生死一大事血脈抄2006:08~2007:08月号大白蓮華より。先生の講義
先生の講義 第一回
生死一大事の法
師弟不二の大闘争で全民衆に真の幸福を
「生死」は、人間にとって最大の不思議であり、宗教にとっての根本の課題です。
我々は、どこから来て、どこへ行くのか。人は何のために生まれてきたのか。偶然の生にすぎないのか。それとも、何らかの目的が与えられているのか。
また、死ぬことは、いかなる意味があるのか。多くの現代人が漠然と思っているように、無意味な無虚に帰すことなのか。それとも古代以来の東西の伝統的な考え方にあるように、“輝かしい不滅の霊魂”に帰ることなのか。
あるいは、釈尊が説いたように、そのどちらでもないのか。
断見・常見を超える仏法の智慧
「生死一大事血脈抄」は、この「生死」についての「根本の重要性」を教えられている御書です。それはまた「仏法の真髄」であり、「宗教の根幹」でもあります。「一大事」という言葉が、そのことを示唆されています。
法華経では、仏がこの世に出現する根本目的を「一大事因縁」と説きます。それは、一切衆生に仏知見を開かせ、成仏させていくことです。本抄で大聖人が教えられている生死についての根本の重要事とは、まさに、この万人の成仏という法華経の理念に深く通じているのです。
釈尊の悟りの一つと言われる「縁起」の思想では、「労苦」や「死苦」、つまり「老い」や「死」の苦しみをもたらす根本原因として「無明」が挙げられています。そして、「無明」を消滅させれば「老い」や「死」の苦しみを克服できるとされます。
釈尊の悟りの智慧とは、まさに死をめぐる迷いと苦しみを乗り越えるための智慧であったのです。
釈尊は、この智慧のもと、生死に関する二つの誤った考えを否定しました。それらの考えでは、死への恐れや不安を絶対に超えることができないからです。
一つは、死ねば無に帰するという「断見」です。
これらは「死んだあとの自分」を前提とした生死観、すなわち、今生きている自分の生死だけしか見ない考え方であり、また、死と生を対立するものとして捉えるにとどまり、生死をありのままに見た智慧とは言えません。
自分の死を意識せざるをえない人間は、誰であれ、この二つの考えを何らかの形で持っているとも言えるでしょう。「断見」は死への恐れや不安をもたらし、「常見」はわが身を惜しむ生き方の一つの帰結です。
日蓮大聖人も「佐渡御書」で、断見・常見に当たる考え方が人間を真に幸福にする智慧ではないことを示されています。
すなわち、同抄の冒頭に「世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや」(0956:04)と言われ、いたずらに死を恐れ、生に執着する「世間の生き方」を取り上げられています。
そして、これに対して、仏の言葉を引かれ、「仏法の智慧」を次のように示されていきます。「仏説て云く『七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず』取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる」(0956:05)
ここで引かれてる仏の言葉は法華経薬王品の文の趣意ですが、人間が惜しむ身命を仏法のために使ってこそ最高の供養になることを示しています。そして、それを受けて大聖人は、雪山童子や楽法梵志にように仏法のために身命を惜しまない生き方によってこそ、仏になることができると言われています。仏になることができるということは、幸福になるための最高の生き方がそこにあるということです。
また同抄では、身を惜しむあまりにかえって餌に化かされて、罠にかかって、命を落としてしまう魚や鳥の姿を通して、断見・常見に通ずる生き方の愚かさを示されてもいます。
このように「佐渡御書」では、断見・常見を超える仏の智慧を、仏法のために、身を惜しまない「生き方」「行動」として示されています。まさに、この点が重要です。
「生まれてきたあとの自分」を前提とする生死の考え方は、どうしても死後に今の自分が無くなるのか、続くのか、という「議論」になりがちです。これは、自分の死を鋭く意識しながら、自分自身では死や死後を経験できない人間にとって仕方のないことかもしれません。しかし、どう論議しても、最高の智慧とは言えないのです。
なぜならば、死ねば無に帰すという断見では、死への恐怖や死に縛られた不安から永久に解放されません。
他方、自分の霊魂は不滅であるという常見は、往々にして「今の自分がそのままで不滅でありたい」という安易な欲望の表現に過ぎないことが多い。結果的に、自分を高める智慧にはならず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わりやすい。
もちろん、東西の多くの宗教や思想では、今の自分を超える何らかの精神的なものの不滅を唱えています。そのような思想は、死について何らかの安心感を与える効果はあるでしょう。しかし、生き方を高める最高の智慧に行き着かなければ、先ほど述べた、自己執着の迷いと労苦・死苦に縛られた行き方に堕しやすいのです。
釈尊は、如来の生命が死後に続くのか、続かないのかと問われて、どちらとも答えなかったと伝えられています。どちらに答えても、相手を高めるための教えにはならず、むしろ死をめぐる迷いと苦しみを深める結果になりかねないからです。
大聖人は「佐渡御書」で、仏法のために身命を惜しまないという「生き方」を、弾圧下の門下たちに示されました。すなわち「我が身命を惜しまない」という覚悟ある生き方を教えられ、「正法を惜しむ」という確たる生き方を教えられ、「正法を惜しむ」という確たる生き方の基本基準を示されました。これにとって、死をめぐる迷いと苦しみの根本にある偏狭な「自己執着」を打ち破り、死をめぐる迷いと苦しみから門下たちを実質的に解放することを目指されたと拝することができます。
死苦からの解放がなければ、真の幸福はありません。そして、死苦からの解放は、観念ではなしえない。生と死が宇宙そのものの永遠にして大いなるリズムであり、そのリズムを生きる大いなる自分自身を発見し、それをわが生命を支える根源的躍動として実感しえたときに、死苦を乗り越えることができるのです。その生命解放の道こそが、自行化他にわたる南無妙法蓮華経です。そして、その根本の生死観を説くのが本抄です。
妙法蓮華経の生死
本抄では、「妙は死」「法は生」と説かれ、妙法そのものが生死の二法であると言われています。また、あらゆる生命、あらゆる現象が「生死の二法」であるとも言われ、しかも、それらすべてが「妙法蓮華経の生死」であると明かされている。
これは、生死が本有の法であることを示されています。それによって、生死を厭う誤り、あるいは生と死のどちらか一方に執着する誤りに陥らないようにされているのです。
妙法は永遠の法であり、無限の法です。この永遠の法そのものに「生死の二法」が含まれているのです。言い換えれば「生死の二法」は永遠の法のリズムそのものであり、無数の生命の生死、あらゆる現象の起滅・種々の次元の因果、そして宇宙全体の調和と躍動として現れてくるのです。この「妙法蓮華経の生死」こそ、私たちの生命の根本の一大事なのです。真の幸福は、この大いなる生死を生きる以外にないからです。
御 文(生死一大事血脈抄)
- 夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、(1336:01)
- 妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、(1336:02)
- 是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、(1337:01)
- 釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、(1337:02)
- 然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、(1337:02)
- 所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、(1337:04)
- 過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、(1337:10)
- 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、(1337:12)
- 日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、(1337:14)
⑩ 過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。(1338:01)
⑪ 只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、(1338:03)
⑫ 相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、(1338:08)
「成仏の血脈」を伝える仏法の師弟
以上、本抄の主題の一つであり、題名にもなっている「生死一大事」の意義を慨観しました。
次に、やはり主題であり題名にもなっている「血脈」の意義について、本抄の概要をたどりながら確認していきたい。
本抄では、冒頭に「生死一大事」の法は「南無妙法蓮華経」であり、それは釈迦・多宝から上行菩薩に受け継がれた「血脈」によって伝えられると仰せられています。(御文①)
先に述べたように、仏法のために身命を惜しまないという「生き方」「行動」によってのみ、妙法蓮華経は生死一大事の法として伝えられるのです。それゆえ、その生き方、行動を担い、示す「師」として「上行菩薩」の名を挙げられ、この師との師弟不二の信心によってのみ「生死一大事の血脈」が成り立つことを示されているのです。
それに引き続いて、妙法そのものが「生死の二法」でり、あらゆる生命の生死、あらゆる現象の起滅が「妙法蓮華経の生死」であることが示されていきます。十界の衆生も、釈迦・多宝の二仏も「妙法蓮華経の生死」にほかなりません。(御文②③④)
そして、以上のことを踏まえて、大聖人は「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と「我等衆生」との三つは妙法蓮華経として全く差別が無いと宣言されました。そして、そのことを明確に信じて妙法蓮華経と唱える信心においてのみ、生死一大事の血脈が受け継がれると明かされています。
真実の「仏」も、成仏の「法」も、ともに妙法蓮華経であり、しかも、私たち自身の「己心」の外にあるものではないと信じて題目を唱える信心こそが、大聖人の仏法における根本的な実践である妙法蓮華経の受持の肝要なのです(御文⑤)
さらに大聖人は、この信心の肝要を「生死」の問題に則し、「臨終只今にあり」という信心の姿勢として教えられています。(御文⑥)今、死に臨んでも悔いなく、死苦を悠々と乗り越えていけるような本当の信心を、瞬間瞬間、貫いていくことです。
そして、そのような本当の信心を今世の最後まで貫き通していくとき、過去世・現在世・未来世の三世にわたる法華経受持が成り立つ。そこに、その人における法華経の血脈相承があると言われています。(御文⑦)
今世において正しき信心を最後まで「持続」するとき、三世にわたる生死の繰り返しが生死一大事の血脈として一貫し、まさしく「妙法蓮華経の生死」となって現れてくるのです。ゆえに「今世の持続」「生涯の持続」が大切です。広宣流布に生き抜き、最後まで信心の正念が貫かれたとき、その姿自体が「一生成仏」です。そのとき、死は「生の断絶」ではなく「生の完成」になるのです。それは、「より深く、より新しい生への旅立ち」でもあります。そのような死に、恐れや不安が微塵もあるはずがありません。まさに「生も歓喜・死も歓喜」なのです。
広宣流布の大願と師弟
以上の本抄前半では、私たち一人ひとりが妙法蓮華経を受持して、上行菩薩の弟子、すなわち地涌の菩薩としての信心を確立していくための要件を示されていると拝することができる。
本抄の後半は、この妙法受持の信心を万人に弘めていく「広宣流布」の実践に焦点が移っていきます。すなわち、「広宣流布の大願」を立て、「異体同心」で南無妙法蓮華経と唱えるところに生死一大事の血脈が流れ通うのであり、大聖人の弘通の目的も、この「広宣流布」の戦いにあると仰せです。(御文⑧)
「広宣流布の大願」とその「成就」 この一点を見据えた時「師弟の絆」と「異体同心の団結」が何よりも重要になるのです。
さらに、大聖人が開かれた末法広宣流布の道にこそ、一切衆生が仏に成る血脈があることを宣言されています。(御文⑨)
そして、大聖人の弟子として難を乗り越えた最蓮房と深い師弟の宿縁を強調されています。(御文⑩)師と同じ大願に立ち、大難があっても師と同じく身命を惜しまずに戦っていく、そこに、末法広宣流布における師弟不二の道があります。
この日蓮仏法の大道を現代に蘇らせて、世界を結ぶ道として創りあげたのが、創価の師弟です。
法体の広宣流布の師匠は、末法万年の一切衆生を救う南無妙法蓮華経を顕され、弘通する方軌を残された、末法の御本仏・日蓮大聖人です。この大聖人に直結して、大難を乗り越えつつ、日蓮仏法を全世界に弘めてきた仏意仏勅の和合僧団が創価学会です。
広宣流布 それは、全民衆が死苦を乗り越え、真実の幸福を人生と真実の世界の平和を実現していく戦いです。これこそ、大聖人の弘通の所詮なのです。
その精神を完璧に受け継ぎ、まさに殉教の姿で不惜身命の信心を示し切ったのが初代会長の牧口先生です。
そして、牧口先生と不二の戦いを貫き、創価の理念と実践を確立し、異体同心の和合僧の骨格を作り上げたのが、第二代会長の戸田先生です。
私も、この師弟の大道を一筋に走り、日蓮仏法の真髄である人間主義と平和主義を掲げ、内外にわたる対話行動を通して、仏法の心を全世界に広げてきました。
この初代、二代、三代の歩んだ道が、全世界に仏法の理念と実践を伝える血脈となって生き生きと流れ通っていうならば、現代の広宣流布の基礎を完成したことになります。
血脈の本義=「信心の血脈」
本抄の結びでは「信心の血脈」を強調されています。(御文⑪⑫)
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」
今からちょうど50年前。恩師・戸田先生は、常勝の天地・関西の地で、本抄を講義されました。
そこで先生は、愛すべき関西の一人一人に、“信心の血脈を根幹に本当の幸福の境涯に入ってください”、そしてまた“人々を本当の幸福の境涯に入れてください”と、大情熱の講義をされました。
まさしく、師とともに妙法弘通の歓喜の実践を誓ってこそ、生死一大事の血脈が現実社会の中で流れ広がっていくのです。
世界中に地涌のスクラムが誕生した今、人類の「生死革命」が成し遂げられ、平和と人道の幸福の血脈が滔々と流れ、全人類の境涯革命が成し遂げられといくことを、私は深く確信しています。そして、この尊き使命を世界の同志に託します。わが門下を信じます。なかんずく青年に頼みます。
先生の講義 第二回
真実の血脈
妙法の智水を流れ通わし全人類を生死の苦から救う
本文
御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、
現代語訳
御手紙を詳しく拝見しました。お尋ねの、生死一大事血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。そのわけは、この妙法蓮華経の五字は釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになられたのであり、過去遠遠劫以来、寸時も離れることのなかった血脈の法であるからである。
講義
本抄は、もと天台宗の学僧で、佐渡において大聖人に帰依したとされる、最蓮房からの質問に対する御返事です。この最蓮房からの手紙の中に、当時の天台宗の中で奥義とされていた「生死一大事血脈」についての質問があったと推察できます。
「御状委細に披見せしめ候い畢んぬ」
ここで大聖人は「委細」と仰せられています。あるいは、最蓮房自身が、これまで学んできたことを、自分が考え、悩み、行き詰まったことなどが事細かく書かれていたのかもしれません。いずれにしても“お手紙を詳細に読みました。あなたのご質問もよく分かりました”との、弟子に応えてくださる師匠の慈愛が伝わってくる冒頭の一節です。
妙法蓮華経こそ生死一大事血脈の大法
最蓮房の質問に対して、大聖人は、まず最も肝要な点を明快に明かされます。
「生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」
「生と死」の苦悩を根本的に解決する「生死一大事」の法とは「妙法蓮華経」以外にない、と御断言です。その根拠として、本抄では二つのことが示されていきます。
第一に、釈迦仏・多宝仏から上行菩薩に妙法蓮華経が付嘱された。法華経の血脈の「正統性」が示されていきます。今回は、この仰せの意義を拝していきたいと思います。
第二には、いかなる意味で妙法蓮華経が生死の苦を解決する大法であるか、について考察されていきます。
その中で、あらゆる生命の生死、あらゆる現象の起滅が、ことごとく「妙法蓮華経の生死」であることが示されております。すなわち、人間の生死を含めて、あらゆる生死、あらゆる現象が「妙法蓮華経」という大いなる法自体に含まれる変化・生滅であることになります。
人間の生死の意味も、この大きな観点から深く問い直していく必要がありますが、この点については次回以降に拝察していきたいと思います。
法華経の血脈の正統性
さて、妙法蓮華経こそが、生死の苦を解決する一大事の法であり、その血脈こそが伝えられるべきであるということを「血脈の正統性」の面から示されているのが次の一節です。
「其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて」
すなわち、妙法蓮華経こそ法華経の虚空会の儀式において、宝塔の中に並び座る釈迦仏・多宝仏より上行菩薩にへと付嘱された、仏教の「正統中の正統の法」であることが明示されています。
法華経では、釈迦・多宝の二仏を中心として、全宇宙の仏・菩薩が参加して虚空会の儀式が行われます。まさに、三世十方の仏・菩薩が来集し、七宝に輝く巨大な宝塔が虚空に浮かび、この宝塔を中心に広がる荘厳な会座です。しかし、この儀式が何のために、誰のために行われたのかを論ずる人は、あまり多くなかった。この問題を、御自身と関係づけて主体的に読まれたのは、日蓮大聖人ただお一人です。
虚空会の儀式が何のために行われたのか、それは、「万人の成仏」という仏の大願を実現するためである。そして、そのためには、どうしても仏の滅後の悪世の衆生を成仏させていかねばなりません。その戦いを担う使命を地涌の菩薩に託す儀式が、虚空会の儀式です。
成仏とは、生死の苦を克服していくことにほかなりません。したがって、全民衆の成仏の戦いを託す虚空会の儀式にこそ「生死一大事の大法」を伝える「正統の血脈」があるのです。
本抄の冒頭部分で、生死一大事血脈の法が妙法蓮華経であることが示された後、この根拠として上行への付嘱が取り上げられているのも、まさに妙法蓮華経の血脈の「正統性」を示すためであると拝されます。この点を、「釈迦仏」「多宝仏」そして「上行菩薩」がそれぞれ担う役割を拝察することで、明示してみたいと思います。
釈迦・多宝・上行が担う役割
①釈迦仏=法の「正しさ」「適切さ」
第一に、付嘱の儀式にあって法が「誰から」付嘱されたのか、という点が重要になります。
すなわち、娑婆世界の仏であり、かつ永遠の仏である久遠実成の「釈迦仏」から伝えられる法でなければ、娑婆世界の人を生死の苦から救う正当な法とは言えません。
寿量品に示されるように、釈尊自身が「永遠の妙法」と一体化した「永遠の仏」である。しかも、釈尊が現実の娑婆世界に法を弘通するために戦い続ける仏であるからこそ、釈尊が付嘱される「法」が、娑婆世界の万人の生死の苦から救い、成仏せしめていく根源の法であると信受することができます。
いわば、久遠の釈尊から妙法蓮華経が付嘱されることで、救済の法としての「正しさ」、「適切さ」が明らかになった、といえます。
②多宝仏=法の「普遍性」
第二に、過去仏である「多宝仏」は、法華経の真理の不変性を証明する存在です。
多宝仏は、法華経が説かれるところに必ず出現して、法華経が真実であることを証明する役割を担っていると説かれています。この多宝如来が釈尊と共に並んでいる中で、付嘱の儀式が行われる。
いわば、多宝仏が存在していることで、釈迦仏から上行菩薩に付嘱される妙法蓮華経に、真理としての「普遍性」が備わっていることが明らかになった、といえます。
③上行菩薩=根本法を我が生命に所持し、顕し、弘める「主体性実践者」
そして、第三は、滅後に妙法蓮華経を弘通する主体者の存在です。なぜ、付嘱する相手が上行菩薩でなければならなかったのか、迹化・他方の菩薩が斥けられたのはなぜか、という主題でもあります。
迹化、多宝の菩薩は確かに壮麗な姿をした菩薩であり、民衆から仰ぎ見られるべき尊貴な存在です。しかし、久遠の仏から化導されておりません。ということは「久遠の法」を所持していないことを意味するのです。あくまでも、始覚の成仏観、すなわち厭離断九の成仏観に生きる菩薩であり、十界互具の体現者ではなかったから斥けられたのです。
わかりやすく言えば、色相荘厳の菩薩である限り、仰ぎ見られる存在ではあっても、民衆の仏性を触発し、成仏させていくという、真の意味で民衆をリーダーなはなりえないということです。その意味で、地涌の菩薩は、根本の成仏観が迹化・多宝の菩薩とは大きく違っていたと言える。
成仏の根本法は、生命本有の法です。したがって、人間対人間の関係の中で、生命を触発していくよってしか伝えることができないのです。
また法華経の教相から言っても、上行菩薩が、久遠以来の釈尊の弟子として鍛え抜かれて、身に「久遠の法」を所持している菩薩であることが示されます。
この「上行菩薩」の戦いを先駆として「地涌の菩薩」によって弘められてこそ、妙法蓮華経が全民衆を生死の苦から救う「生死一大事の法」でありうるのです。
以上、「法の正しさと適切さ」「法の普遍性」そして「主体的実践者」の三つの要素が揃った法華経の虚空会の儀式における血脈相承こそ、全民衆、全人類の生死の苦を解決する「生死一大事血脈」となるのです。
「衆生本有の妙理」を目覚めさせる
続けて大聖人は、「この妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より寸時も離れざる血脈なり」と仰せです。
ここでは、上行菩薩による血脈の継承の意味が明かされている、と拝することもできます。
まず、「過去遠遠劫より寸時も離れざる」とは、永遠の妙法である妙法蓮華経が上行菩薩の身に本来具わっているということです。
「一生成仏抄」の冒頭に「衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり」(0383:01)と仰せられているように、もともとは、一切衆生は、「本有の妙理」である妙法蓮華経の当体です。ところが末法の凡夫は、無明ゆえに自身の真理に暗く、迷っている。本源の自身の生命に暗い以上は、生死の問題も解決できません。
自身の生命の根源の力を信じ、自身の本有の妙理を現していくなかにこそ、生死の問題も打開することができます。
このように我が生命に迷っている衆生に、本源の力である本有の妙法蓮華経を教え、示し、開かせていくのが、上行を筆頭とする地涌の菩薩の尊き使命です。
