなものである。なぜならば、四十二年間に縁を結んだ衆生は化他の法門の権実二智を禀けたが、未だ理を照らすことも広くいきわたらず、信心を生ずることも深くなく、疑念を除くことも尽くしたわけではないからである(以上は化他の力用である)。今、法華経に縁を結んだ衆生は自行の法門の権実二智を禀けて仏の境界を極め、法界の信を起こし、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易の生を損ずるのである。そして生身の菩薩および生身得忍の両種の菩薩をともに利益するのみでなく、法身の菩薩および法身の後心の菩薩の両種の菩薩をともに利益するのである。教化の功力が広大でその利益し潤すことがひろく深いのが、この法華経の力用である(以上は自行の力用である)」と述べられている。
自行と化他との力用の勝劣が明らかであることはもちろんである。よくよくこの玄義の文をみるがよい。一代聖教を鏡に映し出す教相である。
「仏の境界を極め」というのは、十如是の法門のことである。この十如是は十界に互いに具足して、十界・十如是の因果、権実の二智、九界の境と仏界の境等は我が身のなかに具わって、一人としてそれらを具えないものはないのであると通達し解了したときに仏の説いた語を悟り極めることができるのである。
「法界の信を起こし」というのは、十法界を身体とし、十法界を心性とし、十法界を形相とする本覚の如来は、我が身のなかにあったのだと信ずることである。
「円妙の道を増し」というのは、自行と化他との二つは相即円融の法であるから、珠と光と宝の三徳がただ一つの珠に具わる徳であるように、片時も離れず、仏法に具足して欠けるところはない。この法を信受すれば一生のうちに仏に成ることができると慶喜の念を増すことである。
「根本の惑を断じ」というのは、一念の無明の眠りから覚めて、本覚の寤に還るならば、生死の苦も涅槃の楽もともに昨日の夢のように跡形もなくなることである。
「変易の生を損ず」というのは、同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生した人が、その土で菩薩道を修行して仏になろうとするときに、因行は移り果徳は易って次第に位階を進み昇りながら、劫数を経て成仏の遠きを待つのを変易の生死というのである。
因行が昇進して下位を捨てるのを死といい、上位に進むのを生というのである。このように変易する生死は浄土における苦悩である。
ところが、今、凡夫の我らがこの穢土で法華経を修行すれば、十界互具・法界一如であるから、浄土の菩薩の変易の生死を損い、仏道の修行は増進して、変易の生死を一生のうちに縮めて仏道を成ずることができるのである。ゆえに生身および生身得忍の両種の菩薩とも仏道を増し、生死を損ずるのである。
「法身の菩薩」というのは、生身を捨てて実報土にいる菩薩のことである。「後心の菩薩」というのは、等覚位の菩薩のことである。
ただし法華経迹門では生身の菩薩および生身得忍の菩薩を利益し、本門では法身の菩薩および法身の後心の菩薩とを利益するのである。ただし今は迹門を開会して本門に摂めて一つの妙法とするのである。
ゆえに凡夫の我らがこの穢土で修行する行力をもって、浄土に往生している十地の菩薩および等覚の菩薩までも利益するから、その教化の功徳は広大なのである。これが化他の徳用である。
「利潤弘深」というのは、自行の徳用である。法華円頓の行者は自行と化他とを一法も漏らさず、一念に具足して、横には十方法界に遍くいきわたるから弘しといい、竪には三世にわたって法性の淵底までも極めるから深しというのである。
法華経の自行の力用はこのようなものである。化他の諸経は自行を具えていないから、あたかも片翼しかもたない鳥が空を飛ぶことができないようなものである。ゆえに成仏する人もいないのである。
今、法華経は自行と化他の二行を開会して不足がないから、鳥が両翼をもって飛ぶのに、なんの障りもないように、成仏することもなんら滞りがないのである。
法華経薬王菩薩本事品第二十三には、十の喩えをもって自行の法華と化他の諸経との力用の勝劣を判じている。その第一の喩えに、諸経は諸水のようで法華経は大海のようである云々(取意)と説かれている。
実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入れること、昼夜絶えることがなくとも、大海の水は増減なく、不可思議の徳用をあらわすのである。
