窪尼御前御返事(虚御教書の事)
弘安期 窪尼
粽五把・笋十本・千日ひとつつ、給び了わんぬ。
いつものことに候えども、ながあめふりてなつの日ながし。山はふかく、みちしげければ、ふみわくる人も候わぬに、ほととぎすにつけての御ひとこえ、ありがたし、ありがたし。
さては、あつわらの事、こんどをもっておぼしめせ。さきもそら事なり。こうのとのは、「人のいいしにつけて、くわしくもたずねずしてこの御房をながしけること、あさまし」とおぼして、ゆるさせ給いてののちは、させるとがもなくては、いかんがまたあだせらるべき。
すえの人々の、法華経を心にはあだめども、うえにそしらばいかんがとおもいて、事にかずけて人をあだむほどに、かえりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみぎょうそと申すことは、みぬさきよりすいして候。さどの国にても、そらみぎょうそを三度までつくりて候いしぞ。
これにつけても、上と国との御ため、あわれなり。木のしたなるむしの木をくらいたおし、師子の中のむしの師子を食らいうしなうように、守殿の御おんにてすぐる人々が、守殿の御威をかりて、一切の人々をおどし、なやまし、わずらわし候うえ、上の仰せとて法華経を失って、国もやぶれ、主をも失って、返って各々が身をほろぼさんあさましさよ。
日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまぼらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は、剣をのみ、火を手ににぎるなるべし。これにつけても、いよいよ御信用のまさらせ給うこと、とうとく候、とうとく候。
五月三日 日蓮 花押
窪尼御返事
現代語訳
粽五把・筍十本・千日一筒をいただきました。
例年のことではありますが、長雨が続き、蒸し暑い夏の日は長い。山は深くて路に草が生い茂って歩きにくいので、踏み分けて訪ねる人も稀な所に、ほととぎすにつけての一声のお手紙、まことにありがたく思います。
さて、熱原のことですが、今度のことからも分かるでしょう。以前のことも偽りであったのです。守殿(北条時宗)は、人の讒言を信じて、詳しく調べもしないで日蓮を佐渡に流罪したことを、誤りであったと後悔して赦免されたのですから、その後はよほど明白な罪がなければ、どうして、またも罰せられることがありましょうか。
守殿の家臣達が心の中では法華経を敵と思っているけれども、あらわに迫害するのもどうかと思って、熱原の事にかこつけて怨をしたところ、かえって前の虚事が露見してしまったのです。
日蓮はこれが偽の御教書だということは、それを見る前から推察していました。佐渡の国にいたときも、偽の御教書を三度も作ったのです。
それにつけても、守殿と日本国のためにあわれなことです。木の下にいる虫が木を食い倒し、師子の中の虫が師子を食い殺すように、守殿の恩を受けてこの世を過ごす者が守殿の威を借りて、一切の人々を脅し、悩まし、煩わしたうえ、守殿の仰せだといって法華経に怨をなして、ついに国も滅び主君をも失って、かえって各々の身を滅ぼすとは何と愚かなことでありましょう。
日蓮は卑しいけれども法華経が梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩の守られる経でありますから、法華経を信ずる人を迫害する人々は剣をのみ、火を手に握るようなものです。これにつけても、いよいよ信心を増されることは尊いことです。尊いことです。
五月三日 日 蓮 花 押
窪尼御返事
語句の解説
粽
端午の節句に食べる餅の一種。茅・笹・菰などの葉で包んだもの。古くは茅の葉で巻いたので「ちまき」という。
千日
千日酒のこと。良質の酒をさす。一杯飲めば、千日間酔っていることができるので千日酒という。転じて酒に千日の字をあてるようになった。
あつわらの事
駿河国富士郡下方庄熱原郷に住んでいた日蓮大聖人御在世当時の信徒たちが受けていた迫害のこと。大聖人身延入山後日興上人の富士地方における弘教によって、熱原の滝泉寺住僧日秀・日弁らが入門、その折伏によって神四郎等の農民が入信し信徒となった。そうした動きに対して滝泉寺の院主代・行智等によって弾圧が加えられ、弘安2年(1279)に熱原法難がおきている事をさす。
かうのとの
(1251~1284)。鎌倉幕府第八代執権・北条時宗のこと。第五代執権・時頼の嫡子。文永元年(1264)に連署となり、翌年、相模守に任ぜられた。文永5年(1268)執権に就く。文永8年(1271)9月の竜口の法難では詳しい詮議をしないで、日蓮大聖人を佐渡流罪に処したが、後に讒言と分かって赦免している。「守殿」の守は「かみ」の転訛したもの。四等官、長官・次官・判官・主典の最高位の尊称。時宗が幕府においては執権であるが、相模守でもあったことから、相模国の鎌倉の人々からは、ただ「守殿」と呼ばれていた。
さど
佐渡島のこと。新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
師子の中のむし
通常師子身中の虫という。師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部からは破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。
現存しない経。
①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。
②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)
③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)
現存する経
④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)
⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)
⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)
このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二?利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
講義
本抄は日蓮大聖人が身延で著され、窪尼に与えられた御消息である。御真筆の一部が保田の妙本寺に現存する。
弘安元年(1278)5月3日の御述作とされているが、本抄の「あつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり……これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候」との御文は、弘安2年(1279)9月の熱原法難の際に大聖人門下の信仰禁圧の根拠とされた御教書が、鎌倉幕府の正式な命令書ではなく、平左衛門尉の手になる、にせの御教書であると指摘されたものと拝される。そうだとすると、5月3日の日付けから、本抄は法難の翌年である弘安3年(1280)の御述作と考えるべきであろう。
別名を「三物書」「与持妙尼書」とも呼ばれていたようである。
本抄をいただいた窪尼は、駿河国富士郡西山の窪(静岡県富士宮市大久保)に住んでいた信徒の女性とされ、窪尼に与えられた御消息の内容から、夫に先立たれて女の子一人を育てながら、大聖人にたびたび御供養を捧げるなど純真な信心を貫いたことがうかがえる。
「妙心尼御前御返事」の講義で述べたように、窪尼は妙心尼、持妙尼と同一人物であるとも考えられている。本抄が古来「与持妙尼書」とも呼ばれていたほか、他の窪尼御前への御消息も「報持妙尼書」「与持妙尼書」とされてきたことも、窪尼と持妙尼が同一人物とされたからにほかならない。
持妙尼とは、日興上人の叔母にあたる富士郡賀島の高橋六郎兵衛入道の後家尼のことである。持妙尼の生家・由比家があった河合の地は窪のごく近くであり、夫亡き後の持妙尼が幼い娘を連れて生家の近くの領地内へ移り住んだと考えることはできよう。
また、窪尼が高橋六郎兵衛入道の後家尼だったとすれば、賀島の高橋家は富士方面の折伏弘教の中心であったので、熱原法難にも関係が深かったため、大聖人が本抄で法難の背景を教えられたことも納得できるのである。
本抄の最初で、窪尼から粽・たけのこ・酒が御供養されたことに対する謝意が述べられている。それらの品は、5月5日の節句を祝ってのものであろう。
さてはあつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ
「あつわらの事」とは、弘安二年九月に起きた熱原法難を指すと思われる。「こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」と仰せの「こんど」が何を指すかは、その後に「これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候」と述べられているので、虚御教書が下されたことをいわれたものであることが明らかである。「さき」とは、次の御文に述べられていることから、佐渡御流罪中に、武蔵前司・北条宣時が念仏者等の訴えによって出した偽の御教書を指している。
御教書とは、鎌倉時代では将軍の意を承って出される奉書をいい、それに執権と蓮署の二人が署名する形式を関東御教書といった。つまり、将軍の命を伝える幕府の公文書をいった。しかし、源氏の将軍が頼朝・頼家・実朝の三代で絶えた後は実権が北条得宗家に移っており、将軍の意を承けた形式にはなっていても、実際は執権の命令を伝えるものとなっていた。虚御教書とは、上意を受けずに臣下が勝手に作った虚偽の御教書をいう。
「さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」と仰せになっている事実については、種種御振舞御書に「武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度」(0920:09)と述べられ、千日尼御前御返事にも「極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して弟子に持たせて日蓮を・あだみなんと・せし」(1313:11)と記されている。
その内容は、法華行者逢難事に「文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐土の国へ下す状に云く」(0966:15)として、次のように引用されている。
「佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後彼僧に相い随わん輩に於ては炳誡を加えしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を注進せらる可きの由の所に候なり、仍て執達件の如し。
文永十年十二月七日 沙門観恵上る
依智六郎左衛門尉等云云」
「執達」とは上司の意を下の者に伝達するという意味で、この命が執権の意から出たものであることをあらわしている。しかし、この命令書は、そのように装った、虚偽の御教書だったのである。
大聖人は、今回の迫害が執権の意思によるものでないと判断された理由を「かうのとのは人のいゐしに・つけて・くはしくも・たづねずして此の御房をながしける事あさましと・をぼしてゆるさせ給いてののちは・させるとがもなくてはいかんが・又あだせらるべき」と仰せである。