法華経湧出品を見れば、地涌の菩薩は、大地を割って出現する以前は、「娑婆世界の下、此の界の虚空の中」に住していたとされます。
この地の下の虚空とは何か。天台大師は、それを「法性の淵底・玄宗の極地」と表現しています。一言で言えば、生命本有の妙理である妙法蓮華経と一体の境地に住し、そこから現実の世界に躍り出てきたのが、地涌の菩薩であるということです。
要するに、“過去遠遠劫から寸時も離れることがない”との仰せは、上行菩薩が常に永遠の妙理と一体の境地にあるということです。その上行菩薩だからこそ、万人の内にある本有の妙理を現して、万人を生死の苦から救っていく道を開くことができるのです。
さて、「寸時も離れざる血脈なり」との仰せは、さらに深く、また実践的に拝していくことができます。そこに、上行=地涌の最も重要な特性を見ることができます。
すなわち、「寸時も離れざる」の実践的な意義とは、一つは、上行菩薩が妙法蓮華経を自らの生命に顕す「智慧の力」に優れているゆえに、「いつでも実際に顕していける」ということであると拝せます。
また、第二には、地に弘める「実力の力」に優れているがゆえに、「いかなる悪世にも弘めていける」ということであるとも拝することができるのではないでしょうか、
この二点こそ、実際に娑婆世界の衆生に「生死一大事血脈」が流れ通う要諦であると考えられます。
妙法を顕す「心の力」
まず、上行菩薩が妙法蓮華経を顕す力に優れていることにつて、確認しておきたい。
本有の妙理を顕す力とは、無明を打ち破る「智慧の力」であり、究極的には仏の悟りと同じです。先駆を切って法を顕す使命を持った上行菩薩にのみ、この究極の「智慧の力」が具わります。「上行」とは、「最も優れた行」の意です。
上行菩薩に続く無数の地涌の菩薩の場合は、どうかといえば「以信代慧」によって同じ「智慧」を得ることができるという意味で、地涌の菩薩は「信の力」に優れているともいえます。
この「智慧の力」「信の力」つまりは「心の力」の側面から地涌の菩薩を改めて考察すれば、地涌の菩薩の本質がより明瞭になります。
法華経の教相から見ても、地涌の菩薩とは久遠実成の釈尊が久遠に成仏して以来の弟子であり、「仏の悟りの法を学び、悟り、弘めていく」ことについて久遠以来、鍛え抜かれえきた弟子である、ということが示されております。
こうした地涌の特質について、大聖人は「観心本尊抄」で、天台・妙楽等の言葉を引用されました。
「天台大師云く『是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし』妙楽云く『子父の法を弘む世界の益有り』、輔正記に云く『法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す』」(0250:11)
これらを受けて大聖人は、「本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」(0251:16)と仰せです。
「本法所持」とは、生命に本来、妙理が具わっているというだけでは当然ありません。無明を打ち破って妙理を顕す「心の力」において優れているということであると拝せます。それであってこそ、どんな悪世であっても、妙理を生命に顕し、弘めていけるのです。そこにのみ「生死一大事の血脈」が流れ通うのです。
ゆえに、大聖人は、地涌の菩薩が、妙音・文殊・薬王などの荘厳な菩薩と比べて、大きく異なる点として「されば能く能く心をきたはせ給うにや」(1186:07)と仰せられているのです。
妙法を弘める「実践の力」
この妙法を顕す「心の力」とともに、妙法を弘める「実践の力」に優れていることが、地涌の菩薩のもう一つの特質であると言えます。その「実践の力」の核心にあるのが「誓願」です。
「誓願」こそが、仏が入滅後の娑婆世界の弘教の要です。
神力品では、上行を代表とする地涌の菩薩が、仏なき世にあって勇んで弘教するとの誓いを発しています。この「誓い」こそ悪世弘教の「実践の力」の原動力となるからです。
悪世には人々の無明が強く、妙法を弘める人には必ず大難が起こります、その悪世の濁流を撥ね返す力の根本が誓願です。
地涌の菩薩が、悪世の弘教を大きく担いゆく「実践の力」を持っていることは、湧出品にはっきりと説かれています。すなわち、「志念堅固」「大忍辱力」「巧於難問答」など、悪世を開拓する力に満ち満ちているのが地涌の本領です。
このような「心の力」「実践の力」があってこそ、生命の法である妙法蓮華経を全ての衆生に伝えていく「血脈」が成り立つのです。この地涌の菩薩による血脈の継承こそ、本抄で強調される「信心の血脈」なのです。
学会員こそ誉れの地涌の勇者
戸田先生は、草創の会員によく呼びかけておられました。
「地涌の菩薩の皆さん!やろうではないか!」
「地涌の菩薩の皆さん!立ち上がろうではないか!」
後に、草創の同志は述懐していました。
「戸田先生から『地涌の同志の皆さん』と呼びかけられても、最初は自分たちのことだとは思えなかった(笑い)。貧乏と病気で悩み、夫婦喧嘩が絶えない自分たちが地涌の菩薩と言われても正直ぴんとこなかった。“ああ、いつか立派な人たちが入信するんだな”とばかり思っていた(笑い)」
正直な実感だったかもしれません。
しかし、宿命と戦い、健気に広布の戦いに邁進するこの方たちこそ、誉れある地涌の勇者であった。それは、歴史が証明する厳然たる事実です。
何よりも戸田先生ご自身が地涌の棟梁であられた。「われ、地涌の菩薩なり!」との獄中の悟達があればこそ、戸田先生は戦後の荒野に一人立たれたのです。そして、75万の地涌の陣列を厳然と打ち立てられた。
戸田先生がなされたことは、一人一人の胸中に地涌の自覚を呼び覚ます精神闘争であった。学会員こそ、諸宗の元祖すらも及びもつかない大菩薩の位にあることを、御書を拝しながら繰り返し教えられました。
「なにをもつて、かかる高貴の位をたまわるか。過去には地涌の菩薩として上行菩薩と同座し、末法には本仏の子として折伏行にいそしむがためである。かかる高位のわれわれは、無信、邪信、劣信の者と同格の境地にならぬよう心がけねばならぬ。かの無信の者、邪信の者に対して、さげすんだりすることなく、慈悲の境涯に絶対に立たなくてはならない」
まさに、戸田先生は全会員に「地涌の自覚」「民衆救済の慈悲の念」という「心の力」を発現するよう促されたといえます。
この先生の獅子吼に応えて、立ち上がった一人一人は、現実に濁劫悪世の中傷や悪口の中で、如来の使いとして戦った。そして、大いなる生命の変革を成し遂げていきました。
すなわち、一人の人間を根底から蘇生させる地涌の使命に目覚めるならば、無上の歓喜に包まれます。自身の境涯が広がりゆく充実感を覚えます。戸田先生の弟子として戦いを起した時に、思ってもみなかった「実践の力」「地涌の底力」「悪と戦う力」が胸中からわき上がり、自他ともの宿命の鉄鎖を断ち切ることができたのです。
「救われる人から救う人へ」。 列島の津々裏々で無数の変革のドラマが一波から万波と広がり、地涌の民衆が誕生していった。そして、この地涌の一人一人が、生死の苦悩を乗り越えながら、永遠の幸福を築きゆく力強い人生を勝ち進んでいった。
そして今、この湧出の儀式は世界に広がっています。
この栄光燦たる創価学会の歴史を、仏教史に照らして断言できることは何か。それは、末法の一閻浮提に「地涌の義」を実現し、無数の地涌の闘争で民衆を救済することが広宣流布である。そして、そこには虚空会の儀式における血脈相承の根本目的があるということです。
一切衆生の成仏こそ、血脈の本義です。そのために、虚空会の儀式があり、釈尊から上行菩薩へ妙法蓮華経五字の付嘱が行われたのです。末法において、この血脈の源流を万人に開く上行菩薩の役割を外用の姿で行じられたのが、御本仏・日蓮大聖人であられた。
すなわち、「血脈」とは本来、妙法の力によって民衆を救いゆく実践を行う人の正統性を証明するものです。それとともに、釈尊から上行菩薩へ付嘱された大法が、末法に出現する上行、並びに上行に連なる地涌の闘争によって、日本国の一切衆生、果ては全世界の民衆へ広がっていくなかに、正統の血脈の継承があるといえます。
大聖人は仰せです。
「上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり」(1055:10、曾谷殿御返事)
その血脈の継承は根本の鍵が信心です。地涌の菩薩が持つ「心の力」「実践の力」を引き出せるのは「信心」しかありません。「信心」があってこそ「血脈」が成り立つ。また、「信心」がなければ「血脈」は存在しません。
そして、この「信心の血脈」を根幹に妙法を世界に広げてきたのが、牧口先生・戸田先生の師弟を起点とする、地涌出現というべき仏勅の創価学会の歴史です。今、創価三代の大闘争を通して、地涌の菩薩は、世界各地に湧現しました。世界中で「信心の血脈」が継承されたことで、いわば、「生死一大事の血脈」が世界中に広がったともいえます。ここに、虚空会における「釈迦 上行」の血脈の本義があることを深く確信します。
先生の講義 第三回
本有の生死
「生も歓喜、死も歓喜」で真の自由と希望を我が生命に
本文
妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、
現代語訳
妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即、十界の当体である。また、これを当体蓮華ともいうのである。
天台大師は「まさに知るべきである。十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門である」といわれている。この釈に依正というのは生死の意である。生死があれば、その因果もまた蓮華の法門であることは明らかである。伝教大師は「生死の二法は一心の妙用であり、有と無との二道は本覚の真徳である」と述べている。天地・陰陽・日月・五星・地獄・ないし仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。
このように生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。天台大師の摩訶止観に「起はこれ法性の起であり、滅もまたこれ法性の滅である」とある。釈迦・多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。
講義
前回は、法華経の虚空会で釈迦・多宝の二仏から上行菩薩に付嘱された妙法蓮華経こそが、「生死一大事の法」であるとの仰せについて拝察しました。
本抄では次に「生死」と「妙法蓮華経」との深い関係が明かされていきます。そこでは、過去遠遠劫より妙法蓮華経と離れることができないとされた上行菩薩の内証、すなわち日蓮大聖人の御自身の御内証を示されていると拝することができます。
また、これによって妙法蓮華経こそが「生死一大事の法」であるとされる哲学的な理由が明示されています。
生と死は根源の妙法に具わるリズム
まず「妙は死」「法は生」と仰せです。
「妙法」とは「生死の二法」そのものであるということです。言い換えれば、「生」と「死」は、本来、宇宙根源の法である「妙法」に含まれているということです。つまり「生」と「死」の二つの在り方は、実は、宇宙根源の法である「妙法」に本来具わるリズムそのものであると言われているのです。
仏法では「縁起」といっても、あらゆるものは相互依存の共存関係にあり、一つとして独立自存しているものではないと捉えます。その無限の相互関係の中で、生命や事物や因果が成り立ち、変化し、そして消滅していきます。
考えてみれば、宇宙全体が無限の相互関係であることもその中で個々の生命の生や死があることも、実に不可思議です。不可思議であるがゆえに「妙法」ということです。
本抄では「妙は死」であり、「法は生」であると立て分けられています。「法」は現れた現象を意味しますから、個々の生命として現れる「生」に当ります。
また、生命が死んで融合していく無限の宇宙は、思議し難いものです。ゆえに、不可思議を意味する「妙」を「死」に配されていると拝せます。
ただ、この仰せの主眼は、宇宙という無限の織り物の中で現れる、生命の「生」と「死」の全体が「妙法」であると示された点にあると拝察できます。
大海原と波の譬え
この「妙法」と「生死」の関係を譬喩をもって示せば、あたかも大海原に波が起こり、その波が大海原に還っていくようなものであると言えます。
言うまでもなく、大海原が「妙法」であり、波が「個々の生命」「個々の現象」に当たります。そして、波が大海原から起こり、大海原に還っていくことが「生」と「死」に当ります。
ここで注意すべきことは、個々の波が大海原に呑み込まれて消えていくように、個々の生命も死ぬと妙法の海に呑み込まれて消えていくのではない、という点です。
外からは見えなくても、海中には種々の海流が厳然と流れていると考えてみれば、生と死の違いは、海面に現れた波と、海中でうねる海流との違いといえるかもしれない。決して生命が死んで消えていくのではない。生も死も、ともに妙法のうねり以外のなにものでもないのです。
海中のうねりは海面に現れて波となり、また、海中に没して見えないうねりとなる。同じように、生として現れた生命の波は、死によって妙法の海に溶け込み、見えなくなりながらも、うねりを持続している。そして、何かの機縁に応じて、また新しい生命の波として出現するのです。
晴れ晴れと仲のよい久遠元初の世界
次に「此の生死の二法が十界の当体なり」と言われている点が非常に重要です。この意味は、十界のいかなる衆生も「生死の二法」である妙法の当体であるとの仰せです。言い換えれば、妙法そのものである「生死の二法」が十界の衆生の生命の本体であるということです。
例えば、十界のうち地獄界として生を得ている衆生についていえば、生として顕在化している地獄界の面だけではない。死として僭在化している他の九界の可能性を含めて、妙法である生死の二法の全体が、その衆生の本体であるということです。
これが「本有の生死」です。人間は、往々にして、生死に迷い、老苦・死苦を免れない。それは、自らの生死が「本有の生死」であることを知らないからです。これを深く知れば、生死の迷いと苦悩から解放される。
戸田先生は、久遠における本来の自分を思い起こし、生死の迷いから解放される境地を、次のように表現されています。
「この五百塵点劫以前のわれわれを観ずるに、そのときは、晴ればれした世界で、自由自在に何不自由なく、清く、楽しんで遊んでおり、そのときの人々も、みなうるわしき同心の人々であったのだ。あの晴れやかな世界に住んだわれわれが、いままた、この娑婆世界にそろって湧出したのである。
思いかえせば、そのころの清く楽しい世界は、きのうのようである。なんで、あのときの晴ればれした世界を忘れよう。ともに自由自在に遊びたわむれた友をば、どうして忘れよう。またともに法華会座に誓った誓いを忘れえましょうか。この娑婆世界も、楽しく清く、晴ればれとしたみな仲のよい友ばかりの世界なのだが貧・瞋・嫉妬の毒を、権・小乗教・外道のやからにのませられて狂子となったその末に、互いに久遠を忘れてしまっていることこそ、悲しい、哀れなるのみではあるまいか」
自由で、清らかで、晴れ晴れとし、自他共の幸福を誓い合った仲のよい友 それが、迷いに汚されない久遠の本来の自分であり、久遠の世界なのです。
この、本来の自分、久遠の世界を回復するには、私たちの生命が妙法の当体であることを知る必要があります。そして、苦悩をもたらす迷いの因果を超える力が自分に具わっていることを自覚しなければなりません。
因果俱時の蓮華の法
本抄では、妙法の無限の力を取り戻し、本来の自分を回復する可能性を「当体蓮華」と表現されています。
すなわち「此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり」と。
当体蓮華の「蓮華」とは「因果俱時」の法を譬えたものです。
普通の植物は花が咲いた後に実がなります。しかし、蓮は花が咲いた時には既に実がなっています。そこで花を原因、実を結果とすれば、開花とともに実がなっている蓮は、妙法の中に因果が同時に具わっていることの象徴とされます。
どのような生命にも、十界のあらゆる境涯を体現する可能性がある。それにもかかわらず、九界を現すことはありえても、仏界を現すことは至難です。それはなぜか。
仏はそのことを深く探求し、その因果を解明しました。すなわち、今、ここで、この人の境涯を決定する峻厳なる生命の因果の法則を明かしたのです。
この因果の法則には二つの次元があります。一つは、いわゆる因果応報の次元です。これは、善因楽果・悪因苦果の法則です。すなわち、善い行いをすれば安楽の報いを得て、悪行をなせば苦悩の報いを受けるというものです。
しかし、仏法は、それにとどまらず、より根源的な生命の因果の法則を明かします。生命に具わる根源の仏界を開きあらわせば、最高の善を実現したことになり、直ちに揺るぎない幸福境涯を確立していける。煩悩・業・苦の因果に束縛された九界の身に、本来具わる内なる仏界、仏性を開くことによって、成仏の果を直ちにもたらすのです。
この因果は、時間の流れのうえに成り立つ通常の生命の因果とは異なります。それは一念の転換によって、今の自分の身に本有の仏界を直ちに開く因果俱時の法則なのです。
大宇宙の大生命力を我が身に開く
生死輪廻の因果は、誰人たりとも逃れられない峻厳な因果の法則です。これは、自分の人生は自分の責任であるとする点で、超越的な絶対者から与えられた恣意的な運命に人間が翻弄されると説く運命論的な思想よりも、はるかに人間の主体性や自由があると感じられます。
しかしながら、結果的には、長遠な生死の繰り返しの中で自身が積み重ねてきた宿業の強大な重みに押しつぶされかねない圧迫感から逃れることはできません。
この宿業の重しを突き破って、生命根源の次元からの変革を説き示したのが、十界具足の法を説く妙法の因果なのです。今、ここで、どのような境涯であったとしても、各人の生命の奥底には厳然と、最高の智慧にあふれた力強い仏界が具わっている。それを開きあらわせば、あらゆる困難をも乗り越えることができる。このことを可能にしたのが因果俱時の蓮華の法なのです。
この真実に目覚めれば、どのような困難をも打ち破り、運命を切り開き転換していくことができる。それは、最も「主体性」にあふれ、根本的にして揺るぎない「自由」を確立することです。
また、自身の内なる無限の力を確信できれば、そこに最も確かな「希望」が生まれます。そして、いかなる困難が襲い来ても、それは内なる妙法の力を発揮するための試練であり、自身が願って立ち向かうべきチャンスであると捉えて、粘り強く一つ一つの課題を乗り越えていくならば、自身の境涯を大きく開き、真に揺るぎない自在の境涯を築き上げることができるのです。
まさしく妙法蓮華経こそ、真の「自由」と「希望」を我が生命にもたらす大法なのです。
初代会長・牧口常三郎先生は、この内なる妙法について、次のように仰せです。
「我等各個の生活力は悉く大宇宙に具備している大生活力の示顕であり、従ってその生活力発動の機関として出発している宇宙の森羅万象 これによって生活する吾吾人類もに具わる生活力の大本たる大法が即ち妙法として一切の生活法を摂する根源であり本体であらせられる」
私たちが自身に具わる宇宙の根本の大生活力を開きあわせれば、大宇宙の力が発揮できる大境涯となるのです。
宇宙は本来、慈悲の行業
その大境涯は、自分だけ幸せになるというような決して利己的なものではありません。そうではなく、相互に支えあい、相互の力を発揮し促しあい、それぞれの個性の開花と調和をもたらすものであります。互いに慈しみ励ましあうこと、即ち「慈悲」が宇宙全体を貫く働きです。
それゆえ、戸田先生は、宇宙は本来、慈悲の行業であると言われました。
「そもそも、この宇宙は、みな仏の実体であって、宇宙の万象ことごとく慈悲の行業である。されば、慈悲は宇宙の本然のすがたというべきである」
「宇宙自体が慈悲である以上、われわれも日常の行業はもちろん、自然に慈悲の行業そのものではあるが、人たる特殊な生命を発動させている以上、人間は、一般動物植物と同じ立場であってはならぬ。より高級な行業こそ、真に仏に仕える者の態度である。
「大聖人様のおおせどおり、われわれも三大秘法の真の仏法たる題目を唱え、人々にも唱えせしめて、自然の行業に慈悲があふれる人々をより多くつくらなくてはならない」
自身が宇宙根源の妙法の当体であると深く信じて、南無教法蓮華経の題目を唱えぬくとき、妙法の智慧と慈悲の大生活力を開花させて、いかなる苦難や障魔も撃破し、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことができる。その人は、臨終を迎えた時も「自身、妙法なり」との正念を揺るがさず、断見や常見にも惑わされない、大安心の境地を実現できるのです。それこそが、人生の最大最高の目的です。
まさに「生も歓喜、死も歓喜」です。
この臨終正念によって今生の生を完成した人は、大宇宙の慈悲の行業を一念に凝縮し、再び偉大なる広宣流布の戦いを展開しようとの大誓願に立つことは間違いない。それは、新しい生への大いなる希望の旅立ちなのです。
先生の講義 第四回
妙法蓮華経の生死
全人類を仏界で包む慈悲と希望の生死観
仏法は、人間の「生死の苦悩」を解決する方途を明確に説ききった教えです。
その生死の真髄が説き明かされた経典が法華経であり、なかんずく寿量品です。
そして、その法華経の真髄を末法に展開した日蓮大聖人は、苦悩の根本原因となる無明を払い、万人が三世永遠の幸福境涯を体得する道を開いてくださった。
戸田先生は、よく「仏法の解決すべき問題の最後は死の問題です」と語られていました。
この仏法の偉大なる叡智こそ、生死の問題を解決する根本の方途を明かし、人類の境涯を高めていく道を示しています。
今回も「生死一大事血脈抄」を拝し、人類を救う大法である仏法の深義を学んでいきましょう。
生死の無限の可能性を示す「生死の二法」
本抄では、なぜ、妙法蓮華経が「生死一大事の大法」であるか、その深義を簡潔に説明されています。この深義を拝するにあたり、前回の講義では「生死」と「妙法」の関係について述べられた御文に即し、「本有の生死」について考察しました。
すなわち、「生死の二法は」宇宙根源の「妙法」そのものに本来具わっているのであり、生と死の相を現す十界の衆生は悉く妙法の当体であることが示されました。
このことは、現実世界に生きる衆生が迷い苦しむ生死は本来の生死ではないということであり、永遠の妙法のリズムそのもののとしての生死こそが本来の生死であるということを意味しています。法華経寿量品では、このことを如来が如実知見した悟りの内容として説いています。
仏の眼からみれば、十界のあらゆる衆生には、本来、無限の可能性があります。妙法の当体である衆生にとって、解決できない根源的な迷いや苦悩など存在しないと、仏は知見します。
しかし、凡夫は、十界のうち、ほとんどは六道の境涯を流転するばかりで、四聖の境地ははるかに仰ぎ見ることしかできません。なかんずく、真に生死の苦を乗り越えることのできる仏界は、はるかかなたの理想郷に過ぎず、夢のまた夢というしかありません。
生命変革の可能性を示す当体蓮華
本抄では、十界の衆生の生死の意義を更に深く示すために、次に「当体蓮華」について述べられています。
「当体蓮華」とは、すべての十界の衆生が妙法の当体であるということです。すなわち、今、ここにいる衆生の身が十界互具の当体であり、その身において仏界を現しうることを示す法理です。
