生死一大事血脈抄

生死一大事血脈抄

文永9年(ʼ72)2月11日 51歳 最蓮房

 

  1. 第一章 生死一大事血脈の体を明かす
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 生死一大事血脈の意義
      2. 夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり
      3. 妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり
      4. 伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」
      5. 天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり
  2. 第二章 深信に生死一大事の血脈
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候
  3. 第三章 信心の持続に生死一大事の血脈
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  4. 第四章 異体同心に生死一大事の血脈
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  5. 第五章 一切衆生救済の大慈大悲を示す
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ
  6. 第七章 信心の血脈なくば法華経も無益
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 南無妙法蓮華経・臨終正念
      2. 信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり                      
      3. 信心の血脈
      4. 桑門 日蓮について

第一章 生死一大事血脈の体を明かす

 本文

 日蓮これを記す。
 御状委細披見せしめ候い畢わんぬ。
 夫れ、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり。その故は、釈迦・多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて、この妙法蓮華経の五字、過去遠々劫より已来、寸時も離れざる血脈なり。
 妙は死、法は生なり。この生死の二法が十界の当体なり。またこれを当体蓮華とも云うなり。天台云わく「当に知るべし、依正の因果はことごとくこれ蓮華の法なり」云々。この釈に依正と云うは、生死なり。生死これ有れば、因果また蓮華の法なること明らけし。伝教大師云わく「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」文。天地・陰陽、日月・五星、地獄乃至仏果、生死の二法にあらずということなし。かくのごとく、生死もただ妙法蓮華経の生死なり。天台、止観に云わく「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅なり」云々。釈迦・多宝の二仏も生死の二法なり。

 

現代語訳

日  蓮  記 之

御手紙を詳しく拝見した。お尋ねの、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。そのわけは、この妙法蓮華経の五字は釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになったのであり、過去遠々劫以来、寸時も離れることのなかった血脈の法であるからである。

妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即、十界の当体である。また、これを当体蓮華ともいうのである。

天台大師は「まさに知るべきである。十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門である」といわれている。この釈に依正というのは十界の生死の意である。生死があれば、その因果もまた蓮華の法門であることは明らかである。伝教大師は「生死の二法は一心の妙用であり、有と無との二道は本覚の真徳である」と述べている。天地、陰陽、日月、五星、地獄、ないし仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。

このように、生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。天台大師の摩訶止観に「起はこれ法性の起であり、滅もまたこれ法性の滅である」とある。釈迦・多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。

 

語釈

生死一大事血脈

生死とは生と死を繰り返す生命自体をさし、一大事とはその極理。すなわち、生死一大事とは生命の極理をいい、仏はこれを妙法蓮華経であると明かしたのである。血脈とはその仏の悟り、生命の極理が、仏から衆生へ正しく継がれることをいう。

 

釈迦

釈尊のこと。シャーキャ族の聖人(釈迦牟尼)。人々から尊敬される人物の意で、仏教の創始者ゴータマ・ブッダをさす。釈尊は古代インドに王子として生まれ、シッダールタと呼ばれた(生誕の地ルンビニーは現在のネパールに位置している)。若き日、生・老・病・死という免れられない人間の苦しみを目の当たりにし、今は青春の真っ只中で健康に生きていても、生・老・病・死は免れがたいことを知り、その根源の苦悩の解決法を探究しようとして出家した。シッダールタは、万人が羨む、満たされた王子としての境遇にあった。しかし、人々が求める贅沢さもしょせん、はかなく空しいと知り、楽しむことはなかったと回想している。そこで、釈尊は人間が生きる意味を明らかにする正しい思想・哲学を求めた。しかし、伝統的な教えにも、また同時代の革新的な教えにも満足できず、瞑想修行によって、種々の苦悩の根本原因とその解決について探究した。その結果、一人一人の生命、宇宙を貫く永遠普遍の「法」に目覚めた。それ故、サンスクリットで目覚めた人という意味の「ブッダ」と呼ばれる。後に中国では漢字で「仏」「仏陀」などと表記した。釈尊は、人々が自己の本来的な尊厳性への無知から、自己中心的な目先の欲望にとらわれ、他の人を不幸に陥れてでも幸せになろうとするエゴイズムに覆われていると喝破した。そして、内なる永遠普遍の法に目覚めて根源的な無知(無明)から解放された、自己本来の清浄な生命に立ち返る生き方こそ、人間が人間らしく生きるために必要な最も尊く優れたものであると教えた。また釈尊は、自己の尊厳性を自覚することによって他者の尊厳性を知り、尊敬することを教えた。これが「慈悲」の基本精神である。釈尊は、ある大王に対して、だれにとっても自分以上に愛しいものはない、自己を愛する者は他人を害してはならないと教えている。仏教の説く「慈悲」とは、他の人も自身と同じように大切な存在であると知って他の人を大切にすることであり、万人に双方向性をもつものである。

【諸経典に説かれる釈尊】釈尊の言行は弟子たちによって後世に伝えられ、それぞれが重視する観点から種々の経典が編纂されていった。それらに示される釈尊像は、その経典制作者たちがとらえた理想を体現する仏であり、しばしば神格化され超越的な姿と力をもつものとして描かれている。その釈尊像は、それぞれの経典の教えを反映するものであり、「観心本尊抄」に基づいて経典の教説の分類に対応させて仏身を6種に立て分けられる。すなわち、蔵・通・別・円の四教においてそれぞれの仏身が説かれ、円教である法華経では迹門・本門の仏身が示されている。本門においては、文底の教えを立て分け、文底下種の法を説く仏身を立て分ける。それぞれの仏身はそれぞれの教えにおける成仏観を反映したものとなっている。

 

多宝

法華経見宝塔品第11で出現し、釈尊の説いた法華経が真実であることを保証した仏。過去世において、成仏して滅度した後、法華経が説かれる場所には、自らの全身を安置した宝塔が出現することを誓願した。釈尊が法華経を説いている時、見宝塔品で宝塔が地から出現して空中に浮かんだ。宝塔が開くと、多宝如来が座していた。多宝如来は釈尊に席を半分譲り、以後、嘱累品第22まで、釈尊は宝塔の中で多宝如来と並んで座って(二仏並坐)、法華経の説法を行った。

 

宝塔

宝物で飾られた塔。法華経見宝塔品第11では、釈尊の法華経の説法が真実であると保証するために、多宝如来が中に座す宝塔が、大地から出現して嘱累品第22まで虚空に浮かんでいた。この宝塔は高さ500由旬で、金・銀・瑠璃などの七宝で飾られていた。この塔の内に釈迦・多宝の二仏が並んで座り(二仏並坐)、聴衆も空中に浮かんで、虚空会の儀式が展開された。日蓮大聖人はこの虚空会の儀式を借りて曼荼羅を図顕され、末法の衆生が成仏のために受持すべき本尊とされた。そして曼荼羅御本尊の中央にしたためられた南無妙法蓮華経を宝塔と同一視されている。また妙法を信受する人は、南無妙法蓮華経そのものであるので、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝(七聖財)に飾られた宝塔であるとされている(1304㌻)。

