下山殿御消息(第六段第二)

下山殿御消息 第六段第二(祈雨の敗北)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

ここに、両火房祈雨あり。去ぬる文永八年六月十八日より二十四日なり。ここに、使いを極楽寺へ遣わす。「年来の御歎きこれなり。七日が間にもし一雨も下らば、御弟子となりて二百五十戒つぶさに持たん上に、『念仏無間地獄と申すこと、ひがよみなりけり』と申すべし。余だにも帰伏し奉らば、我が弟子等をはじめて日本国大体かたぶき候いなん」と云々。七日が間に三度の使いをつかわす。しかれども、いかんがしたりけん、一雨も下らざるの上、頽風・飆風・旋風・暴風等の八風、十二時にやむことなし。あまつさえ、二七日まで一雨も下らず、風もやむことなし。されば、このことは何事ぞ。和泉式部といいし色好み、能因法師と申せし無戒の者、これは彼の両火房がいむところの三十一字ぞかし。彼の月氏の大盗賊、「南無仏」と称せしかば、天頭を得たり。彼の両火房ならびに諸僧等の二百五十戒、真言・法華の小法・大法の数百人の仏法の霊験、いかなれば、婬女等の誑言、大盗人が称仏には劣るらんとあやしきことなり。

現代語訳

そこで両火房は去る文永八年六月十八日より二十四日まで祈雨を行いました。日蓮は使いを極楽寺へ遣わし「あなたの年来のお嘆きの因は私のうちにあるとの由、あなたの祈雨により、もし七日のうちに一雨でも降るならば、あなたの弟子となって二百五十戒をことごとく持ち、そのうえまた、『これまで念仏無間地獄等と言ってきたことは誤りであった』と申しましょう。私さえあなたに帰伏すれば、私の弟子等をはじめとして日本国のほとんどがあなたに帰伏することになるでしょう」と申し伝えたのです。

そして、その七日の間に三度、使いを良観のもとに遣わしたのです。ところがどうしたことでありましょうか一雨も降らないうえに頽風・颷風・旋風・暴風などの八風が昼夜十二時にやむことなく、あげくのはては二週間たっても一雨も降らず風も止むことがありませんでした。

いったいこれはどうしたことでありましょうか。和泉式部という色好みや能因法師という無戒の者は、両火房が嫌う和歌で雨を降らせたのです。かのインドの大盗賊は「南無仏」と称えて天頭を得ました。二百五十戒や真言法華の小法・大法をもった、かの両火房ならびに諸僧ら数百人が祈った仏法の霊験が、どういうわけで婬女らの誑惑の和歌や大盗賊の祈りに劣るのでしょうか。まことに不可解なことです。

講義

大聖人が、良観の弟子であった周防房、入沢入道という2人の念仏者を通じて良観に祈雨の勝負を挑んだところ「良観房悦びないて」その挑戦を受けてたちました。

「頼基陳状」によると、大聖人は大要次のように良観に伝えられた

もしあなたが7日の内に雨を降らせれば、日蓮は念仏無間などと主張することをやめ、良観の弟子となって250戒を持つことにしましょう。もし雨が降らなければ、良観は持戒の智者ぶっているけれども実は大誑惑の人であることがはっきりするでありましょう。是をもって勝負いたしましょう、と。

良観はこの大聖人の挑戦を受けて立ち、618日から24日までの7日間まず祈り、更に74日まで延ばして、2週間にわたって祈雨を行ったのです。

ここで、大聖人は仏法において「祈雨」を持っていた意義、あるいは広く「祈禱」が持っていた意味について考えておきたい。

加持祈禱による現世利益を信仰の効験として尊重するのは、特に密教の特色でした。密経を教義の根本としたのは弘法大師空海の真言宗でしたが、日本天台宗もまた、第三代慈覚以降は密経を導入し、いわゆる台密となりました。

叡尊・忍性らが再興した西大寺流律宗も、真言の加持祈禱の要素を大幅に取り入れていました。叡尊・忍性の祈雨の修法は密経によったものです。ことに良観は、祈雨の修法を得意とし、「雨を心に任せて下す」などと豪語していたようです。

