三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十四章(衆生即万法の深義を明かす)

三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十四章(衆生即万法の深義を明かす)

 弘安2年(ʼ79)10月 58歳

総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭の円かなるは天に象り足の方なるは地に象ると知り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり地に在つては五岳に法とり陰・陽に在つては五行に法とり世に在つては五常に法とり内に在つては五神に法とり行を修するには五徳に法とり罪を治むるには五刑に法とる謂く墨・劓・剕・宮・大辟此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀と為し腎を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾を勾陳と為す」又云く「五音・五明・六芸・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」已上、人身の本体委く検すれば是くの如し、然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり、五行とは地水火風空なり五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり、是を以て明かに知んぬ可し天崩れば我が身も崩る可し地裂けば我が身も裂く可し地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし、然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替ると雖も五大種は替ること無し、正法と像法と末法との三時殊なりと雖も五大種は是れ一にして盛衰転変無し、薬草喩品の疏には円教の理は大地なり円頓の教は空の雨なり亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり、其の故は此の草木は円理の大地より生じて円教の空の雨に養われて五乗の草木は栄うれども天地に依つて我栄えたりと思知らざるに由るが故に三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬えて不知恩と説かれたり、故に草木の名を得・今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなり、一地の所生なれば母の恩を知るが如く一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し、薬草喩品の意・是くの如くなり。

現代語訳

総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。

妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六には「この身の一つ一つが天地の姿に摸倣していることが分かる。頭の円いのは天にかたどり、足の四角形なのは地にかたどり、身中が空虚であることは虚空をあらわしている。腹が温かいことは春と夏に法とり、背中が剛いのは秋と冬に法とり、四体は四時に法とり、十二の大節は十二ヵ月に法とり、三百六十の小節は三百六十日に法とり、鼻の息の出入りは山の沢や渓谷の中の風に法とり、口の息の出入りは虚空の中の風に法とり、両眼は日月に法とり、その開閉は昼夜に法とり、髪の毛は星辰に法とり、眉は北斗星に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉や石に法とり、皮と肉は土地に法とり、毛は叢や林に法とり、五臓は、天においては五星に法とり、地にあっては五岳に法とり、陰陽においては五行に法とり、人の世においては五常に法とり、心においては五神に法とり、行においては五徳に法とり、刑罪においては五刑に法とる。いわゆる墨・劓・剕・宮・大辟である(この五刑は人をさまざまに傷つける刑罰で、その数は三千の罰があり、これを五刑という)。天地の主領においては五官にあたる。五官は下の巻八に博物誌を引いてあるとおりであり、いわゆる苟萠等である。天に昇っては、五雲ととなり、これが変じて五竜となる。また心蔵を朱雀とし、腎蔵を玄武とし、肝蔵を青竜とし、肺蔵を白虎とし、脾蔵を勾陳とする」と述べている。

また同じく止観輔行伝弘決には「五音も、五明も、六芸も、皆この五蔵から起こっている。更にまた内を治める法にあてはめてみれば、覚る心が大王となっては、百重の内に在り、外に出るときは五官に衛られる。肺を司馬とし、肝を司徒とし、脾を司空とし、四支を民子とし、左を司命とし、右を司録として人命を支配している。また臍は太一君等というのであり、天台大師の釈禅波羅蜜次第法門のなかに詳しくその相を明かしてある」と述べられている。

人身の本体を詳しく調べてみると、以上のとおりである。ところが金剛不壊の身を生滅無常の身であると思う誤った思いは、たとえば荘周が見た夢の蝶のようなものであると、妙楽大師は止観輔行伝弘決に釈されているのである。

五行とは地水火風空である。五大種とも、五薀とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時ともいうのである。これらは本来ただ一つの物であるが、経々によってさまざまに説かれるのである。内典と外典とその名目が異なるだけである。

法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。

この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。

これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ、仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれるのである。

この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初信の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。

