兵衛志殿御返事(深山厳冬の事)第二章(身延の厳冬の様子を述ぶ)

兵衛志殿御返事(深山厳冬の事)第二章(身延の厳冬の様子を述ぶ)

 弘安元年(ʼ78)11月29日 57歳 池上宗長

—————————————–(第一章から続く)—————————————–

其の上今年は子細候、ふゆと申すふゆ・いづれのふゆか・さむからざる、なつと申すなつ・いづれのなつか・あつからざる、ただし今年は余国はいかんが候らんこのはきゐは法にすぎて・かんじ候、ふるきをきなどもにとひ候へば八十・九十・一百になる者の物語り候は・すべて・いにしへ・これほどさむき事候はず、此のあんじちより四方の山の外・十町・二十町・人かよう事候はねば・しり候はず、きんぺん一丁二丁のほどは・ゆき一丈二丈五尺等なり、このうるう十月卅日ゆきすこしふりて候しが・やがてきへ候ぬ、この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに両三日へだてて・すこし雨ふりてゆきかたくなる事金剛のごとし・いまにきゆる事なし、ひるも・よるも・さむくつめたく候事法にすぎて候、さけはこをりて石のごとし、あぶらは金ににたり、なべかまは小し水あればこおりてわれ・かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして・さしいづるものも・なし。
  坊ははんさくにてかぜゆきたまらず・しきものはなし、木は・さしいづるものも・なければ・火もたかず、ふるきあかづきなんどして候こそで一なんど・きたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし、俗のひげをみればやうらくをかけたり、僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候、かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日より・はらのけの候しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖・わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ・まして・わたうすく・ただぬのものばかりのもの・をもひやらせ給へ、此の二のこそでなくば今年はこごへしに候なん。
 

————————————–(第三章に続く)———————————————-

現代語訳

そのうえ、今年はいつもの年と異なる事情があります。冬はいつの冬も寒く、夏はいつの夏も暑いのは決まっています。しかし、今年は、他国はどうか知りませんが、この身延の波木井(はきり)の地方は異常なほど寒いのです。この地に古くから住んでいる老人たちに聞いてみますと、8090100歳になる人たちも、みんなこれほど寒いことは、かつてなかったといっております。

この身延の庵室から四方の山の外、10町、20町先は人も通うことはないから知りませんが、近辺一町くらいは、雪が一丈から二丈、少ないところでも五尺も積もっています。

去る閏1030日に雪が少し降りましたが、すぐに消えてしまいました。今月に入って11日の辰の時から14日まで大雪が降りましたが、それから23日して少し雨が降って、雪が凍って金剛石のように堅くなり、今もって消えません。昼も夜も寒く冷たいことはなみはずれています。酒は凍って石のようです。油は凍って金のようです。鍋・釜に少し水が入っていると、それが凍って割れてしまいます。寒さはますます激しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません。

庵室はまだ半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともできず、敷き物もありません。木をとりに表に出る者もいないから、火も焚きません。古い垢のついた小袖一枚くらい着た者は、その肌の色が、厳寒のために紅蓮・大紅蓮のようです。

その声は阿波波地獄、阿婆婆地獄から発する異様な声そのままです。手や足は凍えて切れ裂け、人が死ぬことが絶えません。在家の人の鬚を見ると凍って瓔珞をかけたようであり、また、僧の鼻を見ますと鈴を貫きかけたようになっております。

このように不思議なことはかつてなかったことです。そのうえさらに自分(大聖人)は去年の1230日から下痢をしていましたが、今年の春・夏になっても治らない。秋を過ぎて10月のころ、重くなり、その後、少し癒りましたが、ややもすればまたおきることがあります。そんなときに、あなた方兄弟お二人から送られた二つの小袖は、綿が40両も入っているのに、夏の帷子(かたびら)のように軽い。まして、いままでは綿の薄いただ布ばかりのような衣服でした。どれほどつらかったか推量してみて下さい。この二つの小袖がなかったならば、今年、自分(大聖人)は凍え死んだでありましょう。

語句の解説

たつの時

いまの午前7時~9時をさす。

 

