聖人等御返事
弘安2年(ʼ79)10月17日 58歳 日興等
今月十五日酉時御文、同じき十七日酉時到来す。「彼ら御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉る」云々。
ひとえに只事にあらず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易わって、法華経の行者を試みたもうか。例せば、雪山童子・尸毘王等のごとし。はたまた、悪鬼その身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五の五百歳の法華経の行者を守護すべきの御誓いはこれなり。大論に云わく「能く毒を変じて薬となす」。天台云わく「毒を変じて薬となす」云々。妙の字虚しからざれば、定めて須臾に賞罰有らんか。
伯耆房等、深くこの旨を存して問注を遂ぐべし。平金吾に申すべき様は、「去ぬる文永の御勘気の時の聖人の仰せ、忘れ給うか。その殃いいまだ畢わらず。重ねて十羅刹の罰を招き取るか」。最後に申し付けよ。恐々謹言。
十月十七日戌時 日蓮 花押
聖人等御返事
この事のぶるならば此方にはとがなしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにおづべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり、今度の使にはあわぢ房を遣すべし。
現代語訳
今月十五日酉時の御手紙、同じく十七日酉時に到着した。彼等が処刑された時、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、全くただごとではない。きっと平左衛門尉の身に十羅刹女が入り替わって法華経の行者を試したのであろうか。雪山童子、尸毘王等の例と同じである。あるいはまた悪鬼がその身に入った者か。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・梵天・帝釈等が五五百歳の法華経の行者を守護するとの御誓はこのことである。
大智度論には「能く毒を変じて薬とする」とある。また天台大師は「毒を変じて薬とする」と解釈している。妙の法門が虚事でないならば、必ず忽ちに賞罰があるであろう。
伯耆房等は深くこの旨を心得て問注を遂げなさい。平左衛門尉に申すべきことは、文永八年の迫害の時、日蓮聖人の言われたことを忘れたのか、そのための災いもいまだ畢っていないのに、重ねて十羅刹女の罰を招き取ろうとするのか、と最後に申し付けなさい。恐恐。
十月十七日戌時 日 蓮 在 御 判
聖人等御返事
このことを述べるならば、こちらには過ちがないと皆人は言うであろう。また大進房が落馬したこともあらわれるであろう。あらわれれば、人々はとりわけ現罰を畏れるであろう。落馬は天の御計らいである。あなた方は恐れてはならない。心を強くもっていけば、必ず事の次第が明らかになると思われる。今度の使者には淡路房を遣わすだろう。
語句の解説
酉時
現在の午後六時ごろをいう。
平金吾
(~1293)。平左衛門尉頼綱のこと。鎌倉時代の武士。北条得宗家の家司、また侍所所司次官として軍事・警察・政務を統轄し、13世紀後半の鎌倉幕府の政治上の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛や諸宗の僧と結びつき、日蓮大聖人の諌暁を用いず、かえって迫害を加え、大聖人門下を弾圧した。弘安7年(1284)内管領となり、翌年、幕府内で対立していた評定衆である安達泰盛を讒言して滅ぼし、幕府の実権を握り、その勢いは執権北条貞時をしのぐほどになった。しかし、永仁元年(1293)4月、長男・宗綱の讒訴により、北条貞時によって次男の資宗と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡へ流罪され、一族は滅亡した。
十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
雪山童子
釈尊が過去世で修行をしていた時の名。涅槃経巻十四等にでてくる。釈尊は過去の世に雪山で、バラモンの姿で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞き終え、その偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受けとめ大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
尸毘王
梵語でシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊が過去世に菩薩として檀波羅蜜を修行していた時の名。菩薩本生鬘論巻一によると、帝釈天と昆首天子は、鷹と鳩に化身して、尸毘王が真に菩薩として精進し、仏道を求めているかどうかを試そうとした。尸毘王は、鷹に追われた鳩を救うとともに、飢えた鷹を救うために自らの身肉をさいて与えたという。
梵帝