このように我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れるならば我が身も崩れ、地が裂けるならば我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう。しかるにこの五大種は過去・現在・未来の三世は移り変わっても、五大種は変わることがない。正法、像法、末法と三時は異なっても、五大種は同じであり盛衰転変することはないのである。

法華経薬草喩品第五の疏には「法華円教の理は大地のようなものである。円頓の教は空の雨のようなものである。また三蔵教、通教、別教の三教は、三草と二木の教えである。そのわけはこれらの草木は円理の大地から生じて円教の空の雨に養われて、五乗の草木は栄えるけれども、天地の恩恵によって自身が栄えたことを思い知らないのである。したがって仏は三教の人天、二乗、菩薩を草木にたとえて、不知恩のものと説かれたのである。ゆえに草木との名を得たのである。ところが今法華にきてはじめて、五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るのである。一つ大地から生じたものと知るから母の恩を知り、同じ一つの雨によって潤されたものと知るから、父の恩を知ったといえるのである」と述べられている。以上が薬草喩品の意である。

語句の解説

頭の円かなるは天に象り……

古代中国の陰陽五行説では、人間即宇宙であると考え、人間とは天地をかたどったものであるという考え方が流布していた。妙楽大師は、こうした考えを一切法即仏法のなかで展開して、頭の円いのは天をかたどり、足が四角形なのは地にかたどり等と述べたのである。

 

大節の十二

両手と両足にそれぞれ三大節があって十二節となる。

 

小節の三百六十

人体の小関節。

 

五臓は天に在つては五星に法とり……

五臓(肝・心・脾・肺・腎)は中国医学において人体の最も基本的な臓器であるが、この五臓が後代において陰陽五行説によって配当されるようになった。陰陽五行説は漢民族に支配的な思想となって五臓のみではなく、天体(五星)、山岳(五岳)、人の生き方(五常)、内面的精神(五神)、人徳(五徳)等の社会および自然現象などの多くの事象に適用されるようになった。この配列を略表すると次のようになる。

五臓   脾    肝    心    肺    腎

五星   鎮星     歳星   熒惑星  太白星    辰星

五岳  中岳嵩山  東岳泰山 南岳衡山  西岳華山  北岳恒山

五行   土    木    火    金    水

五常   信    仁    智    義    礼

五神   意    魂    神    魄    志

五雲   黄雲    青雲    赤雲    白雲    黒雲

五獣   黄竜    青竜    朱雀    白虎    玄武

(勾陳)

 

五刑

中国の刑罰体系。①書経や周礼などの先秦時代にあらわれた刑罰。墨(入れ墨)・劓(鼻削)・剕(足切り)・宮(去勢)・大辟(死刑)の五刑。②隋唐以後歴代の律にあらわれたもの。笞・杖・徒・流・死の五種の刑罰。ここでは①をいう。

 

五官

五行の官。木正(句芒)、火正(祝融)、金正(蓐收)、水正(玄冥)、土正(后土)の五官。文中に苟萠とあるのは句芒に同じ。

 

勾陳

紫微宮(最も北極に近く天帝の居所とされた星座)に属する六つの星。勾はかぎ、まがったもの、陳はつらなるの意。六星が鉤型に陳なっているのでこの名がある。

 

五音

中国・日本の音楽の五つの音色。低い方から順に宮・商・角・徴・羽。

 

五明

古代インドの五種の学問。仏教徒の学芸である内の五明は、声明(文法・文学)・工巧明(工芸・技術・暦数)・医方明(医学)・因明(論理学)・内明(哲学・教義学)。世俗一般の学芸である外の五明では、因明・内明の代わりに呪術明・符印明(呪符・呪印)を含める。

 

六藝

中国・周代、士以上の者が学ぶべき科目とされた素養。礼(礼容)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(書道)・数(算術)。

 

禅門

十巻(あるいは十二巻)。天台大師の釈禅波羅蜜次第法門のこと。次第禅門と略称される。天台大師の禅観のうち、漸次止観について述べたもの。散乱する心をおさえ、一定の対象に心を止める「止」の修行をおさめながら、浅きから深きへと次第に事物の実相の真理を「観」察しつつ悟っていく方法をいう。