「蓮華」は因果俱時、すなわち「原因と結果が今の一瞬の生命に同時に具わっていることを表します。つまり、十界互具のことであり、今が十界のいずれかの一界の姿を現じているとしても、次の瞬間に、生命は十界のいずれかの界も現ずることが可能だということです。
特に、今の一瞬の生命に、成仏の因である九界も、果である仏界も、同時に具わっていることを譬えます。
この当体蓮華の観点に立てば、生死を繰り返す生命そのものは、本来的には善でも悪でもありません。縁によって、迷いの状態にもなれば、悟りの状態にもなります。十界で言えば、地獄界から仏界まで、あらゆる境涯を体現するのが、生命の本然的な姿です。
一念の転換を説く因果俱時
大聖人は、「依報・正報に現れる因果は、すべて蓮華の法である」という天台大師の釈を引いて、当体蓮華の意義を更に詳しく説かれています。
ここで「依報・正報」というのは、生と死の相を示現する生命活動そのものです。生命活動が依報・正報にわたる関連性は、現代においては科学的にも洞察されているところです。
依報においても、正報においても、また依報と正報の間にも、種々の因果の現象が起こっている。それらは、すべて、妙法に具わる生死の二法に他ならない、と言われているのです。そうであれば、依正の種々の因果現象も、その本質は因果俱時の「蓮華の法」に則って起こっているのです。
さて依報も正報もともに、因果俱時の「蓮華の法」であるということは、実践的には、いかなることを意味するのでしょうか。
それは、我が一念の転換によって、自身の依報も正報も瞬時にしてかわることを説かれているのです。
この点、従来の仏教は、過去世の業因の報いとして、がんじがらめに束縛されている自分自身が、歴劫修行の果てに未来に新たな正報を得ることで変化しうると説いてきました。それに対し、我が一念によって正報が瞬時に変わるということは、この身そのままで、生命が変革されるということです。そのとき、正報だけでなく、自身をとりまく依報もまた、必ず変わります。
「蓮華の法」、すなわち「因果俱時の妙法」は、生命が本来持つ無限の潜在的可能性を開き、三世にわたって自由自在の境涯を得ることができるのです。
万物の生死・変化は「妙法蓮華経の生死」
以上、「妙法」と「蓮華」の考察を通して、「妙法蓮華経」が衆生の深い意義を示す大法であることを拝してきました。ここで、大聖人は結論として、あらゆる生死や変化は「妙法蓮華経の生死」であることを示されています。
まず、「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」という伝教大師の釈を引用されています。それは、あらゆる変化は因果俱時の妙法という根源の一法に基づく変化である、ということを明らかにするためです。
「一心の妙有」とは、「一念三千の法理」として説明したほうが理解しやすいかもしれません。「一心」「一念」の変革が、大きく境涯を変え、世界を開いていくのです。それは、生命そのものが十界互具であるゆえに、三千諸法に開く変革の可能性があるからにほかなりません。
続いて、大聖人は「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」と仰せです。一心法界・一念三千であるから「天地・陰陽・日月・五星」は中国の陰陽道に基づく宇宙観・世界観を表現されていると拝することができます。
日蓮大聖人御在世当時の宇宙観は、陰陽道や天台宗の経典注釈などを通じて、中国の伝統哲学である陰陽五行の思想に基づく捉え方が広く流布していました。これは、それを踏まえての表現です。
天地も、その基となる陰陽も、日月も、五行も、所詮は妙法蓮華経の生死の表れであると大聖人は仰せです。したがって、万物の生死は「生死の二法に非ずと云うことなし」と仰せのように、そのまま、妙法蓮華経の生死です。
私たちの生命も、依正ともに妙法蓮華経の当体であり、万物もまた妙法蓮華経の当体です。それゆえ、天台大師は「万物の生起といっても、その本性である法性における生起である。また万物の消滅といっても法性における消滅である」と釈しています。ここで「法性」とは、万物の本性であり、その実体は妙法蓮華経にほかなりません。
釈迦多宝の二仏も生死の二法
続いて「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と仰せです。
虚空会の宝塔で並座する釈迦多宝の二仏は、妙法蓮華経に具わる仏界が顕現した存在です。私たち凡夫と同じく妙法の当体であり、生死を現ずる存在であるということです。
釈迦仏とは、法華経本門に説かれる教主・釈尊です。五百塵点劫という久遠以来、この現実の娑婆世界に常住して妙法を説き続ける仏です。
法華経寿量品には、釈尊は久遠に成仏して以来、常住不滅の仏でありながら、衆生を成仏へと導くために、巧みな方便として涅槃の相を示すことが明かされます。方便現涅槃です。これは、仏の生命の当体が、本質的には永遠の妙法でありながら、現象面としては「生から死へ」と様相を転じるさまを見ることもできるでしょう。
一方、多宝仏ですが、この仏は、遠い昔に成仏し入滅した古仏です。法華経説法の会座に出現し、法華経が真実であることを証明します。このことは、妙法の当体が「死から生へ」と転じる様相を象徴しているともいえるでしょう。
いずれも、妙法を教え示すための生死です。そのために妙法の当体である生命に、本来的に具わる生死を用いるのですから、釈迦・多宝の二仏の生死は、まさに「妙法の生死」といえるのです。
仏界の生死
あらゆる生死は「妙法蓮華経の生死」です。
戸田先生は、よく、死後の生命は大宇宙のなかに溶け込むと語られていました。
この大宇宙の生命それ自体が十界具足の生命です。大宇宙そのものに地獄もあり、餓鬼もあり、仏界もあります。私たちもまた、この大宇宙の地獄界なり、餓鬼界なり、菩薩界なり、そして仏界なりへと、それぞれの境界へ溶け込んでいきます。
私たちの生命は、溶け込んでいるといっても、厳密に言えば、もともと、宇宙の生命それ自体です。本来は、別々のものではありません。ある意味では、大宇宙は、大生命の海です。大宇宙の海そのものが、刻々と変化を起している。常に、動き、変化しながら、「生」と「死」のリズムを奏でている。
前回、確認したように、一次元の譬喩で言えば、私たち個々の生命は、大宇宙という大海から生まれた「波頭」のようなものです。波が起こることが、私たち個々の生命の「生」。また大海と一つになれば、私たちの生命の「死」です。
大宇宙に溶け込んだ死後の生命は、大海の中のうねりのようなものであり、決して一箇所に固まっているわけではない。大宇宙の生死のリズムに合わせて、宇宙に遍満しながら、動いている。
戸田先生は、それが縁に応じて、宇宙中から最もふさわしい色心と環境を選んで、一個の生命として生まれてくると語っていました。
仏界の生死であれば、自分が生まれたいところに、生まれたい時に、生まれたい姿で、自在に生まれてくることができるのです。それが「妙法蓮華経の生死」なのです。
ですから「妙法蓮華経の生死」にあたっては、死を恐れる必要はありません。広大にして慈悲の行業に満ち満ちた大宇宙の慈悲と生命力を体現して、再び生き生きと活動し、仏と同じ振る舞い、すなわち人を敬い、万人を救済する振る舞いを無上の喜びとして生き抜いていくのです。
生きている時は、生命の内に広大な仏界をあらわし、その大生命力で、この世の使命を全うしていく、南無妙法蓮華経の唱題が、胸中に広大な仏界を開くための根源の実践であることは言うまでもありません。そして、死んでからは、大宇宙の仏界に溶け込み、その永遠の生命を深く味わい、楽しんでいく、この仏界の生死こそ「生も歓喜、死も歓喜」という無上の生死なのです。
大聖人は御書に明確に仰せです。
「上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず」(0574:07、三世諸仏総勘文教相廃立)(最高の成仏を遂げ、たちまちのうちに九界の生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切の有情の身に入れて、内からは仏道の心を起こし、外からは仏道に入らせようと導き、内外が相呼応して、因と縁を和合させて、自在にして卓越した慈悲の力を施し、広く衆生を利益することは自由自在であろう)。
まさしくこの仰せの通りに、人を救うために生まれてこようとする生命は、「自在に」「滞りなく」すぐに生まれてくることができるのです。
これに対して、どこか、現実を離れたところに理想の世界があり、死んでその世界に永住することを求める生死観があれば、この現実世界を本源的に変革することはできません。理想世界が「本」であれば、この現実世界は「迹」であり「仮」の世界になってしまうからです。
「妙法蓮華経の生死」こそが、この現実世界を自由自在に遊戯しながら、力強く変革しゆく希望の生死観となります。
戸田先生は、常々語っていました。「真の永遠の生命が分かれば、人類の境涯を高めることができる」と。また、それが根本の民衆救済であるとも述べておられました。
「一切衆生を救う」とは具体的にいかなることか。
戸田先生は次のように綴られています。
「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ餓鬼もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。
世界中に地涌の菩薩が出現し「永遠の生命」「妙法の生死」に人々が目覚めていくならば、いまだかってない生死観の革命が進み、無明の四苦に迷ってきた人類の宿命転換が必ずや成し遂げられていくでありましょう。
真の生死観を世界の思潮とし、21世紀を人類の境涯革命の本格的な幕開けとする。この創価の新たな挑戦が始まっているのです。
先生の講義 第五回
妙法蓮華経の受持
民衆救済の誓願に生きる永遠に「仏界の生死」を
本文
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、
現代語訳
このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我等九界の衆生の三は全く差別がないと信解して、妙法蓮華経ととなえたてまつるところを生死一大事の血脈というのでる。このことが日蓮が弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとはこのことをいうのである。
講義
「迷いの生死」から「仏界の生死」へ
南無妙法蓮華経こそ「生死一大事」の大法です。凡夫の「迷いの生死」を、仏の「仏界の生死」へと転換できる唯一の大法だからです。そして、この大転換を可能にする生死観が、本抄で明かされた「妙法蓮華経の生死」です。
「妙法」は、無始無終の根源の法です。「生」と「死」は、この宇宙根源の法である妙法に本来具わる本有の実相なのです。
この妙法を信受し「迷いの生死」を打ち破れば、「本有の生死」に立ち戻ることができます。この時、「妙法」即「生死の二法」に具わる大転換の力が発動します。それは、因果俱時・十界互具の法理に基づく力用であり「蓮華の法」と言われています。
万物は「妙法蓮華経の生死」のリズムを刻んでいます。万物の起滅、あらゆる生命の生と死は、「妙法蓮華経の生死」である。ゆえに、千変万化の変化も可能なのです。
人間は通常、この生死観がわからないために、迷いの生死の中に沈み、苦しんでいます。しかし、仏は自他の生命に、この「妙法蓮華経の生死」を覚知し、迷いの生死で苦悩を克服した、安穏の大境涯が開かれました。
この仏が三世にわたって生き抜く生死が「仏界の生死」です。
迷いの生死を超えて安穏の大境涯を
迷いの生死観の典型例である「断見」や「常見」については、すでに述べました。
本来は、衆生の生死も「妙法蓮華経の生死」です。自身に迷い、欲望に執着してく無明の暗雲に覆われて、その実相を正しく見ることができない。かえって「迷いの生死」に執着してしまうのです。
これに対して、法華経寿量品に説かれているように、三界の衆生を如実知見する仏の智慧から見れば、衆生自身が思っているような「迷いの生死」は幻想に過ぎません。三界の現実にあって迷い、苦しむ衆生に「本有の生死」という生命の本質に目覚めさせるために、仏は智慧を尽くして法を説くのであると述べておられます。
寿量品では、そのために釈尊自身が三世永遠にわたって貫いている「仏界の生死」という仏法の究極の生死観が示されているのです。
仏が如実知見する「本有の生死」とは、そのまま久遠実成の釈尊に即して明かされる「仏界の生死」にほかなりません。言い換えれば、寿量品の釈尊が生き抜く「仏界の生死」とは、そのまま衆生が生きる本来の生死なのです。
私たちが「仏界の生死」に生きた時、私たちの「生」も「死」も、「妙法蓮華経の生死」として無上の光輝を放ちます。
現実世界に生きている「生」においては、内から仏界という清浄なる生命が涌現し、一切の困難と戦う偉大なる力となる。それは、あらゆる苦難を乗り越え、勝利の人生を築きあげる原動力となります。
そして、仏界を涌現しながら現実と戦うことによって磨き抜かれた生命は、今生の使命を終えた死後には、宇宙の仏界に溶け込みます。そして、広大無縁辺の大境涯を楽しむ自受法楽の境地を味わうとともに、大宇宙の本然の慈悲と一体の生命になるのです。さらに、その慈悲に促されて、苦悩する衆生を救うために、次の現実世界の「生」へと躍動の出発を開始します。こうして「仏界の生死が繰り返されるのです。
「仏界の生死」に基づけば、あたかも良き睡眠が新たな生の活力を生むように、「死」は次の新たな「生」への充足時間となります。
大聖人は仰せです「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504:06、上野殿後家尼御返事)
「生死ともに仏」 まさに「仏界の生死」です。一切衆生を根源の生死に目覚めさせ、万人の成仏を実現する。そのことが「生死一大事血脈」の根本目的です。
生死一大事血脈のための信心の要件
以上述べた「仏界の生死」という生命の真実の道を歩むために、日蓮門下は「生死一大事の大法」である南無妙法蓮華経を、どう信受していくべきか、本抄では、その答えが幾重にも説かれ、重要な信心の要件が明かされていきます。
その第一が「仏界の生死」を、どこまでも、自身の「生と死」の本来のすがたであると捉えていく信心です。
すなわち「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と仰せです。
ここで、「久遠実成の釈尊」「皆成仏道の法華経」「我等衆生」の三つを並べて「全く差別無し」と言われていることが重要です。
衆生が「仏界の生死」を自覚するためには、「仏界の生死」の体現者である「仏」の存在と、「仏界の生死」を明示した「法」の存在が不可欠なのです。
①「仏界の生死」を体現した久遠実成の釈尊
まず「久遠実成の釈尊とは、仏界の生死を体現した仏です。
寿量品では、釈尊が久遠五百塵点劫という過去遠遠劫に成仏して以来、永劫の未来まで、すなわち実質的には無始無終にわたり、仏の生命が続くことが説き示されていきます。
この久遠実成の釈尊は、始成正覚の仏に比べて、単に「仏寿」がはるかに長いというだけではありません。両者は、仏としての生死の意味が異なるのです。
始成正覚の仏は、「涅槃」など永遠の世界に入り、生死から離脱していく存在です。これに対して、久遠実成の仏とは、この娑婆世界にあって、永遠に衆生教化に戦い続けるために「仏界の生死」を現していくのです。
このように、経典には種々の仏が説かれますが、法華経の久遠実成の釈尊に至って、初めて「仏界の生死」が成り立ちます。久遠実成の釈尊とは「仏界の生死」の体現者であると言うことができます。
②「仏界の生死」に生き抜くことを教えた「皆成仏道の法華経」
次は「皆成仏道の法華経」です。これまでは、法華経の「皆成仏道」の意義を、どちらかというと、二乗や悪人・女人の成仏を許さない爾前権教との対比において論じられてきたことが多かった。もちろん、法華経の卓越性を権教との相対のうえで、論ずることには甚深意義があります。しかし、ここでは、「皆成仏道の法華経」の意義を「仏界の生死」という観点から確認しておきたい。
確かに「皆成仏道の法華経」の意義の第一は、言うまでもなく、法華経にのみ万人成仏が説かれている。そして、仏とともに民衆救済の慈悲の実践を貫く菩薩の誓願が説かれているところに、大乗経典の真髄である法華経の真価があるといえます。
方便品第二で、仏自身が「如我等無異」という誓願を成就したことが説かれ、併せて、それは一切の仏の願いにほかならないことも示されています。
そして法華経迹門の開三顕一の説法で、一貫して強調しているのは、この誓願に生き抜いてこそ声聞・縁覚の二乗や菩薩たちの成仏があるということです。
釈尊が、何ゆえに二乗の舎利弗たちを弾呵してきたのか。その一つは彼らが肉体の老いが見えた時、心まで老いてしまったからです。“自分たちは老いた。歩める境地はここまでだ。この境地で満足しよう”などと心に限界をもうけてしまった。これは、苦悩にあえぐ民衆を救うという戦う心を忘れた姿です。
この二乗の問題において法華経で強調されていることは“過去世の誓願を思い出せ”という一点です。
例えば、迹門では、法華経を説くのは過去世における菩薩としての本願を思い起させるためであることが、譬喩品・化城喩品・五百弟子授記品などで強調されている。
また、法華経の七譬の一つ「衣裏珠の譬」は、大願に立ち返ることが、本来の自分に立ち返ることになると教えています。この大願を思い起こし、声聞たちは、身は声聞の姿として現れているが、自分たちの内面は菩薩であったとの本地を自覚して、歓喜勇躍していきます。
そして、法華経本門においては、妙法を所持し、民衆救済の誓願に立った地涌の菩薩が出現し、さらには、釈尊が久遠から仏として民衆救済の誓願に生き続け、これからも貫いていくことが明かされます。
この「民衆救済の誓願」とは、「仏界の生死」が現実に現れた生き方にほかなりません。自身の生命の根底には、崇高な誓願があると目覚めることです。
この誓願を忘れ、真実を求めようとしないことが、迷いの根本原因です。
法華経は万人の成仏を説き明した経典です。それは、言い換えれば、万人の一人一人に「宇宙の慈悲の行業」のままに振る舞う生命の本源の生き方へ力強く歩ませていく経典であるということです。
以上のように「皆成仏道の法華経」とは、“万人の成仏を明かした経典・法華経”という意味だけでなく、“万人の成仏を実現する誓願の実践を促す経典・法華経”という意味が込められています。いわば、法華経には「皆が仏」という真理と、「皆を仏に」という実践の両面が説き示されていきます。
万人の成仏を実現する実践こそ「仏界の生死」を開く原動力であるがゆえに、「皆成仏道の法華経」とは“万人に「仏界の生死」を実現させゆく経典”であると、言えるのです。
③「一体」「無差別」であると信解し「仏界の生死」に生きる衆生
「皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。
自分自身が「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。
「全く差別無し」です。いささかでも違うと思うのは、無明から生じた迷いの生命です。自身が「仏界の生死」を貫く当体であると捉えてこそ、日蓮大聖人の仏法を真に実践することになります。
そして、「全く差別無しと解りて」とあります。「解りて」とは単に頭で分かるということではなく「信解」すなわち「信に基づく理解」「心からの納得」でなければなりません。
生命の奥底で深く納得するためには、不惜身命の実践が不可欠です。決定した信心で広宣流布のために戦ってこられた学会員の方々には、その戦いの中に「信解」が脈打っています。地涌の菩薩として、南無妙法蓮華経を弘める使命に生き、悔いなく戦い切っている姿に、すでに「久遠実成の釈尊」「皆成仏道の法華経」と全く等しい南無妙法蓮華経の仏界の大生命が湧現しているのです。
一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と湧現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。
今世で妙法と一体化した生命は、死後もまた、妙法と一体化し、次の「生」もまた、妙法の使命を果たす「生」となります。それが「仏界の生死」の本然の姿であり、慈悲の行業に生ききっていく生命です。
凡夫がこの境地に到達するために、大聖人は南無妙法蓮華経を唱え弘められました。大聖人と同じく妙法を唱え弘める大聖人門下には「生死一大事の血脈が流れ通い、「仏界の生死」に直ちに連なることができる。また、そのための日蓮大聖人の仏法の信仰です。ゆえに「此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり」とも「法華経を持つとは是なり」とも仰せられているのです。
「弟子檀那等の肝要」 弟子の道の根本とは、何か。
仏の願いであり、日蓮大聖人の大願である広宣流布に生きることです。
法華経の精神、すなわち、万人成仏の実践に行ききることです。
その中に「仏界の生死」の法が脈動するのです。それでこそ、真の意味で「法華経を持つ」といえるのです。
「法華経を持つ真実の生き方」
法華経は「更賜寿命」の経典です。生命力の本源である仏界の生命を現す力が、法華経の肝心である南無妙法蓮華経にあるからです。
大聖人と同じ精神、同じ広宣流布の大願をもって題目を唱える人は、「仏界の生死」に連なることができ、根源の生命力を発揮することができます。
法華経には生命を生き生きと若々しく蘇生させゆく力があります。「生」においては、「年は若くなり、福は重なる」です。「死」においては、仏界の大生命と一体となり、根源の生命力を充電させることができます。
末法に、法華経の精神を貫いて、大聖人直結で広宣流布へ進んでいる学会員こそ、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がない尊い方々です。
戸田先生は言われました。
「成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる、このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない」
仏の本源の生き方に直結しているから、学会員は根源の生命力に満ちあふれているのです。
久遠の慈悲の行業を実践しているから、学会員は、何があっても根本は明るいし、また楽しいのです。
「仏界の生死」に連なっているから、創価の師弟の生命は強靭であり負けない。
真の生死観に生きゆく私たちは、真の哲学を持つ賢者であり、真の信念に生きる勇者です。学会員の慈悲の実践に、人類の生死観の模範があり、境涯革命の先駆があるのです。
先生の講義 第六回
臨終只今と臨終正念
「今」が三世永遠の勝利を築く
本文
所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅猿浅猿、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば瓜夕顔の手を出すが如くと思し食せ、
現代語訳
所詮、臨終只今にあると覚悟して信心に励み南無妙法蓮華経と唱える人を普賢菩薩勧発品には「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれている。よろこばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏ではなく千仏まで来迎し手を取ってくださるとは歓喜の涙、押えがたいことである。これに対し法華不信の者は、譬喩品に「其の人は命終わって、阿鼻獄に入るであろう」と説かれているから、定めて獄卒が迎えにきて、その手を取ることであろう。あさましいことである、あさましいことである。このような人は十王にその罪を裁断され、倶生神は呵責されるにちがいない。