大梵天王と帝釈天のこと。梵天とは三界のうち、色界の初禅天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通号である。このうちの主を大梵天王といい、インドの神話では、もともと梵天は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。帝釈とは釈迦提桓因陀羅、略して釋提桓因ともいう。欲界第二の?利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して三十三天を統領している。法華経では、梵天・帝釈は眷属二万の天子と倶に、法華経の会座につらなり、法華経の行者の守護を誓っている。
五五百歳
釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。
大論
大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
伯耆房
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
問注
①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
戌時
午後8時~10時。
大進房
下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
あわぢ房
日蓮大聖人御在世当時の弟子。淡路房日賢のこと。日興上人の法系で、六老僧の一人・日持の弟子となっていた。駿河国西部に住み、熱原法難に関係したようであるが、詳伝は不明。大聖人御入滅後、墓輪番十八人の一人に加えられた。
講義
本抄は、熱原法難のさなかの弘安2年(1279)10月17日、日蓮大聖人が身延において熱原の農民信徒が処刑されたとの鎌倉からの急報を受けてしたためられたもので、「変毒為薬御書」との別名もある。日興上人の御写本が北山本門寺に現存する。
「聖人等御返事」と宛名されているのは、日興上人と日秀、日弁の戦いをたたえられて「聖人等」とされたと拝される。すなわち、日興上人等は、熱原の農民信徒を一貫して教導されて、身命に及ぶ迫害にも屈しない強盛な信仰者を育成されるとともに、法難と真っ向から戦われたのである。
本抄の内容は、10月15に処刑された農民信徒が、最後まで唱題して退転しなかったことを称賛されるとともに、平左衛門尉による迫害は十羅刹が平左衛門尉の身に入って法華経の行者を試みたものであろうと述べられ、あるいは悪鬼が平左衛門尉の身に入ったのであるとしても諸仏・諸天の守護で必ず変毒為薬されると述べられている。
そして、日興上人等に対して平左衛門尉に問注の際には十羅刹の罰を招くことになろうと厳然と言いわたすよう述べられている。
熱原法難について
ここで、本抄の背景になっている熱原法難について簡単に述べてみよう。
熱原法難の発端は、日興上人の駿河国富士郡(静岡県富士市、富士宮市)一帯における折伏・弘教にあった。
日興上人は幼くして父を亡くし、母が武蔵国の綱島九郎太郎と再婚したため、外祖父にあたる河合(静岡県富士宮市)の由比入道のもとで養育された。やがて近くの蒲原庄にあった天台宗の四十九院に入って修学され、正嘉2年(1258)の春に、富士川を隔てて四十九院の対岸の賀島庄岩本(静岡県富士市)にあった同じ天台宗の実相寺へ一切経の閲覧にみえた日蓮大聖人とお会いしてお弟子となり伯耆房日興の法名を賜った。
大聖人が鎌倉へ帰られた後も、日興上人は四十九院に残って、実相寺と往復しながら天台学などを学ばれたが、弘長元年(1261)5月、大聖人が伊豆へ流罪されたことを知ると、直ちに大聖人のもとへ参じ大聖人に常随給仕された。
弘長3年(1263)2月に大聖人が鎌倉へ帰られてからもお側にあってお仕えし、行学に励まれるとともに、四十九院や実相寺にもたびたび行かれ、そこを拠点にして富士地方の縁故をたどって折伏・弘教されたのである。
文永5年(1268)8月に、実相寺の大衆が幕府へ愁状を提出しているが、日興上人の執筆された草稿が北山本門寺に現存している。
愁状の内容は、実相寺に下ってきた幕府任命の四代院主が、僧にあるまじき非行を重ねたため、その事実を51箇条にわたって述べ、このような不法の院主をやめさせて、実相寺内から院主を選ぶよう訴えたものである。
日興上人の草稿が残されているということは、実相寺の住僧から依頼されたために執筆されたとも考えられるが、院主の不法に怒った日興上人が、実相寺粛正のために自ら文案を考えて執筆されたものであろう。このことも、日興上人が実相寺と縁が深く、寺内の大衆の信頼厚かったことを物語っている。
そして、実相寺内では筑前房、豊前房、肥後房、円乗房などが、四十九院では日持、日位、日源などが日興上人の門下となった。また、日興上人の外祖父である河合の由比入道、日興上人のおばの嫁いだ賀島の高橋六道兵衛入道、上野の南条七郎次郎時光、時光の姉の嫁いでいた重須の石河新兵衛入道、伊豆・畠の新田四郎信綱、松野の松野六郎左衛門入道などが、日興上人の折伏教化で正法に目覚めていったのである。