 

五行とは地水火風空なり……

本抄では陰陽五行説を仏法でとかれる、五大、五薀、五戒、五常、五方、五智、五時、五仏性等に配されている。この配列を略表すると次のようになる。

五行   土    木    火    金    水

五大   地    空    火    風    水

五蘊   行    色    識    受    想

五常   信    仁    智    義    礼

五方   中    東    南    西    北

五時 法華涅槃時 華厳時  方等時  般若時  阿含時

五仏性  果性   正因仏性  異果性  縁因仏性  了因仏性

妙法   妙    法    蓮    華    経

講義

一代聖教は「我身一人の日記文書」で生命のありようを説き明かしたものであり、この自己の本体を徹底的に悟り究めたのが仏である。

このことは華厳経が説いているとおりであるとされ、この自己の生命と宇宙万象との一致を明かした止観輔行伝弘決の文を挙げて、自身を知ることは宇宙万象をも知ることであると教えられるのである。

妙楽大師の止観輔行伝弘決は陰陽五行説を援用しつつ、成仏の悟りの境地がいかなるものかを明かそうとしたのである。大聖人はこれらを通して、究極的には地水火風空の五大が即妙法蓮華経であり、この妙法と五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)との関係を説いたのが法華経の薬草喩品であることが明かされている。

 

弘決の六に云く「此の身の中に……脾を勾陳と為す」又云く「五音・五明」已上

 

これは、止観輔行伝弘決巻六の二に説かれているものである。弘決はいうまでもなく、摩訶止観の注釈であるから、該当する止観巻六上の文をまず見ておこう。

すなわち、「大経に云く、『一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説なり。外道の説に非ず』と。光明に云く、『一切世間の所有の善論は、皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち仏法なり』と。何を以っての故に。十善を束ぬれば即ち是れ五戒なり。深く五常・五行を知るは、義亦五戒に似たり。仁慈矜養して他を害せず、即ち不殺戒なり。義譲推廉にして己を抽いて彼に慧むは、是れ不盗戒なり。礼制規矩、髪を結び親を成すは即ち不邪淫戒なり。智鑒明利、所為秉直にして道理に中当するは即ち不飲酒戒なり。信契実録、誠節欺かざるは是れ不妄語戒なり。周孔は此の五常を立て、世間の法薬と為して人の病を救治す。又五行は五戒に似たり。不殺は木を防ぐ、不盗は金を防ぐ、不淫は水を防ぐ、不妄語は土を防ぐ、不飲酒は火を防ぐ。また五経は五戒に似たり、礼は節に撙くことを明かす。此れは飲酒を防ぐ。楽、心を和するは防淫なり。詩の風刺するは殺を防ぐ、尚書、義譲を明かすは盗を防ぐ。易、陰陽を測るは妄語を防ぐ。是くの如き等の世智の法、精しくは其の極に通ず。能く逾ゆること無く、能く勝ること無し。威く信伏せしめて而して之を師導す。出仮の菩薩は此の法を知らんと欲せば、当に別に通明観の中に於いて勤心修習すべし」とある。

この止観巻六上の文は、全体としては十乗観法のうちの第四〝破法遍〟を明かすなかに説かれる一節である。

破法遍というのは、第一観不思議境、第二起慈悲心、第三巧安止観と観法を行じてきても、いまだ完全なる定慧(精神統一と智慧)を開発することができない場合、それはまだ偏執が残存しているのであるから、この偏執を対治するための観法である。

この観法に不可欠の基準として、四教のうち、円教のみが縦横に破法(偏執を破る)を徹底することができることを説き、その円教のなかでも、有門・無門・亦有亦無門・非有非無門があって、いずれも破法の基準として採用されるべきであるが、まず、無門(無生門)を基準とすべきであると説いている。

無門、すなわち無生門(一切諸法の本性は空であるから生滅変化することがないこと、換言すれば空観原理の法門)により、止観の第一の対境である識陰、一念の心について、見惑、思惑を対治するのである。