さて、大聖人の仏法では「祈禱」はどう位置づけられているのか、大聖人は「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(御書全集1169頁5行目、四条金吾殿御返事)と仰せになり、また「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(御書全集16頁13行目)と述べられていることから、加持祈禱による霊験を根本としてはならないと戒められています。

しかし、大聖人の仏法においても、依正不二の法理から、人事と自然現象との不可分の関係を認めています。正報たる人間が正義を根本としているから、邪悪な法をよりどころとしているかは依法たる環境に影響を及ぼします。依正不二の原理から、人間が正法に反する行動をとれば、自然的・社会的災害が生じるのは当然とされるのです。

ここから、「祈り」とその果報の関係が考察されねばならない。正法によって正しい祈りを行じるならば、必ずや現世においてその果報を得ると大聖人は諸御書で御教示されています。試みに例を挙げれば、次のような御文があります。

「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(御書全集1124頁14行目、経王殿御返事

「祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候」(御書全集1242頁1行目、道妙禅門御書

「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(御書全集1351頁18行目、祈禱抄

「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば・いかでか祈りのかなはざるべき」(御書全集1352頁7行目、祈禱抄

「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」(御書全集502頁7、如説修行抄

これらの御文において、大聖人は、正法による真剣にして誠実な祈りがあれば、一生成仏という願いも、現世安穏の願いも必ず叶うと断言されています。そして自然現象についても、人間は自然から影響を受けているとともに、また人間自身の営みが自然現象に反映することを説かれています。

こうした大聖人の御立場からすれば、祈雨の行為自体は、それが正しい法による限り認め得るものであったといえるでありましょう。しかし、祈雨の効験をことさら取り立てて、正法の正しさを宣伝することに大聖人の主意があったのではありません。むしろ、それによって仏法の偉大なる仏力・法力を矮小化することを懸念されたに違いありません。

先にも述べましたが、大聖人が良観を相手に祈雨の仏法の正邪を決する勝負とされたのは、あくまで公場対決のような正攻法では応じようとしない良観に対してとった次善策でした。このことは、大聖人が頼基陳状に「此体は小事なれども」(御書全集1157頁16行目、頼基陳状)とか「此の次でに」(御書全集1157頁17行目、頼基陳状)と仰せられていることからも明らかであり、良観の欺瞞をあばくための機会として祈雨の勝負を利用されたに過ぎないことを知っておくべきでありましょう。

良観は極楽寺において弟子120人を動員し、618日より祈雨の修法を開始しました。「頭より煙を出し声を天にひびかし」(御書全集1158頁5行目、頼基陳状)して修法を行ったのです。しかし7日を過ぎても雨は一滴も降らず、それどころか暴風のみが連日激しく吹いたといいます。

日蓮大聖人は使いを遣わし、次のように良観に申し伝えさせました。

かつて和泉式部という色好みの女性や能因法師という破戒の僧侶が、貴僧の嫌う狂言綺語の和歌でもってたちまち雨を降らせたと伝え聞くのに、戒律を持ち、法華真言の義理を極め、慈悲において並ぶ者なしといわれる良観房が、弟子の僧侶数100人を率いて7日間も祈禱をこらしても全く雨を降らすことができないとは一体どうしたことか。このことから思い知るべきである。一丈の堀を越え得ない者に二丈・三丈の堀を越えることのできる道理がない。同様にたやすい雨を降らすことすらできない者には難しい成仏を達成することは不可能である。これ以後は邪見を捨てて日蓮を憎むことを止め、素直に約束を守り日蓮の許に来たまえ、雨を降らす法と成仏の道をお教えしよう。この7日の間に雨が降るどころか旱魃はいよいよひどくなり、八風がますます激しく吹いたので民衆は大いに嘆いている。速やかに祈雨の修法を止められよ、と。

良観は、涙を流してくやしがった。「良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」(御書全集1158頁14行目)という有様でした。諦めきれない良観は1週間延長して祈りましたが、期日の74日までにはとうとう雨は全く降らなかったのです。