更に、岩本実相寺から東へ一里ばかりのところに下方庄熱原郷があり、その南部の市庭寺に天台宗の滝泉寺という大寺があった。滝泉寺の住僧である少輔房は河合の出身で由比家と縁があったことから、日興上人に折伏されて最初に入信し、それから下野房、越後房、三河房などが次々に正法に帰依していった。そして、大聖人から日秀、日弁、日禅と法名を賜り、滝泉寺の内外で猛烈に折伏・弘教を始めたのである。
それに対して、滝泉の院主代で北条一門の平左近入道行智は「法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむ」(0852:17)とあるように、日秀ら四4人に信仰を捨てるよう迫ったのである。
そのため「頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむ」(0853:01)と、三河房頼円は起請文を差し出して退転し、日禅は実家のある河合へ引きあげることとなった。日秀・日弁は行くところがないため、坊を明け渡したものの、滝泉寺内に隠れ住むという結果になったのである。
そうした迫害にあいながら、日秀・日弁は、地元の熱原郷の農民達に折伏をすすめていった。そして、弘安元年(1278)に、熱原郷の住人、神四郎、弥五郎、弥六郎兄弟が入信し、次第に熱原の農民信徒の中心的存在となっていったのである。
一方、四十九院でも迫害が始まり、弘安元年(1278)3月には、四十九院申状に「寺務・二位律師厳誉の為に日興並に日持・承賢・賢秀等・所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取り寺内を追い出さしむ」(0848:02)と記されているように、日興上人ら四人が、住坊や所有した田畠を奪われ、寺内から追われたのである。
それに対して日興上人は大聖人の御指南を受け、幕府へ申状(訴状)を提出して厳誉の非を訴え、公場での対決を求められている。
大聖人も、異体同心事に「あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成(じょう)し同体異心なれば諸事叶う事なし(中略)日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし」(1463:01)、浄蓮房御書に「返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ」(1435:05)等々、異体同心に難を乗り越えていくよう、富士方面の門下を御指導くださっている。
また、弘安元年(1278)5月に窪尼に宛てた御消息で「さてはあつわらの事こんどをもつて・をぼしめせ・さきもそら事なり(中略)これはそらみげうそと申す事はみぬさきよりすいして候、さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」(1478-03)と仰せになっていることから拝すると、行智や役人らが幕府の命令書(御教書)を偽造し、幕府の権威を利用して熱原における正法の信仰を禁圧しようとしたことが一度ならずあったことがうかがえる。
弘安2年(1279)に入ると「行智の所行は……下方の政所代に勧め去る四月御神事の最中に法華経信心の行人・四郎男を刄傷せしめ去る八月弥四郎坊男の頚を切らしむ、日秀等に頚を刎ぬる事を擬し」(0853:05)と記されているように、四月には熱原の信徒の一人、四郎が傷害され、八月には同じ信徒の弥四郎が首を斬られて、正法信仰を続ければこうなるというみせしめにされたのである。
ここで述べられている「刃傷」「頸を刎ぬる」という行為は明らかに武士の所業であり、僧であることはありえない。行智にそそのかされた下方政所の代官の指示を受けたものが犯人だったのに、日秀らにその罪を着せようとさえしている。
そして弘安2年(1279)9月21日、日秀の持ち田で稲刈りが行われ、熱原の信徒達がその手伝いに集まった折をねらって、行智一派が武装して襲い、農民信徒20人を暴行のうえ捕えるという暴挙に出た。
しかも「訴状に云く今月二十一日数多の人勢を催し弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り下野坊は乗馬相具し熱原の百姓・紀次郎男・点札を立て作毛を苅り取り日秀の住房に取り入れ畢んぬ」(0852:10)とあるように、滝泉寺へ日秀を先頭にした農民が武装して乱入したうえ稲を盗み取ったとの全く無実の罪名を着せて幕府に訴え、20人を鎌倉へ送ったのである。
日興上人は、大聖人へ事件を御報告するとともに、訴状の内容を調べ、幕府に訴える申状の草案をしたためて御指示を仰いだ。
大聖人は、事件の経緯を述べて訴状に反論し、20人の無実を主張する一方、行智の悪行を指摘して正当な裁定を強く要求した日興上人の草案はそのままに、立正安国論の主張を繰り返され、念仏を厳しく破折、日秀らが大聖人の弟子となって南無妙法蓮華経と唱えることこそ最も国を思う行為であり、不審があれば高僧と対決させよ、と主張された前半を書き加えられたのである。
このことからも、大聖人がこの法難を単に一地方の信徒の問題ではなく、一門全体にかかわる重大事とお考えになっていたことがうかがえるとともに、この機会に幕府へ再び大聖人の正義を訴えようとされていたものと拝される。
