下山御消息(第九段第二)

下山御消息 第九段第二(大謗法による天変地夭)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

詮ずるところは、実経の所領を奪い取って権経たる真言の知行となせし上、日本国の万民等、禅宗・念仏宗の悪法を用いし故に、天下第一、先代未聞の下剋上出来せり。しかるに、相州は、謗法の人ならぬ上、文武きわめ尽くせし人なれば、天許し国主となす。したがって、世しばらく静かなりき。しかれども、また、先に王法を失いし真言、漸く関東に落ち下る。存外に崇重せらるる故に、鎌倉また還って大謗法・一闡提の官僧・禅僧・念仏僧の檀那と成って、新寺を建立して旧寺を捨つる故に、天神は眼を瞋らしてこの国を睨め、地神は憤りを含んで身を震う。長星は一天に覆い、地震は四海を動かす。
余これらの災夭に驚いて、ほぼ内典五千・七千、外典三千等を引き見るに、先代にも希なる天変地夭なり。しかれども、儒者の家には記せざれば知ることなし。仏法は自迷なればこころえず。この災夭は、常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず、定めて仏法より事起こるかと勘えなしぬ。

現代語訳

結局のところ、実経たる法華経の所領を奪い取って権経たる真言宗の領地としたうえに、日本の万民等が禅宗・念仏宗の悪法を用いたために、天下第一の前代未聞の下剋上が起きたのです。しかるに相州守・北条義時は謗法の人ではなく、そのうえ文武を究め尽くした人であったので、しばらく世は平静を保ったのです。

それなのに、また、先に王法を失墜させた真言宗が次第に関東へと落ち下り、思いの外に崇重されたために、幕府は逆に大謗法・一闡提の真言僧・禅僧・念仏僧の檀那となって、新しい寺を建立し、旧寺を捨ててしまいました。そのゆえに天神は眼をいからしてこの国をにらみ、地神は憤りをこめて身を震わせました。すなわち彗星が空を覆い、地神は憤りをこめて身を震わせました。地震が四海を動かしたのです。

私はこれらの天変災夭に驚いて、内典五千七千・外典三千等をあらあら通覧して見るに、これらは先代にもまれな天変地夭です。しかしながら、儒者はそれについては記していないのでその原因を知ることはできません。また仏法者は経典に説かれていても迷妄のゆえに理解できないでいます。これらの天変災夭は通常の政道の狂いや世間の誤りから生じたものではなく、まぎれもなく仏法より生じたものであるという考えに至ったのです。

 

講義

ここで大聖人は、真実の教えである法華経の所領を奪い取って方便権教の真言の領地としたうえに、日本国の万民がその後に広まった禅宗・念仏宗の悪法に帰依したために、承久の乱で朝廷方は大敗を喫したのであると結論されています。

それに対し、鎌倉幕府の執権・北条義時は、後鳥羽上皇のように法華経を下す真言の邪法を用いなかったことから法華経誹謗の罪を免れ、そのうえ文武を究め尽くした人であったから、天も国主の地位を与え、しばらくは世も平穏でした。 しかしながら、その後、真言師も関東に進出して教勢を拡大し、密教修法は有力武士の間に次第に浸透していきました。例えば、北条時頼は先にも述べたように道隆を招いて建長寺を創建するなど禅宗に深く帰依していましたが、執権として数々の危機に直面したとき彼を支えたのは呪術的な密教修法であったといいます。大聖人御在世当時は、幕府有力者の肩入れで、これら真言・禅・念仏の寺院が鎌倉に建てられていたのです。それが天変地異が相次ぎ起こった所以です。

日蓮大聖人は建長5年(西暦1253年428日、御生誕の地・安房の国の清澄寺で立教開宗をされた後、弘教の戦いを政治の中心地である鎌倉に移されましたが、建長・康元・正嘉の間に旱魃・大風雨・地震等の数々の天変地夭が相次いで起こり、加えて疫病が流行し、多くの死者が出ました。当時の様子を吾妻鏡は次のように伝えています。

「建長六年

正月十日    西風烈しく、海浜より名越山王堂に至る大火によって人家数百宇を焼失

七月一日    暴風雨、人屋顚倒・稼穀存亡、二十年来かくのごとき大風無し

康元元年

六月七日    大雨洪水、殆んど例年を越え、寒気また以って時ならず

八月六日    大雨洪水、山は崩れ男女多く横死す

正嘉元年

五月一日    日触

五月十八日   大地震

八月二十三日  大地震、神社仏閣一宇として全きなし。山岳は崩れ、人屋倒壊、築地悉

く破損、地下より水涌出、又火炎燃え出す

十一月八日   八月の如き地震

十一月二十二日 若宮大路を焼失」

特に正嘉元年8月の大地震は前代未聞の規模であり、その被害は想像を絶するものがありました。この大地震を機として、大聖人は度重なる天変地夭の原因を明らかにするため、駿河国富士郡下方荘の岩本実相寺の経蔵に入られました。

この実相寺の経蔵に経・釈・論といった仏教の文献が揃っていたことは、文永5年(西暦1268年8月に日興上人のお認めの実相寺衆徒愁状に「一切経論を書写し奉り、経蔵を立て灌頂堂を作り、正しく南天の風を移す」とある一節からうかがい知ることができます。

この実相寺の経蔵で一切経を閲覧された後、正元2年(西暦1260年)に御述作の「災難対治抄」の冒頭に「国土に大地震・非時の大風・大飢饉・大疫病・大兵乱等の種種の災難の起る根源を知りて対治を加う可きの勘文」(御書全集78頁1行目)と記され、国王が正法を擁護せず、邪法を尊崇しているために諸天善神が国を捨て去り、この故に災難が起きることを、金光明経・大集経・仁王経等を引用して明らかにされています。その邪法とは、「守護国家論」に「未だ選択集謗法の根源を顕わさず故に還つて悪法の流布を増す、譬えば盛なる旱魃の時に小雨を降せば草木弥枯れ兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し。予此の事を歎く間・一巻の書を造つて選択集謗法の縁起を顕わし名づけて守護国家論と号す」(御書全集37頁2行目)と述べられているところから拝されるように、法然の選択集をよりどころとする念仏宗にほかなりませんでした。

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