 

上行菩薩

地涌の菩薩を代表する四菩薩の筆頭。法華経如来神力品第21では、末法における正法弘通が上行をはじめとする地涌の菩薩に付嘱された。この法華経の付嘱の通り、末法の初めに出現して南無妙法蓮華経を万人に説き不惜身命で弘通されたのが、日蓮大聖人であられる。この意義から、大聖人は御自身が地涌の菩薩、とりわけ上行菩薩の役割を果たしているという御自覚に立たれ、御自身を「上行菩薩の垂迹」と位置づけられている。日興上人も、大聖人を「上行菩薩の再誕」と拝された。創価学会では、大聖人は、外用(外に現れたはたらき)の観点からは上行菩薩であられ、内証(内面の覚り)の観点からは久遠元初の自受用報身如来であられると拝する。

 

生死の二法

生命に起こる現象としての生と死のこと。

 

十界

衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したもの。六道の中では、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道」とし、この三悪道に比べれば相対的にはよいことから、修羅・人・天は「三善道」とされる。また三悪道に修羅を加えて、「四悪趣」ともいう。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。小乗の教えに基づき覚りを目指す声聞・縁覚は「二乗」と呼ばれる。これに菩薩を加えて「三乗」と呼ばれる。法華経以外の経典では、十界はそれぞれ固定化された世界・境涯としてとらえられていた。しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命にそなわる10種の境涯であることを示した。したがって、今、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも、十界がすべてそなわっており、縁によって次にどの界の境涯をも現せることが明らかになった。このように十界の各界が互いに十界をそなえていることを十界互具という。この十界互具を根幹として、天台大師智顗は一念三千の法門を確立した。

 

当体蓮華

妙法蓮華経それ自体。譬喩蓮華に対する。譬喩蓮華とは、華草の蓮華が、華と実が同時になることから、因果倶時の妙法華経に似ているので、この蓮華を借りて当体蓮華を説明したのである。したがって、当体蓮華の説明は譬喩蓮華であり、説明された実体たる妙法華経そのものは当体蓮華である。たとえば、宝塔品の儀式は譬喩蓮華、御本尊は当体蓮華である。総じて宇宙の森羅万象、いっさいの現象が当体蓮華であり、妙法華経である。別していえば、日蓮大聖人の仏法を修行するわれわれのみが当体蓮華であるが、さらに別して日蓮大聖人が妙法華経のみが当体蓮華である。当体義抄には「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、 答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(0510:01)「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」(0512:09)とある。

 

天台

05380597)。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。

【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。▷

 

伝教大師

0767あるいは07660822)。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。

【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(0806)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。

【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。

【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」と仰せになっている。

 

陰陽

中国易学のとる二元論の見方で、動的なもの積極性を陽とし、静的なもの、消極性を陰とする。日向は陽で日蔭は陰、太陽は陽で月は陰、夏と春は陽で冬と秋は陰、天は陽で地は陰、などと立てる。

 

五星

五星とは歳星=木星、熒惑星=火星、鎮星=土星、太白星=金星、辰星=水星でいずれも太陽の惑星である。

 

地獄・乃至仏界

地獄界から仏界までの十界の境界。

 

止観

①止観という瞑想修行のこと。「止」とは心を外界や迷いに動かされずに静止させることで、それによって正しい智慧を起こして対象を観察することを「観」という。②天台大師智顗の『摩訶止観』10巻の略称。

 

物事・事象の起こり、はじまり。

 

法性

万物を貫く根本の法そのもの、仏の覚りの本質。真理であり、万物のあるべき姿を示すものなので、法性真如ともいう。

 

滅びる・消える・没する・死ぬ。

 

講義

本抄は文永9年(1272211日、日蓮大聖人が51歳の御時、佐渡・塚原でしたためられ、最蓮房日浄日栄に与えられた御抄である。時期的には、人本尊開顕の書である開目抄を著されたときと、ほぼ一致している。

この年の116日、塚原問答があった。これは、大聖人の御命をねらう念仏者達に対し、佐渡の守護代・本間六郎左衛門尉が法論で結着をつけるように命じたため実現したものであった。

佐渡のみならず、越後・越中・出羽・奥羽・信濃等から多くの法師が集まったが、大聖人にことごとく完膚なきまでに破折された。

この塚原問答以降、念仏者達の憎悪は更に増し、「今日切るあす切る」といわれるように、大聖人は絶えず御命をねらわれる日々であった。

しかし、一方では阿仏房、国府入道、一谷入道、中興入道等が大聖人の偉大な御境界に触れ、帰依している。

最蓮房は京都の出身で、もとは天台の学僧であった。大聖人が佐渡へ御配流になる以前に、なんらかの理由で流罪になっており、おそらく塚原問答での大聖人の御姿に感銘したと思われる。最蓮房御返事に「御状に云く去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候」(1340:05)とあることから入信は2月初めであろう。

本抄は、弟子になってまだ日も浅かった最蓮房が、生死一大事血脈という仏法の極理にかかわる重要問題を質問したことに対しての御返事である。

最蓮房がもと天台の学僧だったこともあり、天台教学を基盤に踏まえられながら、日蓮大聖人の仏法の奥義である生命究極の体とは何か、しかもそれを得るためには、いかなる信心に立つべきか等、根本的な信心の姿勢と、その実践の在り方について御教示されている。

題号は「夫れ生死一大事血脈とは……」という書き出しに即して後代に付されたものである。御真筆は現存していない。本抄のほかに、草木成仏口伝、諸法実相抄、祈禱抄、当体義抄など法門上、重要な御抄を七編賜っている。

内容は、初めに生死一大事血脈とは何か、ということについて、いわゆる妙法蓮華経であると、法華経、天台大師、伝教大師の経釈を引用して明らかにされている。

次に、衆生がどのような信心の姿勢に立ったとき、生死一大事血脈という仏の悟りの極理が、仏から衆生へ血脈として伝えられるかということに関し、三点に分けて御教示されている。

第一は「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処」と、我が身の内に尊極の仏の生命が具わっていることを信じ、妙法を唱えゆく実践を教えられている。

第二は「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」と、過去・現在・未来の三世にわたって、御本尊から離れないという信心の持続をさとされている。

第三は「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処」と、弟子門下の団結、更には全民衆へ開かれた連帯の絆を教えられ、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えるところにのみ、伝わることを示されている。

