下山御消息 第十三段第一(日本国中に充満する法華経誹謗の者)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
今日本国の人人はたとひ法華経を持ち釈尊を釈尊と崇重し奉るとも真言宗・禅宗・念仏者をあがむるならば無間地獄はまぬがれがたし、何に況や三宗の者共を日月の如く渇仰し我が身にも念仏を事とせむ者をや心あらん人人は念仏・阿弥陀経等をば父母・師・君・宿世の敵よりもいむべきものなり、例せば逆臣が旗をば官兵は指す事なし寒食の祭には火をいむぞかし、されば古への論師・天親菩薩は小乗経を舌の上に置かじと誓ひ、賢者たりし吉蔵大師は法華経をだに読み給はず、此等はもと小乗経を以て大乗経を破失し法華経を以て天台大師を毀謗し奉りし謗法の重罪を消滅せんがためなり、今日本国の人人は一人もなく不軽軽毀の如く苦岸・勝意等の如く一国万人・皆無間地獄に堕つべき人人ぞかし、仏の涅槃経に記して末法には法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべしと記し給いし是なり、
現代語訳
今、日本国の人々は、たとえ法華経を持ち釈尊を釈尊として崇重したとしても真言宗・禅宗・念仏宗の僧らを崇めるならば無間地獄は免れがたい。まして、これら三宗の僧らを日月のように渇仰し、自らも念仏などを行じている者はなおさらです。
心ある人々ならば、念仏及び阿弥陀経等をば父母・師匠・主君の敵、あるいは前代からの敵よりも忌むべきなのです。例せば逆臣が旗を官軍の兵士がかざすことがないように、また「寒食の祭」に火を忌みて使用しないようなものです。
このゆえに昔の論師・天親菩薩は小乗経を説かないことを誓い、賢者であった吉蔵大師は法華経さえも読もうとされなかった。こうしたことは、以前に小乗経をもって大乗経を打ち破ったり、自分勝手な法華経の解釈をもって天台大師を毀謗した謗法の重罪を消滅しようとしたためです。
いま日本国の人々は、不軽菩薩を軽毀したり苦岸比丘・勝意比丘等のいうように、一人も残らず皆無間地獄に堕ちるべき人々です。仏が涅槃経に記して「末法においては法華経を謗ずる者は大地微塵の数よりもおおいであろう」と予言されているのはこの事です。
講義
本段においては、冒頭より一国謗法の現状を厳しく指摘されています。すなわち、まず、たとえ法華経を釈尊が尊んでいたとしても、真言・禅・念仏と並べて信じている場合は、無間地獄は免れないと指摘されています。これは、法華経譬喩品第三に「余経の一偈をも受けざる有らん」とある戒めに背くのであり、法華経第一の心を踏みにじっていることになるからです。
しかしながら、当世の仏教界の中心であった日本天台宗ですら、朝には法華経を読誦し、夕方には念仏を称えるという兼行を行っていました。このことは種々の往生伝に見られます。
そもそも日本天台宗は、実教たる法華経を最第一として伝教大師によって立てられたにもかかわらず、何ゆえに阿弥陀経を基とする念仏を取り入れるようになったのでしょうか。その淵源は遠く天台大師の摩訶止観にもとめることができます。摩訶止観巻第二上では、種々の経典に説かれている修行の方式を分類し、具体的修行方法として「四種三昧」を明かしています。「四種三昧」とは、
①常坐三昧
②常行三昧
③半行半坐三昧
④非行非坐三昧
の、四種類の三昧のことをいいます。この中で常行三昧の口行の修行法として、阿弥陀仏の名を称えることが説かれています。
「九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無かれ、或いは唱念俱に運び、或は先に念じ後に唱え、或いは先に唱えた後に念じ、唱念相違する時無かれ、若し弥陀を唱うるは、即ち是れ十方の仏を唱うると功徳等し。但専ら弥陀をもって法門の主となす」
ただし注意しなければならないのは、天台大師の真意はあくまでも円教たる法華経をもとにした十境十乗観法によって悟りを得ることにあったということです。常行三昧に念仏の修行を導入したのは、絶待妙の立場から下根の衆生を発心させるための方便・助行としてだったのです。
大聖人が「一念三千法門」において「御年五十七の夏四月の比・荊州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云」(御書全集412頁3行目)と仰せられているように、天台大師の究竟の法門である一念三千は摩訶止巻の第五巻に至って初めて明かし、それ以前においては秘していたのです。
四種三昧の行が助行として位置づけられていたことは摩訶止観巻第二にも「四行を縁と為して心を観ず。縁を藉りて調直なり。故に通じて三昧と称するなり」とあることに明らかでありましょう。
このように、阿弥陀の称名念仏を止観のための手段とする修行を止観念仏と呼びます。それゆえ、他力本願により、西方極楽浄土への往生を求める善導流の念仏とは明らかに異なるといってよい。
いずれにしても、天台教学においては円教たる法華経が根本であり、像法時代であったので、迹門を根本にして、権教を修行の方便として用いたのです。
伝教大師の顕戒論には、天台宗の止観業の学生は、春秋は常行三昧、冬夏は常坐三昧、行者の楽欲に随って半行半坐、または非行非坐というように四種三昧をそれぞれ修習するように説かれている者は、一十二年、深山の四種三昧の行は、得度・授戒したばかりの学生、並びに南都の小乗から大乗に転じた初修行の者が深山にこもって修行すべきものとされていたのです。