逆に諸経の衆水は片時ほどのあいだも法華経の大海を納めることはできない。自行と化他との勝劣はこのとおりである。一つの例をもって他の例を推察しなさい。
以上の譬喩は皆仏の所説である。人の言葉を指し挟まずに、この旨を心得たならば、一代聖教の勝劣は明鏡にかけて曇りもないように明瞭である。この経文や釈を見て、だれ人が勝劣に迷い惑うであろうか。法華経は三世の諸仏が総じて勘えたところの文である。ゆえにあえて人師の解釈を引き入れるべきではない。法華経は三世の諸仏の出世の本懐である。一切衆生の成仏の直道である。
語句の解説
薩婆悉達
釈尊の出家前の名称。梵名サルバールタシッダ(Sarvārthasiddha)、あるいはサルヴァシッダールタ(Sarva-siddhārtha)の音写・薩婆曷剌他悉陀の略称。漢訳して一切義成就である。仏祖統紀第二に「王、婆羅門を召していわく、当に太子なり何等の名と作すべし、答えていわく太子生時、一切の宝蔵みな悉く発出す、所有の諸端吉祥にあらざることなし、当に薩婆悉多と名づくべし、此れ一切義成という」とある。
祖王の弓を彎て
祖王とは釈尊の祖父の獅子頬王のこと。獅子頬王の弓は強弓で、だれも引くことができないといわれたものを釈尊が引いたのである。仏本行集経巻十三捔術争婚品第十三のなかで釈尊が提婆達多やもろもろの王子より勝れていることを伝えている話である。獅子頬王は中インド迦毘羅衛国の王で、浄飯王の父で釈尊の祖父であるが、詳しい事跡は不明。
鉄囲山
一小世界を囲む鉄山のこと。須弥山を中心とする九山八海の最も外側にある鉄山をいう。また、三千大千世界を囲む鉄山をさすこともあり、この時は前者を小鉄囲山、後者を大鉄囲山という。倶舎論十一等に見える。
水輪
古代インドの世界観で大地の下にあって世界を支えているという四輪の一つ。下から空輪・風輪・水輪・金輪。
変易の生を損す
変易は「変易の生死」のことで、見思の惑を断じ、三界六道を出た声聞・縁覚・菩薩の生死のこと。自由にその身を変化・改易できるゆえに変易の身といい、その生死が変易の生死である。「損す」とは捨てることで、根本の惑を断じた深位の菩薩は「変易の生死」および「分段の生死」の二種の生死を離れ、浄妙の証果に住する。しかし、真に究竟して変易をわたるのは、ただ仏のみである。
生身及び生身得忍の両種の菩薩
生身とは父母から生まれた肉体のこと。ここではその生身のまま修行する菩薩をいう。生身得忍とは父母から生まれた身のままで無生法忍という悟りの極果を得ること。「忍」とは無生法忍の略で、涅槃の法理に安住して心が動じない位のこと。
法身と法身の後心との両種の菩薩
「法身」とは真理を身体とする仏、また、真理もしくは法性そのものをいう。ここではその法身を体とする菩薩(生身の菩薩に対する語で、煩悩を断じて六神通を得た菩薩)で、円教の初住から十地まで到達した菩薩。「法身の後心」とは法身の菩薩の最上位で、等覚の菩薩にあたる。後心とは初心に対する語で、修行の進んだことをいう。
増道損生
「道を増し生を損ず」と読む。中道の智慧を増して変易の生死を損ずる(捨てる)こと。
講義
ここは、自行と化他の力用の優劣(得失)について示されている。
〝薩婆悉達〟の故事を用いて、法華自行の二智の力用と爾前化他の二智の力用の優劣を述べた天台大師の法華玄義巻一の文を引用され、この文について釈しながら、衆生をして即身成仏せしめる偉大な力は自行の法にこそ存在するのであり、化他の経は自行の法に比べるとはるかに微弱な力しかないことを説かれている。
法華玄義に出てくる薩婆悉達とは、梵名サルヴァシッダールタ(Sarva-siddhārtha)の音訳で、意味は〝一切義成就〟であり、釈尊の名前である。
つまり、悉達王子は自行の法華経の力用をたとえ、他の王子や凡夫は、化他の諸経の力用をたとえているのである。
法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩も、同じく自行と化他の力用の勝劣を判じたものであるとされ、十喩中の第一の〝諸経は諸水の如く法華は大海の如し〟という喩えを取り上げて示されたあと、「一を以て諸を例せよ」と、他の九喩も同じであると述べられている。
玄義の一に云く「薩婆悉達・祖王の弓……蓋し玆の経の力用なり已上自行」
この引用文は法華玄義巻一上において、名・体・宗・用・教の五重玄義を一々説明していくなかの〝用〟玄義を明かしている文である。
