種々物御消息 第二章(諸宗の人師の堕獄を述べる)

————————————-(第一章から続く)———————————————

しかれば、いまの代の海人・山人、日々に魚・鹿等をころし、源家・平家等の兵士等の、としどしに合戦をなす人々は、父母をころさねば、よも無間地獄には入り候わじ。便宜候わば、法華経を信じて、たまたま仏になる人も候らん。今の天台の座主、東寺、御室、七大寺の検校、園城寺の長吏等の真言師、ならびに禅宗・念仏者・律僧等は、眼前には法華経を信じよむににたれども、その根本をたずぬれば、弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等が弟子なり。源にごりぬれば流れきよからず、天くもれば地くらし。父母謀反をおこせば妻子ほろぶ。山くずるれば草木たおるならいなれば、日本六十六箇国等の比丘・比丘尼等の善人等、皆無間地獄に堕つべきなり。されば、今の代に地獄に堕つるものは、悪人よりも善人、善人よりも僧尼等、僧尼よりも持戒にて智慧かしこき人々の阿鼻地獄へは堕ち候なり。

————————————-(第三章に続く)————————————————-

 

現代語訳

そこで、今の世の漁夫・猟師で、日々に魚や鹿等を殺している人や、源家・平家等の武士等で、年々に合戦をしている人々は、父母を殺さないので、おそらく無間地獄には入らないであろう。機会があれば、法華経を信じて仏になる人もいるであろう。

それに対し、今の天台宗延暦寺の座主、東寺・仁和寺・七大寺の検校、園城寺の長吏等の真言師、ならびに禅宗、念仏者、律宗等の人は、表面的には法華経を信じ、読誦しているようではあっても、その根本を究めるならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等の弟子である。源が濁れば流れは清くない。天が曇れば地は暗い。父母が謀反をおこせば、妻子は亡ぶ。山が崩れれば草木は倒れる道理であるから、日本六十六か国の比丘・比丘尼等の善人等は、皆無間地獄に堕ちるであろう。

だから、今の世に地獄に堕ちる者は、悪人よりも善人、善人よりも僧尼、僧尼よりも持戒で智慧のある人が阿鼻地獄へは堕ちるのである。

 

語句の解説

天台の座主

「座主」というのは大衆一座の主である。比叡山延暦寺等では、時の貫首を座主と呼んでいる。

 

東寺

第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。

 

御室

第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。

 

七大寺の検校

「七大寺」とは奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。「検校」とは社寺にあって一山の事務を監督する職のことで、一山の上首として、僧尼を監督する者。

 

園城寺の長吏

「園城寺」とは、琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。「検校」とは、寺院の首長となる僧侶のこと。

 

真言師

真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

念仏者

念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

律宗

戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。

 

弘法大師

(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。

 

慈覚大師

(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。

 

智証大師

(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。

 

善導

(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

法然

(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。

 

比丘

ビクシュ(bhikṣu)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。

 

比丘尼

ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。

 

持戒

「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。

講義

先に示された罪業の軽重の原理から、今の代を見るに、無間地獄に堕ちるのは、世間一般の常識とは逆に、諸宗の高僧達であることを明かされている。

当時の人々は、生き物を殺すことをなりわいとする猟師や漁師、また合戦し殺傷をくりかえす武士などは、罪深い人々であると考えていた。それに対し、大聖人は、これらの人々も父母を殺すなどの五逆罪を犯さなければ無間地獄に堕ちることはないし、縁があって法華経を信ずることがあれば成仏することもできるのであると仰せになっている。

そして、それに対して世間の人々から、仏教を修行して日々善根を積み成仏するであろうと信じられている各宗の僧達こそ無間地獄に堕ちる罪業深き人であることを示されている。そして、その理由は弘法・慈覚・智証・善導・法然等の弟子だからであると述べられている。

なぜ弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然の弟子であるために無間地獄に堕ちるのかといえば、そうした諸宗の祖師達が立てた教義が謗法の邪義であり、それを信じた弟子は、知らなくても謗法となってしまうからである。

それでは謗法とは何かといえば、「顕謗法抄」に「謗法の相貌如何、答えて云く天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり」(0448:16)と仰せであり、正法に背き、正法を捨てさせることをいう。

そして、また「華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか、華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり法相三論もてかくのごとし、真言宗には日本国に二の流あり東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり何に況や大日経にをいてをや、天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり印真言等は超過せりと云云……されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかかずば謗法の者・悪道に堕ちたりとしるべし」(0452:02)と述べられている。

そのように釈尊の本意に背き、真実最高の教えである法華経を下して、多くの人々に法華経を捨てさせた諸宗の祖師達の謗法の罪は、まことに重いといわなければならない。

「開目抄」にも「外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり……況や観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて還つて念仏に対して閣抛閉捨せるは法然並びに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや」(0227:09)とも、また「世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし」(0199:18)とも仰せられている。

当時の人々は、仏法によって善根を積もうとし、成仏を願い極楽往生を期しながら、謗法の祖師の教えを信じて正法に背いてしまっていたため、無間地獄の苦悩を受けざるを得ないのである。しかも、「悪人よりも善人・善人よりも僧尼・僧尼よりも・持戒にて智慧かしこき人人の阿鼻地獄へは堕ち候なり」と御示しのように、人々に仏法を教える立場の高僧ほど、人を悪道に導くので無間地獄への大罪を作っているのである。

このように、殺生をなりわいとする人々よりも、世に〝生き仏〟のように崇められている高僧達こそ無間地獄へ堕ちるとの大聖人の主張は、まさしく、当時の人々の常識をくつがえし、既成の権威を真っ向から否定するものであった。それゆえ、日蓮大聖人に対し、激しい迫害、弾圧が加えられたのである。

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