下山御消息(第三段第二)

下山御消息 第三段第二(伝教大師の法華経宣揚)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

その後、人王第五十代桓武天皇の御宇に、伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・俱舎・成実・律の六宗を習い極め給うのみならず、達磨宗の淵底を探り究め給い、あまつさえ、いまだ日本国に弘通せざる天台・真言の二宗をも尋ね顕して、浅深・勝劣を心中に究竟し給えり。去ぬる延暦二十一年正月十九日に、桓武皇帝、高雄寺に行幸なり給い、南都七大寺の長者の善議・勤操等の十四人を教大師に召し合わせて、六宗と法華宗との勝劣を糾明せられしに、六宗の碩学、宗々ごとに、「我が宗は一代超過」の由各々に立て申されしかども、教大師の一言に万事破れ畢わんぬ。その後、皇帝重ねて口宣す。和気広世を御使いとして諫責せられしかば、七大寺・六宗の碩学一同に謝表を奉り畢わんぬ。一十四人の表に云わく「この界の含霊、今より後、ことごとく妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得」云々。教大師云わく「二百五十戒たちまちに捨て畢わんぬ」云々。また云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」。また云わく「一乗の家にはすべて用いず」。また云わく「穢食をもって宝器に置くことなかれ」。また云わく「仏世の大羅漢すでにこの呵責を被れり。滅後の小蚊虻何ぞこれに随わざらん」云々。

 

現代語訳

その後、人王第五十代桓武天皇の御代に伝教大師といわれる聖人が出現されました。初めは華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極められただけでなく、達磨宗の奥底をも究められ、そのうえいまだ日本国に弘められていなかった天台法華宗・真言宗の二宗をも探究し顕照して、その浅深勝劣を心中に深く究められました。

去る延暦二十一年正月十九日、桓武天皇は高雄山に行幸された折、南都七大寺の長者であった善議や勤操等の十四人を伝教大師に召し合わせ、六宗と法華宗との勝劣を糾明されたところ、六宗の碩学はそれぞれ我が宗こそは釈尊一代の教えの中で際立って勝れていると申し立てられましたが、伝教大師の一言によって、ことごとく破折されてしまいました。

その後、桓武天皇は重ねて勅宣を下し和気弘世を使者として糾弾されたので、七大寺・六宗の碩学は一同に謝表を上呈しました。十四人の謝表には「この世界の衆生は、今から後はことごとく妙法蓮華経の船に乗ってすみやかに悟りの境地に渡ることができるでありましょう」とあります。

伝教大師は後に「小乗の二百五十戒は直ちに捨ててしまった」と宣し、また「正法・像法は終りに近づき、いよいよ末法が近づいている」、また「法華一乗の家ではいっさい権教を用いない」、更に「穢食を宝器に盛ってはならない」、また「釈尊在世の偉大な阿羅漢でさえすでに呵嘖を受けている。まして滅後の小さな蚊虻のごとき衆生がどうしてこれに従わないでいられようか」と述べています。

講義

伝教大師の出現と法華経

伝教大師は南都六宗を破折し、比叡山に円頓の戒壇を建立しました。大聖人は撰時抄で、これは、インド、中国においてもいまだ達成されなかった一大快挙であると、次のようにおおせです。

すなわち伝教大師は「鑒真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり 叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり、此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり」(御書全集271頁3行目)と。

ここで伝教大師の出現した時代背景を概観しておきましょう。奈良時代の末期になると、橘奈良麻呂の事件、藤原仲麻呂の反乱、淳仁廃帝の事件、看病禅師として称徳女帝に接近した弓削道鏡の変など一連の事件が起き、社会が乱れ、これと並行して、僧尼の質の低下と世欲化、仏教界の堕落が顕著になってきました。称徳女帝の死、道鏡失脚のあとを受けて即位した光仁天皇はこうした状況を憂えて仏教界を厳しく統制し、その粛正を図りました。この方針は次の桓武天皇にも引き継がれ、僧尼の検校、得度制度の改革がなされました。このような政府の僧尼育成方針により、得度の条件も護国経典の暗誦中心から、経論研究による解義能力の重視へと大きく転換していきました。こうした仏教政策に呼応し、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、南都六宗の中で最も理論性をそなえた法相宗において多くの学匠が輩出されました。

伝教大師最澄は、俗姓を三津首といい、近江滋賀の人です。叡山大師伝によれば、先祖は後漢の孝献帝の末裔、登万貴王で、応神天皇の世に来朝し、滋賀に居地を賜って三津首の姓を称したといいます。最澄の父は百枝といい、私宅を寺となし、礼仏誦経に勤める熱心な仏教信者でした。

