種々物御消息 第三章(未曾有の大難にあうを示す)

種々物御消息 第三章(未曾有の大難にあうを示す)

 弘安元年(ʼ78)7月7日 57歳 (南条平七郎)

————————————-(第二章から続く)———————————————

この法門は、当世日本国に一人もしりて候人なし。ただ日蓮一人ばかりにて候えば、これを知って申さずば、日蓮、無間地獄に堕ちてうかぶごなかるべし。譬えば、むほんのものをしりながら国主へ申さぬとがあり。申せば、かたき雨のごとし、風のごとし、むほんのもののごとし、海賊・山賊のもののごとし。かたがたしのびがたきことなり。例せば、威音王仏の末の不軽菩薩のごとし。歓喜仏のすえの覚徳比丘のごとし、天台のごとし、伝教のごとし。また、かの人々よりもかたきすぎたり。かの人々は、諸人ににくまれたりしかども、いまだ国主にはあだまれず。これは、諸人よりは国主にあだまるること、父母のかたきよりもすぎたりとみよ。

————————————-(第四章に続く)————————————————-

 

現代語訳

この法門は、今の世に日本国では一人も知っている人はいない。ただ日蓮一人ばかりであるので、これを知って言わなければ、日蓮は無間地獄に堕ちて浮かぶ時もないであろう。たとえば、謀反の者を知りながら国主へ言わなければ罪となるようなものである。これを言うならば敵は雨のように風のように襲ってくる。謀反の者のように、海賊・山賊の者のように憎まれる。いずれにしても忍び難いことである。例えば、威音王仏の末の不軽菩薩のようであり、歓喜仏の末の覚徳比丘のようである。天台大師、伝教大師のようである。また、これらの人々よりも敵ははるかに勝っている。これらの人々は、諸人に憎まれたけれども、まだ国主に怨まれてはいない。日蓮は、諸人よりは国主に怨まれること、父母の敵にも過ぎているのは、見られるとおりである。

 

語句の解説

威音王仏の末の不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている。威音王仏の滅後の像法時代の末に不軽菩薩が出現し、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と一切衆生を礼拝讃歎した。あらゆる人々を常に軽んじなかったので常不軽と呼ばれた。そのため、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈、杖木瓦石の迫害を受けた。

 

歓喜仏のすえの覚徳比丘

涅槃経巻三に説かれている。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。

 

天台

(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

伝教

(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。

講義

以上のように、諸宗の高僧達こそ無間地獄に堕ちる極重罪人であるということは、日蓮大聖人以外にだれも知らない大問題であった。まさしく常識をくつがえすことであったのである。

これをいえば、諸宗の僧達も、彼等を信じ崇めている権力者はじめ、あらゆる民衆も、激しい怒りにとらわれて、種々の迫害を加えてくることは、目に見えていた。

だが、もしも、これをいわなければ、大聖人自身「無間地獄に堕ちて・うかぶ期なかるべし」という罪業を作ることになる。なぜなら、涅槃経に「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵嘖し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」と戒められているように、仏法の怨となり、また、これらの僧達を信じて一緒に無間地獄に堕ちる無数の人々を見殺しにする無慈悲の所業となってしまうからである。

「此の法門は当世・日本国に一人もしりて候人なし、ただ日蓮一人計りにて候へば・此れを知つて申さずば・日蓮・無間地獄に堕ちて・うかぶ期なかるべし」との仰せは、「開目抄」の次の御文と同趣旨といえよう。

「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし……今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200:09)。

人々の不幸の根本的な原因が邪宗邪義にあることを深く知られ、ただ御一人立たれて邪法を捨てて正法を信ずるよう強く勧め、そのために競い起こる身命にも及ぶ大難を忍ばれた日蓮大聖人のお振る舞いこそ、「難を忍び慈悲のすぐれた」(0202:08)末法の御本仏の大慈悲の御姿だったのであり、この御文は大聖人の末法御本仏たる御内証を示していると拝される。

謗法を責めないことは、「譬へば謀反のものを・しりながら国主へ申さぬとがあり」と仰せのように、謗法に与同する罪にあたるのである。

謗法を責めれば強敵が競い起こり、大難は嵐のように襲ってくる。それは過去の正法弘通によって難にあった不軽菩薩や覚徳比丘、天台大師や伝教大師を超える厳しい難である。なぜなら、大聖人の場合は、国主による迫害だからであると述べられている。

不軽菩薩は四衆から杖木瓦石の難にあい、覚徳比丘は邪法の僧によって刀杖による迫害を受けた。しかし、国主すなわち国家権力による迫害ではない。天台大師や伝教大師は、国主からはむしろ尊敬を受けたのである。それに対し、大聖人は権力によって弘長元年(1261)5月12日の伊豆・伊東への流罪と、文永8年(1271)9月12日の竜の口法難とそれに続く佐渡流罪という大難にあわれている。

そのありさまは「雨のごとし風のごとし・むほんのもののごとし……諸人よりは国主にあだまるる事・父母のかたきよりも・すぎたる」であった。

タイトルとURLをコピーしました