執権・北条時宗が、大聖人の佐渡流罪を赦免したのは、平左衛門尉らの讒言(ざんげん)だけを信じて、何の罪もない大聖人を流罪にしたことを悔いたためであり、時宗が再び大聖人に迫害を加えることはよほどの重罪が明らかにでもならないかぎりありえない、と執権時宗の心情を推し量って断じられているのである。
そのことについては、聖人御難事でも「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり、今はいかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず」(1190-09)と述べられている。
鎌倉幕府の執権・北条時宗に大聖人を弾圧する意志がない以上、大聖人と門下への迫害を命じた御教書が下されたとしたら、それは時宗のかかわり知らない虚偽の御教書であることは明らかである。
虚御教書の内容は不明だが、佐渡における北条宣時のそれと同様に正法信仰を禁止するもので、それには平左衛門尉がかかわっていたと考えられる
しかし「すへの人人の法華経の心にはあだめども・うへにそしらば・いかんがと・をもひて・事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ」と仰せのように、平左衛門尉らが執権の意にかかわりなく大聖人と門下を怨嫉して弾圧の策謀をしたことが、かえって前の虚偽を明らかにする結果となったということである。
弘安2年(1279)9月21日、駿河国富士郡熱原郷(静岡県富士市)の農民信徒20人を下方政所の役人らが捕らえ、弥藤次が訴人となって訴状を出し、鎌倉へ送っている。訴状の内容は「今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野房は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を刈り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ」(0852:10)というものだった。
事実は、日興上人の門下で、もと滝泉寺の住僧だった、下野房日秀の持ち田の稲刈りに多数の農民信徒が手伝いに集ったところを、不当にも暴行を加えて逮捕したものだった。訴状には、盗んだ稲を日秀の住房に運び込んだとあるが、日秀は、四年も前に滝泉寺の院主代・行智から住坊を奪われ、滝泉寺を追放されていたので、住房へ稲を運び込めるはずがなかったのである。もちろん、そうした罪状はあくまでも口実にすぎず、信仰を弾圧することが目的だったことはいうまでもない。
また、逮捕した熱原の農民信徒20人を鎌倉に連行して侍所所司の平左衛門尉が取り調べたが、訴状にある罪状については全く尋問せずに、法華経を捨てて念仏を称えるという起請文を書けば許してやると責め立てたのである。そのことも、訴状にある罪状が虚構だったことを物語っている。
そして、弘安2年10月15日、蟇目の矢で射るという拷問にも屈せず、一人も退転する者がいなかったため、張本と目された神四郎、弥五郎、弥六郎の3人が処刑され、残り17人は追放されたのである。
偽の御教書は、この処断を幕府公式のものに見せかけるために作られたとも考えられる。
このように熱原法難は、滝泉寺の院主代・行智と平左衛門尉が結託して私的利害と感情からさまざまな策謀とでっちあげによって大聖人門下を弾圧した卑劣な事件だったのである。
「あつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり」とは、そうした熱原法難の真相を鋭く御指摘になったものと拝することができる。
これにつけても上と国との御ためあはれなり
「守殿の御をんにて・すぐる人人が守殿の御威をかりて一切の人人ををどし・なやまし・わづらはし候うへ、上の仰せとて法華経を失いて国もやぶれ主をも失うて返つて各各が身をほろぼさんあさましさよ」とは、熱原法難における平左衛門尉の行為を指しておられることは明らかである。
大聖人はそうした平左衛門尉らの行為が、執権・北条時宗のためにも国のためにも大きな害となる師子身中の虫というべきもので、やがては国を滅ぼし、我が身を滅ぼすであろうと仰せになっている。
その後の平左衛門尉の行状をみると、この大聖人の御指摘どおりになっているのである。弘安7年(1284)4月に北条時宗が34歳の若さで死去すると、14歳の嫡子貞時が執権職についたが、内管領と呼ばれた平左衛門尉は、幕府内で対立していた安達泰盛を讒言して滅ぼし、実権を独占した。
しかし、永仁元年(1293)4月、平左衛門尉頼綱の嫡子宗綱が「父杲円は、いま、次男ともども専横をほしいままにしており、やがては資宗を将軍にしようと企んでいる」と訴え出たため、執権北条貞時によって討っ手が向けられ、頼綱・資宗父子をはじめ一族は滅ぼされている。
日興上人は平左衛門尉の滅亡を「(熱原法難から)其の後十四年を経て平の入道、判官父子、謀叛を発して誅せられ畢んぬ。父子これただ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」と記録され、また徳治3年(1308)4月8日御書写の御本尊に「左衛門入道法華宗の頸を切るの後、十四年を経て謀叛を謀り誅せられ畢ぬ、其子孫跡形無く滅亡し畢ぬ」と脇書されている。まさに「各各が身をほろぼさん」と仰せのとおりになったのである。
また「国もやぶれ主をも失うて」といわれている点については、平左衛門尉が権力を利用して専横な政治を行ったことが人心の離反を招いたこともあるが、なかんずく正法の信徒に迫害を加えたことが、幕府滅亡の因となったのである。
ともあれ、諸天が加護している正法を信ずる者を怨嫉し迫害する者は、自ら剣を呑み火を手に握るように、必ず罰を被るであろうと大聖人は断じられている。
そして最後に、窪尼がいよいよ強い信心をあらわされたことを「たうとく候ぞたうとく候ぞ」と称賛されて本抄を結ばれている。