しかもその題目は、今、末法において日蓮大聖人が弘通される究極のものであることを述べられている。

最後に、最蓮房が仏法の骨髄にかかわる問題について質問したことに対し、前代未聞のことであると喜ばれるとともに、師弟の宿縁を明かされ、一層強盛な信心に立つよう励まされている。

 

生死一大事血脈の意義

 

まず主題である「生死一大事血脈」の意義について述べておきたい。

「生死」とは、生まれては死に、死んでは再び生まれてくる、この生死流転の生命をいう。生命は死ねば終わりというのではなく「生」として顕在化し、永劫に続くのである。

「一大事」とは、仏の悟った宇宙・生命を貫く普遍的な大真理、仏の悟りの究極をいう。

法華文句には「一は則ち一実相なり、五に非ず、三に非ず、七に非ず、九に非ず、故に一と言うなり。その性広博にして五・三・七・九より博し、故に名づけて大と為す。諸仏出世の儀式なる故に名づけて事と為す」と説かれている。

すなわち「一」とは、唯一無二、これ一つしかない、根本という意味の「一」である。

「大」とは、その性が広博で、すなわち一実相の体性は三世十方に遍満し、一切を包含することを示す。「事」とは、諸仏出世の儀式をいうのである。

また日寛上人は末法における法体に約して、文底秘沈抄で一とは本門の本尊、大とは本門の戒檀、事とは本門の題目で、一大事は三大秘法を意味するとされている。

ここで仰せの生死の一大事は、生死とは一切衆生の生命をさし、その生命の本源にある究極の法をいう。「血脈」とは、師である仏から弟子へ、仏法究極の悟りがそのまま伝えられるさまを、人体において血脈が絶えることなく連なっているのにたとえていった言葉である。

したがって、生死一大事血脈とは、生命究極の体を説き明かした仏の悟りが、仏から衆生へ、どのようにして伝えられるかということであり、まさしく衆生の成仏にかかわる最重要の法門ということができる。

ゆえに、本抄で述べられているテーマは、仏の悟りの極理は何であるか、それはどのようにして衆生に伝えられるか、という二つの問題に帰着するわけである。

 

夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり

 

生死一大事血脈とは何か、ということについて、その体は妙法蓮華経、つまり南無妙法蓮華経そのものであると、冒頭に結論を出されている。

なぜ妙法蓮華経が生死一大事血脈なのか。

「其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて」と述べられているように、法華経の虚空会の儀式において、宝塔の中で釈迦・多宝の二仏並坐のもとに、地涌の菩薩の上首・上行菩薩へ、末法弘通のために譲られた法体が妙法蓮華経であるということである。

上行菩薩は、その本地は久遠元初の自受用身であり、もともと妙法蓮華経を所持された仏である。

しかるに、法華経の会座で付嘱の儀式が行われたのは、この上行菩薩が末法に出現することを予証し、明示するためにほかならない。したがってこの御文は、一往、教相、文上の辺からの仰せである。

次の「此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり」が、再往、観心・文底の辺からの御指南である。

「過去遠遠劫」とは久遠元初である。「寸時も離れざる血脈なり」とは、妙法蓮華経は、本来、人法体一であり、久遠元初自受用身の生命がそのまま妙法蓮華経、南無妙法蓮華経であるから、寸時も離れることがないのであり、このことは御義口伝の「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:06)との仰せに明らかである。

日蓮大聖人は、外用は上行菩薩の再誕として末法に御出現されたが、内証は久遠元初の自受用身であり、末法の御本仏であられる。

 

妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり

 

総じて十界の一切衆生の生命が妙法蓮華経の当体であることを示されている。

「妙は死法は生なり」とは、生死の二法が即妙法である、ということである。

万物は生じては滅していく。「生」として顕在化し、「死」として僭在化しつつ、生死生死と無始無終に繰り返していくのが生命の真実の姿である。

この生死は妙法蓮華経の働きであり、妙法蓮華経こそ生命の変わらざる当体なのである。

「妙」がなぜ「死」であるかといえば、妙とは不可思議の意であり、「死」の状態の生命は、色もなく、目で見ることも、とらえることもできない。思議することができないかたちで存在しているゆえに「妙は死」となる。

それに対し「法」とは現象であり、表に現れたすがたである。喜怒哀楽、その瞬間瞬間にあらわす変化の相、さまざまな働き、これが「法」である。それは目で見ることも、触れることもできる。したがって「法は生」となるのである。

この生死の二法を現じていくのが十界の当体である。仏も含めて十界の衆生はすべて生死をあらわすのであり、ゆえに十界の生命を「当体蓮華とも云う」といわれているのである。

「当体蓮華」とは、一切衆生の当体が妙法蓮華であることをいう。譬喩蓮華に対する語で、当体蓮華を説明するために用いられた華草の蓮華を譬喩蓮華という。

蓮華は、華と果実が同時であるということや、泥沼の中にあっても、清浄な花を咲かせるなどの特質をもつ。この華草の蓮華のもつ特質により説明された妙法蓮華経の法門それ自体を当体蓮華と名づけるのである。

当体義抄には「因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(0513:04)と仰せである。

なお、日寛上人は当体義抄文段で、当体蓮華に二義があるとして「一には、十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づく、故に当体蓮華というなり」「二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、これを当体蓮華という」と説かれている。胸間の八葉とは心臓と肺臓のことである。

すなわち、前者は森羅万象をいい、後者は衆生の生命自体が妙法蓮華即当体蓮華であることを明かされている。

したがって、生死が「妙法」で、それを現ずる体が当体の「蓮華」であるゆえに、十界の生命はそのまま「妙法蓮華」である。

このことを本抄では、更に天台大師の法華玄義巻七下の「当に知るべし、依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」との釈を引かれて展開されている。

依正とは、生命活動を営んでいく主体を「正報」といい、その生命活動を営む依りどころ、環境を「依報」という。

「此の釈に依正と云うは生死なり」と仰せのように、生きているという主体の生命は「生」であり、その依りどころとなるものは「死」である。

これは更に、現実に存在する生命を、空間的な広がりのなかでとらえたのが依正であり、時間的な流れのなかでとらえたのが生死であるということができる。

この依正とも、生死ともとらえられる生命は因果の法をあらわし、その因果の法は必ず因果俱時であるから、蓮華の法となることを「生死之有れば因果又蓮華の法なること明けし」といわれているのである。

因果俱時とは、一念の生命に因と果が具足し、先後の別がないことをいう。一般に、原因と結果は同時にあらわれず、時間的経過のうえにあらわれる。しかし、これを本質次元でとらえ、一瞬の一念に因果が具足することを明かしたのが法華経である。

観心本尊抄に「瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(0241:07)という十界について述べられた御文がある。