最澄は12歳の時、近江の国分寺に入り、大国師行表の弟子となり唯識の章疏等を学び、やがて14歳の時、国分寺の僧の欠員を補って得度し、19歳の時に東大寺の戒壇で具足戒、すなわち250戒を受け、正式の僧となりました。その後、同じ年の7月中旬に比叡山に入り、以来12年間にわたって、山中で修行生活を続けました。

延暦16年(西暦797年11月、比叡山で初めて法華十講を修しました。天台大師の入滅の聖忌を期して、毎年11月に行われたので、これを霜月会とよんでいます。特に延暦20年(西暦801年)の霜月会には、勝猷・寵忍・賢玉・光證・観敏・慈誥・安福・奉基・玄耀等の「十箇の大徳」が招かれ、三部の妙典十巻の各一巻の講義が彼等によって行われました。

しかし、この時の講義は最澄の弟子・仁忠の叡山大師伝に「猶末だ歴劫の轍を改めざるは、白牛を門外に混ず」と評されているように、天台への関心はあるものの法相宗を主体とする南都諸宗の大徳たちの見解は、最澄と全くかけ離れたものでした。

この天台宗と南都六宗の勝劣が明白となったのが、延暦21年(西暦802年)に開催された天台法華会でにおいてでした。この年の正月19日、和気弘世は、父清麻呂が建てた高雄山神護寺における法会の招請状を発しました。招かれた南都の大徳は、前年の法華十講に参加した9人と新しく加わった善議・勤操・修円・道證・歳光の14人でした。この時最澄は36歳であり、天台の法華三大部である法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻を415日より向こう5ヵ月にわたり講義しました。この講義により各宗は論破され、南都仏教界の長老である73歳の善議が代表して桓武天皇に謝表を奉りました。

「竊に天台の玄疏を見れば、釈迦一代の教を総括して悉く其の趣を顕すに所として通ぜざると云うこと無し。独り諸宗に逾えて殊に一道を示す。其の中に説く所の甚深の妙理は、七箇の大寺六宗の学生は昔より末だ聞かざる所、曾て末だ見ざりし所なり。三論・法相の久年の諍いも渙焉として氷の如くに釈け、照然として既に明らかなり。猶雲霧を披いて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論、其の数多し。彼此理を争って、其の疑い末だ解けず。而も此の最妙の円宗猶末だ闡揚せず。蓋し以れば此の間の羣生末だ円味に応ぜざるか。伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受けて、深く純円の機を結べり、一妙の義理、始めて乃ち興顕し、六宗の学衆、初めて至極を悟る。謂いつ可し、此の界の合霊今より後、悉く妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得ん。…善議等幸いに体運に逢い、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」

謝表の現代語訳を示せば次のようになります。

「ひそかに天台大師の法華玄義・法華文句・摩訶止観等を見れば、総じて釈迦一代の教を括って、その本意をことごとく顕して通ぜざることなく、天台宗のみが諸宗に超越して仏道を示しています。その中の所説は甚深の妙理であり、われわれ七箇の大寺・六宗の学生はいまだかって聞いたこともなく見たこともないところです。三論宗と法相宗の長年にわたる争いもたちまちに氷のごとく溶け、照然として明らかになりました。あたかも雲霧が開けて、日・月・星の三光を見るようです。聖徳太子が仏法を弘通されてこのかた、今に200余年の間講ずる所の経論はその数が多く、互いに争って、その疑いが解けないままでした。しかも伝教大師が説かれるような最妙の円宗は、いまだ世間に弘められなかったことは、この間の衆生はいまだ円身を味わう資格がなかった故でありましょうか。伏して考えて見るのに、今の天皇は遠く如来の付嘱を受けて深く純円の義理を結び、一乗妙法の義理を始めて興顕してくださり、6宗の学者は今初めて仏法の至極を悟ることができたのです。かくて、この世の衆生は、今より後は、ことごとく妙円の船に乗り、早く成仏得道の彼岸に渡ることができるでありましょう。…善議等は宿縁に引かれて良縁に逢うことができ、いまだかって聞いたことのない素晴らしい教えを聞くことができました。深い深い縮縁でなければ、どうしてこのような聖代に生まれあうことができたでありましょうか」と。

この伝教大師の高雄講経について、弟子の光定の著した一心戒文巻下には「延暦二十二年八月二十九日、桓武天皇、特に式部小輔従五位上和気朝臣弘世に勅し、七箇大寺の学生僧善議・勤操・修円等一十三人を請い、高尾寺において天台法花新玄疏等を講ぜしむ」とあり、この講経が桓武天皇の勅命により開かれたものであるといいまう。