そして、10月12日に滝泉寺申状の草案を鎌倉の日興上人へ送られるとともに「伯耆殿等御返事」を添えて、問注の際の心得を具体的に指示なさっている。しかし、10月15日に、鎌倉の平左衛門尉の邸で開かれた取り調べの場で、20人は念仏を称えよと責められ、蟇目の矢で射られるという拷問にあったうえ、退転する者がいなかったために張本とみられた神四郎・弥五郎・弥六郎の3人が処刑されたのである。残りの17人は後に追放されて法難は一応終わった。
いまだ大聖人にお会いしたこともなく、入信間もない熱原の農民達が、命を捨てて正法を信じきったことは、大聖人に続く不惜身命の実践が確立したということである。
このように民衆の間に信心が深く根を下ろしたことは、妙法が末法万年に広宣流布すべき根源であると感じられた大聖人は、十月一日に門下一同に対して聖人御難事に「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189:03)と立宗後27年にして本懐を遂げられたことを宣せられたのである。
今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時……
弘安2年(1279)10月17日の酉時に、鎌倉からの急使が身延の大聖人のもとに到着した。15日の酉時に鎌倉の日興上人が使者に託された書状が、2日後に身延に着いたということは、鎌倉から駆け続けて行ったものと思われる。
大聖人はその報告を読まれると、すぐに御返事を認められたことが「十月十七日戌時」と記されていることからうかがえる。酉時は夕刻六時ごろであり、戌の時は同8時ごろにあたる。このように時刻を共に認められていることが、緊迫した模様を伝えている。
日興上人の書状には、10月15日に起きた鎌倉における事件が御報告されており、それが「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」という出来事だったのである。「彼等」とは捕えられていた熱原の農民信徒20人のことであり、「御勘気を蒙る」とは主君や権力者からとがめをうけることをいい、熱原の人々が平左衛門尉によって拷問されて信仰を捨てよと責められたうえ、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人が処刑されたことをさしている。
そのことは、日興上人が弟子分帳(正しくは白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事)に、
「富士下方熱原郷の住人神四郎、兄。
富士下方同郷の住人弥五郎、弟。
富士下方熱原郷の住人弥六郎。
此三人は越後房下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年信じ始め奉る処、舎兄弥藤次入道の訴に依て鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢んぬ、平の左衛門入道の沙汰なり、子息飯沼判官十三歳ひきめを以て散々に射て念仏を申すべき旨再三之を責むと雖も、廿人更に以て之を申さざる間、張本三人を召し禁めて断罪せしむる所なり、枝葉十七人は禁獄せしむと雖も終に放ち畢んぬ」。
と詳細な記録を残してくださったために正しく知ることができるのである。
10月15日に平左衛門尉頼綱の私邸で行われた糾問は、起訴された苅田狼藉の罪状には全くふれずに、法華信仰を捨てて念仏を称えよと責めたてるという、権力による信仰弾圧そのものだったのである。
その脅迫に屈して退転する者が一人もいなかったため、農民達が幕府の権力を恐れないのは天魔がついているからであろうと、頼綱は次男の飯沼判官資宗という13歳の少年に命じて、蟇目の矢で農民信徒を射させたのだった。
蟇目の矢とは桐の木で作った鏑矢のことで、桐材で蕪の形に彫り、中をくり抜いて矢の先につけたもので、弓につがえて射るとあいている孔に風が入って鳴り、音が出る仕掛けになっていた。蟇目の矢を射ると、ひゅうひゅう鳴る音に驚いて悪魔が退散すると信じられていたのである。
鉄の矢じりではないので当たってもからだに刺さることはなかったが、音の恐怖とともに、激しい痛みがあったであろう。そうした精神的、肉体的な拷問にあいながら、20人は少しもひるまず、声高らかに題目を唱え続けたのである。
蟇目の矢をさんざんに射かけ、再三にわたって激しく責めても、だれ一人信仰を捨てる者がいなかったため、ついに頼綱は張本と目された神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬首するよう命じ、3人は題目を唱えながら従容として法に殉じたのである。
こうした経過から「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは、神四郎、弥五郎、弥六郎の3人の不惜身命の信心を称賛されたものであり、また一人の退転者も出なかった熱原の信徒二十人全員のことでもあったと考えられる。