「瞋るは地獄」を例にとると、「瞋る」という働きが因で、瞋りを生じた瞬間に「地獄」という果を得ているわけで、因果俱時である。

十界の生命では、九界が因で、仏界が果である。御本尊を信受することは因で、唱題は果であり、信じて唱題したとき、その一瞬の生命に仏界が涌現する。九界の因と仏界の果が、刹那の一瞬に具足しているのである。ゆえに即身成仏となるのである。

 

伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」

 

伝教大師の天台法華宗牛頭法門要纂の文で、この世で生まれ、死んでいくのも、常住の体である妙法蓮華経の不可思議な働きであり、生まれてこの世に「有」るのも、死んで「無」くなるのも、本有の覚りにそなわっている徳用であるという意味である。

「一心」とは生命、「妙用」とは妙なる用、すなわち働き・作用の意で、生まれる、死ぬというのも、常住不滅の生命のあらわす働きであるということである。

「有無の二道」とは、この世に有る、無いという存在の仕方をいう。「本覚」とは、もともとの覚りということで、その体は妙法蓮華経である。「真徳」とは真の徳の意である。

すなわち、生死にしても、有無にしても、ともにその生死、有無を超えた体がある。それが「一心」であり「本覚」である。それが、あるときは生、あるときは死、あるときは有、あるときは無という、さまざまな相をあらわしているのであるとの意である。

生死の二法は、妙法蓮華経のあらわす働きであり、有無の二道は、妙法蓮華経のとる二つの存在の仕方といえる。

逆にいえば、万物は生死の二法、有無の二道を示していくけれども、その体は常住不変の妙法蓮華経そのものであるということである。

そして「天地・陰陽・日月・五星」等の万物・万象も、また「地獄・乃至仏果」、すなわち我々の生命の働きも、すべて生死の二法でないものはない。一切が生死をあらわしているのである。

五星とは、太陽系の惑星で、辰星・太白星・螢惑星、歳星・鎮星をいう。五緯ともう。

一切の現象の体が妙法蓮華経であるから、これら万物の示す生死は、所詮、妙法蓮華経があらわすところの生死であるということを「是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり」といわれているのである。

 

天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり

 

天台大師の著した摩訶止観巻五上の釈で、やはり同趣旨の文である。

「法性」とは妙法蓮華経ということである。一切の事物・事象が生滅流転する現象も、すべて妙法蓮華経の起滅にほかならないという意である。

「起」は生であり「滅」は死である。ゆえに「法性の起・法性の滅」とは、妙法蓮華経の生死の二法をさすのである。

また、法華経の虚空会の儀式で、宝塔の中で並坐する釈迦・多宝の二仏も、やはり生死の二法をあらわしているのである。

すなわち、釈迦は「生」、多宝は「死」をあらわす。なぜなら、法華経を説法する主体は釈迦仏であるから「生」であり、多宝仏は証明役で、いわば客観性をあらわしているので「死」である。

境智の二法に約せば、釈迦は智、多宝は境をあらわす。ゆえに、能動的主体の智の表象にあたる釈迦は「生」、所証の境の表象である多宝は「死」となるのである。

 

 

 

第二章 深信に生死一大事の血脈

 本文

  然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅猿浅猿、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。

  今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば瓜夕顔の手を出すが如くと思し食せ、

 

現代語訳

このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三は全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮が弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。

所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人を普賢菩薩勧発品には「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏でなく千仏までも来迎し手を取ってくださるとは歓喜の涙、押えがたいことである。これに対し法華経不信の者は、譬喩品に「其の人は命終わって、阿鼻獄に入るであろう」と説かれているから、定めて獄卒が迎えにきて、その手を取ることであろう。あさましいことである、あさましいことである。このような人は十王にその罪を裁断され、倶生神に呵責されるにちがいない。

今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に、千仏が御手を授けて迎えてくださるさまは、例えば瓜や夕顔の蔓が幾重にもからんで伸びるようなものであると思われるがよい。

 

語釈

久遠実成の釈尊

①一往の義。インドに生まれ今世で成仏したと説いてきた釈尊が、実は五百塵点劫という非常に遠い過去(久遠)に成仏していたということ。法華経如来寿量品第16で説かれる。同品には「我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478㌻)、「我は仏を得て自り来|経たる所の諸の劫数は|無量百千万|億載阿僧祇なり」(法華経489㌻)とある。さらに釈尊は、自らが久遠の昔から娑婆世界で多くの衆生を説法教化し、下種結縁してきたことを明かした。五百塵点劫の久遠における説法による下種結縁を久遠下種という。②再往の義。最も根源の法を覚知し、その功徳を自ら受け自在に用いている永遠の仏。久遠元初とは、ある特定の遠い過去ではなく、永遠の根源を示す。自受用報身とは自受用身ともいい、「ほしいままに受け用いる身」のこと。覚知した法の功徳を自ら受け自在に用いる仏の身をいう。生命にそなわる本源的な、慈悲と智慧にあふれる仏である。日蓮大聖人のこと。

 

皆成仏道の法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(12607月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

 

我等衆生

①サンスクリットのサットヴァの訳。衆とも有情とも訳す。薩埵と音写する。広義には一切の有情(感情・意識をもつもの)をいう。狭義には、無明や煩悩をもって迷いの世界に住む人をさす。②「心と仏と衆生の三つには区別がない」との意。華厳経(六十華厳)巻10の文。心も仏も衆生も、五蘊(色・受・想・行・識。心身を構成する五つの要素)によって世界を作り出している点で相違はないという趣旨。

 

是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣

法華経普賢菩薩勧発品第28の文。「 是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と読む。

 

其人命終入阿鼻獄

法華経譬喩品第3の文。「其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と読む。

 

十王

冥途で亡者の罪を裁くとされる 10人の王。インド本来の仏教説ではなく,中国六朝時代の民間信仰に基づくものらしい。十王の名は,秦広王,初江王,宋帝王,伍官王,閻魔王,変成王,泰山府君,平等王,都市王,五道転輪王。

 

倶生神

人が生まれた時に倶に生じ、常にその人の両肩にあって、その人の善悪の行為を記して閻魔王に報告するという同名、同生の二神のこと。同生神ともいう。経によって倶生神を一人といい、男女の二人にするなど一様ではない。薬師瑠璃光如来本願功徳経に「諸の有情には倶生神有って、其の所作に随って若しは罪、若しは福、皆具さに之れを書して、ことごとく持して琰魔法王に授与す。その時、彼の王は其の人に推問して所作を算計し、其の罪福に随って之れを処断す」とある。

 

ウリ科のつる性一年草。キュウリ・スイカ・トウガン・ヘチマなど。

 