大聖人は「十章抄」に次のように仰せられている。
「二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり」(御書全集1273頁5行目)
しかるに、第三代座主の慈覚以後、この念仏行がかなり大きい比重をもつようになります。慈覚は「理同事勝」の義によって実教たる法華経を権経たる大日経の下に落とし、叡山を密教化したばかりでなく、善導流の念仏をも叡山に持ち込んだのです。すなわち、慈覚は入唐して五台山の法道和尚から善導流の引声念仏を学び、帰朝するや、承和15年(西暦848年)、叡山に常行三昧堂を建立し、仁寿元年(西暦851年)に初めて阿弥陀念仏を弟子に伝授したのです。
ただし、慈覚以後の叡山ではもっぱら真言密教を取り入れ、台密を完成することに精力が注がれたためか、阿弥陀念仏はほとんど関心の対象外にありました。その後、叡山は権力と癒着して宗教としての活力を失い、加えて民衆救済の使命を忘れ、山・寺両門の相克に明け暮れていたことはすでに述べた通りです。
その一方で末法思想の台頭とあいまって、人々の間に西方極楽浄土を願う念仏が急速に広まり、諸宗にも念仏が取り入れられていきました。そうした念仏信仰を更に推し進めて、専修念仏を称えたのが法然であり、その教えは、たちまちに全国へ広まっていきました。その流行のありさまを大聖人は「一谷入道御書」に次のように配されています。
「而るを天魔の身に入つて候・善導・法然なんどが申すに付いて・国土に阿弥陀堂を造り・或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り・或は宅宅・人人ごとに阿弥陀仏を書造り・或は人ごとに口口に或は高声に唱へ・或は一万遍・或は六万遍なんど唱うるに・少しも智慧ある者は・いよいよ・これをすすむ、譬へば火に・かれたる草をくわへ・水に風を合せたるに似たり」(御書全集1327頁17行目)
大聖人は、法華経を捨てよ閉じよ等と説くこの専修念仏が明らかに法華経誹謗であるゆえに、堕地獄の業として厳しく弾訶されたのです。本抄でも、念仏、及び阿弥陀経等を父母・師匠・主君の仇以上に憎んでこれからキッパリと離れなければ堕地獄は免れないと、謗法厳誡の姿勢を強調されています。そして武家である下山兵庫光基に分かるように、これを武士の倫理観に譬えて、官兵たる者が反逆者の旗を立てることはしないのではないかと諭されているのです。
天親は、大乗の論師として知られていますが、もとは小乗教の論師であり、「大乗はこれ仏説にあらず」といって誹謗していました。真諦の婆籔槃豆法師伝によれば、天親の兄である無著は弟のもとに使いをやって、「病が重いので、急いで来るように」と伝えました。直ちに本国に戻った天親に無著は、「我、今、心に重病あり、汝に由りて生じたり」といって、天親のために起きた病であることを明かしました。つまり、天親が大乗仏教誹謗の罪業によって永久に悪道に堕ちてしまうことを心配して苦しんでいたのである、と。
これを聞いて驚いた天親は、兄に大乗を説いてくれるよう頼みました。兄は、天親のために大乗仏教の要義を説きました。聡明にして深い学識のあった天親は、それを聞いてすぐさま大乗の理が小乗よりすぐれていることを悟ったのです。
そして天親は、かつて大乗仏教を謗ったことを悔いて、兄に向って「昔、この舌によって、そのために大乗を毀謗する言葉を生じさせてしまった。今、この舌を割いて、この罪をあやまるべきであろうか」と尋ねたところ、兄は、たとえ千の舌を割いてもその罪を消すことはできないと答え、もしその罪を滅しようとすれば、その舌によって大乗仏教を巧みに解説すべきであると諭したといいます。
涅槃経巻三十三には次のようにあります。
「禁戒を護持して精勤して懈らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧鬘物を用いず、一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。毀戒懈怠、四重戒を犯し、五逆罪を作り、僧鬘物を用い、一闡提と作り、諸の善根を断じ、是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地上の如し」
この経文において「是の経を信ぜざる」の「是の経」とは直接的には涅槃経を指していますが、大聖人はこれを法華経として読まれて、本抄で「法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」と仰せられたものです。
これについては「報恩抄」に「問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云、妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経なり涅槃経には法華経を極と指て候なり」(御書全集頁314頁5行目)と述べられています。すなわち法華経を一代聖教の極意とすることは涅槃経自体の意であり、涅槃経で「是の如き等の涅槃の経典」とあるのは、究極的に法華経と読むべきであるとされているのです。