下山御消息 第八段第五(真言を重んじた明雲の非業の死)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
例せば、外典に云わく「大国には諍臣七人、中国には五人、小国には三人諍論すれば、たとい政道に謬誤出来すれども国破れず乃至家に諫むる子あれば、不義におちず」と申すがごとし。仏家もまたかくのごとし。天台・真言の勝劣・浅深事きれざりしかば、少々の災難は出来せしかども、青天にも捨てられず黄地にも犯されず、一国の内のことにてありしほどに、人王七十七代後白河の法皇の御宇に当たって、天台座主・明雲、伝教大師の止観院の法華経の三部を捨てて、慈覚大師の総持院の大日経の三部に付き給う。天台山は名ばかりにて、真言の山になり、法華経の所領は大日経の地となる。天台と真言と、座主と大衆と、敵対あるべき序なり。国また王と臣と諍論して、王は臣に随うべき序なり。一国乱れて他国に破らるべき序なり。しかれば、明雲は義仲に殺されて、院も清盛にしたがいられ給う。
現代語訳
それは例えば外典に「大国に諌奏する臣が七人、中国には五人、小国には三人いて、絶えず王君への諌言を行うならば、たとえ政道に誤りが起きても国が破れることはなく…また一家の中に意見する子がいれば、その父が不義に陥ることはない」と述べられている通りです。
仏教においてもまた同じです。
天台と真言の勝劣・浅深について論議が続いて途切れることがなかったので、少々の災難は起きたけれども青天に捨てられることもなく大地に犯されることもなく、災いも一国の内に限られてきたのですが、人王七十七代の後白河法皇の時代になって、天台座主の明雲が伝教大師建立の止観院に納められた法華経・金光明経・人王経の三部を捨てて、慈覚大師が総持院に安置した大日経等の真言三部経についてしまいました。このため比叡山はに天台法華とは名ばかりでその実は真言の山とばり、法華経の所領は大日経の領地となってしまいました。
これは天台と真言、座主と大衆との敵対が始まる前兆であり、国においても、王とその臣下とが争い、王がその臣下に従うようになる時代の前兆であり、一国が乱れて他国に破られる前兆でもありました。それ故、明雲は義仲に殺され、院もその臣下たる清盛に従えられてしまったのです。
講義
慈覚・智証による仏法上の下剋上を反映して、王法にも下剋上の風潮が生じて乱れましたが、その後は、天台宗の中にも両者の勝劣を弁える一部の学者が出現したこともあって、辛うじて日本国は亡国を免れていたのです。大聖人は、そのことを裏付ける原理として外典を引かれています。
これは、孔子が門弟の曾子に説いた内容を曾子の門人が記録したといわれる孝経の文の要旨です。孝経の諌爭章第15には次のようにあります。
「昔は、天子に爭臣七人有れば、無道と雖も、天下を失わず、諸侯に爭臣五人有れば、無道と雖も、その国を失わず、大夫に爭臣三人有れば、無道と雖も、其の父を失わず。土に爭友有れば、則ち身は令名を離れず。父に爭子有れば、則ち身は不義に陥らず」
ここに「爭臣」「爭友」「爭子」とは主君や友人、父親を強く諌める家臣や友や子のことをいい、無道とは道理に外れた行いを意味しています。大聖人は、孝経のこの教えを仏法にも通ずる道理として用いられています。天台・真言の勝劣について慈覚・智証の二人が誤りを犯したものの、その後の叡山の学僧の中に法華経を根本とした人々がいたことによって、少々の災難はあっても、比較的小さい災難で済んできたと指摘されています。
ところが叡山55・57代座主の明雲は、伝教大師が鎮護国家のために止観院に安置した法華経・蘇悉地経・金剛頂経を捨てて、慈覚大師が総持院に安置した大日経等の真言三部経を根本としました。そのため叡山はもっぱら真言の山と化し、明雲自身、木曾義仲によって斬殺されるという非業の死を遂げ、王法においても、後白河法王が平氏一門によって屈服させられるに至りました。これは真言亡国の現証であると指摘されているのです。「慈覚大師事」には次のように仰せられています。
「此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧・大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり。粗此れを勘えたるに明雲より一向に真言の座主となりて後・今三十余代一百余年が間・一向真言の座主にて法華経の所領を奪えるなり」(御書全集1020頁1行目)と。
大聖人は、このように明雲が法華経を捨てて真言の大日経を根本としたことは、天台宗と真言宗、また座主と大衆とが敵対しあう先兆となったと指摘されています。これは天台宗が真言宗によって屈服させられ、また座主と大衆との関係も、座主の権威が失墜して大衆が横暴を振るうようになったことを仰せられたものと拝されます。そして、仏法上におけるこのような本末転倒が反映して、国においても臣下が王に背き、しかも王が臣下に随わなければならなくなるといった下剋上が起き、また一国が乱れて他国に破られることになっていくのです。後白河法皇が平清盛に随えさせたのは、その現証です。
なお明雲座主の最期については諸説があり、平家物語巻第八では、後白河法皇と決裂した義仲が寿永2年(西暦1183年)11月19日、法皇御所の法性殿を焼き討ちした際に、三井寺の長吏・円慧法親王と共に御所に立て籠っていた明雲は、黒煙が迫ってきたので馬に乗って急いで川原へ逃げ出そうとしましたが、馬から射落とされ、頭を取られたとあります。また、九条兼実の日記玉葉巻39の寿永2年11月22日の条には「伝ヘ聞ク、座主明雲合戦ノ日、其ノ場ニ於テ殺害サレ了ンヌ」と記されています。更に本朝高僧伝巻第52には次のようにあります。
「寿永二年、左典廏源義仲、兵を以て上皇の行在法住寺を襲う。法親王円慧、および雲、共に流矢に中って殞す。十一月十九日なり」と。
合戦の最中の出来事のため、種々の伝聞が生じたものと思われますが、いずれにしても、法住寺の合戦において義仲の軍に攻められて非業の死を遂げたことは疑いがありません。