夕顔

ウリ科の植物で、蔓性一年草。実の形によって細長くなった「ナガユウガオ」と、丸みを帯びた球状の「マルユウガオ」とに大別する。大きな果実を実らせることが特徴。同じく大きな実を実らせるウリ科の植物にヒョウタンがあるが、ヒョウタンとユウガオは同一種であり、ヒョウタンがインドに伝わって栽培されるうち、苦味の少ない品種が食用のものとして分化、選別されたと考えられている。ユウガオの実を細長い帯状に剥いて加工したものはかんぴょう(干瓢)と呼ばれ、巻き寿司や汁物などに使われ食用にされる。主にマルユウガオからかんぴょう(干瓢)は作る。

 

講義

前章で述べられたことを受けて、衆生がどのような信心の姿勢に立ったとき、この仏の悟りの極理が、仏から衆生へ、血脈として伝えられるかということに関して三点から示されるのであるが、その第一について御教示された段で、御本尊が我が胸中の肉団におられることを信じ、題目を唱える実践を教えられている。

前章との関連でいえば「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」という御文が「久遠実成の釈尊」にあたる。釈迦・多宝の二仏並坐は、釈迦が智、多宝が境で、境智冥合を意味し、その体は久遠実成の釈尊をあらわしているからである。

同様に「釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲」られたのが「皆成仏道の法華経」であり、「此の生死の二法が十界の当体なり」が「我等衆生」にあたる。

すなわち、仏の悟りの当体も妙法蓮華経、法華経で説かれた衆生成仏の法体も妙法蓮華経、我等衆生の体も妙法蓮華経であるから「三つ全く差別無し」である。

一往、ここでは釈尊の法華経文上の立場からの表現となっているが、再往、元意の辺は「久遠実成の釈尊」とは久遠元初の自受用身如来たる御本仏日蓮大聖人であり、「皆成仏道の法華経」とは三大秘法の南無妙法蓮華経である。そして、御本尊を無二に信受する我ら衆生の生命も、同じく南無妙法蓮華経の当体である。したがって、この三つは「全く差別無しと解りて」と拝すべきである。

しかし「差別無し」といっても、あくまで理の上のことであり、事実のうえで同じということではない。同じではないが、全く隔絶したものでもない。

ゆえに「解りて」とは「以信得入」「以信代慧」と示されるように、「深く信心を発して」ということである。

実践的にいえば、御本尊に境智冥合するという決定した信心に立つことが「三つ全く差別無し」ということになる。

このように御本尊を唯一無二と信じ、南無妙法蓮華経と唱えるところを、生死一大事の血脈というのであり、仏の悟りの当体である南無妙法蓮華経の生命が、そのまま我々の生命のなかに血脈として伝えられ、生き生きと脈打ってくるのである。

「此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり」と仰せのように、「三つ全く差別無し」との法理は、最も深く生命の尊厳観を説いたものであるから、大聖人門下として仏道修行に励む者にとって、最も肝心かなめなことであり、「法華経を持つ」とはこれ以外にないのだと教えられているのである。

 

所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候

 

「臨終只今にありと解りて」とは、単に死に臨んだときに、ということではない。また、今はまだ臨終ではないけれども、臨終だと思って、ということでもない。

今は健康で、長生ができそうであっても、いつ死ぬか分からないのが人間の寿命である。死は厳粛な事実であり、だれびとも避けることはできない。この先、何十年生きられるにしても、永遠の生命からみれば、一瞬のようなものである。

「解りて」とは、この生命の真実のすがたを見極めるという意味である。

この事実を自覚したとき、今生きて真実の仏法を受持していることの重大さを、ひしひしと感じないわけにはいかない。そこに真剣な信心が生まれるといえよう。一日一日、一瞬一瞬に全生命をかけていくということが「臨終只今」なのである。

臨終は人生の総決算である。各人の人生のすべてがこの一瞬に凝縮される。いかに権力をほしいままにし、巨万の富を貯えて名声を博しても、死のまえにはすべて無力である。

それゆえに永劫の未来にわたって、死してなお消えることのない福徳を積むため、ただ一筋に御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていく人を、法華経勧発品第二十八に「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれているのである。

死後の世界は知りがたいものであるだけに、恐怖・不安に満ちたものとされ、今世の業によって、閻魔法王を代表とする十人の王に次々と裁かれ、地獄・餓鬼・畜生・修羅の三悪道・四悪趣に堕とされると考えられていた。

しかし、正信を貫き、福徳を積んだ人には千仏が手を差し延べて救ってくださる。つまり、全宇宙のあらゆる働きが、その人の死後、来世の生命を守り、決して悪道に堕ちることはないとの御断言なのである。

「是人命終為千仏授手」の文は、一往、死の瞬間に際しての仰せであるが、再往は、現在の人生における瞬間瞬間の境涯についていわれたものであることを知るべきである。

御義口伝には「千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒来迎し法華経の行者は千仏来迎し給うべし、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は千仏の来迎疑無き者なり」(0780:第四是人命終為千仏授手の事:02)と述べられている。

「千如の法門」とは、十界互具・百界千如のことであり、千仏とは千如是であるとの御教示である。すなわち、我々の生命に具わっている千如是が、仏界の千如是になるということである。

したがって、本意は自行化他の信心に励むことにより、自分自身の胸中にある千仏の守護の働きを自らあらわしていくということにある。

「悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」の御文は、当時、流行していた念仏に対する破折の意義が込められている。

浄土宗では「阿弥陀の名号を称えれば、死んだとき、西方極楽浄土から阿弥陀仏の使いとして観音・勢至の二菩薩が迎えにきてくれる」と説いていた。

それに対して、妙法を信じた人には、一仏・二仏、百仏・二百仏どころか、千仏が手を授けて守ってくださるのである。

反対に、法華経を信じない人は、法華経譬喩品第三に「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば(中略)其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれるように、阿鼻地獄に堕ちること必定である。

「十王は裁断し」とは、十王経という経典には、人は死ぬと中有という暗黒の世界をたった一人で旅し、閻魔王など十人の王によって次々と生前の罪業の裁きを受け、未来の生処を定められると説かれている。

十王経については後世の偽作という説もあるが、人間の死後の世界、亡者の苦悩をつぶさに描いて、因果の理法を譬喩的に示し、娑婆世界での仏道修行の尊さを教えた経であり、その説く内容の意義は大きい。

「俱生神は呵責せんか」とは、俱生神は人が生まれると倶に生ずる神であり、同生同名天とされる。人が生まれると同時に生ずるから同生、人の名と同じ名なので同名、自然にあるので天となすといわれている。

死ぬまで左右の肩に付いて、その人の善悪の業を漏らさず天に報告するという。いわば告発する検事である。生まれたときから監視しているのであるから、逃れようがない。この十王・俱生神は、生命内奥の因果の厳しさをあらわしたものといえる。