今、本抄に引用された個所のまえのところを紹介しておくと、「用とは三と為す、一に示、二に簡、三に益なり。用とは力用なり。三種の権実二智は皆是れ力用なり。力用の中に於いて更に分別せば、自行の二智、理を照らすに、理周きを名づけて力となし、二種の化他の二智、機を鑑みるに、機遍きを名づけて用と為す。秖自行の二智即ち是れ化他の二智、化他の二智即ち是れ自行の二智なり。理を照らすは即ち機を鑑みるなり。機を鑑みるは即ち理を照らすなり」とあって、引用文へと続いていくのである。
この文は全体として、自行の二智と化他の二智の力用について論じているところである。薩婆悉達(釈尊の王子時代の名)が祖王の弓を引き絞って満を持しているところを〝力〟と名づけ、これを解き放った矢が、七つの鉄の鼓を貫き、一つの鉄囲山をも貫き、大地を通り、水輪に徹することを〝用〟と名づけたのであり、自行の教えの力用にたとえるのである。これに対して凡夫の弓矢は、方便権教の力用をたとえるのである。
その相違が生ずる理由として、「昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず」とあるように、法華以前の爾前四十余年の教えに縁した衆生は、あくまで仏の〝化他の二智〟、つまり方便随他意の教えを説く実智と権智の二智を依りどころとしているために、実相の理を照らす智は不徹底であり、信を生ずることも深くなく、疑いを除き切る力も弱い。これに対して、法華円教の自行の教えに縁するならば、「自行の二智」を依りどころにするのであるから、「仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損す」ことが可能となり、化他の教とは力用において決定的に異なるのである。
ここで〝自行の二智〟というのは、自行の法である法華経における権智と実智ということである。実智とは、十界諸法の実相を極め尽くす仏の真実の智慧をいい、権智とは、衆生の機根に応じて種々に差別して法を説く智慧をいう。
法華経に縁すると、この自行の二智を受けることになるから、衆生は〝仏の境界を極め〟、すなわち、仏の境界を獲得していき、〝法界の信を起し〟、法界(真理の世界)に対する信を起こすことができ、〝円妙の道を増す〟つまり、円教の妙理を把握していく道を増すことができ、〝根本の惑を断じ〟すなわち、根本無明惑を断ずることができ、〝変易の生を損す〟つまり、菩薩の変易の生死を打破して常住不変の仏果を成就させることができるのである。これが自行の二智の力用であると述べている。ゆえにこの自行の経法の力用は、生身および生身得忍の菩薩だけでなく、法身と後心の菩薩をも利益することができると述べている。
「生身及び生身得忍の両種の菩薩」とある生身とは、父母から生じた肉身のことで、生身の菩薩とは、父母所生の肉身をもって修行する菩薩のことである。生身得忍の菩薩とは、そのような父母所生の肉身を持したままで〝無生法忍〟、つまり一切の諸法が不生不滅であるとの真理を得て心が安住している菩薩のことである。
次に「法身と法身の後心との両種の菩薩」というのは、法身とは法(真理)を身体とすることで、法身の菩薩とは修行の結果、法を身体とすることのできる境地に入りつつある菩薩のことであり、換言すれば、煩悩を断じて一分の法性を顕現した菩薩のことである。また、法身の後心の菩薩というのは、法身の菩薩のうちで初心から一段と修行の進んだ(後心)最上位の等覚位の菩薩をさす。自行の経法(法華経)は、単に菩薩の修行を増進させるための教えではなく、すべての菩薩、衆生を成仏の境地に入らしめる教えなのである。
極仏境界とは十如是の法門なり……成仏滞り無し
この段落は、先の法華玄義巻一にある言葉について、大聖人の仏法の立場から説明されたところである。
まず、「極仏境界」すなわち仏の境界を極めるとは、諸法実相・十如是の法門を悟り、十如の因果すなわち九法界の十如是(因、権智、権智の対境)と仏界の十如是(果、実智、実智の対境)とが、ともに我が生命のなかに具わっていると通達し解了して「仏語を悟り極むる」ことであると仰せられている。
次に「起法界信」とは、「法界の信を起こす」と読む。十法界を体とし(法身のこと)、十法界を心とし(報身のこと)、十法界を形とする(応身のこと)ところの本覚の如来が「我が身の中に有りけり」と信ずることが「起法界信」である、と仰せられている。
更に「増円妙道」とは「円妙の道を増す」と読み、法華円教の妙理を獲得していく道を増していくことをいい、自行と化他の二つが相即円融して一生のうちに仏になれると歓喜していくことである、と仰せられている。
