上に書き挙ぐるより雲泥大事なる日本第一の大科、この国に出来して年久しくなるあいだ、この国既に梵釈・日月・四天大王等の諸天にも捨てられ、守護の諸大善神も還って大怨敵となり、法華経守護の梵帝等、隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し、仏前の誓状を遂げんとおぼしめすことあり。
夫れ、正像の古は、世濁世に入るといえども、始めなりしかば、国土さしも乱れず、聖賢も間々出現し、福徳の王臣も絶えざりしかば、政道も曲がることなし。万民も直しかりし故に、小科を対治せんがために、三皇・五帝・三王・三聖等出現して墳典を作って代を治す。世しばらく治まりたりしかども、漸々にすえになるままに、聖賢も出現せず、福徳の人もすくなければ、三災は多大にして七難先代に超過せしかば、外典及びがたし。その時、治を代えて内典を用いて世を治す。したがって、世しばらくはおさまる。されども、また世末になるままに、人の悪は日々に増長し政道は月々に衰減するかの故に、また三災七難先よりいよいよ増長して、小乗戒等の力験なかりしかば、その時治をかえて小乗の戒等を止めて大乗を用ゆ。大乗また叶わねば、法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立して代を治めたり。いわゆる、伝教大師、日本三所の小乗戒ならびに華厳・三論・法相の三大乗を破失せし、これなり。
現代語訳
これまで書き挙げてきたことよりもその重大さにおいて天地雲泥の差がある日本第一の大きな科が日本国に現れました。この大科が年久しくなったため、この国は既に梵釈・日月・四天王などの諸天善神にも捨てられ、守護の諸大善神もかえって日本国の大怨敵となりました。法華経守護の梵天・帝釈は隣国の聖人に命じて日本国に治罰を加えて仏前の誓いを果たそうとされているのです。
そもそも正法・像法時代の昔は、世の中が濁世の時代に入ったといっても初期であったので、国土もさほど乱れず、聖人・賢人も時折現れ、福徳ある王臣も途絶えなかったので政道も曲がることはありませんでした。万民もまた素直であった故に、小さな罪科を対治するために三皇・五帝・三王・三聖等が出現して墳典を著して世を治めました。こうして世の中がしばらく治まったのですが、次第に濁世の末になるにつれて、聖人・賢人も現れず福徳のある人も少なくなったために三災が多発・増大し、七難は先代にもまして現れ、外典の力ではどうすることもできなくなりました。
そこで治世の方針をかえて、内典を用いて世を治めたところ、世の中はしばらく治まったのです。けれども、また時代が進んで末期になるにつれ、人々の悪業は日に日に増長し、政道は月々に衰えていったために、三災・七難がこれまで以上に増長し、小乗戒の効力が失われてしまったので、今度は小乗戒等を止めて大乗教を用いて世を治めたのです。更に大乗教によって叶わなくなると、法華経の円頓の大戒壇を比叡山に建立して世を治めました。いわゆる伝教大師が日本の三か所の小乗戒壇及び華厳・三論・法相の三大乗戒を打ち破ったのがこれです。
講義
この段では、正法・像法・末法と時代が下るに従って人々の悪趣が増大し、聖人・賢人と呼ばれる精神面の指導者も、福徳ある社会的指導者も少なくなるために、政道に誤りが出来し、世の中も乱れてきます。そこで世を治めるために、より力ある法が立てられなければならなかったことを示されています。
この段では、まず初めに、「上に書挙るより雲泥大事なる日本第一の大科此の国に出来して」と仰せられています。「上に挙る」とは、これまで破折を加えられてきた極楽寺良観らの律宗の邪法・邪義のことです。そして、それと比べて天地雲泥の「日本第一の大科」であるとして、これから真言の邪法、特に日本天台宗を毒した密経化について論及されていくのです。
ここで大聖人は何故、日本天台宗の密教化を「日本第一の大科」とされたのであろりましょうか。これを考察するにあたり、大聖人が諸御書において真言破折に関連して「第一の」との形容詞を用いられているかいくつかの例をみておきたい。
「善無畏三蔵・震旦に来つて後・天台の止観を見て智発し大日経の心実相・我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時・理同事勝の釈をつくれり、 両界の漫荼羅の二乗作仏・十界互具は一定・大日経にありや第一の誑惑なり」(御書全集216頁1行目)
「一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば 無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかかれしかば法華経はいみじとをもへども弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず、 天竺の外道はさて置きぬ漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり、例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし、伝教大師・御存生ならば一言は出されべかりける事なり、又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん天下第一の大凶なり」(御書全集305頁10行目、報恩抄)
「真言宗と申す宗は本は下劣の経にて候いしを・誑惑して法華経にも勝るなんど申して多くの人人・大師僧正なんどになりて日本国に大体充満して上一人より頭をかたぶけたり、これが第一の邪事に候を昔より今にいたるまで知る人なし」(御書全集1509頁12行目、上野殿御返事)
これらの用例からも明らかなように、大聖人が真言の教義、特に理同事勝を唱えて法華経をおとしめた教義を最大の邪法・悪法として位置つけられていとことが拝されます。
このような根本の邪義である真言の教義を叡山が取り入れ、謗法の山と化してしまったことを日本仏教史上における最大の失として「日本第一の大科」と仰せられているのです。