 

 

 

第三章 信心の持続に生死一大事の血脈

 本文

  過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。

 

現代語訳

過去世において、強盛に法華経に結縁していたので今生においてこの経に値うことができたのである。未来世において仏果を成就することは疑いない。過去、現在、未来と三世の生死において、法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのである。謗法不信の者は、譬喩品に「即ち一切、世間の仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのである。

 

語釈

仏果

成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。

 

三世の生死

過去・現在・未来にわたって生死を繰り返すこと。

 

即断一切世間仏種

法華経譬喩品第3の文。「即ち一切、世間の仏種を断ぜん」と読む。

 

講義

第二に、南無妙法蓮華経を受持したならば、どこまでも信仰を持続し、深めゆくなかにこそ、生死一大事の血脈が連綿と受け継がれていくことを教えられている。

「過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず」の御文は、過去の結縁が現在の受持とあらわれ、現在の受持が未来の仏果成就疑いないという、三世にわたる因果の法理を明かされている。

心地観経に「過去の因を知らんと欲せば当に現在の果を看るべし、未来の果を知らんと欲せば但現在の因を観よ」とある。

過去において御本尊への結縁が強盛であったということは「過去の因」であり、現在に御本尊を受持したことは「現在の果」となる。しかも、御本尊を受持していることは、そのまま「現在の因」であり、そのこと自体、未来に仏果を成就する「未来の果」を決定づけていくのである。

したがって、現在、御本尊に巡りあうことができたのは、決して偶然によるのではなく、過去に強く縁を結んでいたからである。また、今生において信心を強盛に貫いていけば、未来世においても、また御本尊のもとに生まれることができる、といえよう。過去・現在・未来は、必ず一貫しているものであることを教えられているのである。

それが次下の「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」の御文につながっていく。

この御文は、過去・現在・未来という三世の、いわゆる時間的なタテの流れのなかで信心の持続を意味する。

文字どおりでいえば、臨終の際に南無妙法蓮華経と唱えて死んでいったとき、来世もまた信心を持って生まれることができる、との仰せである。

これを今世にあてはめて、一日一日を生死と考えれば、日々の信心の持続が「三世の生死に法華経を離れ切れざる」ということにあたる。

すなわち、過去の生死は昨日の生死、現在の生死は今日の生死、未来の生死は明日の生死である。

そして、更にいえば、一瞬一瞬の十界の移り変わり自体、生死流転である。凡夫の場合、概して三悪道・四悪趣・六道が多いわけであるが、いかなる生命境界のときも、その奥底に御本尊への信の一念が貫かれていくところに「法華経の血脈相承」があるのである。

相承とは、師匠と弟子が相対して法門を授け、承け継ぐことをいう。この信心の血脈、すなわち、御本仏日蓮大聖人の御一身に流れる生死一大事の血脈は、三世にわたり不退の信心を持続するなかにこそ、我々の生命に受け継がれていくのである。

しかし、正法を信ぜず、謗った場合には、同じく法華経譬喩品第三に「則ち一切、世間の仏種を断ぜん」と説かれているように、この自身の内なる仏性の種子を断絶することになるから、生死一大事の血脈もまた断ち切ることになる、と仰せである。

 

 

 

第四章 異体同心に生死一大事の血脈

 本文

  総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し、

 

現代語訳

総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。

もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである。

 

語釈

自他彼此の心

「自分と他人」「あちらとこちら」などと差別する心のこと。

 

水魚の思

水と魚のように一体不可分で密接な関係にある人々の心、一念のこと。中国・三国時代の蜀漢の王である劉備玄徳と諸葛亮(孔明)の関係が水と魚のように切り離しがたい関係であるとした故事に由来する。この親密な交友関係を「水魚の交わり」という。「生死一大事血脈抄」では、異体同心のあり方を「水魚の思」とされている。

 

異体同心

外見の風体は異なっていても内面は同じ心であること。異体とは広げていえば、年齢・性別・職業・社会的地位などが違うことも含まれる。中国古代の故事に基づく語。『史記』などによれば、殷の紂王の悪政に苦しんだ周の武王らは、寄せ集めの軍で風体はばらばらであるものの、心は一つで異体同心であったため、圧倒的な少人数であったにもかかわらず、大国の軍で武具が揃い調っているが、心がばらばらな同体異心の殷の軍隊を破って勝ったという。日蓮大聖人は「異体同心事」などで、日蓮門下は既成勢力と比べると少数ではあるが、「一つ心」すなわち大聖人と同じ心であり、法華経の信心で団結しているので、大事を成し遂げることができ、妙法を広宣流布していくことができると門下を激励されている。

 

城者

城の中に住んでいる者。城を守る者。

 

講義

第三に、ヨコに広がる生命と生命の連帯、異体同心の人間関係のなかに、総じての生死一大事血脈が流れ通うことを示され、広く一切衆生に仏に成る血脈を継がしめることに大聖人の本意があることを明かされている。

まず「総じて」と述べられているが、これは「別して」に対する言葉である。

別しての生死一大事血脈の当体は、釈尊在世には地涌の菩薩の上首・上行菩薩として垂迹され、末法今時には久遠元初自受用身如来の再誕として御出現された御本仏日蓮大聖人の御生命であられることは、すでに述べた。

この御本仏の血脈が「総じて」大聖人門下の異体同心の題目を唱え、広宣流布の大願に生きる一人一人の生命に脈打つことを教えられているのである。

「自他彼此の心なく」とは、同じ大聖人門下の間で、自分と他人、また、あれとこれというように区別し、敵対感情や差別意識をもってはならないということである。

人間は、ともすればエゴや独善に陥り、自分の気にいらない人に対しては排斥的になりがちなものである。

そうした利己心や我慢偏執の心を排し、人の苦しみを我が苦しみとし、友の幸せを我が喜びとしていく心と心、生命と生命の連帯がなくてはならないということである。

「水魚の思を成して」とは、古来「水魚の交わり」といい、離れがたい密接な関係をあらわしたものであるが、ここでは異体同心の姿を具体的にたとえられている。

すなわち、魚と水とは切っても切れない関係にあって、互いに支え合っているように、各人が互いに尊重し、守り合い、感謝しあっていくことである。

「異体同心にして」とは、人それぞれに身体は異なっているが、心を同じにたもつことである。「異体同心なれば万事を成し」(1463:02)と仰せのように、人が集まって一つのことを成就しようとした場合、最も大切なことは異体同心の団結である。「異体」とは、顔形から性格、才能、趣味など、人それぞれの個性や特質が異なることをいい、また社会的立場や経歴などが異なっていることである。「同心」とは、目的観や価値観、志、心を同じくすることである。