つまり、見惑や思惑は諸法の常住に執着するところから生まれるものであるから、この惑を無生門の空観によって破るのである。いわゆる〝従仮入空観〟(仮有より空に入る観)である。

この無生門による破法遍が成就すると、次に、新しく円教仮観の立場から破法を行う。これは、先の無生門の空観により、諸法を有する執着を破るのであるが、今度は諸法は空無である、とする考え方に偏執をいだきがちであるから、これを破るために〝従空入仮観〟(空より仮に入る)の立場に立って、大乗菩薩の化他行に転ずるのである。この化他行としては、知病、識薬、授薬の三つがある。

〝知病〟とは見惑、思惑の病の相を詳細に認識することである。すなわち、これらの見・思惑の二惑の根本が何であり、どのような因縁で、いつ生じたか、そして、いかなる病相症状の種類があるかを知るのである。

こうして、菩薩は見・思惑がもたらす無量無辺の病相を知り尽くして、苦悩に沈潜する衆生の救済を願うのである。

次に〝識薬〟とは、無量無辺の病のそれぞれに適した薬を識別することである。その薬には、世間法薬、出世間法薬、出世間上上法薬の三種がある。

三帰・五戒・十善の四禅・四無量心等の外道の行法も、一度、菩薩の手によって用いられると、見・思の二惑の病を治療する法薬となる。これが〝世間法薬〟である。

〝出世間法薬〟というのは、見思の二惑より高い惑である塵沙惑を対治する法薬であり、〝出世間上上法薬〟は最後の惑である無明を断じる法薬である。

以上のように、無量無辺の病状に即して適当な薬を識別することができると、菩薩は、衆生の楽欲(願いや性質)によって、適当な法薬を与えなければならない。

これが〝授薬〟である。菩薩は止観を修行することにより、応病与薬の智慧を得、その智慧によって衆生の楽欲を満足させつつ、これを誘導して救済していくのである。

妙楽大師の弘決の文は、以上の止観の論述のなかの〝世間法薬〟のくだりに対する注釈である。

さて、止観の文では、初めに、世間における一切の仏法以外の教えや経書も、それらを深く追求していくと仏法の思想を根底としていることが明白であると述べ、この裏づけとして、天台大師は、仏法に説く十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見)の戒をまとめると〝五戒〟(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)に収まるとし、この五戒は儒教の五常(仁・義・礼・智・信)や陰陽五行道の五行(水、火、金、木、土)と、その意義において共通している、と述べている。

次に、儒教の五常と仏法の五戒との関係を具体的に説いている。まず、「仁慈矜養して他を害せず、即ち不殺戒なり」とあるように、〝仁〟が深まれば〝不殺戒〟にあたり、このように、〝義〟が〝不盗戒〟に、〝礼〟は〝不邪淫戒〟に、〝智〟が〝不飲酒戒〟に、〝信〟が〝不妄語戒〟に、と次第して対応させている。

また、五行との関連でいえば、〝不殺〟は〝木を防ぎ〟、〝不盗〟が〝金を防ぎ〟、〝不淫〟が〝水を防ぎ〟、〝不妄語〟が〝土を防ぎ〟、〝不飲酒〟が〝火を防ぐ〟という関係になる、と述べている。

更に、五経と五戒との関係も明かしている。五経とは、儒家の基本的な文献である易経、書経、詩経、礼記、春秋のことである。

そして、これと五戒との関係を、例えば「詩の風刺するは殺を防ぐ」とか「易、陰陽を測るは妄語を防ぐ」というように述べている。

しかし、この〝世間法薬〟の説明の最後で、天台大師は「然るに世の法薬は、畢竟の治に非ず」と、世間法薬では究極の治療はできない、と打ち破っている。

この止観の文を受けて、本抄に引用された止観輔行伝弘決の巻六の二の釈文が説かれているのである。

妙楽大師の止観輔行伝弘決の文は、止観に明かされた、五常・五行・五経と仏法の五戒との関連を、更に広く敷衍し拡大して展開していることが分かる。

これは「総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し」との御文を受けて、〝我が身の本体〟というものがいかなるものであるかについて、より詳しく裏づけるために引用されているのである。

