下山御消息(第四段第二)

下山御消息 第四段第二(像法の法華経は末法弘通の序分)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

 像法一千年の内に入りぬれば、月氏の仏法漸く漢土・日本に渡り来る。世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化・他方の大菩薩に、法華経の半分、迹門十四品を譲り給う。これはまた、地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給いて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり。いわゆる迹門弘通の衆は、南岳・天台・妙楽・伝教等これなり。

 

現代語訳

像法の一千年に入ると、インドの仏法は次第に中国・日本へと伝えられてきました。釈尊は明らかに薬王菩薩等の迹化、及び他方の大菩薩に法華経の半分、迹門の十四品を授けられました。これはまた地涌の大菩薩が末法の初めに出現されて本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせるためのその序にあたります。いわゆる迹門弘通の人とは南岳・天台・妙楽・伝教等の人たちです。

講義

法華経の半分・迹門十四品を譲り給う

像法の前半500年の時代で特質すべきことは、仏教が後漢の明帝の時、中国へ渡来したことです。これをきっかけとして、仏典の翻訳・解釈などが盛んに行われるようになりました。とりわけ経典の翻訳は鳩摩羅什に至って頂点に達し、妙法蓮華経をはじめとして膨大な経典・論釈が漢訳されました。そしてこの時代の終わりごろ、天台大師が出現し、南岳大師に師事して法華の深義を悟り、理の一念三千を打ち立てました。

その後、像法の後半500年には、唐代に入り、法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗が中国全土に広まり、多くの寺塔が建立されました。日本の仏教が公式に伝来したのはこの時代の初め、欽明天皇の代です。日本においては、聖徳太子の時代より本格的に仏教が信奉されるようになり、飛鳥寺・国分尼寺・東大寺など次々に寺院が建立されました。

そして、鑑真の小乗戒壇建立を経て、伝教大師によって比叡山に円頓の戒壇が建立されるに至りましたが、「此の伝教の御時は像法の末大集経の多造塔寺堅固の時なり、」(御書全集264頁12行目、撰時抄)と述べられているように、伝教大師の時代は像法の末であり、釈尊の仏法がまだ力を失っていない時でした。しかし、次の末法の時代に入ると、白法が隠没し、新たな大白法興隆の時を迎えるのです。

法華経勘持品第十三に「唯願わくは慮いしたもう為からず、仏の滅度の後の、恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし」従地涌出品第十五に「我等仏の滅後に於いて、この娑婆世界に在って、勤加精進して、是の経典を護持し、読誦し、書写し、供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於いて、広く之を説きたてまつるべし。…止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」とあるように、勧持品では迹化の菩薩が、湧出品では他方から来た菩薩が娑婆世界における滅後弘経を請いましたが、釈尊はこれを許しませんでした。そして、上行等の四菩薩を上首とする本眷属六万恒河沙の菩薩を大地より召し出したことが説かれています。

釈尊は何故に迹化や他方の大菩薩に滅後の弘経を許さなかったのでありましょうか。大聖人はこれについて天台大師・妙楽大師の釈を引かれたうえで、「経釈の心は迦葉・舎利弗等の一切の声聞・文殊・薬王・観音・弥勒等の迹化・他方の諸大士は末世の弘経に堪えずと云うなり」(御書全集1033頁5行目、曾谷入道殿許御書)と仰せられています。一見すると、釈尊が滅後の弘経を制止したのは他方の菩薩のみに対してのようですが、法華経の流れを辿ってみれば、迹化の菩薩も含めて制止したことは明らかです。

日寛上人は観心本尊抄文段で、本化・迹化・他方の三種の菩薩の立て分けに二義があるとされている。

一つは、菩薩の所住の処に約した場合であり、本化の菩薩は下方空中に住するから「下方」といい、他方の菩薩は娑婆世界以外の国土に住するから「他方」と呼ぶのです。この他方の菩薩に対して文殊等の迹化の菩薩を「旧住の菩薩」と名づけています。

もう一つは、仏の本迹の教化に約した場合であり、下方の菩薩は仏の本地の教化による菩薩であるから「本化」と名づけ、文殊等の菩薩は迹仏の教化による菩薩であるから「迹化」といいます。これに対し、仏の本地の教化でもなければ迹中の教化でもなく、釈尊以外の他仏の弟子である菩薩を「他方」というのです。

ところが、大聖人は観心本尊抄で「文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子・観音は西方無量寿仏の弟子・薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子・普賢菩薩は宝威仏の弟子なり一往釈尊の行化を扶けん為に娑婆世界に来入す又爾前迹門の菩薩なり本法所持の人に非れば末法の弘法に足らざる者か」(御書全集251頁14行目、如来滅後五五百歳始観心本尊抄)と、文殊等の迹化の菩薩が他方他仏の弟子であり、暫くの間、娑婆世界に来至した菩薩であることを明かされています。

これは、釈尊の久遠の本地が明かされたうえから見れば、他仏も迹仏となるからであると拝されます。なお、釈尊が迹化・他方の菩薩をとどめて本化の菩薩を召し出した所以については、六巻抄、本尊抄文段等でくわしく論じられています。

釈尊は法華経如来神力品第二十一では本化地涌の菩薩にのみ付嘱しましたが、法華経嘱累品第二十二では本化のみでなく迹化・他方も含めて付嘱しました。この故に神力品における付嘱を別付嘱、あるいは本化付嘱というのに対し、嘱累品における付嘱を総付嘱、あるいは迹化付嘱と称しています。神力品の別付嘱とは、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩の末法における三大秘法の弘通を付嘱したことをいうのに対して、嘱累品の総付嘱は、これら上行等の末法弘通も含めて、迹化・他方の菩薩による正像弘通を付嘱したことを指しています。

したがって、この嘱累の付嘱は「法華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり」(御書全集1033頁18行目、曾谷入道殿許御書)と仰せられているように、法華経一経にとどまらず、その前後一代の諸経にも通ずるのであり、法華経の半分・迹門のみを付嘱されたわけではありません。ではなに故に大聖人は本抄で「法華経の半分・迹門十四品を譲り給う」と仰せられたのでありましょうか。

それは、薬王菩薩の再誕が天台大師であるとされるところから、特に天台大師の弘通に焦点を当てて仰せられているためであると拝されます。そして、これら正法時代の正師による法華経弘通は、地涌の菩薩が末法の初めに出現して「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」を弘通するための序分であると仰せられているのです。

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