ゆえに「異体同心」とは、多くの人が、それぞれの個性、特性をもちながら、心を同じくして行動する姿であり、そこには個人では果たしえない偉大な力が発揮される。いわば個と全体とを見事に調和させる原理といえる。

仏法で強調される「異体同心」の特徴は、すべての人達が御本尊への信心と、民衆救済の心をもって広宣流布への実践を進めるなかで、一人一人の個性、才能等が最大限に発揮されていくことに本義がある。つまり「同心」であると同時に、かつ「異体」をも大事にするのである。この「異体」の自覚のうえに、自らの成長を図り、ヨコの連帯をたもちつつ、広宣流布という大目的達成の「同心」を堅持していくのである。

所詮「同心」とは、御本尊を信ずる心を同じくすることであり、更に「大願とは法華弘通なり」(0736:第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事:01)また「日蓮と同意ならば」(1360:06、諸法実相抄)と仰せのように、広宣流布の大目的を自己の使命とすることにほかならない。

このように、自他彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心で御本尊根本、信心第一に精進していくその生命のなかに、生死一大事の血脈、すなわち仏の偉大な生命が脈々と涌現していくとの仰せである。

「然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり」とは、大聖人の妙法弘通の究極目的は、このうるわしい生命連帯の実現にあるということである。

全人類を包含した異体同心の輪を広げていく実践の積み重ねのうえに「若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せのように、必ずや広宣流布の大願は成就されるとの御断言である。

そこに「異心」を持ち込む人は、破和合僧の逆罪を犯す人であり、更にいえば妙法蓮華経に背くため、より重い誹謗正法の重罪を犯すことになる。ゆえに「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」と戒められているのである。

「異体異心」とは身体が異なっていて、心もおのおの異なっていて、自分勝手で団結のない姿をいう。

したがって、城者が一つの城を守る場合に、内側からその城を破る、つまり敵方に通じて城門を開き、敵を招き入れるようなもので、いわゆる獅子身中の虫をいうのである。

この「異心」とは、根本は日蓮大聖人の御心に反し、背くことである。なぜ「異心」に陥ってしまうのか。突き詰めるところ我慢・我見・我執である。自己の利益や感情、驕慢を中心とした行き方をすれば、それは必然的に「異体異心」に陥り、不平不満、怨嫉などが渦巻くことになる。あげくは「城者として城を破る」大怨敵と化すのである。後世の戒めとして心していきたいものである。

 

 

 

第五章 一切衆生救済の大慈大悲を示す

 本文

  日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、 「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。

 

現代語訳

日蓮は日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、仏に成るべき血脈を継がせようとしているのに、かえって日蓮を種々の難に値わせ、揚げ句のはてはこの佐渡にまで流した。

そうしたなかで、あなたは日蓮に随順され、また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられて心を痛めている。

金は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちることもない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。

賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。あなたは法華経の金を持つゆえに、まさに真金である。

薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、また「火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれている。

過去の宿縁から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦多宝の二仏こそ御存知と思われる。化城喩品の「在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」の経文は、よもや虚事とは思われない。

 

語釈

種種の難

四度の大難をはじめとする数々の難。四度の大」難とは日蓮大聖人の妙法弘通のなかで起こった身命に及ぶ4度の大難のこと。①文応元年(1260)「立正安国論」提出直後の松葉ケ谷の法難、②翌・弘長元年(1261)の伊豆流罪、③文永元年(1264)の小松原の法難、④文永8年(1271)の竜の口の法難・佐渡流罪。このうち②④が「二度の王難」である。

 

衆山の中に須弥山為第一・ 此の法華経も亦復是くの如し

法華経薬王菩薩本事品第23の文。「衆山の中に、須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し」とある。

 

火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず

法華経薬王菩薩本事品第23の文。

 

在在諸仏土常与師倶生

法華経化城喩品第7の文。「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」と読む。

 

講義

一切衆生に生死一大事の血脈を継がせようとされたがゆえに難にあわれたことを述べられ、厳しい状況のなかで門下となった最蓮房の因縁を述べられて激励されている。

日蓮大聖人は、一切衆生に「仏に成る血脈を継がしめん」として、弘教に立ち上がられたのであった。

しかるに、当時の日本国の人々は「還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す」と述べられるように、理不尽にも大聖人を迫害、そのため大聖人は「種種の難」すなわち「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(0200:17、開目抄)という死罪・流罪を含む、身命に及ぶ大難にあわれたのである。「此の島」とは佐渡のことである。

そのようななかで、最蓮房はすすんで大聖人に随順し、それゆえに難も受けたが、信心は微塵たりとも揺るがなかった。

「又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ」の一節に、大聖人の弟子に対する深い思いやりがしのばれる。

大難大苦を受けられている御自分のことよりも、ともに難を受けている最蓮房の胸中を思いやられ、痛ましいかぎりであると、深い慈愛の御心に包んで温かく励まされているのである。

そして「金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か」と、大難にも屈せず信心を貫く最蓮房の姿勢をほめたたえられている。

鋼鉄は火で焼かれても酸化せず、水中に沈められても朽ちない。それに対して銑鉄は、火に弱く、水に浸ければ錆びてしまう。ついにはボロボロに崩れてしまう。

難にあっても信念を曲げず失わないのが賢人であり、ゆえに賢人は金のようなものであると仰せられている。それに対し、難にあうと信念を失ってしまう愚人を鉄にたとえられているのである。

そして、何ものにも破られることのない最高の法である「法華経」をたもった最蓮房は人生のいかなる苦にも破られないので「貴辺豈真金に非ずや」と称賛されているのである。

「経に云く」「又云く」とは、いずれも法華経薬王品第二十三の文である。

同品に「土山、黒山、小鉄囲山、大鉄囲山、及び十宝山の衆山の中に、須弥山為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復是の如し、諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」とある。

法華経が諸経のなかで最高であることをたとえて、薬王品には十喩が説かれているが、この文はその第二番目に示されている山喩で、法華経を須弥山に、諸経を諸山にたとえて、須弥山があらゆる山に勝れるように、法華経の即身成仏の法門が最も勝れていることをたたえたものである。

また同品には「是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂すこと能わじ」とある。

法華経を受持し、弘通する人の得る功徳は無量無辺であり、煩悩の火に焼かれることもなく、生死の水に流されてしまうこともない不壊の境界を得るとの意である。

南無妙法蓮華経を受持した人の境涯、その生命は、いかなる煩悩も、苦難も破壊することができないのであり、ゆえに妙法を信受して信行を貫く人は、最高の賢人であり、真金の人であるといえるのである。

 

過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ

 