今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に千仏が御手を授けて迎えてくださるさまは、例えば瓜や夕顔の蔓が幾重にもからんで伸びるようなものであると思われるがよい。
講義
本抄では、生死一大事の法である妙法蓮華経の受持の極意として、「臨終只今にあり」と究極の姿勢が明かされています。
この「臨終只今」の信心で妙法蓮華経を受持するとき、本抄で「妙法蓮華経の生死」と明かされた生死の実相を、我が身にありのままに現してける。それは、とりもなおさず「迷いの生死」を「仏界の生死」へと転換することです。なぜならば、「臨終只今」とは、「仏界の生死」への深い信解から生ずる信心の姿勢だからです。
「仏界の生死」への信解
大聖人は「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人」は、千仏に守られる大安心の臨終を迎えることができる、と仰せです。千仏に守られる臨終とは「臨終正念」のことに他ならない。すなわち、「臨終只今」の信心の人こそが一生成仏の道を歩んでいけるのです。
「所詮」とあるのは、前段の御文に関係があります。すなわち、前段では「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と「我等衆生」との三つが全く差別がないと信解するという、妙法蓮華経受持の本質が説かれました。この信解の姿勢の肝要が「臨終只今」の信心であるがゆえに、「所詮」と言われているのです。
「三つ全く差別無し」と信解するとは、自身の生命は妙法蓮華経の当体として仏と不二の生命であり、仏と同じ生死すなわち「仏界の生死」に生きることができると信じることです。言い換えれば、一生成仏を人生の目的と志し、人生に根本的な希望を持つことです。その信心に生きる決意をもった人は、必ず、「臨終只今」の姿勢で生きるようになる、ということです。
臨終というのは、「人生の総決算」の場です。この時「どう生きてきたのか」が厳しく問われます。その時に、何の悔いもなく、自身の人生を深く肯定し、大満足で臨終を迎えられるか。逆に、後悔と自責の念で人生の終幕を迎えてしまうのか。
まさに、臨終の時にこそ、その人の生き方そのものが、何一つごまかしようがなく、この一瞬に凝縮されます。したがって、臨終をたとえ今迎えたとしても、雲一つない澄み切った青空のごとく、何一つ悔いや不満がない。そう断言できるように、どれだけ「今」を真剣に精一杯生きているか、ということが最重要になります。
瞬間、瞬間、「今、臨終になっても悔いがない」と言い切れる覚悟で、「現在」を真剣に生きる。それが「臨終只今にあり」という信心です。
次の生への輝かしい出発
さらに、臨終は「人生の総決算」であると同時に、仏法の生死観から見れば、次の「生」への新たな出発となります。
私は、かつて「世界一美しい」と言われるマニラの夕日を見たことがあります。水平線に沈む太陽が大空を赤く染め上げ、海が黄金に輝いていた。一幅の名画のように荘厳な光景でした。素晴らしき夕焼けは、翌朝の輝かしき旭日を約束します。三世の仏界の生死に生きる私たちにとって、臨終は、まさに次の生への輝かしき出発である。
臨終は人生のすべてが凝縮した「人生の山頂」であり「次の生」を決定づける人生の最も重要かつ厳粛な場となります。この臨終の時に、いかなる一念を持つか。悔いなき勝利の「生」は、安穏な「死」を約束します。そして、大満足の「死」が、次の「生」への晴れやかな旅立ちを決定させます。臨終の時の今世を総括する一念が、どうであるか、その因が未来の果報をもたらす。ここに「臨終正念」の意義があります。
「臨終正念」とは、死に臨んでも心を乱さず、正しい念慮、すなわち妙法を信ずる信の一念を、揺るがずに貫くことです。
臨終の時に、妙法を信受できた無上の喜びをもって、我が人生に悔いがないと満足できる心こそ「臨終正念」の具体的な姿に他なりません。
ここで「臨終只今」と「臨終正念」の違いを整理しておけば、今生で生ある時に、臨終という人生の総決算の意味を強く感じ、“今、臨終を迎えても悔いがない”との覚悟で、現実の一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことが「臨終只今にあり」との信心です。その意味で、「臨終只今」の信心には、生命に対する「智慧」があり、智慧に基づく「決断」があり、智慧と決断によって開かれる晴れやかな「希望」と「行動」があるといえる。
日々月々年々に、この「臨終只今」の信心を積み重ねていくことで、生命を鍛え、磨き抜き、境涯を高めていける。そして、今生の生き方に確信と納得を持ち、臨終に際しても、悔いなく、妙法を唱えきって、安詳と霊山へ旅立っていける。この荘厳なる境地が「臨終正念」です。簡潔に言えば「臨終只今」の信心の積み重ねが、人生の総決算として「臨終正念」を完成させていく。そして、「臨終正念」が次の「生」への豊かな旅立ちを可能にするのです。」
「臨終只今」に生ききった良き「生」が「臨終正念」という良き「死」を約束する。また、「臨終正念」という良き人生の総決算が、次の良き「生」への出発となるのです。
「臨終只今」の人は「生も歓喜・死も歓喜」
さらに大聖人は「臨終只今」の信心を貫き通し「臨終正念」を決定した人が、亡くなった後、どうなるかについて言及されていきます。
「『是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣』と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」
妙法を信じ抜いて亡くなった人は、千もの仏が来迎し、手を授けて守ってくださると仰せです。当時は、弥陀の名号を称えれば、死んだ時、西方極楽浄土から阿弥陀仏と観音・勢至の二菩薩が迎えに来るという念仏の信仰が盛んでした。大聖人は、これに対して、一仏・二仏どころか、百仏・二百仏でもなく、千仏まで迎えに来ると仰せです。その千仏が手を差し延べる様は、瓜や夕顔の蔓がいくつも伸びている様を彷彿とさせると言われています。まさしく「歓喜の感涙押え難し」です。
「生も歓喜、死も歓喜」です。「生から死へ」「死から生へ」 いかなる時も、歓喜はとぎれることがない。
この仏界の歓喜と対極にあるのが、謗法不信の生命境涯です。「法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん」
経文には、不信謗法の者は阿鼻獄に入ると説かれている。また、十王に裁断され、俱生神に呵責されるとも大聖人は仰せである。当然、十王や俱生神とは、因果の理法が厳然と存在していることを表すものです。要するに、誰人も、善悪の峻別を避けることはできない。それが人生の総決算であり、一生に築いた業の果報である。
「十界の生死」で言えば、「仏界の生死」もあれば「地獄の生死」もある。もちろん、生命は十界互具です。「生」の間には変革する可能性を持っているが、最終的な総決算としての十界の境涯は、そのまま次に連続していかざるをえない。だからこそ、今世での境涯革命が重要になるのです。まさに、生死観を深めることは、人生を深めることに通じます。戸田先生は、よく「本当は、死ぬときのために信心するのだ」と語っておられた。宗教の核心は生死観にあるのです。
「心の財」を築く重要性
さて、ここで、今までの内容から誤解を招かないように、補足の意味で確認しておきたいことがあります。
一つは、「臨終只今」とは、当然のことですが、「死」を賛美しているのではない。ということです。むしろ「臨終只今」の真意は、生きて、生きて、生き抜くべきことを教えられているのです。仏法には、命を粗末にするような殉教主義は断じてありません。まして、生死が連続しているからといって、安直に「現実の苦闘を避けて、逃避から「死」を選んでは絶対にいけない。今世における宿命転換を軽視することは、人間の可能性に対する不信です。
二つ目は、「臨終正念」についてです。例えば、事故や病気などで亡くなった場合、故人の成仏には不安を感じる方もるかもしれない。
しかし「臨終正念」を決定づけるのは、あくまでも「信心」です。最後まで信心を貫き、悔いなく戦ってきた人は、「仏界の生死」の軌道に必ず入ります。さまざまな形で死を迎えても「臨終正念」は間違いない。戦ってきた福徳の力で、生命においては大勝利の臨終となっていることは、御聖訓に照らして絶対に間違いないのです。
涅槃経には「菩薩が恐れなければならないのは、身の破壊ではなく心の破壊である。心が破壊されれば三悪道に堕してしまうがゆえに、信心を破壊する悪知識を恐れよ」とあります。
広宣流布に戦い、鍛え抜かれた生命が破壊されることは断じてありません。
「心の財」を築いてきた人は、生死不二の成仏の生命がすでに培われています。その人は、偉大な使命の戦いを貫いた福徳によって、生を飾り死を飾り、永遠に「仏界の生死」が連続しゆく軌道に入ることができる。
仏法の生死観は、誰もが常楽我浄に包まれゆく希望の生死観であり、三世永遠に前進・勝利していくための生死観であることを強く確信していただきたいのです。
「解りて」とは「生命奥底の自覚」
さて、御文の冒頭に戻れば「臨終只今にありと解りて」とあります。
「解りて」とは「信解」であり、決定した信心のことです。自分の生死は本来「仏界の生死」であると生命の奥底に自覚することです。
創価の庭で広宣流布に戦い続ける人は、すでに生命次元で、この自覚を持っているといえる。
「生命は永遠」だからこそ「今を真剣に戦うしかない」と心から自覚して行動していく。 それが、「臨終只今にありと解りて」の姿です。
障魔を打ち破る
さて、「臨終只今」「臨終正念」を考える際に、一点、見落としてはならない重要な信心の姿勢があります。
それは、「障魔と戦う」ことです。「臨終正念」は、「死魔」を乗り越えることでもあるからです。
日頃から、三障四魔との対決を避けている人は、死魔という越えがたい障魔に、打ち勝つことはできない。
「臨終只今」の信心の本質は、魔に蕩かされたり、恐れおののいたりしないことです。そのために信心を奮い起こし、智慧と勇気と生命力を奮い起こして、魔と戦うことです。
魔性と戦い、完全に勝利した人が「仏」です。言い換えれば、仏とは、究極の障魔である天子魔や死魔を乗り越えた存在であり、不死を得た存在に他なりません。
あの竜の口の法難で、四条金吾は死を賭して大聖人をお守りしました。しかし、最後の瞬間、「只今なり」と叫んで泣いてしまった。師を思う心の故であろうが、師を襲う死魔、天子魔に、弟子の金吾のほうが恐れおののいてしまったのかもしれない。
その時、大聖人は力強く獅子吼された。
「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし」(0913:18、種種御振舞御書)
迫る死に臨んで、仏の極致を一言に表した「臨終正念」のお言葉です。大聖人は、権力の魔性と戦われ、死魔に打ち勝たれ、天子魔に勝利されました。その戦う心に仏界が確立するのです。
大聖人は、大難の渦中にいる門下に対して、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。」(1190:11、聖人御難事)とおおせです。
この「月々・日日につよる信心」は「臨終只今の信心」に通じる。すなわち、「臨終只今」の信心こそが、魔を寄せ付けず、打ち破っていく信心なのです。この「臨終只今」の対極にあるのが「たゆむ心」「魔を恐れる臆病」です。
「千仏授手」とあるように、臨終の正念を貫く人には、あらゆる仏・菩薩・諸天善神が瞬時に駆け付けます。しかし、その根本は、自身の信心によって悪と戦い、善を開く戦いであることを忘れてはならない。その戦う心にこそ、仏界の生命力が湧現していくのです。
私も「臨終只今」決意で、60年間戦い続けてきました。とくに若い時は体が弱かった。いつ死んでもおかしくない体でした。だからこそ、「臨終只今」の決意で、戸田先生をお守りした。師を襲う障魔とも一人立って戦った。
そしてまた、世界平和を確立するためには仏法の永遠の生命観を弘める以外にないと確信し、智慧と勇気を振り絞って平和行動に打って出ました。
まさに「臨終只今」の信心を貫いてきたからこそ、元初の生命力が湧現した。そして、共々に異体同心の前進をしてきたからこそ、今日の全世界に広がった創価学会・SGIを築き上げることができたと思っています。
創価の庭には「臨終只今」の信心を貫き、力強く人生を登攀し、輝かしき「臨終正念」の山頂を極めた方々が数限りなくおられる。
その偉大なる人間革命の無数の勝利の姿こそ、全学会に生死一大事の血脈が流れ通っている実証なのです。
先生の講義 第七回
生涯不退の信心
今世の信心確立で三世永遠の幸福の血脈を
本文
過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。
現代語訳
過去において、強盛に法華経に結縁していたので今生にこの経に値うことができたのである。未来において仏果を成就することは疑いない。過去・未来・現在と三世の生死において、法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのである。謗法不信の者は「即ち一切、世間の仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのである。
講義
人身は受けがたく、しかも保ちがたい。永遠から見れば、私たちの今生の一生は、一炊の夢のようなものです。よく戸田先生は「ここにいる人は、百年たったら誰もいなくなるんだよ」と語られていた。
限られた一生だからこそ、この一生をどう生ききっていくかが大事になる。仏法は、この「一生」で永遠の勝利を築くことができると教えています。そのための信仰です。勝利を決する要諦は「生涯不退転の信心」であり、「持続の信心」にほかなりません。
これまで、本抄を拝して、生死一大事の大法である妙法蓮華経を受持する要件を学んできました。
その一つは、久遠実成の釈尊が身をもって示し、皆成仏道の法華経の真髄として説かれた「妙法蓮華経の生死」「仏界の生死」と、すべての衆生の生死とが、本来、全く差別がないと信じて、題目を唱えるべきであるということです。
二つ目は「臨終只今」と覚る決定した信心が大切であり、生涯、「臨終只今」の信心を貫き、その総決算として「臨終正念」を成就すべきことを学びました。
この二つから当然、「生涯不退転の信心」が不可欠であることになります。臨終正念を遂げるためには、最後まで臨終只今の信心を持続していくべきだからです。
ただ、本抄においては、今世だけでなく「三世の生死」という、より広き生命観から、「不退転の信心」の大切さを示されていることを銘記しなければなりません。
すなわち、今生において、生涯、正しい妙法受持を貫いて臨終正念を遂げれば、今世の生死だけでなく、「過去の生死」「現在の生死」「未来の生死」という「三世の生死」の総体が「法華の血脈相承」として結びついて一体となる。すなわち、全体が「妙法蓮華経の生死」として一貫し、「仏界の生死」として躍動していくのです。
三世の生死
大聖人は次のように仰せです。
「過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず」
過去世において法華経との結縁が強盛であった。その「因」によって、現在の法華経受持という「果」がある。また、現在の法華経受持の「因」によって、未来の成仏という「果」は疑いないと、いわれるのです。
この御指南には、大難の中で法華経を受持した最蓮房を励ます意味があります。しかし、それだけではなく、法華経受持によって、今世の生死が変革されると、三世永遠の生死流転の総体が変革されることを示されていると拝することができます。
今世が変われば未来世が変わっていくことは、時間の順序として理解できます。しかし、過去世における生死流転の意味まで変わってくるとは、少し分かりにくいかもしれません。
生死流転の変革といっても、生死の繰り返し自体がなくなるわけではありません。しかし、今世で法華経を受持すると、これまでの迷いの生死、苦しみの生死は、実は夢のようなものであり、仏が如実知見したありのままの「妙法蓮華経の生死」すなわち「仏界の生死」こそが、夢から覚めた現実の生死であることが深く納得できるのです。
私たちは通常、苦しみの世界を現実世界と思っている。しかし、本来の生死のあり方から言うと、現実と思っている苦しみの世界のほうが夢のようなものです。
「総勘文抄」では九界の生死が夢であり、常住の仏界が目覚めた現実であると言われている。
「九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり」(0565:14)
このような意味で、今世における妙法受持によって真実に目覚めた境涯で過去の生死流転を捉えなおすと、法華経の結縁が強盛であったと見ることができるのです。法華経の結縁とは、全ての人が成仏できると説く教えを聞くことによって仏性が触発されることです。
ただし、この結縁には、その教えを信ずる順縁と、その教えに反発する逆縁の二つがあります。結縁強盛といっても、順縁とは限らないのです。しかし、信じても反発しても、仏性は触発されているのです。
過去世の生死流転の中における法華経結縁によって、今世の法華経受持があり、今世の法華経受持を生涯貫くことによって、臨終正念を遂げ、未来世には仏果を成ずるのです。
未来世の仏果とは、すでに考察したように、別世界の浄土に安住することでもなければ、超越的な姿をとることでもありません。どこまでも生と死の流転の中にありつつも、大宇宙の慈悲の行業を我が身に感じながら、現実世界で苦しむ人を救うために戦い続ける仏の姿をとることです。
それゆえに、過去世も、現在世も、そして未来世も、生死の姿をとるのであり、これを「三世の生死」と言われているのです。
仏法の三世の因果は「現在」が中心
さて、ここで、仏法の「三世の因果」について付言しておきたい。
大聖人の三世の因果の捉え方で重要な点は、どこまでも「現在」に焦点が当てられていることにあると言えます。
大聖人は、「開目抄」で、「三世の因果」を説く心地観経の一節を引かれています。
「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)。
若き日に、この一節を初めて拝したとき、私は深い感動を覚えざるをえなかった。この三世の因果において、どこまでも大事なのは「現在」であり、その自分の信心であると知ったからです。経文自体の表現といい、また「開目抄」で引用されている文脈といい、仏法の因果論の要諦は「今の自分の変革」にあることを明確に示している。
「開目抄」で大聖人が、この経文を引かれて語られていることは、過去については「宿命転換」への大確信であり、未来については「後生の大楽」は間違いないとの深い希望です。
過去の悲哀を転換し、未来の尽きることなない希望へと進んでいく。そういう「現在の確固たる自分」を確立できるのが、この仏法なのです。
どんなに困難な現実があろうとも、未来は変革可能であると捉え、根本の楽観主義に立脚して、「今」を真剣に戦うのが、日蓮大聖人の仏法の本義なのです。
ともあれ、今世の信心によって、三世永遠の流転の方向が定まる。幸福と慈悲の流転となるか、それとも悲哀と悪の流転となるかが決まる。
信心とは、無限の希望です。未来永遠に幸福になる因を、「今世」で、そして、「今この瞬間」で築くことが必ずできる。凡夫には不可思議ですが、厳然とその功力があるからこそ、「妙」なる「法」なのです。
「不退転の信心」が三世を決める
信心の要諦の一つは「不退転」です。
大聖人は「新池御書」で、最後まで信心を貫くことの大切さを強調されています。
「始より終りまで弥信心をいたすべし・ さなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては 何として都の月をば詠め候べき」(1440:05)
有名な御文です。せっかく信心をしたのに、人生の最終章で歩みを止めてしまっては、今世の総仕上げをすることはできません。大聖人は仏道修行の灯は消えやすいがゆえに、いよいよ信心を貫いていきなさいと仰せです。
なぜ灯が消えやすいのか、名聞名利や三障四魔によって、自分の心が破れてしまうからです。「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(1190:11、聖人御難事)です。たゆむ心があると、無明が発動してしまうからです。
したがって「不退転の信心」とは、「戦い続ける心」の中にしかありません。
大聖人御自身が、常に「不退転」を自ら誓っておられます。
立宗宣言の直前には「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200:16、開目抄)と決意されました。
また、佐渡にあっても、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(0232:05)と、御自身の誓願を断じて破るまいと覚悟されている。
不退転の信心がいかに大切かを、御本仏自ら示し切っておられるのです。
日々、信心と祈りの深化を
この「生涯不退転」の観点から、わが学会員の信仰の勝利の人生を確認しておきたい。
大聖人の生死論、仏法の生命観から言えば、今世の人生の頂点は「臨終」にあることは明らかです。臨終は人生の最終章であるとともに、次の生への出発だからです。
日蓮大聖人は「何よりもまず、臨終のことを学ぶべきでる」と明快に仰せであります。戸田先生も「信心の目的は臨終のためにある」と、よく言われた。
したがって、大前提として、「持続」「不退」の信心とは、人生の最終章に向かって、「月月・日日に」深まっていくものである。いな、深めていくものだという点を、強く銘記することが大切です。
草や木も、当然、一刻一刻、確実に変化しています。何気なく見ているのでは、花が咲いたなどの目立った変化しか気づかないかもしれない。しかし「詩人の目」「観察者の目」であれば、日々の細やかな変化をも、くっきり見てとることができるでしょう。
私たちの信仰も、日々の勤行、日々の学会活動の繰り返しの中にあって、一日一日、着実に、厳然と深まっていくものでありたい。大聖人の仰せの通りに、現実に広宣流布を進めている学会の中に行学に励んでいくことは、まさに一生成仏に向かって、信心をたゆみなく、しかも確実に深めていく力用があるのです。
「あいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし」(1505:09、上野殿後家尼御返事)との仰せのとおりです。
毎日毎日の実践で、私たちの生命は、いよいよ妙法蓮華経にそめあがっていくのです。
具体的には「信仰」の深化とは「祈り」の深化です。祈りは、その人の境涯の表れです。祈りの内容や祈る一念が深まっていってこそ「持続」「不退転」の信心なのです。
信仰者のライフスタイル
信仰とは、生涯かけて深めていくものです。この信仰と人生の深まりという観点から、一つの参考として、人生を四つの段階に分ける古代インドの考え方を挙げておきます。
その第一期は、学生期。一人前になるために、師につきながら学んでいく時代。
