下山御消息(第三段第一)

今、日本国は、最初に仏法の渡って候いし比は大小雑行にて候いしが、人王四十五代聖武天皇の御宇に、唐の揚州竜興寺の鑑真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経・天台宗を渡し給いてありしが、円機未熟とやおぼしけん、この法門をば己心に収めて口にも出だし給わず、大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。これひとえに法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず。例せば、儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は、仏の御使いとして漢土に遣わされて、内典の初門に礼楽文を諸人に教えたりき。止観に経を引いて云わく「我、三聖を遣わして、彼の震旦を化す」等云々。妙楽大師云わく「礼楽前に馳せて、真道後に啓く」と云々。仏は大乗の初門にしばらく小乗戒を説き給いしかども、時すぎぬれば禁めて云わく、涅槃経に云わく「もし人有って如来は無常なりと言わん。いかんぞ、この人、舌堕落せざらん」等云々。

 

現代語訳

さて今の日本国についていえば、最初に仏法が伝来した頃は、大小雑行の状態でありました。人王四十五代聖武天皇の御世に、唐の揚州竜興寺の鑑真和尚という人が中国から日本に法華経天台宗を渡されましたが、衆生の円教を受け入れる機根が未熟であると思われたのでありましょうか、この法門については胸中にとどめて口にもだされませんでした。かくて唐の終南山の豊徳寺に住した道宣律師の小乗戒を日本の三ヵ所に建立されました。これはひとえに法華宗を流布するための方便であって、大乗教出現の後には肩を並べて修行せよということではありませんでした。

例えば儒家の本師である孔子・老子等の三聖は仏の御使いとして中国に遣わされ、仏教への入門として礼楽の文を人々に教えたようなものです。このことを摩訶止観巻第六には経文を引用して「私は三聖を遣わして彼の中国を教化せしめよう」とあり、妙楽大師は「礼楽が先に広まり、真実の法は後に流布する」と述べているのであります。

これと同じように、仏は大乗教への入門としてしばらく小乗戒を説かれたのであるが、時が過ぎて後、小乗の教えを戒めて涅槃経に「もし如来は無常であるという者がいるならば、この者の舌は必ず堕落するであろう」と言われているのであります。

 

講義

 

仏教の伝来

日本への仏教伝来については、日本書紀巻19によると、欽明天皇13年壬申(0552)の10月、百済の聖明王が西部姫氏達率怒唎斯到契らを遣わして、釈迦仏金銅像一軀、幢蓋若干、経論若干巻を献じ、別に表面をたてまつって、流通礼拝の功徳を述べ、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。…百済の王臣明、謹みて、陪臣、怒唎斯致契を遣して、帝國に伝え奉りて、畿内に流通さむ。仏の、我が法は東に流らむ、と記へるを果たすなり」と奏上したとあります。

これは百済から日本の天皇に対して公式に仏・法・僧の三宝を献じた記録であり、この欽明天皇13年壬申が日本国に公式に仏教が伝来した年とされています。

しかし、この聖明王の上表文については近年の研究によって金光明最勝王経寿量品や、最勝王経四天王護国品、大般若経難聞功徳品などから改変取捨、補綴したものであることが解明されました。しかも、金光明最勝王経が漢訳されたのは則天武后長安3年(0703)のことであることから、この聖明王の上表文は後世の創作であると考えられています。このため、日本書紀における欽明天皇3年壬申の仏教伝来は、疑問視されています。

一方、この壬申伝来説とは、年次の異なる仏教伝来に関する記述が伝承されています。すなわち、欽明天皇の戊午の歳に伝来したとする伝承です。

上宮聖徳法王説には「志癸嶋の天皇の御世に、戊午の年(0538)の1012日に、百済国の主、始めて仏の像教並びに僧等を度し奉る」とあります。これと同様の説が元興寺伽藍縁起並流資財帳にも、欽明天皇の「七年歳は戊午に次る十二月、度り来る」とあります。

日本書紀において壬申公伝説が正史として採用された理由については諸説があり定かではありませんが、この壬申公伝説がなんらかの意図によって作られたもので、史料的信憑性に欠けるとする見方が強まるにつれ、欽明天皇七年戊午公伝説が有力視されるに至りました。しかし近年では、壬申伝説が疑わしいからといって、戊午公伝説の方が史実に近いとは必ずしも言えないとの見方も生まれてきています。

それはともかく、わが国は古来朝鮮半島と往来が盛んであったので、既にこれより以前に帰化人によって仏教が伝えられていた可能性があることは明らかです。

さて、日蓮大聖人は「第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・」(御書全集1165頁6行目、四条金吾殿御返事)と仰せであり、欽明天皇13年(0552)壬申公伝説を採用されています。これは、日本最古の正史である日本書紀に基づいたものと拝されます。