はは大ばば地獄

八寒地獄のうち、阿波波地獄と阿婆婆地獄の両地獄をさす。地獄の罪人が、あまりの寒さに耐えかねて発する異様な声になぞらえて名づけた寒地獄のこと。

 

四十両

一両は約375㌘。40両は換算して約15キログラムである。

講義

身延山における大聖人のご生活が、いかに大変なものであったかを、この章から拝察することができる。

文永11年(1274517日、日興上人のご案内で身延に入られた大聖人は、まず庵室をつくられた。庵室といっても、わずかに三間四面の茅葺屋根の小屋であった。そのうえ、「坊ははんさくにてかぜゆきたまらず」とあるごとく、坊は、中途までで、まだ出来上がっていなかった。

当時、天変地夭が盛んに起こり、とくに建治年間から弘安の初期にかけては、気候が不順で、大雪、大雨にたびたび見舞われ、身延山中における大聖人のご生活は、言語に絶する厳しいものであった。

「ただなる時だにも・するがと・かいとのさかひは山たかく河ふかく・石おほくみちせばし、いわうや・たうじは・あめはしのをたてて三月におよび・かわはまさりて九十日、やまくづれ・みちふがり・人もかよはず・かつてもたえて・いのちかうにて候」(1548:18、種種物御消息

「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず」(1551:04

これらは本抄と同じ、弘安元年(1278)の7月ならびに9月にお認めの御書の一節である。この年は、正月から大雨が降り続き、さらに、本文にみられるように、11月に早くも寒波に見舞われ、大雪が降ったため、人里から身延山への隘路はたたれてしまい、訪れる人もなく、衣服の貯えとてない、山中でのご生活は極度の困窮に陥られたのである。衣食に事欠き、風雪の吹きつける住居――厳寒の冬を安穏に過ごせるはずはない。

「ふるきあかづきなんどして候こそで一なんど・きたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことかぎりなし」(1098:15)との一節は、当時の緊迫したご様子を映し出してあまりある。

しかも、大聖人は長年にわたる弘教で、健康であったお身体も、身延入山後は衰え、ご病気がちのご容子であった。

だが、このようななかで、大聖人は隠棲の身とはいえ、一刻として休むいとまもなく、各地に門下の弟子を配して折伏弘教の総指揮をとられ、弟子方の育成に励まれた。すなわち、上総方面には日向、下総には三位房、日頂、富木、曾谷、太田等、相模には日朗、日昭等、そして駿河、甲斐には日興上人を大将とする南条、高橋、松野等々の教陣をはられていたのである。

さらに、身延入山後の大聖人は、著述の面においても激しい戦いを展開されている。すなわち、入山直後の文永11年(12745月にはさっそく「法華取要抄」を認められて富木常忍に宛て送られたのをはじめ、今日に伝わる御書四百余通のうちの半数以上が身延の9か年にお書きになったものである。この大聖人の御述作のあとを辿るなら、そこには寸暇を惜しまれての振る舞いの跡をしのぶことができるのである。

とくに、日興上人を法将としての駿河・甲斐の弘教活動は、燎原の火のような勢いがあり、たまりかねた謗法の者は、これをとりおさえようと謀った。まず、四十九院・実相寺・滝泉寺から迫害の火の手があがり、いわゆる熱原の法難へと発展する。建治元年(1275)に始まる熱原の法難は、弘安4年(1281)までじつに7年の長きにわたって続いたのである。この熱原の法難にさいしても、大聖人は身延山中にあって、人を遣わし、手紙を送られる等、全魂を傾けての指揮をとられたのである。

さらに日蓮聖人年譜に「身延蟄居の後御弟子衆の請により法華経の御講釈あり、日興度々聞を集め部帙をなして御義口伝と名づく、亦日興記と号するなり」と、山中にあって、法華経を講義されたご様子が記されている。この講義はいつから始められたのかは明らかではないが、弘安元年(1278)正月には、日興上人が「御義口伝」として執筆されているところから、建治年間に講義をなされたと思われる。なお、弘安2年(12798月の曾谷殿御返事に「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(1065:06)とあるように、弘安年間にはいってからも、講義が続けられていたことは明らかである。

これらのことから、身延における大聖人のご生活は、令法久住のため夜を日につぐ止暇断眠の日々であったことが拝察されるのである。

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