下山殿御消息 第六段第一(良観の行状と祈雨)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
ここに両火房と申す法師あり。身には三衣を皮のごとくはなつことなし。一鉢は両眼をまぼるがごとし。二百五十戒堅く持ち、三千の威儀をととのえたり。世間の無智の道俗、国主よりはじめて万民にいたるまで、地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか、迦葉尊者の霊山より下来するかと疑う。余、法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば、末代に入って法華経の大怨敵三類有るべし、その第三の強敵はこの者かと見畢わんぬ。便宜あらば、国敵をせめて、彼が大慢を倒して仏法の威験をあらわさんと思うところに、両火房常に高座にして歎いて云わく「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒、男女には五戒・八斎戒等を一同に持たせんと思うに、日蓮がこの願の障りとなる」と云々。
余、案じて云わく「現証に付いて事を切らん」と思うところに、彼常に雨を心に任せて下らす由、披露あり。古もまた雨をもって得失をあらわす例これ多し。いわゆる伝教大師と護命と、守敏と弘法と等なり。ここに「両火房、上より祈雨の御いのりを仰せ付けられたり」と云々。
背景と大意
良観房忍性に対する当時の世間の人々の見方を記され、それに対し大聖人がその本質を見抜かれたことを述べられています。すなわち、いかに世間から尊敬され名声を博していても、その本質は法華経勧持品第十三に説かれた三類の強敵のうち僭聖増上慢にほかならないということです。だが、人々は、良観の外見に惑わされ、彼を生き仏のように崇めていたのです。常に三衣を身にまとい、一鉢を携え、そのうえ250戒の戒律を持って3000の威儀をととのえていたというその姿に、世間の人々は彼をあたかも伽羅陀山からの地蔵菩薩の再来か、霊鷲山から迦葉尊者が下向したものかと思っていました。
大聖人は、かねてから機会があれば、そうした良観の仮面をはいでその増上慢を打ち破り、真実の仏法に人々を目覚めさせなければならないと考えられていました。そして、その絶好の機会が到来しました。それが文永8年(1271)6月の祈雨の勝負です。
現代語訳
ここに両火房という法師がいます。身に三衣をつけて、自分の皮膚のように離すことがありません。一鉢を自分の両眼のように大切にしています。二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀をととのえています。世間の無智な僧俗は国主から万民に至るまで、良観をまるで地蔵尊者が伽羅陀山より出現したか、迦葉尊者が霊山よりやってこられたかのように思っています。私が法華経第五の巻の勧持品第十三を拝見するに、末代に入って法華経の大怨敵の三類が現れるであろうとありますが、その中の第三の強敵こそはこの者であると見定めたのです。
折あらば、国敵たる良観房を責めてその大慢の心を倒して仏法の威力をあらわそうと思っていたところ、両火房は常に高座において嘆いて言うには「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・在俗の男女には五戒・八斎戒などを一同に持たせようと思っているのに、日蓮がこの願いの障害となっている」と。それに対して私は「現証をもって決着をつけようと思っていたところ、良観房は常に雨を心のままに降らせると世間に宣伝しています。昔もまた祈雨をもって優劣を決した例は多くあります。かの伝教大師と護命、守敏と弘法の例などです。ちょうどこの時にあたって両火房が「幕府より祈雨を仰せつけられたという」と思案したのです。
講義
法華経勘持品第十三に説かれる僭聖増上慢は、涅槃経如来性品第四の一の文にある「持律に似像」し「外には賢善を現し内には貧嫉を懐く」僧と本質的に同類です。
本抄の仰せによれば、良観は常々説法の庭で大衆に向かい、日本中の出家者には250戒・500戒を、在家の男女は5戒・8斎戒等を遵守させようと願っているが、大聖人がそれを妨げていると嘆いていたといいます。大聖人より「聖愚問答抄」や「極楽寺良観への御状」で手厳しく批判されていたので、大聖人に対して深く恨んでいたのです。
本抄に引用されている良観の言葉は、人々に対し、大聖人の憎しみを駆り立てるために語っていたことでありましょう。それに対して大聖人は、現証をもって勝負を決する以外にないと期しておられたのです。
文永8年。この年は春から雨が降らず、6月に入っても一向に雨がなく、田植えもできない有り様でした。そこで、幕府は良観に雨乞いの修法を命じたのです。良観は承諾して「万民をたすけん」と公言しました。大聖人はこのことを伝え聞かれ、祈雨の勝負によって仏法の正邪を明確にしようと決意されたのです。
大聖人は本抄で、祈雨によって法の勝劣を決した例として、伝教大師と護命・守敏と弘法の名を挙げられています。この事例については「三三蔵祈雨事」に詳しい。
まず伝教大師と護命による祈雨については「去る弘仁九年の春・大旱魃ありき・嵯峨の天王真綱と申す臣下をもつて冬嗣のとり申されしかば・法華経・金光明経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき、三日と申せし日ほそきくもほそきあめしづしづと下りしかば・天子あまりによろこばせ給いて、日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり、伝教大師の御師・護命と申せし聖人は南都第一の僧なり、四十人の御弟子あいぐして仁王経をもつて祈雨ありしが五日と申せしに雨下りぬ、五日は・いみじき事なれども三日にはをとりて而も雨あらかりしかばまけにならせ給いぬ」(御書全集1470頁1行目)と述べられています。
これは、伝教大師の弟子であり、師の命を受けて大乗戒壇の建立に尽力した別当大師光定の著した伝述一心戒文巻上に基づいて記されたものと拝されます。
同書によれば、光定は弘仁9年(西暦818年)2月7日、師より一乗の号を授けられ、大乗寺を建立しようとする伝教大師の意向をひそかに天皇と左近衛大将藤原冬嗣に上奏しました。その後、4月21日、冬嗣より書状が届きましたが、それは亢陽が続き、旱魃に苦しむ人々のために甘雨を降らすようとの要請でした。この年の春には疫病が流行し、4月に入ってからは何日間も雨が降らず旱魃が続いていたのです。伝教大師は23日に返事を自書し、4月26日より3日間、比叡山延暦寺の僧を率いて法華経・金光明経・仁王経の三部経を講じて、七難消滅を祈禱し甘雨を降らす法を修したところ、山に細雲が走り炎熱は消散し、細雨が降りました。一方、南都の護命僧都は40人の大徳を率いて仁王経をもって祈ったところ、5日目の早朝になって大雨が降ったといいます。この事実をもって大聖人は、伝教大師の祈雨が護命に勝っているとされています。なお、弘法と守敏の祈雨については後述します。