弘安元年に入信してわずか一年前後の信仰にもかかわらず、死をも恐れずに信心を貫きとおした3人は〝熱原の三烈士〟と呼ばれ、広布史上に輝く誉の殉教の人、信徒の鑑として称えられているのである。残りの17人は後に追放されている。
偏に只事に非ず……須臾に賞罰有らんか
大聖人は、神四郎をはじめとする熱原の人々が、不惜身命の信心を貫き、最後まで題目を唱えぬいたとの報を受けられると、それはただ事ではなく、必ずや平左衛門尉の身に十羅刹が入りかわって法華経の行者の信心を試したものであろうとされ、例えば雪山童子には鬼となり尸毘王には鷹となって帝釈が信心を試したようなものである、と仰せになっている。
雪山童子も尸毘王も我が身を捨てて道心を顕しており、神四郎らも身命を捨てることによってその信心を顕したのである。いざというときにそのような信心を貫くことは、難事中の難事なので「只事に非ず」と賞讃されたものと拝される。
大聖人は更に平左衛門尉を「将た又悪鬼其の身に入る者か」とも仰せになっている。「悪鬼其の身に入る」とは、法華経勧持品第十三の文で、「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼は其の身に入って、我れを罵詈毀辱せん、我れ等は仏を敬信して、当に忍辱の鎧を著るべし。是の経を説かんが為めの故に、此の諸の難事を忍ばん。我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」とある。正法を信ずる者を罵詈毀辱する平左衛門尉はまさに悪鬼入其身の者であり、神四郎らは頼綱に責められて難を忍んだことにより「我不愛身命・但惜無上道」の信心を顕したのである。
そして、仏説のごとく難を忍んだ末法の法華経の行者を、釈迦・多宝・十方分身の諸仏・梵天帝釈等の諸天が守護するとの誓いが果たされるはずであると仰せである。これは、神四郎らが処刑されたことだけをみると、諸仏・諸天の加護がなかったように見えるが、決してそうではない。やがては終わるのがこの世の命であり、神四郎等は正法に殉ずることによって最高の人生を全うしたのであり、成仏は間違いない。それに対して正法を持つ信者を迫害した者には、必ず諸仏・諸天の治罰があって死後の堕獄は必定であり仏法の正しさが証明されるのである。
本抄より半月前の弘安2年(1279)10月1日に著された聖人御難事に「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず(中略)一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさいで観念せよ……彼等はげんはかくのごとし。殺さるれば又地獄へゆくべし。我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん。設えば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なればいたくていたからず」(1190-02)と述べられているのは、まさにそのことであるといえよう。
また、文永10年(1273)5月の如説修行抄でも「哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚と思はんずらん……縦ひ頚をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指し旛を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり」(0504:14)と仰せられている。
すなわち、真の諸仏・諸天の加護とは、難がないということではなく、大難を耐え忍んだときに必ず成仏できることなのである。だからこそ、その後に竜樹菩薩の大論と天台大師の法華玄義の「毒を変じて薬と為す」の文を引かれているのである。
変毒為薬とは、本来、爾前経で永不成仏とされた二乗を毒に譬えて、法華経で二乗が成仏を許されたことをいったものだが、そこから妙法の偉大な功力によって一切衆生の煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転ずる意に用いられ、凡夫がその身そのままで成仏できることに譬えるのである。神四郎ら三烈士が身命を捨てたことによって変毒為薬し即座に成仏することは疑いないと同時に、平左衛門尉に厳罰がでることも必定なので「定めて須臾に賞罰有らんか」と仰せなのである。
「妙の字虚しからずんば」と仰せになっている〝妙〟について、法華経題目抄には「妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙とは具の義なり具とは円満の義なり……爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生・法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて菩提心の華さき成仏往生の菓なる、竜樹菩薩の大論に云く『譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し』云云、此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文なり、妙楽大師の釈に云く『治し難きを能く治す所以に妙と称す』等云云、総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり」(0944:06)と述べられている。
