三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) 第十三章(一体三身の徳を示す)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅す可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、
現代語訳
摩訶止観の巻九には「たとえば眠の法が心を覆って一念のなかに無量世のことを夢みるようなものである(乃至)寂滅真如には何の次第階位があるのであろうか(乃至)一切衆生が即大涅槃である。また滅することもないのである。そこに何の次第階位や、高下や大小があるであろう。この法理は不生不生であって不可説ではあるけれども、因縁が具わっているゆえに、また説くことができるのである。十因縁の法は衆生のために因となる。その十因縁を説くことは虚空に絵を描いて樹を種えるようなものであって、方便として一切の位を説いただけなのである」と述べている。
十法界の依報・正報は法身の仏、一体三身の徳であると知って、一切の法は皆これ仏法であると通達し解了するのを名字即とするのである。名字即の位から即身成仏するゆえに円頓の教には次第階位の段階がないのである。ゆえに、法華玄義には「末代の学者の多くは経論に方便として説かれた煩悩を断じ伏すという修行に執着して競い争っている。水が冷たいことも、飲んでみなければどうして知ることができようか」と述べている。
天台大師の教判には「次第階位の大綱と網目については仁王経と瓔珞経により、煩悩を断じ伏した位の高下は大品般若経と大智度論による」と説かれている。仁王経・瓔珞経・大品般若経・大智度論は皆、法華経以前の八教のなかの経論である。権教の修行は無量劫を経て昇進する次第階位であるから、位の順序を説くのである。
今法華は八教に超えた円教なので速疾頓成であって、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に収まって、心の外にはないとみることができれば、下根の行者ですら一生のうちに妙覚の位に入るのである。一と多とが相即するので、一つの位に一切の位が皆具足するのである。ゆえに一生の間に妙覚の位に入るのである。
下根ですらそうであるのだから、いわんや中根の者は当然である。まして上根の者はいうまでもない。実相の外には更に別の法はない。そして実相には順序がないので位はないのである。
語句の解説
乃至
①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。
寂滅真如
諸々の苦悩を離れた常住不滅の涅槃の境地。「寂滅」は煩悩が滅して生ずることなない状態。「真如」は諸法の本体が真実であり常住で不変なこと。真は真実、如は如常の義。
次位
仏道修行における位の順序のこと。
一切衆生即大涅槃
一切衆生はそのまま大涅槃の当体であるということ。
不生不生
究極の真理は絶待であって何の差別も生じないこと。このことは言葉で説くことができないのを不生不生不可説という。四不可説(生生不可説・生不生不可説・不生生不可説・不生不生不可説)の第四。
因縁
①原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。②四縁(因縁・次第縁・縁縁・増上縁)の一つ。果を生む直接的原因のこと。狭義の因の意。③説法教化の縁由。なお、法華経迹門の化城喩品第7における過去世からの釈尊と声聞の弟子たちのつながりを明かし因縁を示した教説において、正法を信解し未来における成仏の保証を与えられた人々を因縁周という。④経典をその形式・内容に基づき12種類に分類した十二部経の一つ。ニダーナの訳。縁起ともいう。説法教化の縁由を示すもの。⑤因縁釈のこと。天台大師智顗が『法華文句』で法華経の文々句々を解釈するために用いた4種の解釈法(四種の釈)の一つ。世界・為人・対治・第一義の四悉檀で仏と衆生との関係、説法の因縁を釈したもの
十因縁の法
十二因縁のなかの初めから無明までの10の因縁をいう。①無明 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。 ②行 志向作用。物事がそのようになる力=業 現在の五果 ③識 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元 ④名色 と精神現象。実際の形と、その名前 ⑤六処 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意 ⑥触 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。 ⑦受 感受作用。六処、触による感受。 現在の三因 ⑧愛 渇愛 ⑨取 執着 ⑩有 存在。生存 未来の二果。
名字即
天台大師智顗が『摩訶止観』巻1下で、法華経(円教)を修行する者の境地を6段階に立て分けたなかの第2。修行者の正しい発心のあり方を示しており、信心の弱い者が卑屈になったり智慧のない者が増上慢を起こしたりすることを防ぐ。「即」とは「即仏」のことで、その点に即してみれば仏といえるとの意。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。