第二期は、家長期。家の主人として、社会的義務を果たし、子孫を育てる時代。
第三期は、林住期、富や地位を捨てて隠居し、林に入って修行する時代。
第四期は、遊行期。解脱に向け、執着を捨てて遍歴し、永遠の生命を得ようとする時代。
自身を鍛え、社会的責任・家庭的責任を果たした上で、宗教的な修行を経て、最終的な人生の目的そのものを成就していこうという、ライフスタイルであるといえます。
私たち創価の同志もまた、自己実現と社会貢献と人生勝利というテーマを掲げて前進しています。
十代から青年期にかけての信仰は、自身の使命に目覚め、自身を鍛えていくことが中心となる。いわば「自覚と鍛錬」の時代でるといえます。
この時期は、自身の「使命」を自覚することによって、才能の芽が急速に伸びる。「決意」を新たにした青年の成長は、まことに目覚ましい。
私も19歳の時に戸田先生に出会い、約10年にわたって師の薫陶を受けきってきた。私の人生の一切の骨格は、すべて戸田先生と不二で歩んだ青年期に築きあげたものです。
次は、壮年部・婦人部の世代です。社会的に言えば、いわゆる定年前後までの年代となります。
未来部・青年部が「自覚と鍛錬」の世代であるとすれば、この年代は、「実行と実証」の年代といえます。会社や家庭・地域で、自身の信仰の実証を示していく年代です。自身の使命や社会的責任を果たし抜いて、社会や地域に思う存分、信仰の底力を発揮しゆく時であります。
そして、次の世代、すなわち「多宝会」「宝寿会」「錦宝会」の世代です。いよいよ一生成仏という人生の真の目的に向かって、信仰の輝きが内面から煌めいていく年代であるといえます。いわば「成熟と歓喜」の世代であると言えるでしょう。
信心には“定年”はありません。むしろ、この世代こそが本番であり、いよいよ信心を深化させ、輝きを増していくべき時です。
労苦・病苦・死苦をどう受け止めていくか、また、どう乗り越えていくか、ここに仏法の本来の課題があり、根本の目的があります。この、生死一大事の課題を身をもって勝ち越え、その根本目的を成就していくのが、人生の総仕上げです。
戸田先生は言われました。
人生は最後が大事だ。最後の数年間が幸福であれば、人生は勝利である」と。
「御義口伝」に「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(0740:第三四面皆出の事:02)と仰せです。
法華経の宝塔の四面から溢れ出る馥郁たる香りは、生老病死は個々人の生命を荘厳していることを意味していると仰せです。生老病死は生命を飾る香りであるとの、実に深い捉え方が示されています。
それは、「妙法蓮華経の生死」という本来ありのままの生死に立ち還り、宇宙本源の生命力を我が身に漲らせて、「仏界の生死」の大歓喜に生ききる人生です。ここにこそ、生老病死をも自身の宝塔を荘厳する香りとしながら、永遠に常楽我浄の大生命力と大福徳を得ていく道が開かれるのです。
先生の講義 第八回
異体同心
広布大願の絆で結ばれた和合僧に真の血脈が通う
本文
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、
現代語訳
総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである。
講義
本抄では、これまで、一人一人において生死一大事血脈が通う在り方が明かされてきました。それを要約すると、
①生成仏を確信
②臨終只今にありとの覚悟
③持続の信心
の三つです。この確固たる信心に「成仏の血脈」が流れるのです。
しかるに、この信心を弘めて「万人の成仏」と「世界の平和」を実現していくことが広宣流布の戦いです。その広宣流布を推進するために「師弟」と「和合僧」が最重要の意義を持つのです。
本抄後半の主題は「和合僧」と「師弟」
広宣流布に戦う「師弟の実践」がなければ「生死一大事の血脈」は正しく流れ通いません。そして、その師弟の精神が脈打つ確固たる「異体同心の和合僧」がなければ、仏と魔との戦いである「末法の広宣流布」に勝ち抜くことはできません。
大聖人は本抄で「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と断言なされています。
ここでは、まず冒頭に「総じて」の一句を示され、続けて「日蓮が弟子檀那等」と仰せです。これは末法の御本仏のもとに集って広宣流布を目指す、真実の「師弟」および「和合僧」を指し示されているのです。
さらに、この和合僧の要件として「自他彼此の心なく」「水魚の思いを成して」「異体同心にして」との三点を挙げられています。そして、この要件のもと、自行化他にわたって「南無妙法蓮華経と唱え奉る」実践があるところにこそ「生死一大事の血脈」が流れ通うと明言なされています。
「自他彼此の心なく」
まず、「自他彼此の心」とは、何か。「自分」と「他人」、「彼」と「此」を切り離して心を通わせない、「対立」「差別」「自己中心」の心のことです。このような殺伐たるエゴの一念には、当然、仏の血脈が通わない。
人間は、ともすると、権力や名誉や利害に心を奪われ、地位や立場などに強い執着をもち、さらに名聞名利に流されて、「自己中心」になっていきがちです。信心とは、結局、この「自己中心」の心との戦いです。
この心に囚われて信心を失えば、いかなる幹部であっても、また、いかにうまいことを言っても、広宣流布の大願を同心とする清浄無比の和合僧の中に、いられなくなる。
そればかりか、大聖人は本抄で「異体同心の者」について「城者として城を破るが如し」と言われている。すなわち、広宣流布のための城のなかにいながら、広宣流布を破壊していく師子身中の虫へと堕してしまう。ゆえに大聖人は「自他彼此の心なく」と、厳しく戒められているのです。
「水魚の思を成して」
続いて「水魚の思いを成して」と仰せです。「水魚の思」とは、切り離すことができない水と魚の関係のように「親密な思い」をいいます。互いに大切に思っていく心のことです。
端的に言えば「仲よく!」ということです。
師弟を根幹として、同じ大目的をめざし、ともに触発しあい、励ましあい、支えあって前進すれば、自然に仲がよくなります。前進の勢いがみなぎっている組織は、決まってリーダー同士の仲がよいものです。
中国の『三国志』に登場する劉備玄徳と葛亮孔明が互いに尊重しあう関係を「水魚のまじわり」と称えられていることは、有名です。
広宣流布の大願という「仏の心」を「我が心」として、皆の幸福のため、広宣流布のために祈り、動き、如来の行に励む人にとって、同志はともに最高の使命に生き抜く尊貴な存在です。対立や差別とは無縁であり、和合と触発の生き生きとした関係が、そこに成り立つのです。
異体同心と血脈
そして、三つ目に「異体同心」との要件を挙げられています。これが根本です。前の二つもこれに含まれていることは言うまでもありません。
「異体」とは、人それぞれに個性・特質・立場が異なることです。「同心」とは、目的観や価値観が同じこと、また、特に大聖人の仏法では、「妙法への信心」と「広宣流布の大願」を同じくすることです。
いわば、法を中心として「個」と「全体」の調和する姿が、仏法の「異体同心」です。この言葉には、多彩な人材群が、互いに触発しあって広宣流布へ前進していく躍動の姿が凝結していると言っていいでしょう。
大聖人は、異体同心で前進しながら南無妙法蓮華経と唱えるところにこそ「生死一大事血脈」が流れ通うと結論されています。
「異体同心」についての大聖人の教えの要点を述べれば、第一に、異体同心こそ万事において「事を成就するための鍵」「勝利の要諦」であると強調されています。
第二に、特に仏と魔との戦いである末法広宣流布においては、「異体同心の団結」が絶対に不可欠である。
そして、いかに広宣流布を妨げる悪の勢力が強くても、「異体同心の団結」があれば、必ず勝ち越えていけるとの大確信を打ち込まれています。
心を一つにして祈る
異体同心は、いわば「法華経の兵法」の究極であると言えます。「法華経の兵法」とは、要するに「祈り」です。なかんずく、異体同心とは、「心を一つにして祈る」ことにほかなりません。
異体同心の祈りがなければ、どんな策や方法論を立てても、広宣流布は進まない。根本の異体同心の強き祈りがあれば、そこには大きな勢いが生まれ、かりに異体異心の者が出たとしても、悠々と吹き飛ばして前進していくことができます。
そしてまた、「同心」とは、「広宣流布の大願」です。
「広宣流布」は、万人の成仏を目指す仏の大願です。その「仏の大願」「師の大願」を「我が誓願」として、勇んで広宣流布の実践を起していくのが「同心」です。
「広宣流布を願う心から生まれる祈り」こそ「同心」の真髄といえるのではないでしょうか。この祈りが脈打っているのが創価学会の組織です。
完璧な勝利のリズム
広宣流布への祈りを根幹とする異体同心の前進には、勢いがあり、勝利の力があります。さらにまた、その中で前進している人々は仲がよく、労苦があっても楽しい、その勝利のリズム、躍動のリズムを築くための要諦は、ひとえに「同心」にあります。
すなわち「広宣流布の大願」という「仏の心」に皆の心を合わせていくから、妙法のリズムが生まれる。
仏の尊極の心に共鳴していくから、成長があり、歓喜があり、勝利がある。
また、世間的な仲間意識やつながりを、はるかに超えた、崩れることのない「人材の城」「幸福の城」「平和の城」ができあがるのです。
「仏の大願」「師の心」に自分の心を合わせるのが異体同心です。その意味で、異体同心の核心も「師弟不二」にあるといってよい。
本抄では、大聖人の弘通の「所詮」つまり目指すところは「異体同心」の現実にあるとの重要な御指南をされています。
これは、異体同心の組織こそが、仏の血脈を通わせることができるからです。師弟不二の実践を、どこまでも大きく広げ、いつまでも長く通わせる力を持っているのが、異体同心の和合僧です。
たとえば、大聖人の滅後において、大聖人と直接お会いしたことがない人であっても、大聖人の精神が脈打って流れる異体同心の組織があれば、大聖人と師弟不二の実践が可能となります。だから、成仏の血脈が長く流れ通うのです。
ゆえに、異体同心の和合僧があれば「広宣流布の大願も叶うべき者か」です。異体同心の組織があれば、仏の大願が断絶なく継承され、必ず広宣流布が成就することは間違いないとの御断言です。
「異体同心」は、広宣流布の大願成就の根本的な要件です。
創価学会においても、初代会長、二代会長の戦いは、完璧な勝利のリズムを刻む異体同心の組織の構築に捧げられたとも言えます。私も、その使命を継承し、完成するために一身をなげうって戦ってきました。そして、今、世界広宣流布の基盤となる異体同心の盤石な和合僧ができあがりました。
私が今、願うことは、この尊き異体同心の勝利のリズムを、後継の青年たちに完璧に受け継いでもらいたいということです。そのためにも、勝利の鍵となる「同心」について、何点か、その意義を確認しておきたい。
「同心」とは
①広布大願
一つは、「同心」とは「広宣流布の大願」であるということです。
熱原の法難の渦中、大聖人は若き南条時光に。「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(1561:01、上野殿御返事)と呼びかけられました。「同じ一生であるならば、広宣流布のために命を捧げよ!」との大聖人の烈々たる叫びであられます。
「広宣流布の大願」は、大聖人直結で広布大願を受け継いだ初代、二代、三代の師弟の心そのものであります。三代の師弟は、この大願を一瞬も忘れずに不惜の行動を貫いてきました。これが異体同心の核心なのです。
さらにまた、これは、広布を破壊する悪とは徹底的に戦う精神でもある。これまでも「異心」の輩は、名聞名利におぼれ、広宣流布を忘れ、我執に走り、和合僧を乱してきた。このような悪とは、恐れることなく断固として戦う。これが法華経の真髄であり、学会精神です。
②同志を尊敬する心
次に、「同心」とは、「同志を尊敬する心」であらねばなりません。
法華経の広宣流布の精神は「万人の成仏」を確信することに基づきます。その広宣流布のための異体同心の和合僧は、万人に仏性があるという法華経の哲学を反映した世界です。不軽菩薩は、一切衆生に仏性があり、法華経を持てば必ず成仏できると確信して万人を礼拝する礼拝行を立てました。法華経を持たない人に対しても尊敬したのです。いわんや、御本尊を持ち、広宣流布に戦う同志は必ず仏になれる人です。法華経を持つ人を“仏の如く敬うべし”と、法華経普賢品にも説かれています。
異体同心とは、万人を尊敬する仏法哲学に基づく人と人との絆です。「同心」とは、同志が互いに尊敬し合っていく心にほかならないのです。
③師弟不二の信心
第三に「同心」とは、「師弟不二の信心」にほかならない。異体同心の核心は、自身の心を、仏の心、広宣流布の指導者の心である広布大願に合わせていく「師弟不二の信心」にあります。
日興上人は師弟不二を貫き「大聖人直結」の和合僧団を築かれました。反対に、五老僧は、権力を恐れ、師弟を忘れてしまったがゆえに、広宣流布の大道から外れてしまった。まさしく師敵対とは、異体異心そのものです。
「創価学会仏」
三代の師弟によって示された広宣流布に戦う根本精神が異体同心の組織の中に脈動していくとき、創価学会は、民衆を救済する仏の大生命力を恒久的に持ち続けることになります。
その力は、民衆の苦悩の暗闇を破り、勇気と希望を与えゆく「慈悲の大光」として輝きます。悪を打倒し、正義を叫び抜く「獅子吼」となって響きます。宿命転換して、自他共の幸福を築く「大確信」が一人一人の胸中に開かれます。
そして、そのような仏の力を具えつつ、いかなる三障四魔の大難にも打ち勝つ「異体同心の和合僧」「金剛不壊の師弟の大城」として聳え立つのが、創価学会の組織なのです。
ゆえに戸田先生は「未来の経典には『創価学会仏』の名が記される」と予見なされました。大聖人に直結した広宣流布遂行の和合僧団である創価学会は、それ自体が仏そのものなのである。これが戸田先生の大確信であられた。
戸田先生は幾度も「戸田の命よりも大切な学会の組織」と語られました。
私も、何よりも大切な仏意仏勅の和合僧団を、戸田先生の命そのものとして、お預かりしてきました。そして「異体同心」を根幹の指針として、この創価学会を大発展させ広宣流布を進めてきました。
どうか、これからも、「異体」を「同心」にしていく信心の努力と誠実な行動によって、三代の師弟が築いた仏意仏勅の和合僧団を拡大していただきたい。それ自体が、広宣流布の道であり、世界平和への確かな前進だからです。
先生の講義 第九回
師弟不二
広布大願に生き抜く師弟の絆は三世永遠
本文
日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。
現代語訳
日蓮は日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、仏に成るべき血脈を継がせようとしているのに、かえって日蓮を種々の難に値わせ、揚げ句のはてはこの佐渡にまで流した。
そうしたなかで、あなたは日蓮に随順され、また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられて心を痛めている。
鋼鉄は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちることもない。銑鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。
賢人は鋼鉄のようであり、愚人は銑鉄のようなものである。あなたは法華経の鋼鉄を持つゆえに、まさに真金である。
薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、また「火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれている。
過去の宿縁で日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦多宝の二仏こそ御存知と思われる。化城喩品の「在在諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」の経文は、よもや虚事とは思われない。
講義
仏法は「師弟の宗教」です。「師弟不二」が実践の真髄です。「師弟」を忘れれば、成仏もありません。永遠の幸福もなければ、広宣流布もありません。
それは、師弟の絆によってこそ「法」を伝えることができたからです。仏法は「生命の法」です。「生命の法」は、言葉や観念だけではつたわりません。
「生死一大事の血脈」も、その本質は、師弟の実践があるところに流れ通います。師弟がなければ、血脈も断絶してしまうことを知らねばなりません。
「師の心」とは「広宣流布の大願」
大聖人は、今回拝する御文の最初で、仏法の師弟における「師の心」を明かされています。すなわち「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」と仰せです。これは、大聖人御自身の大闘争の御生涯を貫く「御本仏のお心」の核心が示されていると拝されます。
“全民衆に平等に仏になる血脈を継がせたい” このお心は、そのまま「法華経の心」であり、法華経に説かれた「仏の大願」にほかなりません。
法華経は“すべての人を成仏させよう”との「仏の大願」が貫かれている経典です。そして、その誓願を受け継いだ人こそが、「真の菩薩」であり「仏の真の弟子」であることが明かされています。
したがって、万人の成仏、自他共の幸福を願う「仏の大願」「師の心」とは、「広宣流布の大願」そのものにほかなりません。
竜の口の法難・佐渡流罪の大難の中で、この「師の心」が分からない弟子は、愚かにも大聖人を誹謗して退転していきました。大難の中でこそ、本物と偽物が厳然と峻別されます。大聖人はこの大難にあって師弟の本質を明かされ、師の大願と心を合わせた「本門の弟子」を立ち上がらせていかれました。弾圧によって「千が九百九十九人は堕ちて候」(0907:08、新尼御前御返事)という状態になった一門を再び確立していかれたのです。
佐渡の地でも、大聖人が流人であることを承知のうえで、いな、法華経の行者として戦う大聖人の確たるお姿を間近に拝したからこそ、大聖人に連なる真金の弟子が続々と誕生します。その一人こそが最蓮房でした。
万人に開かれてこそ真の血脈
ここで、「万人の成仏の血脈を継がせてあげたい」という大聖人のお心を拝察するうえで、第一に重要な点は、仏法の血脈は「万人に開かれている」ということです。
この血脈の本義は、どれほど強調しても、強調しすぎることはないと言えるほど重要なことです。なぜならば、この血脈の本義を弁えるか否かが、「人間主義の世界宗教」と「権威主義の邪宗門」とを分ける分水嶺とも言えるからです。
最蓮房は、当時の日本天台宗の血脈の実体に疑問をもっていたのではないかと推察されます。「立正観抄」を拝すると、高僧が血脈相承を神秘化して自身や流派を権威付ける道具にしたり、あるいは高額で売買するなど、血脈相承そのものが腐破・堕落の温床になっていたのです。
広布の大願に不惜身命が不可欠
次に、大聖人は、「還つて日蓮を種種の難に合わせ結句此の島まで流罪す」と仰せです。御自身の20年来の闘争を示されながら、広宣流布の戦いは即ち大難を乗り越えていく戦いであることを示されているのです。
仏法の師弟における「師の心」が、「広宣流布の大願」であることは先に述べた通りです。ここでは「師の振る舞いの真髄」は「不惜身命の行動」にあることを示されていると拝することができます。
一切衆生の生命が濁る悪世末法で正法を弘通すれば、生命に及ぶ大難を受けることはさけられません。しかし「悦んで云く本より存知の旨なり」(0910:03、種種御振舞御書)と仰せられているように、大聖人は、大難を莞爾として受け止められ、真正面から勝ち越えていく悠然たる御境涯を生涯、貫かれました。「還つて日蓮を種種の難に合わせ結句此の島まで流罪す」との表現には、いかなる大難にも揺るがず、大聖人の「師子王の心」に満ち満ちた、「法根本」「不惜身命」の澄み切った御境涯を拝することができます。
難を超えて法華経を信受する「真金の人」
このように、本抄では、万人を成仏させたいとの「広宣流布の大願」と、相次ぐ大難を勝ち越えていく「不惜身命の行動」という、末法広宣流布の戦いにおける「師」の心と行動の真髄が明かされているのです。
そのうえで、「而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事」と仰せられ、最蓮房が日蓮大聖人に随順し、しかも、それゆえに自分自身も難を受けたことをもって、最蓮房を「真金」の人と讃えられています。
師に随順して「弟子の道」に生き抜いている最蓮房を称賛されつつ、大聖人は師弟不二の実践の中にこそ、仏法の一大事である血脈が流れ通うことを教えておられるのです。
最蓮房自身が受けた難とは、具体的にいかなるものかは知られていません。しかし、佐渡では、大聖人を師と仰ぐ弟子たちが何らかの難を受けていたことは確かです。あるいは、大聖人のお命を狙う悪人たちが、門下を迫害したことも想像に難くありません。
例えば、阿仏房・千日尼が受けた苦難について御書には「地頭・地頭・念仏者.念仏者等・日蓮が庵室に昼夜に立ちそいてかよう人もあるを」(1313:13)「或は所ををい或はくわれうをひき或は宅をとられなんどせしに」(1314:01)等と仰せです。
最蓮房が大聖人の門下になったがゆえに難にあったことに対して、大聖人は「心中思い遣られて痛ましく候ぞ」と仰せになられています。
そしてまた、最蓮房が難に負けることなく、大聖人に随順し抜いたゆえに、最蓮房を「真金」の人であると讃嘆されているのです。
さらに、「真金」である理由は「法華経の金を持つ故」であると明確に示されています。「法華経を持つ」とは、具体的には、法華経の行者として生ききった師匠の大願を自らの誓願として持つことであり、苦難の時にも師と同じく確たる信心を貫いていくことにほかなりません。
すなわち、「真金の人」とは、不惜身命で「法」に生き抜く人の異名です。この人こそ、「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(0465:18、持妙法華問答抄)と仰せの通り「第一の人」なのです。
最高の信念に生き抜く人は、常に本質を見抜くゆえに、物事の表面にとらわれず、何事にも紛動されることはありません。
それに対して、信念なき愚人は、愚かな自分の心が基準となるゆえに、常に迷い、困難や障害に負けてしまうのです。
最蓮房自身、法華経が最勝の経典であることを深く理解していたことは間違いありません。そのうえで、最蓮房が大聖人の真金の弟子たるゆえんは、師に随順する金剛不壊の覚悟にあったといってよい。
最蓮房は佐渡の地で、諸経の王である法華経を如説修行し、法華経の心のままに、不惜身命で民衆救済に生き抜かれる、真の「法華経の行者」を眼前に拝して、厳粛なる感動につつまれた。それは「御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」(1340:05)との最蓮房の言葉にも表れています。
この法華経の行者とともに邁進し抜いていくことこそが、法華経の真髄であり、極意であることを、最蓮房は即座に、そして正確に理解したに違いない。だからこそ、迷いなく師とともに忍難の道を選べたのではないだろうか。
大聖人は続いて、法華経薬王品第二十三から二つの経文を引用なされています。これは、法華経を持つ真の境涯を示すためと拝されます。