いずれにしても、日本に仏教が伝えられたのは、だいたい6世紀前半ごろと見られます。そして仏教の伝来当時は一括して仏教として伝えられたものであり、小乗教・大乗教といった区別はせずに行じられていたことを、大聖人は本抄で大小雑行と仰せになったのです。例えば奈良の東大寺は天平勝宝元年(0749)に完成していますが、当時は六宗兼行の道場として栄え、他の寺院も同様に宗旨によって区別されることなく、一寺で大小乗を兼学しているのが普通でした。

 

鑑真の渡来

鑑真は律宗だけでなく天台宗の章疏も日本に持ってきましたが、天台宗を弘めずに終わりました。それは、まだその機根が熟すにいたっていないと見たからでした。しかし、この時、鑑真が伝来した天台大師の法華三大部は後に伝教大師が見ることとなり、日本天台宗の成立にとっては極めて重要な意義をもつことになったのです。

鑑真は西暦668年(持統天皇2年)揚州に生まれ、西暦753年(天平勝宝5年)に日本の土を踏み、世歴763年(天平宝字7年)に寂した我が国の仏教史上において重要な役割を果たした人です。14歳で大雲寺の智満禅師に戒を受けて禅を学び、18歳で光州の道岸律師について菩薩戒を受けました。その後戒律修学のため洛陽へ赴き、20歳の時、長安の弘景律師に具足戒を受けて比丘になりました。

道岸及び弘景はいずれも文綱の弟子であり、文綱は南山律宗の祖、道宣の弟子でした。この弘景は、天台大師が法華玄義・摩訶止観を説いた玉泉寺の僧となった人であり、法華経の信奉者であったと伝えられます。また道宣自身も内典録に天台大師の著述を引用して天台大師を讃嘆しており、天台教学の深い影響を受けていました。このように鑑真は四分律のみならず、弘景から天台を学び、「鑑真は宗は天台を研き律は南山を弘む」と称されたように、天台学への造詣が深かったのです。

天平5年(西暦733年)、日本から興福寺の僧・栄叡、普照が律師招請の任務を帯びて入唐しました。この2人の留学僧の懇請により鑑真は日本へ渡ることを決意します。天宝元年(西暦742年)、55歳の時です。しかし渡航を試みること5回、自然の災難や人為による障害があったので失敗したのち、ようやく来日を果たしたのは66歳の時でした。

来朝した鑑真に、孝謙天皇は、天平勝宝6年(西暦754年2月、「今より以後、受戒・伝律は一に大和尚に任す」と宣して、受戒伝律に関する一切の権限を与えました。こうして3人の指導者と7人の証明者による厳格な受戒作法に基づく受具の法がはじめて行われました。また同年4月には、東大寺廬遮那仏の前に戒壇が築かれ、聖武天皇・光明皇太后夫妻と孝徳天皇らに対して菩薩戒、沙弥430人に対しては具足戒の授戒がなされました。

また、天平勝宝7年(西暦755年9月に東大寺に戒壇院が建立し、正式の授戒が行われるようになりました。更に天平宝字5年(西暦761年)正月には下野国薬師寺・筑紫の観世音寺にも、それぞれ戒壇が設置され、これより天平の三戒壇として、僧侶はすべていずれかの戒壇で受戒しなければならないようになりました。

日本においてはそれまで僧尼が出家する時、冶部省が度縁を授け、受戒のとき重ねて公験を発給しており、受戒の権限は律令政府の手に握られ、教団に権限がなかった。鑑真以後においては、受戒時に度縁を回収し、公験に代わって、受戒に立ち会った十師連署の戒牒を授けるようになった。

しかし、戒を受ける者は自部省印のある度縁を所持する沙弥・沙弥尼にかぎられており、受戒の権限がすべて教団側に移譲されたわけではなく、官寺仏教体制の枠内での委譲であった。とはいえ、国家権力による統制から仏教の自立へ向かって大きく一歩踏み出さしめた鑑真の功績はおおきいといわなければならない。そして鑑真の渡来により提起された受戒権と戒壇設置の問題は、伝教大師による大乗戒壇運動として継承されていくのである。

鑑真によって将来された天台三大部は東台寺に所蔵されていたが、後に伝教大師が南都に遊学した折、はじめて披見するところとなった。それが後に日本の天台法華宗が確立される重要な契機となった。このような経緯からも、鑑真の本意が小乗教の弘通にあったのではなく、衆生の機根を鑑みてやがて日本に大乗教が弘まる時がくるまでの方便としての小乗戒の弘通に努めたと仰せなのである。

