下山御消息 第九段第三(立正安国論の提出)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
まず、大地震に付いて去ぬる正嘉元年に書を一巻注したりしを、故最明寺入道殿に奉る。御尋ねもなく、御用いもなかりしかば、「国主の御用いなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじ」とやおもいけん、念仏者ならびに檀那等、また、さるべき人々も同意したるとぞ聞こえし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、その夜の害もまぬかれぬ。しかれども、心を合わせたることなれば寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る。「日蓮が生きたる、不思議なり」とて、伊豆国へ流しぬ。
されば、人のあまりににくきには、我がほろぶべきとがをもかえりみざるか、御式目をも破らるるか。御起請文を見るに、梵釈・四天・天照太神・正八幡等を書きのせたてまつる。余、存外の法門を申さば、子細を弁えられずば、日本国の御帰依の僧等に召し合わせられて、それになお事ゆかずば、漢土・月氏までも尋ねらるべし。それに叶わずば、子細ありなんとて、しばらくまたるべし。子細も弁えぬ人々が、身のほろぶべきを指しおきて、大事の起請を破らるること、心えられず。
現代語訳
そこでまず、大地震を契機として去る正嘉元年より考えて著した書、一巻を故最明寺入道殿に奉ったのですが、これに対して御下問もなくお取り上げにもならなかったので、国主が用いられない法師であれば、これを害してもその罪科は問われまいと思ったのでありましょうか、念仏者並びにその檀那も、またしかるべき人々も同意したと聞いていますが、夜中、松葉ヶ谷の小庵に数千人が押し寄せ日蓮を殺害せんとしたのです。
だが、どうしたわけかその夜の害も逃れたのです。しかしながら、しかるべき人々との同意の上なことであったので、押し寄せた者もその罪科を問われることはありませんでした。これは大事な政道を破ることでした。
しかも、日蓮がまだ生きているのは怪しからぬことと思った幕府は、今度は伊豆の国に流しました。してみると人は、あまりにも憎いと、自らを滅ぼす罪さえ顧みないのか貞永式目をも破られるのか、その式目の起請文には大梵天王・帝釈天王・四天王・天照太神・八幡大菩薩等を書き載せ奉っているのです。
私の説く法門が彼らの理解を超えていてその子細を理解できないというのであれば、帰依しておられる国内の僧等らを召集して私と対決させ、それでも決着しなければ中国・インドにまで尋ねて是非を決するべきです。それでも叶わないならば、何かわけがあるのではないかとしばらく待たれるべきです。その子細も理解できない人々が、自らの身を滅ぼすような罪をさしおいて、大事な貞永式目を破られたことは何とも納得できないことです。
講義
大聖人は、正嘉元年の大地震をきっかけに災難の由来を考え、経文を裏付けとしてその原因が国主が正法に背き悪法に帰依したことにあることを明らかにした立正安国論を著され、文応元年(西暦1260年)7月16日、宿屋入道を介して、最明寺入道に提出されました。
時頼は康元元年(西暦1265年)11月、わずか30歳で出家して執権職を北条長時に譲って、自らは入道していたが、北条本家の総領として重要問題についての解決権は握っており、幕府における実質上の最高権力者ででした。大聖人が立正安国論を時頼に提出したのはその故です。
この上奏に対して、本抄にも「御尋ねもなく御用いもなかりしかば」と仰せられているように時頼は表面上、何の反応も示さなかったのです。「破良観等御書」に「上に奏すれども人の主となる人は・さすが戒力といゐ福田と申し子細あるべきかとをもひて左右なく失にも・なされざりしかば」(御書全集1294頁6行目)と記されています。
つまり、大聖人が立正安国論を上呈され、念仏を一凶と断じ、諸宗の謗法を厳しく訶責されたことに対し、憤った念仏者らは大聖人を処罰するよう幕府に求めましたが、時頼はさすがにそれらの讒奏によって動かされることなく、大聖人を軽率に処刑しようとはしなかったのです。このことから、最明寺入道は経文に基づいて理を尽くされた大聖人の讒言に少しは感ずる部分があったものと想像されます。
しかし、民衆の幸福と国の安泰を願われて、我が身を顧みず諌暁された大聖人の赤誠も、念仏者の檀那となっていた幕府の重臣たちには通じませんでした。しかし「悪呂への施をとどむべし」という大聖人の正義の刀が自らの方に向けられていることを知った念仏者等は、自らの既得権益が侵されることを恐れ、念仏を信仰している幕臣等と語らって、大聖人を亡き者にしようと計画したのです。
立正安国論を上奏して40日目、文応元年(西暦1260年)8月27日の夜半、松葉ヶ谷にあった大聖人の庵室は多数の暴徒によって襲撃されました。大聖人は本抄で、この暴徒の行動について「念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし」と仰せられていますが、「さるべき人人」とは幕府の実力者であり、念仏の強信者であった北条重時などであったろうと思われます。この松葉ヶ谷の法難については破良観等御書に「きりものども・よりあひてまちうど等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わんとせしほどに・十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば」(御書全集1294頁7行目)と述べられているように、権力者たちは一般庶民を扇動して、大聖人を襲撃させようとしたのです。
暴徒たちは草庵を押し倒すなどし、大聖人は下敷きになって亡くなられたものと思ったのでありましょう。しかし大聖人は無事に脱出され裏山を越えて、東京湾の側に出られたようです。
大聖人は、下総の富木常忍の邸で年を越され、翌弘長元年(西暦1261年)の春、鎌倉に戻られました。本抄にも「日蓮が末だ生きたる不思議なり」と仰せのように、幕府要人たちは、大聖人は死んだものと思っていたのが生きておられたので、理不尽にも大聖人を伊豆流罪に処したのです。
本来、松葉ヶ谷の暴徒による襲撃自体が御成敗式目第10条や第13条に触れることであるにもかかわらず、その暴徒や首謀者らには何のとがめもなく、それどころか何の罪もない大聖人を流罪に処したのです。妙法比丘尼御返事には「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、」(御書全集1413頁1行目)と述べられています。すなわち伊豆流罪は、正当な裁判によって決められたものではなく、当時の執権・北条長時が、父親の重時の意をくんで強行した私罪に等しいものでした。
これもまた、貞永式目に違反した行為にほかならなかったのです。こうした理不尽な処分について、大聖人は本抄で「されば人のあまりににくきには 我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか」と仰せられ、式目は起請文に「梵釈・四天・天照太神・正八幡等」の名を挙げて、それに誓う形で定められたものであることを指摘されています。式目の原文を引用しておきましょう。
「凡そ評定の間、理非に於いては親疎有る可からず、好悪有る可からず、只道理の推す所、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出す可きなり…この内若し一事と雖も、曲折を存じ違犯せしめば、梵天・帝釈・四大天王、惣じて日本国六十余宗大小の神祇、別して蒙る可きなり」
このようにして自ら定めた式目を破ることは自ら滅亡を招く行為にほかならないと厳しく指摘されています。
事実、松葉ヶ谷の法難や伊豆流罪といった大聖人迫害の張本人であった北条重時は、大聖人を伊豆流罪に処した翌月の弘長元年(西暦1261年)6月に、にわかに病に倒れ、同年11月、狂死しました。この事実は、他の要人たちに少なからぬ衝撃を与えたでありましょう。弘長3年(西暦1263年)2月、北条時頼自身の措置によって大聖人が流罪より赦免された背景には、そのことが影響していたのかもしれません。