まず、受持される「法」である法華経について「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」とあります。世界の中央に聳え立つ須弥山のように、妙法は最高無上の法です。
さらにまた、法華経を持つ「人」の確固たる境涯について「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」とあります。妙法を受持した人は、我が胸中に仏界という偉大な力を湧現していくゆえに、いかなる苦悩や困難にも侵されることなく、厳然と勝ち抜くことができるのです。
「法華経を持つ」とは、賢人・真金の人として生きる深い悦びを持つ、ということです。その晴れ晴れとした誇りから、「難に耐える力」「難を乗り越える勇気」「難に打ち勝つ智慧」が生まれるのです。
師弟は三世の宿縁
また、大聖人は、佐渡の地で真金の弟子となった最蓮房に対して「宿縁の深さ」を述べられています。
それが「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか」の一節です。
この不思議な宿縁は、ただ、釈迦仏・多宝如来という仏にしか分からないであろうと大聖人は仰せられています。
さらに、化城喩品の経文に照らせば、法華経を持つ師弟の深き宿縁は間違いない真実であることを教えられています。その経文とは「在在の諸仏の土に、常に師と俱に生ず」と、師弟の絆の深さを示した一節です。
この経文の意味を簡単にまとめると、釈尊の声聞の弟子たちは、三千塵点劫というはるかな昔以来、釈尊を師匠として、あらゆる仏の国土に生まれては、ともに菩薩の修行をしたという意味です。
ここで大事なことは、声聞の弟子たちがすでに過去世に菩薩行を重ねてきた菩薩であったということです。この説法によって、声聞たちは、自分が本来「菩薩」の境涯であったことを思い出していきます。法華経では、声聞たちが無量の過去から、「無上の悟りを得たい」「一切衆生を救いたい」という「深心の本願」を持っていたことが明かされます。いわば声聞たちは、はるかな過去世以来の大願を思い起すことで、師と同じ菩薩の修行をしていた自分を“発見”し“自覚”するのです。
まさに、この経文は「自他ともの成仏」「自他ともの幸福」という人間の、また生命の“最も深い願い”を実現するために戦う師弟関係が永遠であることを示したものといえます。この人間生命の“最も深い願い”を思い起させてくださるのが真の師です。“その通りである”と心から納得して、師の仰せ通りに行動を起していくのが真の弟子といえます。
広宣流布を共に戦う師弟は、このように生命の最極の奥底で連なる、最も深い師弟となります。広宣流布を戦う師弟の奥底は永遠の仏界です。すなわち、戦う師弟は「九識心王真如の都」という大境涯に共に住するのです。
「在在諸仏土・常与師倶生」
戸田先生は、牧口先生の三回忌に、こう追悼されました。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができなした。なんたるしあわせでございましょうか」
これが仏法の師弟の極意です。
他の幹部たちは、それまで「牧口先生の弟子」であることを自称していながら、ひとたび自分が難を受けて牢獄に入った時、豹変してしまった。大恩ある先生を「牧口の野郎」とののしって師敵対していった恩知らずもいた。人の心は怖い。
そのなかにあって、真の弟子であった戸田先生のみが、「あなたの慈悲の広大無辺」と、深い尊い師弟の絆を揺るぎなく自覚されていたのです。
この尊貴なる師弟こそ、創価の魂です。
この魂が不朽であれば、創価学会は永遠に発展し続けます。この創価の三代の師弟の魂を根幹としてこそ、広宣流布の基盤を総仕上げしていけるのです。
戸田先生は、牧口先生と同じく牢獄に入ったことによって「地涌の菩薩の本事」「法華経の意味」を知ったと述べられています。その本質が、この「在在諸仏土・常与師倶生」です。
師も弟子も永遠の菩薩行に生きる。この一点を抜きにして法華経の本質はありません。戸田先生はある時、一般講義で、わかりやすい表現で、こう語られました。
「「ぼくが日本のつぶれたところに行くから、君もこないか」と言ったら「はい、行きましょう」「そうだ、では行こうかね」とか言って、みんな出てきたのです。どこであろうと、もろもろの仏土に、お師匠様とかならずいっしょに生まれるという。この大聖人のお言葉から拝すれば、じつにみなさんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです。」
大聖人は、「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか」(1340:09)と仰せです。
師弟は「三世の宿縁」です。広宣流布に真剣に戦えば、その深いつながりを確かに感じることができるのです。
日蓮仏法の精髄である「戦う師弟の精神」を現代に蘇らせたのが創価の初代・二代・三代の会長です。創価学会が出現しなければ、法華経、そして日蓮仏法の師弟の魂は潰えていたと言っても決して過言ではありません。
法華経の精髄は「師弟」
それでは、なぜ仏法において師弟が大事なのか、あらためて師弟の仏法的意義を確認しておきたい。
一般に「師」とは、より熟練した技術、より深い知識、より高い行き方、より豊かな境涯等を教えてくれる人です。人は、何らかの意味で自分を高めてくれる存在を「師」と仰ぎます。
仏法においては、師である仏は、自らが開悟した「法」に基づいて成就した尊極の人間性へと、弟子も共に高めようとします。その「法」とは、弟子たちにとって、無明によって覚知を妨げられ、経験したことのない「妙法」です。それゆえに「法とはこのようなものである」という論理的な教法や、「煩悩を乗り越えなさい」というような実践的な教法を教えられても、その教えの言葉だけでは仏の境涯が伝わるわけではありません。
むしろ、教えの言葉とともに、仏との人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる「法」を覚知することができるのです。これが「法が伝わる」ということです。
仏法において「師弟」が重要な意味をもつ理由は、ここにあります。師弟の「人間」対「人間」の絆を通してのみ「法」は伝わり、「法」に基づく人間革命が可能になるのです。
「生死一大事の法」を伝えうる血脈について論じられている本抄において、大聖人と最蓮房との深い師弟関係に言及されるべき必然的な理由も、ここにあると拝されます。
したがって、仏法は人間を離れた超越的存在、神秘的な存在として、「師」を立てることはありません。
「成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」(0753:第二如来秘密神通之力の事:03)と仰せのように、あえて言えば、一個の人間が即身成仏できることこそが、仏法における最高にして唯一の神秘です。しかも、この成仏という「神通」や「秘密」は、万人に実現が可能なのです。
それでは、師である仏が入滅した後は、どうすればよいのか。身をもって教える人がいない時代は、本当の意味で、仏法を伝えることはできないということなのか。この問題に正面から答えた経典が法華経です。
法華経は、釈尊という仏の人格の核心が「仏の誓願」にほかならないことを教えた経典です。仏の誓願は、「我れは本と誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」と説かれます。いわゆる「如我等無異」です。
迹門において、声聞たちは、本来、自分たちも仏と同じ大願に生きていたことに目覚めていきます。これは釈尊と声聞たちが、不二の本願に立っていることを教えています。
そして、本門において、この誓願のもと、久遠の成道以来、娑婆世界にあって一切衆生を説法教化し続けている真の仏の姿が説き明かされます。すなわち、寿量品に説かれる「久遠実成の仏」です。
さらに、この誓願を受け継ぎ、仏の滅後に仏と同じ民衆救済の実践に献身する「師弟不二の菩薩」こそ、「地涌の菩薩」です。
法華経はまさに一貫して「師弟不二」を教えている経典なのです。
仏教の歴史をひもといても、この「師弟不二」を見失ったところから、釈尊の神格化が始まりました。久遠実成の釈尊が人間から離れて超越的な仏になってしまえば、師弟は成り立ちません。師弟がなければ、一切衆生にとって、仏とは崇めるだけの存在となってしまい、自分自身の人間革命の規範とはなりません。
法華経は、仏の人格の核心を「誓願」と明かし、その「誓願」を継承する不二の弟子に境涯を衆生に伝えることが可能となったのです。
なかんずく「広宣流布」という大誓願には、不惜身命の実践が不可欠です。法華経寿量品には「一心欲見仏・不自惜身命」と説かれ、仏の滅後であっても、不惜身命の実践のあるところ、釈尊が出現すると説きます。
このように、広布大願と不惜身命という仏の人格の核心を実践する人には、仏の滅後であっても、仏の境涯が伝わっていくのです。
日蓮大聖人は、唱題という仏界湧現の方途を示され「広布大願」「不惜身命」という悪世末法における信心の鍵を明かされました。これによって「成仏の血脈」が成り立ちます。その一切の根本の力が「師弟」なのです。
大聖人の不二の弟子・日興上人は、こう言われております。
「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、仏になるのである。師弟の道を誤ってしまえば、同じく法華経を持ちまいらせていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」
そして、現代において、この仏の誓願である「広宣流布の大願」に目覚め、「不惜身命の行動」を貫き通してきたのが、創価学会三代の師弟です。
私は、牧口先生、そして戸田先生の弟子として、三類の強敵との大闘争に勝ちました。「断じて弟子が勝つ」という歴史を築きました。戸田先生に、「万事、勝利しました」と、堂々と報告ができます。何の悔いもありません。
牧口先生と戸田先生。戸田先生と私。創価学会は、仏法の真髄である師弟不二を三代にわたって築き上げてきました。創価の師弟の勝利があったからこそ、法華経に説かれ、大聖人が御遺命された「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広宣流布を現実に開いていくことができたのです。
「師弟相違せばなに事も成べからず」(0900:09、華果成就御書)師弟が合致すれば一切の大願を成就することができる。「師弟」とは最強無敵の勝利の力なのです。
先生の講義 第十回
本化地涌の利益
生命本有の妙法の力で万人を救う真の菩薩行
本文
殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴、此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり、
現代語訳
ことに、生死一大事血脈についてのお尋ねは、先代未聞のことであり、まことに尊いことである。この文に詳しく記したとおりであり、よく心得て南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行されるがよい。
火は物を焼き、かつ照らすことをもってその働きとなし、水は垢や穢を清めることをもってその働きとなし、風は塵や埃を払うことをもってその働きとなし、また人畜や草木のために魂となることをもってその働きとなし、大地は草木を生ずることをもってその働きとなし、天は万物を潤すことをもってその働きとする。妙法蓮華経の五字もまた、この地・水・火・風・空の五大の働きをことごとく具えているのである。本化地涌の利益がこれである。
さて、上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘めるために、御出現されることが経文に見えているが、どうであろうか。
上行菩薩が出現されるにせよ、されないにせよ、日蓮はその先駆として、上行菩薩所弘の法門をほぼ弘めているのである。
講義
全人類を生命の根底から蘇生させる。
全世界を真実の平和楽土へと変革する。
これが法華経の根本目的です。
そして、この根本目的を我が誓願として、最後まで戦い続ける人が「地涌の菩薩」です。
末法濁世の娑婆世界にあって苦悩する民衆に希望の陽光を注ぎ、「生きる力」そのものが本人の内側から湧きあがるまで慈愛と勇気のかかわりを続けていく。
その人の生命に具わる「善の力」をどこまでも信じ抜き、誠実の対話を貫いて、仏性を呼び覚ます実践を決して諦めない。
自らの生命に妙法の力用を体現しているがゆえに、民衆の大海の中で粘り強い行動を続け、人格の光を放って人々の仏性を揺り動かしていけるのです。そういう真正の実践者が必ず末法に無数に出現することを、法華経は断言しています。
人間を内側から根本的に救う「生命の達人」こそ、地涌の菩薩なのです。
その智慧と行動は、自他の仏性を信じる深い信念と哲学によって支えられています。その信念と哲学によって我執も宿命も打ち破り、宇宙本有の慈悲の力を我が生命に満々と湛えることができます。それが、地涌の菩薩における、人の心を打ってやまない輝かしい人格力と、倦むことなき民衆救済の行動力の源泉なのです。
全人類の成仏の実現、これこそが生死一大事の血脈の本義です。この一点を外して、いかに法華経を読んでも、それは成仏の血脈を自ら閉ざすことに等しい。万人を仏にする主人公こそが地涌の菩薩です。ゆえに「我、地涌の菩薩なり」と自覚して、その使命の遂行に師と共にたちあがらなければ、本当に法華経を身読したことになりません。
「生死一大事血脈」の画竜点睛は、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩における師弟の実践にあります。今回および次回は、その意義について述べられた御文を拝察してきます。
「実践」こそ仏法の生命線
仏法はどこまでも師弟の実践の中にあります。
法華経には多くの菩薩が登場します。しかし、永遠の仏として説かれる本門の釈尊の真実の弟子は、地涌の菩薩しかいません。その上首が上行菩薩です。法華経は、釈尊から上行菩薩へ、すなわち、久遠の境地を明かした師匠から本門の弟子への付嘱の経典です。
大聖人は、最蓮房の求道心を「殊に生死一大事の血相承の御尋ね先代未聞のことなり貴貴」と称えられた後、「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」と述べられて、南無妙法蓮華経の修行を勧められている。
この一節は「生死一大事血脈とは何か」という最蓮房の問いに対する大聖人のお答の「結論」を、実践の観点から明快に示されているのです。
すなわち釈迦・多宝の二仏から付嘱を受けられた上行菩薩が弘めるままに南無妙法蓮華経を修行することが生死一大事血脈を受け継ぐ要諦であることを明かされています。
南無妙法蓮華経の修行といっても、上行菩薩が末法に出現して実践する通りの「師弟不二の修行」、そして、上行菩薩が説くままの「如説修行」でなければならない、と勧められているのです。
そして、上行菩薩と師弟不二の修行をすることによって現れる南無妙法蓮華経の力有を、地・水・火・風・空の五大の力用によって明かされていきます。
ここで示されている五大の力用は「妙法蓮華経」の力用であり「本化地涌の利益」であると仰せです。つまり、本化地涌の菩薩は、生命本有の妙法をもって妙法蓮華経を弘め、衆生を利益するのです。
そして、以上のような南無妙法蓮華経の修行と力用を最初にあらわし、実践する上行菩薩とは、日蓮大聖人御自身にほかならないことを示されていきます。
それはすなわち、南無妙法蓮華経を大聖人と同じ心で、また、大聖人が説かれるが如く実践していきなさいとの仰せです。
実践は仏法の生命線です。実践なき宗教は、観念の遊戯となります。血脈相承といいっても、詮ずるところ上行付嘱の法である南無妙法蓮華経を「如説修行」することが不可欠であることを教えられているのです。
如説修行なき血脈相承などは絶対にありえません。この一点でも、神秘的な血脈相承を説き、民衆をそのもとに従属させてくような邪宗門が、いかに日蓮大聖人の仏法に背いているかは明白です。
五大の力用によって地涌の利益を示す
南無妙法蓮華経の如説修行とはいかなるものか、それを明らかにするために、ここで大聖人は、地水火風空の五大の働きを示されています。
「火は焼照を以て行と為し」 「火」は、物を焼き、光明となって万物を照らします。
「水は垢穢を浄るを以て行と為し」 「水」は、物を浄化する働きを持つ。
「風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し」 「風」は塵を払う。そして「人畜草木の為に魂となる」とありますが、これは、古来、風が万物に生気を吹き込むと考えられていたことから付け加えられたと考えられます。
「大地は草木を生ずるを以て行と為し」 「大地」には草木が生い茂ります。これは生命を育む働きがあるということです。
そして「天は潤すを以て行と為す」 「天空」は雨を降らして万物を潤します。
最後の「天」は地水火風空の五大のうち「空」に配することができます。したがって、ここで大聖人は、宇宙を構成する要素である五大の力用という、大自然の本質的働きを取り上げられていると拝察されます。
そして、ここに示されている五大の働きは、すべて「何かのために役立つ」という価値創造の働きです。大聖人は、五大のそれぞれの本有の価値創造の働きを示されたうえで「妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり」と仰せです。
「地水火風空の五大」の力有は、そのまま「妙法蓮華経の五字」の力用であり、さらには「地涌の菩薩の利益」であると明言されています。いわば、宇宙それ自体が持っている慈悲の働きこそが、妙法蓮華経の働きの本質であり、地涌の菩薩は妙法の本有の力用をもって衆生を利益する菩薩なのです。生命に本来具わる慈悲の働きを人格・行動のうえに具体的に現すのが、地涌の菩薩の利益の本質であるとの仰せと拝することができます。
また、「御義口伝」では、地水火風の四大の力用を示されたうえで、それが地涌の菩薩の導師である四菩薩の利益であると仰せです。この「御義口伝」の仰せと日寛上人の指南などに基づき、四菩薩の力用を地水火風空に当てはめると、「上行=火大」「浄行=水大」「無辺行=風大」「安立行=地大」となるでしょう。
妙法の力には、衆生を苦しめてきた煩悩を焼く力があります。また、衆生の無明の闇を照らし、宿命の雲を晴らす力があります。この面を象徴するのが上行菩薩です。
また、妙法には、現実の汚濁に染まらず、仏の清浄な生命を湧現させる力用があります。これが浄行菩薩です。
さらに、いかなる迷いや悩みをも吹き払い、何があっても行き詰まらない晴れ晴れとした自在の境地を確立させる力用が無辺行菩薩です。
そして、煩悩の苦しみや生死の迷いを払拭し、何ごとにも紛動されることがなく、豊かな生命力で一切を育んでいく力が安立行菩薩です。
ゆえに大聖人は「御義口伝」において、道暹の「輔正記」の文を引かれて、四菩薩に「常楽我浄」の四徳を配されています。すなわち四菩薩の行は「生老病死」の四苦を超えて「浄楽我浄」の四徳をあらわす地涌の菩薩の実践を表していると拝することができます。
また「御義口伝」では、同じく「輔正記」を引かれて、四菩薩の名が生死即涅槃・煩悩即菩提の境地を表すことが示唆されています。生死一大事血脈を考察されているのが本抄ですから、その参考として四菩薩の生死の関係を示す「輔正記」の文を考察しておきたいと思います。
「有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」(0751:第一唱導之師の事:04)
「二死」とは、六道の衆生の文段の生死と、菩薩・二乗の変易の生死です。「二死の表に出づる」とは、この二種の生死を超えることで、すでに論じた仏界の生死を繰り返すことであるとも言えます。言い換えれば、永遠の生命を実感しながら生死を繰り返す「生も歓喜、死も歓喜」の境涯です。地涌の菩薩は、永遠に妙法に生きるがゆえに、この真に主体的な境涯にあることができるのです。
また「断常の際を踰ゆる」とは、断見と常見という誤った生死観を乗り越えて、生死の恐れや執着から自由になった自在の境涯です。そして「五住の垢累を超ゆる」とは、三界の衆生を生死に執着させる五つの煩悩が自由になることであり「道樹にして徳円かなり」とは仏の悟りの円満な境地に立脚することです。
要するに、これらは、煩悩即菩提・生死即涅槃という衆生自身における生命の変革の働きを表しています。まさに上行などの四菩薩の名にある「行」の文字は、生命変革の修行を表しているのです。
「菩薩仏」の境涯
本抄では、五大の力用をもって地涌の菩薩が説き弘める妙法蓮華経の功徳が明かされました。これを「本化地涌の利益」と仰せです。
「本化」とは、法華経如来寿量品に明かされた久遠の本仏に化導された弟子という意味です。地涌の菩薩は久遠の本仏と一体の永遠の妙法を内証として所持しているがゆえに、仏が入滅した後の悪世においても一人立って妙法を弘めることができるのです。
地涌の菩薩は、大地の下方の真理の世界から湧現した菩薩であると法華経に説かれます。この真理の世界を天台大師は「法性の淵底・玄宗の極地」と説きました。地涌の菩薩が究極の真理を悟っていることを示す言葉です。その実践は、あくまでも菩薩行、すなわち悪世において広宣流布を目指して、自他の変革のために戦っていくことです。その内証が、すでに妙法を悟った仏界の生命なのです。
これが「菩薩仏」です。この境涯に万人に可能ならしめるために、大聖人は南無妙法蓮華経をあらわし、弘められたのです。南無妙法蓮華経を深く信じ、如説修行することによって、いかなる人も「仏菩薩」の境地に立つことができるのです。
大聖人は仰せです。
「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」(0751:第一唱導之師の事:12)
ここに「本法所持」とあります。南無妙法蓮華経を修行する地涌の菩薩は、すでに妙法を所持しているのです。であるがゆえに、一人から一人へ、生命から生命へという妙法の弘通が可能なのです。
どんな宿命にあえいでいる人に対しても、“自分自身の中に、宿命を打開する力が本来ある”と目覚めていってこそ、本当の意味で、その人を救う力となります。本法所持の地涌の菩薩でなければ、この力はありません。
末法の救済は、「上」から、すなわち天空から降り立ってきた超越仏による恩寵では不可能です。「下」から、すなわち大地の底の真理の世界から湧現してきた地涌の菩薩を目の当たりにしてこそ、人々は自身に内在する無量の力を知ることができるのです。
世界に地涌の陣列が
この菩薩行を現代に蘇らせたのが、創価学会の実践です。
牧口先生は、次のように語っています。
信者と行者と区別しなければならない。信ずるだけでも御願をすれば御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はいないはずである。菩薩行をせねば仏にはなれぬのである。
牧口先生は、日蓮大聖人の仏法の本義が菩薩行であることを見いだし、御自身が身をもって体現なされました。当時の宗門には菩薩行はなかった。仏法の力は、現実に生きる人間の姿を通した「現証」によってしか証明することができない、というのが牧口先生の卓見です。
仏が色相荘厳の力で民衆を救うのではなく、民衆自身が菩薩行を実践することによって、自身の「内なる力」を存分に発揮していく、その姿を見て、人々が自身の「内なる力」に目覚めていく。これが宗教の本質であると鋭く見抜かれていた。