 

円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已心に収めて口にも出だし給はず

鑑真は天台教学を深く学んでいた。しかし当時の日本は円機未熟であると判断して専ら小乗の戒律を弘め、法華経については説かなかったと仰せである。

中国においては既に天台の法門が確立されていた。また日本においても既に聖徳太子の時代より法華経そのものを流布していた。この観点から見ると、鑑真は大聖人のいう宗教の五網を無視していたかに見える。にもかかわらず大聖人は鑑真を評価しておられる。では、当時の日本が「円機未熟」であったというのは何故か。

先述したように、日本へ仏教が伝来したのは6世紀半ばであり、鑑真の渡来の時点までは約200年しか経っていなかった。中国の場合、インドから仏教が渡来してより天台大師の出現までに500年を要しているのである。勝れた法であればあるほど、それが弘まっていくためにはそのための準備期間が不可欠であるといわなければならない。鑑真が日本へ渡ってきた当時は、いまだ大乗仏教の弘まる機が熟していなかったのである。仏教の発祥から中国への伝来、また中国から日本への伝来にはそれぞれ数百年のズレがあったことを考慮すると、中国において像法時代であっても、それがそのまま日本に当てはまるものではない。

このように、宗教の五網とは立体的・総合的な、かつ柔軟性をもった仏教の方軌である。しかも後段で述べるように、時応機法の原理からしても、天平期の日本の仏教は小乗的な段階にあり、鑑真はそれを見抜いたが故に、まず小乗戒の確立・徹底に努め、来るべき円頓戒の準備としたと考えられる。

 

「礼楽前に馳せ真道後に啓く」

仏教の弘通にあたっては、仏法を理解できるだけの文化的なレベルアップが前提にならねばならない。このことを次に、中国を例として述べられている。古代の中国思想の大成者である孔子・老子・願回の「三聖」は仏の使いとして中国に遣わされ、仏教の初門として「礼楽の文」を人々に教えたのであるという。「礼楽」は礼儀と音楽に代表される中国文化であり、その果たした役割について天台大師は摩訶止観巻第六下で次のように述べている。

「孔丘・姫旦の如きは、君臣を制して父子を定む。故に上を敬し下を愛して世間大いに治まる。礼律節度あって尊卑に序有り、此れ戒を扶くるなり。楽は以て心を和し、風を移し俗に易う。此れは定を扶くるなり。先王の至徳要道は、此れ慧を扶くるなり。元古混沌として末だ出世に宣しからず。辺表の根性は、仏の興るを感ぜず。我三聖を遣して彼の真旦を化せしむ。礼儀前に開き、大小乗の経は然して後に信ず可し」

また、日蓮大聖人は開目抄において「礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ 父母を教て孝の高きをしらしめ 師匠を教て帰依をしらしむ」(御書全集187頁2行目)と仰せであり、礼楽等の文化的土壌の形成があって、はじめて仏法を深く理解できるのであり、儒教の流布は仏教の流布するための準備であったと位置づけておられます。

更に智者の役割と仏法との関連について減劫御書には「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(御書全集1466頁14行目)と仰せであり、太公望・張良等の智慧は民を守ったという点において仏法の智慧に通ずるものと釈されています。

孔子・老子・顔回の場合もこれと全く同じです。このような考え方を端的に示しているのが妙楽大師の「礼楽前に駆せ真道後に啓く」との言葉です。

 

「若し人有つて如来は無常なりと言わん云何んぞ是の人舌堕落せざらん」

儒教が仏教流布のための地均し的な役割を果たしたように、小乗教は大乗教の初門として説かれたのです。したがって、時を過ぎて末法に入ってもそのまま小乗教を信仰せよといっているのではありません。釈尊は涅槃経で小乗教を否定し「もし仏も無常を免れないという者があれば、必ずこの人の舌は堕ちるであろう」と戒めています。

この涅槃経の経文の意味するところについて大聖人は顕謗法抄で「此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云、問うて云く諸の小乗経に仏を無常と説かるる上又所化の衆皆無常と談じき若爾らば仏・並に所化の衆の舌堕落すべしや、答えて云く小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか、大乗経に向つて仏を無常と談じ小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか、此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか」(御書全集449頁2行目)と仰せられ、謗法の本質を指摘されています。

すなわち小乗の者が自らの教えに執着して大乗を批判するのが誹謗であり、より勝れた教えが説かれたときはこれに従わなければならないのです。

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