このことからも、神四郎らの成仏は疑いなく、平左衛門尉らは、厳罰によって地獄にひとたび堕ちるが、やがて将来、逆縁によって救われることは明らかである。
伯耆房等深く此の旨を存じて……最後に申し付けよ
そして、大聖人は日興上人に、三烈士を不当に処刑した平左衛門尉に対して強く抗議するよう命じられ、その際には、文永8年(1271)9月10日に種種御振舞御書に「理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべし」(0911:10)と大聖人に強諌されたことを忘れたのか、その罪の報いがまだ終わっていないのに、更に謗法の大罪を重ねて諸天の罰を招き寄せるのか、と最後に厳しく言いわたすよう御指示になっている。
文永8年(1271)のこの時の大聖人の予言はそのまま的中して、文永9年(1272)2月には、執権北条時宗の異母兄・時輔に反逆の企てありとして、鎌倉と京都でその一味が誅殺された二月騒動が起こり、北条一族が殺し合うという自界叛逆の相を現出している。
文永11年(1274)10月には、第一回の蒙古襲来があって九州地方が大きな被害を受けるという、他国侵逼難が事実となって現れている。しかも大聖人が「其の殃未だ畢らず」と仰せのように、当時は第二回の蒙古襲来が近いと考えられ、日本中の人心は恟恟としており、幕府も筑紫の海岸に石築地を築き異国警固番役を増派するなど、防備におおわらわだったのである。大聖人はそのことを平左衛門尉に思い起こさせるとともに、きびしくその重罪を指摘して破折されたのである。
平左衛門尉は、その後、弘安8年(1285)11月には政敵の安達㤗盛を攻め滅ぼして幕府の実権を握り、執権北条貞時をないがしろにするほど専横をきわめたが、永仁元年(1293)4月22日、次男資宗を将軍にしようと企てているとの嫡子宗綱の訴えにより、貞時の討手に攻められて滅びたのである。
この事件について、日興上人は弟子分帳に「其後十四年を経て平の入道判官父子謀叛を発して誅せられ畢んぬ『父子』、これたゞ事にあらず、法華の現罰を蒙れり」と記され、また徳治3年(1308)4月8八に御書写の御本尊に「左衛門入道法華衆の頸を切るの後、十四年を経て謀叛を謀り誅せられ畢ぬ、其子孫跡形無く滅亡し畢ぬ」と脇書されている。
無実の罪で日蓮大聖人を死罪流罪にしたうえ、熱原の三烈士を不当に弾圧刑死させた張本人の平左衛門尉頼綱が、権力の座にのぼりつめた末に、我が子の讒言によって誅殺されたという事実は、因果の理法の厳しさを如実に示している。
また、日寛上人は「今案じて云く、平左衛門入道果円の首を刎ねらるるは、是れ則ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を刎ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御頸を刎ねんとせしが故なり。嫡子宗綱の佐渡に流さるるはこれ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。其の事、既に符合せり、豈大科免れ難きに非ずや頼綱の滅亡は熱原の現罰なり。何ぞ蓮師打擲の大科というや。答う、現報に遠近あり、遠くは蓮師打擲の大科に由り、近くは熱原の殺害に由るなり」と述べられている。
聖人御難事に「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190:03)と仰せのとおりに、平左衛門尉は法華の現罰によって滅び、「重ねて十羅刹の罰を招き取る」姿を示したのである。
追伸の御文では、法華の真相が明らかになるならば、大聖人門下に罪のないことを万人が認めるであろうし、また熱原の農民信徒が不当に逮捕された際に、暴徒の指揮をとって落馬し悶死した大進房のことも顕れて人々は恐れることだろう、それも諸天の御はからいである、と述べられている。
大進房の落馬については、弘安2年(1279)10月1日の聖人御難事に「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか……大田等は現罰なり別ばちなり」(1190:05)と述べられている。
「あらわれば人人ことにおづべし」との御文からすると、大進房が落馬し大苦悩をうけて死んだありさまは、聞いた人がみな恐ろしくなるような悲惨なものであったと思われる。まさに「現罰」だったことがうかがえるのである。
だからこそ、「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり」と言われて、少しも権威を恐れることなく、確信をもってぶつかるならば、必ず状況は好転するであろう、と仰せになり励まされているのである。