そして、牧口先生の不二の弟子・戸田先生は、師匠と共に入られた獄中で「我、地涌の菩薩なり」と悟達されました。そして、戸田先生が呼び覚ました75万の地涌の勇者が、創価学会の礎を築いたのです。
まさに「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360:08、諸法実相抄)の実践を貫いてきた教団は唯一、創価学会だけです。
そして、今、広宣流布の実現のために、世界190ヵ国・地域で、地涌千界の勇者が法性の大地より湧出しました。法華経に説かれている地涌出現の儀式を世界で再演したのは、創価学会・SGIしかありません。
地涌の菩薩には、国境、文化、民族の壁はありません。現に、地涌の連帯は、今や世界中に思想・信条・宗教の壁を超えて深い理解と共鳴を広げています。
万人は皆、平等であり、誰人も尊貴な存在である。人間は「内なる力」に目覚めれば、世界を変革することができる。
目覚めた民衆の連帯が、人々を救い、世界を救う。この地涌のアイデンテイティーを世界が賞讃する時代が到来しました。日蓮大聖人の民衆仏法が待望される時が来ました。
私たち創価の師弟が、地涌の菩薩の本領である民衆の底力を、いよいよ満天下に発揮する時は今です。
先生の講義 第11回
上行菩薩
万人の「内なる力」開く民衆勝利の究極の先駆者
「歓喜の生命」「躍動の生命」なくして、自他ともの幸福を実現し、善の連帯を築く戦いを成し遂げることはできません。
人間生命を内奥から触発できるのは、人間生命しかありません。「内なる変革」を成就した人間の行動のみが、他の人間の生命変革を促していけるのです。
宿命と我執によって、凍っていた大地のように閉ざされた末法の衆生の固い生命の殻を、いかにして打ち破っていくか。そして、いかにして人々の仏性を触発し、生命の変革へ大きく目覚めていくか。この仏法の果てしない実践のためには、まず汝自身が自らの変革を貫き通していく「戦う仏法者」でなければなりません。
その使命を担い立ち、舞いを舞うように大地を破って躍り出てきたのが、無量千万億の地涌の菩薩です。そして、そのリーダーが上行菩薩なのです。
釈迦・多宝から上行への付嘱の意義
本抄では、生死一大事血脈を受け継ぐ修行について「只今南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」と明かされています。法華経に虚空会における付嘱の儀式の上から言えば、この御文は「南無妙法蓮華経が釈迦・多宝より上行菩薩に血脈相承された大法であると信じて修行していきなさい」という仰せであると拝されます。
この観点から、前回の講義では、上行菩薩を師とする「師弟不二の実践」、上行菩薩が説くがままの「如説修行」の大切さを強調しました。
大聖人が本抄で「上行菩薩が末法の今の時に、この法門を弘めるために御出現されると経文にはうかがえるが、いかがであろうか。日蓮はまず、その上行菩薩が弘めるべき妙法をほぼ弘めているのである」と記されております。この仰せは、事実の上で、日蓮大聖人こそが末法に出現する上行菩薩にほかならないことを明らかにされています。
したがって、大聖人がなされる通りに、そして、大聖人が説かれる通りに実践していく師弟不二の如説修行にこそ「生死一大事血脈」が通うのです。
さて、本抄で釈迦・多宝から上行に付嘱された法として南無妙法蓮華経を修行すべきことを結論として強調されていることは、さらに甚深い意義を拝することができます。
それは、この付嘱が、「本果妙の仏から本因妙の仏へ」、そして「本果妙の仏法から本因妙の仏法へ」大転換を意味しているということです。
すなわち、これは、単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています。そして、このように拝したときに、ここで仰せの南無妙法蓮華経の深義が明らかになるのです。
本果妙の仏から本因妙の仏へ
まず「本因」と「本果」の意味を簡潔に述べておきたい。法華経寿量品では、釈尊が久遠の昔に成仏したとされますが、「本因」とは久遠の成仏の原因となった修行、「本果」とは、その結果として得られた仏の境涯を指します。これが、一往の意味です。
ただし、寿量品では、この久遠実成の仏があらゆる仏の本地であり、久遠以来、娑婆世界を含むさまざまな国土に、仏や菩薩となって現れ、衆生を教化し続けてきたと説かれます。したがって、本因・本果とは、あらゆる仏の成仏の根本的な因果を指すことになります。
この意味から、「本果妙」とは、究極的な成仏の果を指し示す仏や教えをいい、釈尊が説いたとされる教法はすべて、遠く至高の本果を指し示す本果妙の仏法として位置づけられます。
「本果妙」の仏の教えは、ある意味で現実の人間を超えた仏の至高の境涯を指し示すものであり、その境涯がわからない人間にとっては、結局、譬喩としての意味しかないことになります。
このような本果を指し示す仏の教えの本質について「白米一俵御書」には「爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし」(仏の心が澄んでいるのは、澄んだ月のようなものであり、仏の心が清らかなのは美しい花のようなものである)(1597:10)という、いわば譬喩のごとき教えであると、分かりやすく示されています。
これに対して「本因妙」は、究極的な成仏の原因を説きあらわす仏や教法を指します。原因は現実の人間の側にあるがゆえに、「本因妙」は、現実の人間に即して究極の成仏の因果を説く教えとなります。
まさしく、釈迦・多宝から付嘱された上行菩薩は、現実の世界に現実の人間として出現する菩薩なのです。
万人の成仏という法華経の理想を実現するためには、現実の人間として、究極の成仏の因果を自らの生命において実践し、しかも、その因果を成就して末法の人々に説き示し、伝えなければなりません。
この「本因妙」の仏法では、現実の人間が、そのままで究極の成仏の因果を体現していくことが根本条件です。ゆえに、因と果が一個の人間にともに具わるのです。したがって、本因妙の仏法では「因果俱時の妙法」を説くことになります。
大聖人は「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(0246:18)と言われています。我が生命の骨髄として成仏の因果の功徳を確立すれば、我が血肉が妙覚の仏となって現れるのです。
現実の人間が妙法を体現することを要件とする「本因妙の仏法」においては、仏や教法のあり方は人間の実践を通して示されます。
そのあり方を「白米一俵御書」では、「月こそ心よ・花こそ心よ」(1597:17)と表現されています。月や花などの現実の事物が、そのまま仏の心を体現しているという意味です。
このように、上行菩薩が、現実世界で妙法を体現して本因妙の仏法を弘める存在であることから考えると、釈迦・多宝は「本果妙の仏」上行菩薩は「本因妙の仏」を意味することになります。
さらにまた、釈迦・多宝によって象徴される「本果妙の仏法」は、因の立場にいる現実の人間にとっては、はるか天空の本果を仰ぎ見るしかない教法です。それに対して「本因妙の仏法」では、上行菩薩が身をもって体現した「因果俱時の妙法」を弘めるのです。
つまり、本因・本果の名は同じでも、本因と本果がかけ離れたものを説くのか、それとも本因・本果が一体の「因果俱時の妙法」を弘めるのか、両者には法の上でも大きな違いがあるのです。
この「因果俱時の妙法」こそ、真実の「仏種」です。釈尊も本来は、この「仏種」を悟り、成仏の因果を体現して仏になったと言えます。しかし釈尊の名をもって説かれた多くの教法は「仏種」そのものを説かず、本果を指し示す本因妙の仏法にとどまっています。
法華経の核心は、釈迦・多宝から上行への付嘱を説くことにあります。これは、法華経の理想であり、仏の誓願である万人の成仏を実現するためには、どうしても未来に「本果妙」から「本因妙」への大転換がなされるべきであることを予言しているのです。
本因妙の仏法の核心――魔性との闘争
このように法華経の付嘱の本質は「本果妙から本因妙へ」という教主の交代と教法の転換を告げることにあります。
本抄の「上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり」との仰せは、まさに大聖人こそが、仏法の大転換を実現する本因妙の教主であることを宣言なされているのです。
日蓮大聖人は、法華経の理想である「万人の成仏」と「立正安国」を御自身の終生の誓願として貫かれ、法華経を信ずる心を南無妙法蓮華経の題目に込め、声も惜しまず唱え、弘めていかれたのです。そして、法華経の真髄を理解できない悪僧や悪王から迫害を受けられた。現実の経文に説かれている通りの大難にあい、不惜身命で戦い抜かれ、勝ち越えていかれました。
その戦いによって、娑婆世界に生きる一個の人間生命に成仏の因果の功徳を骨髄として確立され、因果俱時の妙法を具現化した妙覚の仏の生命を体現されたのでした。それが竜の口の法難の時の発迹顕本であることはいうまでもありません、
大聖人は、この時期に認められた「富木入道殿御返事」に、「一大事の秘法を此国に初めて之を弘む日蓮豈其の人に非ずや」(0955:07)と述べられ、上行菩薩の名を挙げられて「法已に顕れぬ」(0955:11)と断言されています。
この御自身の生命に体現された本因・本果を曼荼羅として顕されたのが御本尊です。さらに、法華経の根幹である万人の幸福実現のために、具体的な方途を示され、三大秘法の南無妙法蓮華経として厳然と確立なされたのです。
この大聖人の上行菩薩としての御確信は、諸抄の仰せに刻まれています。例えば「教行証御書」には次のように示されています。
「抑当世の人人何の宗宗にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず」(1282:18)
「已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし」(1283:13)“私一人が妙法の旗を持ち、法華経の精神を結実させた”“誰人も、その事実を破壊することはできない”“仏法史上に未曾有の出来事である”との「崇高なる大境涯」が響き伝わってくる一節です。
本抄にも、日蓮大聖人御自身が、釈迦・多宝から血脈を確かに受け継ぎ、滅後末法の広宣流布の道を開いたという、末法の教主としての御自覚が脈動しています。そして「日蓮が如く」「日蓮が一門」として同じ道を進むよう弟子に呼びかけられています。大聖人の仏法が継承され、万人が幸福になることで、日蓮仏法の民衆救済の大道は成就されるからです。
日蓮大聖人は末法の民衆仏法を確立された御本仏です。一生涯、菩薩仏として、凡夫すなわち一人の人間としての生き方を貫かれるなかで、仏法の力を証明されました。
とりわけ、佐渡以前にあっては、法華経の弘通者として大難にあわれるなかで、現実に三類の強敵と戦い、三障四魔を乗り越える行き方を教えられました。一人の人間が、死魔・天子魔と戦い、断固として勝ち越えることができる。それが竜の口の発迹顕本のお姿です。
「竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん」(0843:一天台大師を魔王障礙せし事:08)とは、まさしく、一人の人間があらゆる魔性に勝利した、偉大なる尊貴な魂の勝利宣言であられます。
そして、日蓮仏法は、弟子が同じように力強い生き方を貫くことを教えられている「師弟の宗教」です。「日蓮が如く」生きることで、全人類の一人一人が凱歌の人生を送れるように、手本として生き方を残されたのです。
人間は一面では弱い存在です。無明を破ることは至難の業です。しかし一方で、人間は、自他ともに具わる根源の力を「信」ずることで、限りなく崇高な存在ともなれる。人々は、そうした人類の先達の勝利の生命に触れることで、自身の無限の可能性を新たに発見します。
人間には、さまざまな勝利があります。しかし根源的な無明を破り、仏の生命を湧現させながら、無数に続く継承者を生み出す以上の究極の勝利は絶対にない。日蓮大聖人こそが、末法における人類の根幹の教師であられることはいうまでもありません。
何よりも、誰もが実践できる唱題行による仏界湧現の道を開かれ、民衆宗教を確立してくださった日蓮大聖人こそが、人間の教主であられる。 これが私たちの大確信です。
「人間のための宗教」の大道
仏教は本来「人間の復権」の宗教です。さらには、人間だけでなく一切の生きとし生けるものの生命の尊極生を謳いあげています。
釈尊は、障魔を打ち下して成道した直後、あたかも天空に輝きわたる太陽のように、自身が安立していることを知りました。そして、その歓喜の大生命を万人が解き放つことができるように法を説き弘めていきました。その精髄が込められている法華経は、いうならば仏法本来の教えである「人間讃歌」の復活の経典です。
この法華経の精髄を南無妙法蓮華経の一法に結実させ、民衆仏法を確立されたのが、日蓮大聖人であられます。
そして、この歓喜満つ「人間のための宗教」の大道を、世界に広げてきたのが、わが創価学会です。
創価の師弟には、釈尊、大聖人以来の仏法正統の実践が脈打っています。それは「一人立つ」実践にほかなりません。
「誓願」ゆえに自身の本有の生命を開き「不惜身命」の実践ゆえに人々の生命を解き放ち、一人一人を蘇生させていくのです。そして、目覚めた民衆がまた、対話の力によって人々に勇気と確信を芽生えさせていくのです。この壮大な人間革命運動の世界的起点となったのが、三代の師弟の「一人立つ」実践でありました。
牧口先生は、まさに御自身が「敵前上陸」といわれたように、日蓮大聖人の仏法が見失われて、しかも日本国中が戦争へと傾いていった時代に、ただ「一人」、真正の仏法の実践者として立ち上がり、不惜の姿をのこされました。
そして、牧口先生の一切を継承された戸田先生は、人の仏法が見失われて、しかも日本国中が戦争へと傾いていった時代に、ただ「一人」、真正の仏法の実践者として立ち上がり、不惜の姿をのこされました。
そして、牧口先生の一切を継承された戸田先生は、獄中で使命を自覚され、戦後の荒野に「一人」立たれました。この戸田先生の「一人立つ」実践から民衆勝利の行進が本格的に始まりました。
私も創価の魂を継承した弟子として、未聞の世界広布の大海原へ、航海を開始しました。牧口先生、戸田先生は、「一人の人間が、どれだけのことができるか」という崇高なる精神の戦いを厳然と示されて、人類の教師としての足跡を人類史に刻まれております。世界中が今、両先生を宣揚している姿そのものが、創価の師弟の証であると言えます。
この師弟の道を受け継いだ世界中の弟子が、人類宗教の大道をさらに広々と開くことによって、21世紀は必ずや「創価の世紀」として高らかに謳い上げられていくことでありましょう。
人類は今、生きた「手本」「模範」を強く求めています。なかんずく、未来を開く「人間主義の思想」の体現者を深く求めています。地涌の菩薩の実践を貫く世界中の勇者が、その体現者として仰がれゆく時代が、ついに到来しているのです。
何よりも、地球規模で「仏になる血脈」を伝える創価の実践を、日蓮大聖人が御賞讃されていることは絶対に間違いありません。創価の大前進は、釈迦・多宝・三世の諸仏の喝采に包まれているのです。
先生の講義 第12回
煩悩即菩提・生死即涅槃
迷いと苦悩の我が身に確信と歓喜と希望を開け!
本文
相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事
現代語訳
心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念されるがよい。生死一大事の血脈をこのことのほかに求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ法華経を持っても無益である。詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。
文永九年壬申二月十一日 桑門 日蓮花押
最蓮房上人御返事
講義
妙法の功力は無量です。ゆえに、大聖人が仰せの通りの正しい信仰を貫けば、かけがえのない我が人生にあって、一生成仏という最高の境涯を成就することができる。
本抄の最後の一節は、生死一大事の血脈を受け継ぐ「正しき信心の要諦」を明かし、私たち一人一人に最高の人生を歩むべきことを呼びかけられているのです。
日蓮大聖人の仏法を正しく持ち、正しく行じ、現実に大聖人の仰せ通りに世界に広宣流布して、大聖人から生死一大事血脈を受け継いでいるのは創価学会以外にありません。それゆえに、広宣流布に戦う私たち学会員一人一人の生命それ自体に、妙法の無限の力があふれんばかりに開かれてくるのです。
妙法の当体であるがゆえの生命の奥底から大歓喜の事実として我が身に現せば、いかなる牢固たる悩みをも智慧に変え、自在に価値創造の力としていくことができるのです。
自身の生命の大地には、「もう限界だ」という局面を、いくらでも打開していける本源的な力が、本来、厳然と秘められていました。いかなる苦難をもバネにして、絶対的な幸福を成就しゆく「変毒為薬」の力を確信すれば、恐れる必要はもう何もありません。
妙法は、自身が本来持っている無限の力を引き出すための根本法則です。その無間の力用で、火が薪を燃やして光に変えるように、煩悩を智慧に変えていくのです。さらにまた、春の陽光が氷雪を溶かして流れに変えるように、生死の苦悩に固まっていた自身を、躍動する大歓喜の境涯に変えていくのです。
「自身が変わる」これが仏法の根本主題です。日蓮大聖人の仏法は「自分自身」の生命を現実に変革するための宗教です。どこまでも「私自身」であり「あなた自身」の人間革命から出発する。この一点を忘れては、日蓮仏法は存在しません。創価学会の実践も成立しません。
この「生死一大事血脈抄」の末尾も、「あなた自身の偉大な力を自覚しなさい」「偉大で大満足の人生を確信して題目を唱えなさい」「それこそが真の血脈である」との御指南で結ばれています。
一人一人に、そして万人に、仏になる血脈が流れ通う要諦としての「信心の血脈」を示して、本抄は完結します。
血脈を受け継ぐ信心の要諦
「生死一大事血脈抄」の全体には、一切衆生を成仏させるとの宗教の根本精神が横溢しております。まさに、万人を救わずにおかないとの大聖人の大慈悲の御一念に貫かれた一書であると拝されます。
前回、生死一大事の血脈を受け継いで末法に出現する上行菩薩がなすべき実践を、大聖人が遂げられたとの仰せを拝察しました。民衆を救済する大法は、本因妙の教主、日蓮大聖人によって厳然と確立されました。
これを受けた本抄の結びにあたっては、あらためて、末法の衆生の一人一人が、大聖人から成仏の血脈を受け継いでいくための信心の要諦が示されています。そのことが「強盛の大信力」「臨終正念」「煩悩即菩提・生死即涅槃」、そして「信心の血脈」という表現に凝結されています。今回と次回の講義は、この法理と実践を拝します。
まず、この最後の一節における大聖人の仰せを順に拝していきましょう。
最初に、「相構え相構えて強盛の大信力を致して」と、一人一人が血脈を受け継ぐ根幹は、「強盛の大信力」にあることを強調されています。
「相構え相構えて」と仰せであります。文字通り自分の姿勢を構え直し、常に新たなる「信」を自ら奮い起していく力こそ「強盛の大信力」といってよい。
その信心の在り方として、具体的に何をすべきかを示された内容が、次の「南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」の一節です。
「臨終正念」については、既に拝察しました。死に臨んでも心を乱さず、正しい念慮を持つことです。すなわち、臨終の時に、死魔などに心を乱されず、妙法を信受できた大満足と大安心の人生の総決算を迎えることが、永遠にわたる幸福の大境涯の確立になるということです。
この臨終正念の境地を獲得するために、月々日々に、常に悔いのない生き方を貫く「臨終只今」の信心の姿勢が大事であることも既に学んできたところです。
すなわち、大聖人は、各人が、臨終正念の境地を開くためには、一日また一日、祈りを深めて、悔いなき信心を断固として貫いていくべきことを教えられています。
そして、この「強盛な大信力」を起こし、「臨終正念」を確信して、南無妙法蓮華経と自行化他にわたって唱えていく真実の信心以外に、生死一大事の血脈を受け継ぐ方途はないことを示されております。
自身の生命変革が血脈の根幹
本抄の結論は、私たち一人一人の成仏がどうしたら実現するのか、そこに焦点が絞られていると拝察できます。
日蓮大聖人が弘められた本因妙の仏法は、現実の人間において成仏の因果を成就しうるための教法です。どこまでも「目の前の一人」が根幹であり、「現実の一人」が大切なのです。その実践がなければ、どんなに立派な「血脈の法理」を論じても、それは無益な観念論に過ぎないからです。
それは同時に、日蓮仏法を実践する人自身にとっても、「自分の生命が必ず変わる」という自覚と確信が不可欠であることを意味しております。「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」と仰せられているのは、どこまでも一人一人が唱題を根本に現実に境涯を変革して、一生成仏を実現する本因妙の信心以外に、生死一大事血脈は存在しないからです。
では、具体的に私たち自身の生命が、いかに変革されていくのか。信心によって、いかなる境涯が得られるのか。そのことを大聖人は「煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」と仰せられています。
すなわち、私たち自身が、「強盛の大信力」を出して「臨終正念」と祈念して唱題することが、そのまま「煩悩即菩提・生死即涅槃」であり、その境涯を獲得することに仏法の真実の利益があるのです。
それは、何ものにも揺るがぬ確固たる「信力」と唱題によって、迷いや苦悩をバネにして価値創造の智慧を磨き、安心と歓喜の大境涯を確立していけるということです。
「煩悩即菩提・生死即涅槃」の境地とは、「即身成仏」の異名であり「変毒為薬」の大功徳でもあります。本因妙の仏法においては、誰人も、信心によって、自身の胸中に成仏という不滅の大境涯を築き上げることができるのです。
この「煩悩即菩提・生死即涅槃」の境涯について、さらに拝察していきたい。
即身成仏の境涯・功力を表現
まず、「煩悩即菩提」と「生死即涅槃」の法義について、あらためて確認してみましょう。この二つの法理は、共通して、衆生自身の生命の変革の働きを示しております。
「煩悩即菩提」とは、煩悩に支配される衆生の生命に、成仏のための覚りの智慧が現れることです。
「生死即涅槃」とは、生死の苦しみに苛まれている衆生の身に、仏が成就した真の安楽の境地が出現することです。
御書を繙くと、この二つの法理のどちらかが単独で論じられていることはほとんどありません。「煩悩即菩提」と「生死即涅槃」の二つを合わせて、即身成仏の境涯や功力を表現されている例が大半です。
相対種の因果と変毒為薬の妙法
本来、「煩悩」と「菩提」は正反対のものであり、字義通りにとれば、両者を「即」で結びつけることはできません。「生死」と「涅槃」についても同じことがいえます。
むしろ、「煩悩」と「生死」が同質的であり、貧瞋癡などの煩悩が生死の苦しみをもたらす因果を釈尊が洞察したことはよく知られています。その因果観から、煩悩を滅することによって生死の苦しみから脱却できるとする小乗教の修行が行われました。
しかし、この小乗教の修行で、生死を厭い、逃避する姿勢をもたらします。なぜならば、煩悩を断ずるという修行は、「悪は悪を生む」という一面的な因果観に基づいているからです。そのような因果観において、悪を断ずる修行といっても絶望的にならざるをえません。