日蓮大聖人はこの説を踏まえられ、この法華会が単なる「天台教学の紹介であり、大師自身の法華経観を明かにしたもの」とする立場とは全く異なり、他宗破折の場であることを強調しておられます。

この法華会の意義について大聖人は安国論御勘由来で次のように仰せである。

「延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学・勤操・長耀等の十四人を召し合せ勝負を決談す、六宗の明匠・一問答にも及ばず口を閉ずること鼻の如し華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵・三時の所立を破し了んぬ但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ることを知る、同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰る、十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る」(御書全集34頁8行

なお、法華会については今日の研究水準においても史料不足の故に不明の点が少なくありませんが、大聖人の時代には依りどころとされた史料があったはずです。上の安国論御勘由来の文も、それに基づかれたと思われます。いずれにしても14人が謝表を奉ったのはまぎれもない事実です。

 

伝教大師の功績

高雄山において法華会が開かれてから2年後の延暦23年(西暦804年7月、伝教大師最澄は弟子の義真を伴って入唐し、翌延暦24年(西暦805年6月に遣唐使とともに無事帰朝、入京しました。こうして、天台大師の金光明経玄疏・菩薩戒疏・天台宗第9祖妙楽大師の著した天台三大部の注釈書である法華玄義釈籤・法華文句記・止観輔行伝弘決・維摩経の疏・涅槃経の疏等、重要典籍を日本に招来しました。そこで、桓武天皇は、和気弘世に命じて天台章疏を書写し南都七大寺に流布せしめました。

このようなこともあり、延暦25年(西暦806年)正月には公認の年分度者を願い出て、初めて「天台業二人」の年分度者を賜りました。ここに、日本天台宗が開創されたのです。更に、大同5年(西暦810年)正月、宮中の金光明会にて天台宗年分得度者8人の得度が許されました。

しかしながら、このような得度者の増加は必ずしも比叡山での修行者の増加をもたらしませんでした。それは、学生が一人前の僧となるためには、天下公認の戒壇に登って、僧綱を行う試験に合格しなければならなかったからです。当時、天下公認の戒壇は南都東大寺、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺の三ヶ所でした。そのため、比叡山で天台教学を学んでも、試験は他宗の教えによって受けなければならなかったのです。

延暦21年(西暦802年)の法華会で南都六宗の蹟学に「今而後悉く妙円の船に載り早く彼岸へ渡ることを得」という謝表を書かしたことにより、法華経が他の経典より勝れていることは誰の目にも明らかとなっていました。しかるに、僧となるためには小乗戒を受けねばならないという矛盾が続いていたのです。

ここに伝教大師は弘仁9年(西暦818年3月、「二百五十戒忽ちに捨て畢ぬ」と小乗戒の棄捨を断行したのです。このことは公的に認められている僧としての立場を投げ捨て、社会的な自らの立場をも投げ捨てるともいえる大胆な行為でした。この時点では、最澄の最大の理解者である桓武天皇は崩御し、和気弘世等の外護者も皆死去しており、当時の天皇は南都六宗に心を寄せる嵯峨天皇でした。

ここに最澄は破邪顕正のため、円頓の戒壇を比叡山に建立するため立ち上がったのです。

「一乗の家には都て権を用いず」と権大乗を破折し、「穢食を以て宝器に置くこと無し」と小乗を断訶し、「仏世の大阿羅漢已に此の訶責を被れり滅後の小蚊虻何ぞ此れに堕わざらん」と諸宗の僧を小蚊虻に譬えて強くこれを打ち破ったのです。先に挙げられたものは、すべて守護国界章において法相宗の徳一を破折した文章ですが、法華経を第一として他教を退ける伝教大師の立場が明瞭に示されています。

そして伝教大師は、弘仁9年(西暦818年)の5月、叡山の学生を大乗戒によって養育することを定めた天台法華宗年分学生式を制定し、大乗円頓戒独立の勅許を請い、これが朝廷の認可を得られないまま、同年8月には山家学生式第二弾としていわゆる八条式、更に弘仁10年(西暦819年3月には四条式を定め、朝廷の認可を重ねて請いました。

これに対する南都六宗の反対に対して顕戒論三巻を著して反対を加え弘仁11年(西暦820年229日、朝廷へ奉りました。そして伝教大師は、弘仁13年(西暦822年64日に入寂しましたが、その7日後の11日、ついに大乗円頓戒の勅許になったのです。

このことについて、日蓮大聖人は「法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒尸那一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり」(御書全集264頁3行目)と仰せになり伝教大師の功績を称賛されています。

この円頓戒の確立によって初めて大乗仏法が小乗戒及び王法への従属から脱して自立を勝ち得たのであり、ここに、法華経による真の民衆救済が可能となったのです。

 

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