大聖人が佐渡流罪という大法難にあっておられるさなかに最蓮房が弟子になったということは、過去の宿縁による不思議な巡りあわせ以外にないと仰せられ、それは「釈迦多宝こそ御存知」すなわち仏しか分からないことであるといわれている。

「在在諸仏土常与師倶生」は法華経化城喩品第七の文である。「在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」と読む。

大通智勝仏の十六人の王子のそれぞれによって化導された衆生は、あらゆる十方の仏土に、常にそれぞれの師である十六王子とともに出生するという意である。

末法今時では、師とはいうまでもなく御本仏日蓮大聖人であられる。したがって、弟子は必ず師のもとに生まれ、仏法を行ずるということから、最蓮房との不思議な巡りあわせは、まさしく経意そのままであり、ゆえに「よも虚事候はじ」と述べられているのである。

大聖人滅後においては、本門戒壇の大御本尊が大聖人の御生命であるゆえに、三世にわたって大御本尊を信受しきっていくことが、「在在諸仏土常与師倶生」の姿なのである。

 

 

 

第七章 信心の血脈なくば法華経も無益

 本文

  相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。

       文永九年壬申二月十一日               桑門 日蓮花押

     最蓮房上人御返事

 

現代語訳

心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈をこのことのほかに求めてはならない。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ法華経を持っても無益である。詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。

文永九年壬申二月十一日       桑門  日蓮 花押

最蓮房上人御返事

 

語釈

臨終正念

臨終に当たり、正しい念慮(思い・考え)をもつこと。仏道を歩み続け成仏を確信し、大満足の心で臨終を迎えること。日蓮大聖人は南条時光に「故親父は武士なりしかども・あながちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき」(1508:15、上野殿御返事)と仰せである。

 

煩悩即菩提

煩悩に覆われている凡夫であっても、妙法を信じ実践することで、その生命に仏の覚りの智慧(菩提)が発揮できること。生死即涅槃とともに、即身成仏を別の角度から示したもの。

 

生死即涅槃

生死の苦しみを味わっているその身に涅槃(覚りの平安な境地)が開かれること。「生死」は煩悩・迷いによって苦悩する境涯であり、九界の衆生の境涯である。「涅槃」は仏の覚りの平安な境地である。法華経では九界の衆生に仏知見がそなわっていることを説いて十界互具を明かし、法華経を信じ実践することで、その仏知見をこの身に開き現し、この一生でただちに成仏できることを説く。即身成仏と同義で、得られる果報の境涯の観点から述べた言葉。因の観点から述べたのが、煩悩即菩提である。

 

講義

生死一大事血脈といっても、強盛な大信力を奮い起こして、南無妙法蓮華経と唱えること以外にないことを重ねて強調して、本抄を結ばれている。

 

南無妙法蓮華経・臨終正念

 

臨終とは、死に臨むこと、死に際。正念とは、正しい念慮のことである。臨終正念とは、臨終に臨んでも、心を乱さず、正法を信じて疑わないことをいう。

すなわち、臨終に際して、信心の一念揺るぎなく、妙法を信受できたことを無上の喜びとし、我が人生に悔いなしという満足しきった心境で、一生を終わる姿である。

臨終は、この一生の総決算であり、未来世の第一歩ともなる。だれびとも避けることができない最も重要で厳粛な瞬間であるといえよう。この生死という人生の最大課題を直視し、生死を貫く生命の因果の法則を解明したのが、真実の仏法である。

ゆえに、仏道修行は、とりわけ〝死〟という問題を解決するためのものであるともいえる。したがって「臨終正念」こそ、個人における仏道修行の究極の願いでもあるといえる。

人々は過去・現在・未来という時間の流れのなかで、瞬間瞬間を生き続けている。過去といい、未来といっても、確かな現実は、現在の〝生〟の姿にしかない。

その意味では「臨終正念」といっても、それは、やがて訪れる臨終の瞬間のみをさすのではなく、現在の瞬間瞬間の生命の連続のなかにこそ「臨終」はあるともいえよう。

したがって「臨終正念」とは、現在の瞬間における〝生〟を、最も充実した完全燃焼の〝生〟として、未来に向けていく精神の姿を意味する。

末法今時において「臨終正念」を得る道は、三大秘法総在の御本尊を信じて唱題の行に励む以外にない。

ゆえに「南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」と、透徹した信心を確立して真剣に祈念していくよう、最蓮房を励まされているのである。

そして「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」と戒められている。この人生のなかで透徹した信心に立ったとき、凡夫の我が身がそのままで妙法蓮華経の当体とあらわれるところから「煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」と御教示されているのである。

「煩悩即菩提」とは、人生におけるさまざまな煩悩が、妙法の力で菩提へと開いていくことをいう。

煩悩とは貪・瞋・癡などから起こる迷いをいい、菩提とは悟りの智慧をいう。

「生死即涅槃」とは、生死がそのまま涅槃となることをいう。生死は迷いの境界であり、涅槃は悟りの境地である。

この苦しみに満ちた生死の流転が、永遠の生命観に立った不動の境地に転ずることをいうのである。

 

信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり                      

 

日女御前御返事には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(中略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(1244:09)と仰せである。御本尊も信心の二字におさまり、無二に信ずるなかにこそ、御本尊の仏力・法力は顕現されるという御指南である。

「信心の血脈」とは、日蓮大聖人の正法への正しい信仰でなくては、いかに法華経を持っているといっても無益であり、成仏の道に入ることはできないということである。

 

信心の血脈

 

「信心の血脈」に関して、日有上人は化儀抄で

「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮花経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず」と教えられている。

日亨上人は、この化儀抄について註解を加えられた「有師化儀抄註解」のなかで

「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし(中略)仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり、悲しむべき事どもなり」と述べられている。

したがって信心の血脈は、御本尊を唯一無二に信ずる衆生の信心の一念にこそ流れるのであり、広宣流布をめざし不惜身命の実践を貫く信心を外れては成仏の道はありえないことを心し、自戒していきたい。

 

桑門 日蓮について

 

末尾に「桑門 日蓮」としたためられているが、桑門とは、沙門・沙弥のことで、静志・貧道・勤息などと訳す。善法を修して悪法を破す意で、出家して仏道を修行する人のことをいう。

大聖人は文永10年(12734月御述作の観心本尊抄には「本朝沙門日蓮撰」とされ、同年五月の顕仏未来記では本抄と同じく「桑門日蓮之を記す」としたためられている。

したがって「桑門」とは「扶桑沙門」の意味で、「本朝沙門」と同意で用いられたと拝される。

「本朝沙門」「扶桑沙門」とは「天台沙門」に対する言葉であり、大聖人の強い確信が込められている。

「本朝」も「扶桑」も、日本国のことであり、この日本国は末法万年の一切衆生を救済される御本仏出現の地であることを示されたと拝される。

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