他方、大乗教では「煩悩即菩提」「生死即涅槃」という言葉は説きますが、実際の修行は、歴劫修行などに見られるように果てしない善行を積み重ねるか、絶対的な仏の救済を待つのかどちらかの道で成仏を期するものでした。
しかし、このような大乗の修行や信仰も、結局は「善は善を生む」という一面的な因果観に立脚しているからです。自力の菩薩行を実践する人は果てしない未来の成仏を期すしかない。他力の信仰を実践する人は、阿弥陀仏などの絶対的な仏の力を借りて娑婆世界から離れた浄土に往生し、そこであらためて「善は善を生む」という修行をするしかありません。今の人生における修行の成就は保証されないのです。結局、これらは「悪は悪を生む」という因果観の裏返しにすぎません。
いずれにしても、煩悩の迷いと生死の苦しみに束縛されている現実の人々にとっては、煩悩と生死から解放された真の歓喜が得られないのは当然のこととして、成仏の確信や希望を持ちようがありません。
御書には、「煩悩即菩提」などについて爾前経の誤った考え方について、次のように仰せです。
「爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭うて別に菩提涅槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり」(0821:一乗此宝乗直至道場の事:02)
では、煩悩・生死と菩提・涅槃を別物としない考え方とは、どのようなものでしょうか。
大聖人は、富木常忍に与えられた「始聞仏乗義」において、凡夫が法華経を修行する真髄は「相対種」という考え方にあると言われています。「相対種」とは、結果とは反対のものが成仏の原因になる、という意味です。
これは、凡夫の成仏のためには「悪が悪を生む」という因果観も、「善が善を生む」という因果観も、いまだ不十分であるということです。悪と善を区別する考え方では、悪の中で生きざるをえない凡夫は、結局、希望を失わざるをえません。
通途の仏教が、現実から遊離する体質や、修行者や僧侶という一部の者を中心とする一種のエリート主義に陥ってしまったのは、善と悪を別者として、濁世の中に生きる多くの人々の希望の源泉となりえなかったのではないでしょうか。
大聖人が「相対種」を強調されたのは、凡夫に真の希望を持たせるためには「悪が善を生む」「悪が善に転換する」という因果観を見極めていくことが大切であると洞察されたからであると拝察されます。
大聖人は「始聞仏乗義」で、この相対種の因果を「変毒為薬」と表現されています。優れた医師が毒をも薬として用いるように、凡夫の煩悩・業・苦の三道は、妙法の力で法身・般若・解脱の三徳へと転換できるという法理です。まさに「煩悩即菩提」であり「生死即涅槃」です。
さらに、同抄では、この三道即三徳と信じたときに、初めて生死の苦しみを超えることができ、真の意味で法華経を聞いたことになると言われている。
言い換えれば「煩悩即菩提」「生死即涅槃」を心から信じたときに、私たちは苦悩のもととしての生死を心から信じたときに、私たちは苦悩のもととして生死を超えることができる。そして、そのとき法華経の聞法が真に成り立つということです。
相対種は「相対種開会」ともいい、相対立するものを、より大きな視点から統一して、より広い意味を明らかにすることを言います。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というときには、まさに対立している「煩悩」や「生死」とは意味が変わっているのです。
むしろ私たちは、悩みがあることで真剣に御本尊に祈ってくことができます。悩みに真剣に立ち向かっていこうとする一念が、自身の生命に内在する本源的な力をより強く湧現させていく。
このとき、悩み、すなわち煩悩は、すでに菩提へと転ずる因としての煩悩であり、その煩悩の中に実は菩提が含まれているともいえる。言うならば「自身を苦しめる煩悩」から、「菩提へと転ずる煩悩」へと、煩悩自身が質的に転換するのです。
これを可能にするのが「因果俱時の妙法」たる南無妙法蓮華経の力用です。
「ありのままの仏」
凡夫の煩悩、凡夫の生死を離れて成仏はありません。成仏とは人間から離れた超越的な存在になることではない。これは、戸田先生が一貫して強調されていたことです。戸田先生は、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」について、次のように語られていました。
「自分の煩悩に生きながら、煩悩のままに、安心しきった幸福境涯をつかむ生活を『煩悩即菩提』『生死即涅槃』というのです。
「なにも菩提だ、悟りだといったりして変わったものではないのです。煩悩があればこそ満足があり、満足があるからこそ幸せを感ずる。毎日、朝起きて、からだの具合がよくて、食べる御飯がおいしくて、毎日自分のすることがうれしくて、これで困らない生活ができる。この生活が菩提です。変わったものではないのです。煩悩即菩提というと、とても変わった人間になるような考え違いをしないほうがよい。
戸田先生は「ありのまま」の本有無作の境涯の達人であられた。外見は凡夫の姿そのものであっても、学会の前進のためにいつも頭脳は鋭く回転しておられた。何よりも広宣流布への責任感は、まさしく悟りの大境涯であられた。広宣流布を必ず成し遂げようとの大煩悩を持ち、責任即悟達の大境涯から、広宣流布に生き切る生死不二の姿を現じられた先生でした。
「ありのまま」とは、その身のままでありながら、常に生命を磨いていくことです。現代的に言えば、人間革命の真髄の姿が即身成仏の実証にほかならない。
要するに「煩悩即菩提」「生死即涅槃」とは、「戦い続ける信心」の中でこそ実現するのです。
歓喜の中の大歓喜
この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実践は、歓喜をもたらします。「凡夫即極」であり、「生死ともに仏なり」との境地が開ける以上の歓喜はありません。
私たちの実践に則しても、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と開く即身成仏の実践は、常に歓喜に満ちあふれています。
例えば、悩みと真正面から格闘し、本源的な智慧を湧現しているとき、それまでの苦難を包み込む、生命の大いなる底力があふれ、いつしか大歓喜の境涯が生じてきます。
もともと、仏の生命それ自体が大歓喜に満ちているものです。究極の真理に到達した法楽が充満している。生死の境地を得て、永遠に生きる喜びが横溢している。この仏の歓喜の生命を私たちの胸奥から現していくことが、仏界湧現の実践です。
私たちの実践に則しても「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と開く即身成仏の実践は、常に歓喜に満ちあふれています。
例えば、悩みと真正面から格闘し、本源的な智慧を湧現しているとき、それまでの苦難を包み込む、生命の大いなる底力があふれ、いつしか大歓喜の境涯が生じてきます。
もともと、仏の生命それ自体が大歓喜に満ちているものです。究極の真理に到達した法楽が充満している。不死の境地を得て、永遠に生きる喜びが横溢している。この仏の歓喜の生命を私たちの胸奥から現していくことが、仏界湧現の実践です。
妙法を持ち、いかなる困難にも立ち向かう勇気があれば、この仏の生命が湧現します。どんな絶望にも負けない希望があれば、この仏の生命は絶えることがありません。
それまで悩みや苦難に負けていた自分が、妙法によって、悩みや苦難に立ち向かっていく強い生命が自分に備わっていることを知る。広宣流布の大目的に立ったときに、自身の悩みは、仏法を証明する変革のエネルギーとなることを知る。悩みに負けない自身の姿が、多くの人を励ましていることを知る。広宣流布のために「戦い続ける心」を持つことで、私たちは、我が身が本来、仏であることを知ることができるのです。
法華経に「心大歓喜」とあります。「御義口伝」では、この「大歓喜」との経文の一節の脇に、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と注釈されています。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の即身成仏の境地こそが大歓喜にほかなりません。「御義口伝」では続けて「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(0788:五百品)と仰せです。
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」は、苦悩や悲哀も、すべて歓喜の生命の中に包みながら、強靭なる大人生を送れることを示しています。
私は、トルストイの言葉が忘れられません。
「喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ、空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい。この喜びが何物にもよって破られないように、監視せよ。この喜びが破れたならば訂正するがよい」
まさに、大文豪が志向した「人生の事業、人生の使命の喜び」とは、仏法の深遠な哲理に通じております。
この歓喜を現実に涌現する方途を、私たちは実践しているのです。さらに“この喜びを破る誤りをたずね、誤りを正す行為”とは、私たちの仏法の眼で見れば、煩悩を転換し、生死を転換する「即」の実践、つまり「煩悩即菩提」「生死即涅槃」、そして宿命転換の戦いといってよい。
いかなる苦悩や迷いの日々があっても、妙法を持ち行ずる私たち学会員の境涯は、実は最高の大賢者の道にほかならないのです。
一切の毒を、妙法の大良薬によって「変毒為薬」していくのが創価学会の信心です。「此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を妙の極とは申しけるなり」(1006:10、太田殿女房御返事)
妙法は絶対の人生勝利への宝の法です。一人一人が妙法を根幹に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の凱歌の人生を歩む、その栄光が広がる中に、生死一大事の血脈が万人に流れ通う日蓮仏法の勝利の姿があるのです。
先生の講義 第13回
信心の血脈
民衆のために不惜身命で戦う師弟不二の実践に成仏の血脈
本抄では、「生死一大事血脈」についての最蓮房の質問に対して、「妙法蓮華経」こそが万人の生死の苦しみを解決する大法であることが明かされてきました。そして、その妙法蓮華経を受持する信心のあり方を重層的に示されるとともに、上行菩薩である日蓮大聖人を師として求める「師弟不二の信心」が生死を乗り越えるための肝要であることが強調されます。
その上で、本抄最後の御文においては「妙法蓮華経」の大法を万人に伝える真実の血脈は「信心の血脈」以外にないと結論されていくのです。
この最終の結論こそ、宗教の魂です。なぜならば、生死は人間の苦しみの根源であり、生死一大事血脈こそ、人間の苦しみの解決のための血脈だからです。その生死の苦を解決するためには、その人にとって何が鍵になるかを教えなければ、どんなに素晴らしい法を説いたとしても、全ては画餅に帰してしまいます。
「信心の血脈」の全体像
「信心」こそは、偉大なる法を伝える最も確かな道です。聖職者や儀式の権威などという、不確かな幻想によって伝わるものではない。
真実の偉大なる法を伝えるのに最も大切なのは、まさに「信心」なのです。なぜならば、信心のみが、私たちの生命を覆う無明を打ち破って、本来具わる妙法の無限の力を現すことができるからです。一人一人に妙法の偉大な力が現れたとき、それこそが「法が伝わる」ということなのです。
ゆえに、大聖人は本抄で、まさに、意を尽くされて「信心の血脈」のあり方を重層的に説ききっておられます。この点については、この講義で既に詳しく拝してきましたので、ここでは要点を確認しておきましょう。
第一に、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つは全く差別がないと信解する正しい信心です。これは「何を信ずるのか」という「信心の内実」にかかわる最重要の一点であり、この信をこめて題目を唱えていくことが日蓮門下の「肝要」であると本抄では仰せです。
この仰せのポイントは、今の自分が妙法蓮華経の当体であり、この一生で即身成仏できると信じていくことにあります。
第二に、「臨終只今」の覚悟で、悔いなき信心を貫き、「臨終正念」を遂げていくことです。「月々・日々」の悔いなき信心と、その生涯の持続が、一生成仏を決定します。これは「信心の深さと持続」の面から「信心の血脈」を明かされていると拝することもできます。
さらに、今生に一生成仏を遂げていくことによって、過去世・現在世・未来世の三世の生死の全体が「妙法蓮華経の生死」のリズムのままにつながり、「仏界の生死」となって現れるのです。人間として生まれた今世は、三世の生死のあり方を決める、かけがえのない人生なのです。
第三に、「異体同心」で広宣流布に前進する信心の大切さを示されています。妙法蓮華経の血脈を受けるのは、自分一人ではありません。万人が妙法蓮華経の当体であり、成仏の血脈を受け継ぐことができる。それを実現していくのが、仏の大願である広宣流布です。そして、その広布大願を実現していく主体が「異体同心の信心」で結びつた和合僧団なのです。
これは「広宣流布と和合僧」の面から、「信心の血脈」を明かされていると拝されます。
以上のように、大聖人は本抄で「何を信ずるのか」という観点から、また「信心の深さと持続」と「広宣流布の和合僧」の面から、重層的に「信心の血脈」の意義を示されていきます。これによって、生死一大事血脈が流れ通う、あるべき「信心」の全体像を示されているのです。
「師弟不二の信心」が究極
さらに、この「信心の血脈」のすべての面を凝縮し、体現した「師」の存在を示されています。それが「上行菩薩」です。
確かに「信心の血脈」の重層的な意義は言葉で説明されました。しかし、多くの人が、それぞれの人生において「信心の血脈」を確かに受け継いでいくためには、その全体像を体現した「師」の存在が決定的に重要なのです。
なぜならば、言葉は、一面一面ばらばらに数えるのに対して、妙法蓮華経の当体としての人格と行動を実現した「師」の存在は、信心の血脈を一挙に触発する力を持っているからです。
ゆえに本抄では「上行菩薩から受け継ぐ南無妙法蓮華経を唱え、修行してきなさい」と言われ、大聖人こそが上行の出現に当たることを示唆されているのです。
このように「師」の存在を示された上で、本抄は「信心の血脈」の重要性を強調した一節で結ばれております。
すなわち、「師弟不二の信心」こそ、信心の血脈を受け継ぐ要諦であり、究極なのです。
本抄は、周到に言葉を尽くされた「信心の血脈」論であると拝することができます。
仏法の生死観は人類の希望の根源
私は若き日から、仏法による生死観の変革が人類に計り知れない希望を与えると確信してきました。また、それが、人類の平和を実現する不可欠の基盤になるとも考えてきた。そして、そのことを、機会あるごとに、さまざまな形で論究してきました。
世界の多くの識者との対話の嚆矢となったトインビー博士の対談においても、この生死のテーマを真正面から取り上げて、語り合いました。
「生命は死後も存続するのか、それとも現世だけのものか」
「もし存続するとすれば、それは永遠のものか、有限のものか、またいかなる状態で存続するのか」
トインビー博士は、私の率直な問題提起を真摯に受け止めてくださった。そして、“これは重大な問題であるが、実証不可能な問題であり、空間や時間の枠組みの中では答えることはできないであろう”と、学者らしい抑制を利かせた言及をされていた。他方、博士は、仏法の「空」の思想、あるいは「永遠」の概念によって初めて答えることができるであろうとも言われておりました。
これは、言い換えれば、生死の問題は学問よりも宗教の根本課題であるとの指摘であり、いわば仏法の実践者である私に問いを投げ返されたのであります。
西洋の最高峰の知性がたどり着いた珠玉の洞察です。生死の問題こそ、人類にとって永遠の問いであると同時に、宗教にとっての根本課題であります。ここにこそ宗教が存在する意義があるといっても過言ではない。
牧口先生は生死の問題について『創価教育学体系』の中で次のように述べられています。
「対宇宙の生活について言えば、何人も生死の問題に直面するときには、いかなる智者、学者でも、また英雄でも豪傑でも、微弱な力しか持たないことを知る。そのときには、偉大なる威力というべき宇宙の本体の能力に対応する生活をしなければならなくなる。宗教生活は、これによって生ずる、対社会の生活も、実は宗教生活の一部とみなすことができる」
生死の問題を解決するには、宇宙の本体の偉大な力に対応する「宗教生活」に入らなければならないとの指摘です。
そして「対社会の生活」も、実は、この「宗教生活」に含まれているといわれている点には、深く注目していくべきでしょう。宗教生活によって開発された偉大なる生命力こそ、社会生活を正しく営むための原動力に他ならないからです。
そして、生と死を含む宇宙の本体の偉大なる力を生きる「宗教生活」の鍵なるものこそ「信心の血脈」なのです。
阿仏房の「師を求める信心」
ここで、生死の問題を解決するためには「信心の血脈」なかんずく「師弟不二の信心」が決定的に重要であることを示された御指南に基づき、具体的に示してみたい。
大聖人の御在世で、信心の血脈を受け継いで生死の苦を超え、一生成仏を遂げた門下の代表の一人として、阿仏房が挙げられるでしょう。大聖人は亡くなった阿仏房について妻の千日尼に対する御手紙の中で、こういわれている。
「されば故阿仏房の聖霊は今いづくにか・をはすらんと人は疑うとも法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(故阿仏房の聖霊は、今、どこにいらっしゃるのであろうかと人は疑うかもしれないが、法華経の明鏡に阿仏房の姿を映し出してみれば、霊鷲山の山の中、多宝仏の宝塔の内において、東を向いていらっしゃると、日蓮は見るのである)(1319:13、千日尼御返事)。
大聖人はここで、霊山浄土の宝塔の中で真っ直ぐに仏に向かい奉っている阿仏房の姿を記されているのです。阿仏房が宝塔の中で東に向かっているということは、宝塔の中で並座している釈迦・多宝の二仏に向かい奉っているということです。これは、生前に、命をかけて大聖人をお護りし抜いてきた阿仏房の姿そのものであったのではないでしょうか。
厳冬の佐渡で、我が身の危険をかえりみず、いくども櫃を背負って、塚原の三昧堂にまで忍んできた阿仏房。大聖人が身延に入られてからも、数年の間に少なくとも三度、老体を押して、佐渡からの千里の道を超え、身延を訪れた阿仏房。
大聖人を真っ直ぐに求め抜いてきたその姿のままに、亡き阿仏房は、今、霊山浄土に至り、宝塔の中で仏に向かい奉っている「師を求める信心」が弟子の成仏を間違いないものにしていると拝することができる。
南条兵衛七郎への指南
次に、南条兵衛七郎が亡くなる前年に認められた「南条兵衛七郎殿御書」を拝してみたい。南条兵衛七郎は、南条時光の父であるが、この年、兵衛七郎は病に倒れた。いわば、死に直面した門下への成仏の道を示された渾身の御指南が本抄であります。
「もし・さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな」(もし、あなたが私よりも先に亡くなられたならば、梵天・帝釈・四天大王・閻魔大王等に言いなさい「日本第一の法華経の行者、日蓮房の弟子なり」と名乗りなさい。そうすれば、まさか、梵天等が不親切であることはないであろう。ただし、一度は念仏、一度は法華経を唱えたことがある。その二心が残っていて、人の風聞に心が揺らぐようなことがあるならば、よもや日蓮の弟子であると言ったとしても、受け入れられないであろう。そうなったあとで日蓮を恨んではならない)(1498:12)。
この御消息で大聖人は、南条兵衛七郎に宗教の五網に則して法華経の行者の精神と実践を教えられています。宗教の五網は、大聖人御自身が「行者弘教の用心」と言われているように、法華経の行者が法華経を弘めていくに当って配慮していくべき五つの要件です。いわば五網を通して、師であられる大聖人の法華経の行者としてのお心と行動を教えておられるのです。
この御書を通して大聖人は、病に倒れ、死に直面している弟子に「師弟不二の信心」を教えられていると拝することができる。それほど、法華経の行者との師弟不二の信心が生死の苦を乗り越え、一生成仏を遂げていく力となるのです。
「亡くなったら法華経の行者のとして堂々と諸天善神等に名乗っていきなさい。そうすれば諸天善神等が守ってくれるであろう。しかし、病苦・死苦の心揺らぎ、過去の念仏信仰の名残が現れて、信心に二心があるようなことがあっては、どうなっても知らない」この仰せは、真に弟子の成仏を思われる渾身の御指導です。
この御消息をいただいた南条殿は、心の揺れを打ち破って、強盛な法華経の信心に立つことができた。大聖人は後に、南条殿が翌年、臨終正念を遂げて亡くなったとの報告を聞かれたのです。
「最高の正しい人生」に生きる誇り
創価の師弟もまた、日蓮仏法を現代社会に広宣流布していく師弟の実践を貫き通してきました。そして、草創以来わが学会員の闘争こそ、この法華経の人間主義の系譜を継承した行動であると確信いたします。
昭和22年(1947)8月14日、その日の夜、蒲田の糀谷小路で行われた座談会で、私は戸田先生にお会いしました。
恩師は当時47歳、私は19歳でした。この運命の日、私が会場に入った時、戸田先生は「立正安国論」を講義されていました。
「私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。どうだ、一緒にやるか!」
初めて接する戸田先生の謦咳でした。新しき大民衆運動の黎明を告げる一声であったと思います。
私はこの日、戸田先生に「正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」とお尋ねしました。戸田先生の答えには、理論の遊戯や欺瞞はいささかもありませんでした。一つ一つの回答に、人間としての実像があった。まさしく「生老病死」を超克した法華経に基づく人格であられました。
この日この時以来、師弟不二の旅路が始まりました。そして、生死の何たるかを戸田先生より教わりました。いつしか、生死の問題を解明し、解決して実証することが自身の弟子としての責務ともなりました。
師弟が不二となれば、無量無辺の力がわきます。師匠は、生死の根本課題を極めたうえで、皆がどうすれば力が発揮できるか、勝利と幸福の人生を送れるのか、心を尽くし、打つべき手を打ちます。
私は、この絶対勝利の信心を戸田先生から教わりました。戸田先生は、牧口先生から教わりました。牧口先生は、御本尊から、大聖人から、教わりました。ここに創価の師弟の血脈があります。
師と弟子が心を合わせれば、生死の問題を解決し、この一生で、三世永遠の自受法楽の境涯を勝ち取ることができるのです。そのための仏法です。
したがって、「生死一大事の血脈」を成就する肝要とは、どこまでも、師弟不二の民衆救済のために、広宣流布に戦い抜く不惜身命の信心しかありません。
かつて私は不惜の闘争を誓いあった共戦の友に贈りました。
仏法の 創価の原理の 師弟不二 生命の血脈 君等にあるなり。