こうして良観は自信をもって祈った祈雨において、完全に破北したのです。この祈雨の事実経過が本抄、及び頼基陳状に詳しく記されているのは、両抄を与えられた下山殿・江間光時がいずれも大聖人の破折された邪宗に帰依していた人物であり、良観に対しておそらく世評の如き印象を抱いた人物だったからでありましょう。彼らは祈雨があったという事実については当然知っていたでありましょうが、細かな経緯については知らなかったでありましょう。

また、この祈雨の事実が今日に伝わる良観の伝記や他の記録にはなく、しかも良観が祈雨に成功した他の事例は残されていることから、これを大聖人の作り事とする者が昔からいたようです。

しかし、大聖人が事実でないことを江間光時や下山兵庫五郎光基に宛てわざわざ記されていることは決してありえません。良観との祈雨の勝負が当時の鎌倉の人々に周知の事実であったからこそ、その細かな経緯を記して注意を喚起されたのです。むしろ、良観の伝記作者などが、彼の汚点を隠棲して記さなかったものと見るべきです。

それはともかく、大聖人が本抄で仰せになっているように、もし良観に良心と羞恥が一片でもあったならば、潔く自らの敗北を認めて帰伏するか、鎌倉を去るなり大寺院の別当を辞するなりしたでありましょうが、良観はそのような人物ではありませんでした。むしろ、この後は、いよいよ僭聖増上慢の本性をむきだして、大聖人を亡きものにしようと様々な画策を企てるのです。

 

雨乞いの歌

和泉式部と能因法師が和歌を詠んで雨を降らした逸話は、本抄、及び頼基陳状以外に「種種御振舞御書」・「報恩抄」でも述べられていますが、歌の内容までは具体的に記されてはいません。

御書の最古の注釈書と目される弘経寺日健の御書鈔巻第七「報恩抄」には

「   天川ナハ代水ニセキクタセアマクダリマス神ナラバ神     和泉式部

照コトモ日ノ本ナレハ理リヤフラスハナトカ雨カ下トハ    能因法師(異本あり)

理リヤ日ノ本ナレハ照ソカシフラサラメヤハ雨カ下ニハ    能因法師」

とある。ところが、鎌倉妙法寺日澄の日蓮聖人註画讃には

「和泉式部 祈雨の歌

コトリヤ日ノモトナレハテルソカシフラサラメヤハアメカ下カハ

能因法師 歌

アマノ川苗代水ニセキクタセアマクタリマス神ナラハ神」

とあり、式部と能因の歌が入れ代わっている上に、日健が異本にあるとした歌のほうを式部の歌として挙げています。

これは安国院日講が録内啓蒙巻十五「報恩抄」で「健抄二人ノ歌ヲ取チカヘタルハ誤ナリ」と指摘しているように、日澄の方が正しいとしている。

能因の祈雨の歌は比較的有名であり、古今著聞集・十訓抄等の多くの書に伝えられています。ちなみに、著聞集巻第五によると、能因が伊予守に従って伊予の国に赴いたところ、夏の初め旱魃が続いて民の嘆きが深かった。そこで「神は和歌にめでさせ給うものなり」と国司歌を詠んで三島神社に奉るように能因にしきりに勧めるので、

「天川苗代水にせきくだせあまくだります神ならは神」

と読んで奉納したところたちまちに大なる雨が降ったという。

一方和泉式部の歌の出典は定かではない。また中村薫氏の研究によれば、小野小町の作として、

「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた雨が下とは」

の歌を示している。

大聖人は具体的に和歌の内容を記されていませんが、これは、当時の有識者の人々にとって式部や能忍の雨乞いの歌はよく知られた説話ではなかったかと思われるが、歌人が伝承の過程で変化して伝えられたものでありましょう。

ただ言えることは、大聖人の仏法においては、妙法を受持することがそのまま持戒であり、和歌をたしなむことは破戒でも何でもありませんが、歌や舞を鑑賞することをも禁じる当時の律宗の立場からすれば、和歌を詠むことは破戒の行為としており「両火房がいむところの三十一字」と仰せられ、良観のような持戒・持律の僧には足元にも及ばない無戒の歌人でさえ雨を降らすことができたのに、良観はいかなることかと厳しく迫られているのです。

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