 

五行とは地水火風空なり五大種とも……妙法蓮華経の五字なり

 

この文は、止観輔行伝弘決の引用文を受けて、大聖人が、より深く仏法の立場から明らかにされたところである。

まず、五行が地水火風空の五大種であり、色・受・相・行・色の五蘊であり、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒の五戒であり、仁・義・礼・智・信の五常、東・西・南・北・中央の五方であり、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の五智でもあり、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五時でもある、ということが説かれている。

そして、これら五行、五大種、五蘊、五戒、五常、五方、五智、五時の名称は「只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり」と仰せられて、同じ〝一つの物〟が、各経により、あるいは内典と外典との相違により、名目が異なっているにすぎないと述べられている。

そして、法華経では、これらの正体が、一切衆生の心のなかにある五仏性、五智の如来の種子であることを開会し、それを妙法蓮華経の五字をもってあらわしたのであると結論されている。

五仏性というのは、天台大師が法華文句巻十上で説いたもので、衆生が仏になっていく因としての性分をいい、正因仏性、縁因仏性、了因仏性、果性、異果性の五つをいう。

この五つのうち正因、了因、縁因の三つが、因果でいえば〝因〟を表し、果性、果果性の二つが〝果〟を表している。

また正因、了因、縁因の三因仏性は、衆生の本性に固有の徳として具わっているものであるから、〝性徳〟にあたるのに対し、果性は了因の智慧が発現して菩提の果に至ったものであり、果果性は縁因の断惑が発動して涅槃に至ったものであるから、これらを〝修徳〟に約すのである。

この五仏性に加えて、〝五智の如来の種子〟が一切衆生の心のなかにある、と説かれている。五智の如来というのは、前述した五智のそれぞれの智を顕現した如来のことで、次のようになる。

すなわち、大日如来は法界体性智を、阿閦如来は大円鏡智を、宝生如来は平等性智を、阿弥陀如来は妙観察智を、不空成就如来は成所作智をそれぞれ表しており、これらを総称して〝五種の如来〟というのである。

しかしながら、〝五智の如来〟というのはあくまでも衆生が仏性を開発した結果であるから、これを因としてとらえた場合は〝五智の如来の種子〟ということになる。

そして、これらの五仏性も、五智の如来の種子も、その正体は法華経文底の〝妙法蓮華経の五字〟なのである。

 

今法華に始めて五乗の草木は……薬草喩品の意・是くの如くなり

 

法華経薬草喩品第五の意によって、地水火風空の五大種すなわち妙法蓮華経の仏種が生育するための大地が円理、雨を降らせる天空が円教であるとされ、人天・二乗・菩薩の五乗は、その恩恵を受けた草木であると説かれているところである。

すなわち、三蔵経、通教、別教の前三教における人・天・二乗・菩薩の五乗という〝草木〟は、本来、〝円教の理〟(円理)という大地(母)から生じて、〝円頓の教〟(円教)という空の雨(父)に養われて栄えているにもかかわらず、爾前経においては、これらの天地によって自分達が栄えていることを知らなかったので〝不知恩〟といわれたのである。

しかし、円教・法華経にきて初めて、三草二木の譬を聞いて、五乗の草木は円理の母と円教の父とにより、自分達が栄えていたことを知るのである。

ここでの、円理の大地の母と円教の雨の父とはいうまでもなく、妙法蓮華経の五字をたとえており、言い換えれば、人・天・声聞・縁覚・菩薩という五乗の衆生はことごとく妙法蓮華経の五字から生じ、妙法を根底として栄えるということであり、五乗は一切法に、とくに人天は世間の法に摂せられるのであるから、「光明に云く、『一切の世間の所有の善論は、皆此の経に因る』」との文を裏づけることになっているのである。

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