本抄は御書全集に収められている部分は大石寺に御真筆が存しているが、その後京都・住本寺にある御真筆の断簡が本抄と一書とされるべきであることが分かった。昭和新定日蓮大聖人御書にその部分が収められているので、最初に掲げておく。
「たからとす。山の中には塩をたからとす。魚は水ををやとし鳥は木を家とす。人□食を宝とす、かる」。
この後に本抄の「かゆへに……」と続くのであるから、接続する部分は「かるがゆへに……」となる。
この部分が加わってもまだ前後の欠失は変わらず、したがって御執筆の背景も、与えられた人も不明である。御執筆の年については弘安元年(1278)といわれている。
内容については、冒頭の昭和新定の御文の部分ではさまざまな所、生物にとっての宝について触れられ、次いで人にとっては食が宝であると仰せられて御書全集の部分に入っていく。文中、□とあるのは御文字が判読不可能な個所である。ただこの場合は、前後の文脈から考えて「は」が入り「人は食を宝とす」となるのであろう。
「山の中には塩をたからとす」との仰せから考えると、たぶん、塩その他の御供養があり、それが大聖人のおられる身延の地では宝のように貴重であると仰せられているのではなかろうか。
御書全集の部分に入って、最初に王は民衆を親とし、民衆は食を天とすると仰せられている。ここに「大国の王」となっているところは昭和新定では「大荘厳王」と判読されている。いずれにしても王は民衆あってこそ国をたもつことができるのであり、民衆を親に対するように大切にすべきである。大聖人は上野殿御返事にも同様の内容を仰せになっている。
「海辺には木を財とし山中には塩を財とす、旱魃には水を財とし闇中には灯を財とし・女人は夫を財とし夫は女人を命とし・王は民を親とし民は食を天とす」(1554:03)。
王が民衆を親のように大事にした例として上野殿御返事では大国の王であった金色王の故事を挙げておられる。金色王は国が飢饉に陥った時、食糧庫をすべて解放したばかりか食を請うた人に対し自分の食べる分までも与えたのである。
また民衆は、食物を天のように大事にするものである。この二つをあわせて考えれば、民は食を天とし王はその民を親ともするわけであるから、国家、社会の存在は一にかかって食にあるということになる。したがって食こそ最第一の宝であり、その食を供養することは、まことに功徳が大きいのである。
大聖人は次に、この食に三つの徳があると述べておられる。ここに本抄の題号が由来している。その食の三つの徳とは、一に「命をつぎ」であり、二には「いろをまし」で、三には「力をそう」ことであると仰せである。
「命をつぎ」とは、生命を維持させることである。衣・食・住は生命を存続させるうえで必要欠くべからざるものであるが、そのなかでも食糧はまさに命を継ぐ働きをもっているのであり、最も不可欠のものである。
次に「いろをまし」と仰せになっている。これは次の「力をそう」との関連から考えると、顔や体の色艶を増すことをいわれているのであろう。
輪陀王の故事で輪陀王が白鳥・白馬の出現によって色が増して力が出てきたと説かれているように、色艶はその人の生命が旺盛であるかどうかのバロメーターなのである。
第三の「力をそう」は、したがって色艶の外面の姿に対して、内面からの力、体力をいうのであろう。この「力」が外に「いろ」となって顕れるのである。
この三つは別のようであるが、生命を維持・発展させる働きを、三つの角度からこのように仰せられたと考えられる。
このように大切なのが食であるから、食を人に与える人は大きな福徳を積むことはいうまでもない。一般的にいっても、人に物を施せば決局は自分のためにもなるのは道理である。
大聖人はその例として、人のために火を灯せば自分の前も明らかになると仰せになっている。人のために尽くせばそれがやがて自分のもとに戻ってくる。逆に人に非道をなせば、いつかはそれと同じことを自らが受けなければならないというのが仏法の因果の理である。
そして、自分の福徳をまた人に回し、自他ともの成道を願っていくとき、この娑婆世界を寂光土にしていくことができるのである。
しかし、このように重要な食の供養であっても、だれに供養してもよいというのではない。むしろ重要であるからこそ、だれに供養するかが大切なのである。大聖人は悪人を養えばかえって罪をつくることになると仰せになっている。悪人を養うと、悪人が命を永らえ、色艶を増し、力を出すことになる。食の三徳をもって悪人を助けることになるのである。
悪人が命を継ぐことによって悪の生気がながくなる。また色艶を増すゆえに目に悪の光が出る。力を増すゆえに足が速く手が利くようになる。
悪の命自体は「気」としてとらえられるのである。また悪の色艶、すなわち外面は、険のある目の光として現れる。悪の力は手や足の能力に現れると仰せである。
この悪の増長を助けたことはそのまま自分にはねかえってくる。すなわち悪の力は善なる力を阻害し、人の幸せを破壊するものであるから、悪人の生命を強くしたことによって、自分自身の生命が逆に衰え、生気も失せ、力もなくなるのである。
悪人を養うことが悪い結果を生むことは今さらいうほどのことではないように思われるかもしれない。しかし、じつは宗教、信仰の世界においては、極めて広く行われているのである。それは一般世間における善と悪の識別がいくらか容易であるのに対して、宗教における善と悪の違いを見極めることは容易ではなく、善を悪と見、悪を善と見誤ってしまいがちだからである。
般泥洹経に「一闡提に似たる阿羅漢」と「阿羅漢に似たる一闡提」が説かれているが、衆生はともすると外見があたかも阿羅漢に見える一闡提を供養し、逆に社会的地位もなく権力と結ばないところから一闡提に見える阿羅漢に、迫害を加えてしまうのである。仏法を敬っているように思いながら、じつは悪人を養い、その報いとして自らも生命を衰えさせてしまっているのである。それが大聖人御在世の日本の状態であったがゆえに、このことを指摘されているのである。
次に一転して一切経の文字に言及されている。この仰せは前の部分との脈絡が判然としないが、一切経の文字は仏の気であるというところが一貫しているところである。すなわち、経典の文字というのは釈尊の生気であり、この生気には二種類あって一つは九界であると仰せになっているところで途切れている。その後の部分は推察するしかないが、おそらく九界の生気と仏界の生気の二種類があり、爾前経は九界、法華経の文字が仏界であると仰せなのであろう。したがって、法華経への御供養は仏の生気を増すことになるのであり、まさしく法華経の行者である大聖人に食を御供養することは最高の功徳となることは疑いないのである。本抄をいただいた人は、この大聖人の仰せに感動し、御供養によって大聖人をお助け申し上げる使命の尊さに誇りをもったことであろう。