円頓の教
円満にしてかたよらず一切衆生を直ちに成仏させる教法のこと。法華経のことをいう。
次位の次第
仏道修行における位の順序のこと。52位でいえば、10信・10住から妙覚までの各位の順序次第をいう。
玄義
天台大師智顗が法華経の題名である「妙法蓮華経」について講義したものを、章安大師灌頂が編集整理したもの。10巻。「妙法蓮華経」に秘められている深玄な意義を、名・体・宗・用・教の五つの観点(五重玄義)から解明している。
断伏
断惑と伏惑。諸惑・煩悩が生起することを抑え伏し、ついには一切の惑を断ち切って減除することをいう。
諍闘
たたかい争うこと。
天台の判
天台大師の法華玄義のこと。
仁王
中国・後秦の鳩摩羅什による仁王般若波羅蜜経と、唐の不空による仁王護国般若波羅蜜多経の2訳が現存するが、中国撰述の経典とする説もある。2巻。正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。
瓔珞
『菩薩瓔珞本業経』のこと。二巻。後秦の竺仏念訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜、四諦したい、修行の階位(五十二位)などについて説いた経。
大品
般若経の漢訳の一つで、中国・後秦の鳩摩羅什訳。27巻。天台教学における五時のうち般若時の代表的な経典。
智論
大智度論の略称。大論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。「摩訶般若波羅蜜経」.梵語マハー・プラジュニャーパーラミター・スートラ (Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書にとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
昇進
昇り進むこと。爾前権教では修行して位を昇進して、仏に近づいていく。
法華は八教に超えたる円
法華経は化儀の四教・化法の四教を超越した円教であるということ。
速疾頓成
爾前の諸経にも即身成仏に通ずる説法があることをさす。いわゆる爾前の円教といわれるものである。一代聖教大意には「爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く『初発心の時便ち正覚を成ずと』又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く『無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず』文、般若経に云く『初発心より即ち道場に坐す』 文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、 梵網経に云く『衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり』文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても 仏に成る少少開会の法門を説く処もあり」とあるが、いまだ二乗作仏、悪人成仏、女人成仏が明かされず、十界のさべつも生ずるがゆえに、しんじつの二乗作仏とあいえないのである
下根
上根に対する語で、仏道を実践する力が乏しく、機根が劣っている者のこと。
妙覚の位
仏の悟り、またその悟りの位。大乗の菩薩の52位の最高位。円教の修行の六即位では究竟即にあたる。
一と多と相即
ひとつのものと多数のものが一一体不二であるということ。
中根
中根の法華経迹門で声聞の弟子が、つぎつぎと成仏を許されて授記を受けるが、それらの声聞は上根・中根・下根の三種に区別されている。まず舎利弗等が方便品の説法を聞いて得道する。これを法説周という。次に譬喩品等の譬えを聞いて須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・大目犍連等が得道する。これを譬説周という。さらに、大通智勝仏以来の因縁を聞いて富楼那等が得道する。これを因縁周という。
上根
煩悩に左右されにくく、法を聞いてすぐに理解できる機根の者のこと。
講義
ここからは、無明を法性に転ずるのが成仏であるから、これを明かした円頓の教においては、凡夫が成仏するために歴劫修行は必要ないことを示されている。
すなわち、地獄界から仏法界に至るまでの十法界の依報・正報がそのまま“法身の仏・一体三身の徳”つまり、衆生の生命の本来の姿であると知ることができれば、それは一切の法が皆仏法であると通達し解了する名字即の位に入るのであり、法華円教の教えにおいては名字即の位から即身成仏するのである、と述べられている。
そして、更に法華玄義や天台大師の判を引用されて、これを裏づけられている。
止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念~故に円頓の教には次位の次第無し