撰時抄にも「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり、慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで 伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり、此の人真言宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が 真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり」(御書全集279頁12行目)と、叡山第三代座主慈覚が「大日経は理においては法華経と同じであるが事においては法華経に勝つれている」という理同事勝の邪義を「信じがたき最大の悪事」と仰せられています。
また「法門申さるべき様の事」においては「師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり、仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、此等は又外道のごとし、又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす」(御書全集1271頁6行目)と、叡山の謗法こそが仏法隠没の根源であり、それが諸天の怒りを招いて日本にとって未曾有の蒙古の襲来という国難を招来していると述べられています。
上の御文については更に詳しく考察してみたい。「師子身中の虫」とは、いうまでもなく仏法を内部から破壊する者を指します。師子は百獣の王で無敵とされるが、仏法もまた同様で外道によって破られることはありません。しかし師子王といえども、自身の身中の虫には食い破られるように、仏弟子と称するものによって内からやぶられるというのです。
大聖人は更に「仏道の内には小乗をもって大乗を失い権大乗をもって実大乗を失ううべし、此等は又外道のごとし」と仰せになり、同じく仏法の中に生じた師子身中の虫といっても、大乗仏法にとっての小乗教や、法華宗にとっての権教は、外道の場合と同様で、それによって破られるものではないと仰せです。したがって、良観らの律宗の邪法・邪義の如きもこの範疇に入ると考えられます。本抄で「小事」とされているのもその意味においてです。
それに対して「又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失範が大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし」と仰せのように、叡山の僧の中から伝教大師の打ち立てた法華経第一という根本義を破壊する者こそ、師子身中の虫にほかなりません。
しかも、伝教大師によって叡山に円頓の戒壇が建立されて以来、叡山は日本仏教界に対して決定的なイニシアチブを持っていました。故に、この叡山が密教化によって謗法化したことにより、日本仏教界全体こぞって大謗法と化すことになったのです。このような「日本第一の大科」があって、その後の日本において禅宗・念仏宗などの邪法が並び起こるに至ったのです。
「夫れ正像の古へは」と仰せられている一節は、中国に仏教が渡来する以前のことと拝されます。大聖人は、中国に初めて仏教が伝わったのは、後漢の欽明皇帝の治世・永平7年(西暦64年)とされています。これは、像法時代に入ってから15年目にあたっています。正法時代から像法時代の初期にかけてのこの時代においては、人々の機根も優れていたうえ、聖人・賢人と呼ばれる人が出現し,福徳を備えた王臣も絶えることがなかったことから、儒教などの外道によって世を治めることができました。しかし、時代が像法・末法へと進むにつれて、民衆の機根も変わり、それに伴って世を指導すべき教法も次第に深いものが必要とされてきたと示されています。
ここには、時代・社会と仏法との関係についての基本的な考え方が要約して示されていると拝されます。つまり、第一に時代が下るにつれて民衆の機根が低下するということであり、第二に民衆の機根が低くなればより深い教法でなければ世を治めることができないということです。
第一の点についていえば、正法・像法・末法の三時の考え方自体、それを前提にしているといえるでありましょう。大聖人は「減劫御書」に次のように仰せられています。
「減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり、漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもつて民の心をととのへてよをば治めしほどに・次第に人の心はよきことは・はかなく・わるき事は・かしこくなりしかば・外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし、外経をもつて世をさまらざりしゆへに・やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき、此れはひとへに仏教のかしこきによつて人民の心をくはしくあかせるなり」(御書全集1465頁1行目)
「減劫」とは、寿命が次第に増加していく時期を増劫と言うのに対して、寿命が次第に減少していく時期をいいます。人間の生命に内在する貧・瞋・癡の三毒の煩悩が強くなると、生命力が衰退し、寿命が縮まっていくのであるとの仰せです。このように時代が下がれば下るほど、三毒が強くなって、悪心がはびこり善心は次第に弱まって、時代・社会全体の生命力も枯渇してしまうのです。人間の智慧も次第に発達するものの、もっぱら悪事に発揮されるため、人間を深く洞察した教えでなくてはもはや世を治めることができなくなるのです。
そこで「諌暁八幡抄」に「此の時仏出現し給いて仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば 燈に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく天神等還つて威光をまし勢力を増長せし事成劫のごとし」(御書全集576頁8行目)と述べられているように、仏教が説き弘められることにより、燈に油、老人に杖の如く、衰えようとする生命力が蘇生したのです。しかし、仏の教法にも勝劣があります。釈尊は人々の機根に応じて小乗教、大乗教、そして大乗教の中でも権大乗・実大乗と説き残したのです。このことを弁えずに、小乗が大乗を破し、権大乗が実大乗を破ろうとするところに、仏法の混乱があり、それが因となって政道に乱れが生じ、国に災難が起こるのです。
日本においては伝教大師がただ一人、一切諸経の勝劣浅深を判別して法華経が最勝であることを主張し、南都諸宗の碩学たちを論破しました。そして、法華経の円頓の戒壇を叡山に建立して世を治める根底としたのです。