更に「断根本惑」というのは〝根本の惑を断ず〟ることであるから、無明を断ずることである。したがって、一念に忍び込んだ無明惑という眠りから覚めて、本覚の寤の世界に還り、生死も涅槃もともに消え去った状態をいう、と仰せられている。
〝生死〟も〝涅槃〟もともに夢のように消え去るといわれているのは、生死の迷いの世界に対して涅槃の悟りの世界が存在するという説き方は方便権教であり、法華経においては、これらの対立的な説き方を方便として捨て去るからにほかならない。
また、「損変易生」とは〝変易の生を損す〟ということである。〝変易の生〟とは変易の生死のことであり、分段の生死に対する言葉である。
分段の生死とは三界六道に輪廻する迷いの凡夫の生死をいう。六道に輪廻する凡夫の寿命や形相に、各々の業因により六つの分々段々の差異があるので、〝分段〟というのである。
これに対して、変易の生死とは、二乗・菩薩などの生死で、三界六道の輪廻を脱した二乗、菩薩が、自らの煩悩の迷いを滅し(死)、悟りの智慧を開きあらわしていく(生)、という意味での生死を表している。すなわち、変易の生死は凡夫の分段の生死を超えた、より高い生死であるといえる。
この変易の生死について、本文には「同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり」と仰せられている。
すなわち、〝同居土〟〝方便土〟〝実報土〟の三つの〝極楽〟、すなわち三界六道の分段の生死を超越して、より高次の凡聖同居土、方便土(二乗)、実報土(菩薩)の極楽=浄土に往生した人は、これらの土において、ひたすら菩薩の道を修行して仏になろうと努力することによって、因は移り果は易って次第に進んで菩薩道の階梯を上昇しつつ、遠い成仏を待たなければならない。
このように、浄土において、成仏に向けて菩薩道の階梯を一段一段と進んでいく際、下位を捨てることを〝死〟といい、上位に進むことを〝生〟といい、これが「変易の生死」であるが、その道ははてしがなく、成仏は遠い。そのような変易の生死は「浄土の苦悩」である、と説かれている。
それに対して「爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば」と、末法の凡夫は、この穢土において法華経(御本尊)を修行することにより、十界互具・法界一如の法理によって、浄土の菩薩が遠き成仏を仰ぎ見つつ、蜿蜒とそれぞれの浄土において積み重ねていた〝変易の生死〟を、凡夫の一生の間に縮め、この一生の間に仏道を行ずることができると仰せられている。
ゆえに、玄義巻一の「生身及び生身得忍の両種の菩薩を俱に益するのみに非ず、法身・法身の後心の両種の菩薩も亦俱に益す」の文を受けて「生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり」と述べられている。
生身の菩薩とは、父母所生の肉身を有して仏道修行を実践する菩薩のことである。また法身の菩薩とは、生身を捨てて実報土に居する菩薩であり、法身の後心の菩薩とは等覚の菩薩であると説明されて、元来、迹門は生身および生身得忍の菩薩を利益し、本門は法身と法身の後心の菩薩を利益するのであるが、今、大聖人の妙法はこれらすべての利益を含むので、我々凡夫が穢土にあって、浄土における十地等覚の菩薩の修行と同じ利益を受けることができると仰せられている。
次に玄義の「化の功広大に利潤弘深なる」の文について、「化の功広大」とは、化他の徳用をあらわし、「利潤弘深」とは、自行の徳用をあらわしているとされ、後者の利潤弘深については、円頓の法華経を修行する行者は、自行の法と化他の経とがともに一法も漏らさずに一念に具足することとなり、その境地は横に(空間的には)十方法界に遍満しているゆえに〝弘い〟のであり、竪に(時間的に)三世にわたって〝法性の淵底〟(一切の諸法が拠りどころとする根本の真理)を極め尽くしているゆえに〝深い〟のであると仰せられているのである。
最後に、法華経は自行・化他の二行を含んでいるので、鳥が両翼をそなえているようなもので、滞りなく成仏できるが、爾前経は自行を具さないので、翼が一つしかない鳥と同じで、成仏は不可能であると述べられ、法華経薬王菩薩本事品第二十三の十喩のなかの、法華経は大海、諸経は衆水とのたとえを引いて、法華経は一切を具すが、爾前の衆水に大海は入らない。このように、自行と化他との勝劣は歴然たるものであると結ばれている。そして、薩婆悉達の故事や薬王品の十喩が皆〝仏の所説〟であり、この譬喩に基づく自行と化他の教相判釈は「三世の諸仏の総勘文」であり、「三世諸仏の出世の本懐」であると説かれている。