初めに、止観の引用文は摩訶止観巻九下からのものである。この文のまえに「若し一人の一念にことごとくみな十界・十如十二因縁を具足するを、すなわち称して摩訶衍不可思議の十二因縁となすべきのみ」という文があり、続いて引用の文では、心の実相においては十界十如十二因縁ことごとく一つであるにもかかわらず、迷いの心は、ちょうど、睡眠の状態が心を覆うと、一念のなかに無量の世の中の事象を夢見るように、さまざまな事象が個々別々に存在するかのように錯覚する、という意味で、その全文を挙げると次のとおりである。
「若し寂滅真如には何の次位か有らん。初地すなわち二地、地は如より生ず。如は生あることなし。あるいは如より滅す。如に滅あることなし。一切衆生即大涅槃なり。復滅す可からず。何の次位・高下・大小か有らんや。不生不生にして不可説なり。因縁有るが故に亦説くことを得可し、十因縁の法、生の為に因を作ること、虚空に画き、方便して樹を種うるが如く、一切の位を説くのみ」とある。
この文について説明を加えると、「寂滅・真如という究極の境地においては、位の次第というものはない。初地がそのまま二地である。“地”という次第・階梯は如から生ずるのであるが、如自体は“生ずる”ということはない。また、“地”の次第・階梯は滅するが、如自体に“滅する”ということはない。一切衆生は本来、大涅槃の境地を有しているのであるから、滅することはありえず、修行や境地には、どのような位の次第や高下、大小もないのである。この大涅槃の境地は“不生不生”つまり、差別としてあらわれる以前の姿であり“不可説”つまり、言葉で説くことはできないけれども、衆生を教化するという因縁があるゆえに、また言葉でもって方便が説くことが可能なのである。そこで十因縁の教えが衆生のために説かれるのである。しかしそれはちょうど、虚空に絵を描き、虚空に樹を植えたりするようなもので、一切の位は、ただ方便として説いたにすぎない」ということである。
この引用文を受けて「十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」と仰せられている。
すなわち、地獄界から仏法界に至るまでの十法界の依報・正報は“法身の仏”すなわち一体三身の仏に具わる徳であると知って、一切の法が皆仏法であると通達し解了するのが名字即の位であり、この名字即の位から即身成仏するのであって、そこには次位の次第、階梯はない、と仰せられている。
なお「一切の法は皆是れ仏法なり」ということについては、改めて後に詳しく総括的に述べるので、ここでは述べない。
故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如き~無きが故に位無し
「円頓の教には次位の次第無し」という前文を受けて、これを天台大師の法華玄義から二つの文を引用され裏づけられている。
一つは法華玄義巻五上の文で「末代の学者は、多く教論の方便断伏を執して諍闘す云云。水の性の冷ややかなるが如きは、飲まずんば安んぞ知らん。此れ乃ち諸仏の縁に赴く不思議の語なれば、機に随いて増減し、位数同じからず。爾末だ証得せずして、空しく諍いて何か為ん。普く願わくは法界の衆生、僧に帰して諍論を息め、大和合海に入らんことを」とある。
この内容は、「末代の学者の多くは、教論に方便として説かれたところの、煩悩を断じ伏すという修行に執着して競い争っている。しかしこれらはいずれも、衆生教化の方便であるゆえに、“機に従いて増減し、位数同じ”でないのである。したがって、水の性が冷たいか否かについては、実際に飲めば直ちに分かるように、仏道修行も実際に実践してみるにしくはない」と説いている。
次の“天台の判”とうい引用文は同じ法華玄義巻四下から、取意されたもので、原文には「広く経論を尋ねずんば、目無くして日を諍うが如し、今若し位数を明かすは、須く瓔珞、仁王に依るべし。若し断伏の高下を明かすは、須く大品の三観に依るべし。若し法門に対するは、須く涅槃に依るべし」とある。
すなわち、次第階位の大綱と網目について明かしたのが仁王経と瓔珞経であり、煩悩を断じ伏した位の高下について説いたのが大品般若経と大智度論である、ということである。
以上の法華玄義の引用文を受けて本抄では、仁王・瓔珞・大品・大智度論などは、法華以前の八教にすぎず、権教であるので、修行の次第階位を説いたのであると仰せられている。
これに対して、法華経は八教を超越した円教であるから、速やかに成仏して、我が心と仏と衆生の三つはことごとく差別がなく我が一念の心中に摂して、一切が即心であると観ずることができれば、下根の行者ですら一生の間に妙覚の位に入ることができる、と仰せられている。
法華円頓の教においては“一”と“多”とが相即するのであり、一つの位に一切の位を具足していることになる。
例えば、五十二位に即していえば“第十二”という位に他の位を一切を具足していることになるから、どの位からでも、第五十二位の妙覚の位に到達できるのである。
下根の人でも一生のうちに仏になれるのであるから、ましてや中根・上根の人はいうまでもないことを明かされた後、実相には位の次第というものはないことを確認されている。