下山御消息(第十二段第八)

下山御消息 第十二段第八(正法誹謗者の悲惨な末路)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

 されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ、又真言宗の元祖・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねたる教主釈尊・法王を立下て大日他仏をあがめし故に善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず又無間地獄に堕ちぬ、汝等此の事疑あらば眼前に閻魔堂の画を見よ、金剛智・不空の事はしげければかかず、又禅宗の三階信行禅師は法華経等の一代聖教をば別教と下だす我が作れる経をば普経と崇重せし故に四依の大士の如くなりしかども法華経の持者の優婆夷にせめられてこえを失ひ現身に大蛇となり数十人の弟子を呑み食う。

現代語訳

それでは、念仏者の本師である善導はいわゆる「其の中の衆生」に入らないのでしょうか。彼は「これを救えるのは唯我一人のみである」という法華経の経文を破棄して「千中無一」と言ったために現身に狂人となって柳の木にに登り身を投げ、堅い地面に落ちて死に切れず、十四日から二十七日までの十四日間、もだえ苦しんで狂い死にしてしまいました。

また真言宗の元祖である善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねている教主釈尊という法王を軽んじて大日如来という他仏を崇めたために、善無畏三蔵は閻魔王の責めをうけたばかりでなく、無間地獄へ堕ちてしまったのです。あなたがこのことを疑うのであれば、閻魔堂の画を眼前に見よ。金剛智三蔵や不空三蔵のことは繁多になるので書かないことにします。

また禅宗の三階教を開いた信行禅師は法華経等の一代聖教を別教と下し、自分が作った経を普経として崇重したために、世間から四依の大士のように仰がれていたのですが、法華経の信者であった在家の女人に詰問され、返答に困り声を失い、そのまま大蛇となって数十人の弟子を呑み込んでしまいました。

講義

釈尊に背いて邪説を立てた念仏の善導・真言密経の善無畏三蔵・禅宗の三階禅師の末路を示されています。

善導を「念仏者が本師」と呼ばれているのは、日本浄土宗の開祖・法然が善導の強い影響を受けてその教義を立てていることによるものと思われます。

ここで大聖人が、善導が法華経譬喩品第三に説かれる「其の中の衆生」に含まれないのかと詰問されているのは、釈尊を排して阿弥陀仏に救いを求め、阿弥陀仏以外の仏によっては救われないとして「千中無一」の邪義を主張したからです。この善導の言い分は釈尊の「唯我れ一人のみ能く救護を為す」との経文を真っ向から否定していることになります。このような邪説を立てたために、善導は悲惨な最期を遂げたのです。すなわち「念仏無間地獄抄」には次のように詳しく記されています。

「所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶けたまえと唱え畢つて青柳の上より身を投げて自絶す云云、三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん柳の枝や折れけん大旱魃の堅土の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の間悶絶躄地しておめきさけびて死し畢ぬ」(御書全集99頁16行目

なお、この善導の自殺の伝は、おそらく法然の漢語燈禄に収められている類聚浄土五祖伝であると考えられます。そこでは、栄の王古の新修往生伝から善導の伝を再録し、善導の自害の様子を次のように記しています。

「導人に謂て曰く、此の身厭う可し。諸苦遍迫す、情偽変易して暫くも休息すること無し。乃ち所居の寺の前の柳樹に登って、西に向いて願して曰く、仏の威信驟に以て我を接せよ、観音・勢至亦来て我を助けよ、我が此の心をして正念を失せず驚怖を起こさず弥陀の法の中に於いて以て退堕を生ぜざらしめたまえと願し畢って、其の樹の上に於いて身を投げて自ら絶す」

これは「釈迦一代五時継図」に引用される類聚伝の文と同一であることが知られます。

善導は往生礼讃に「願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心に諸の苦痛無く、身心快楽にして禅定に入るが如く、聖衆現前し仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せん」と述べています。

日寛上人は主師親三徳抄で、善導が乱していたことは明らかであると断じられ、大聖人が本抄で「現身に狂人と成りて」と仰せられたことの根拠を示されています。

すなわち、第一に善導が自ら身を投げて死んだということは、たとえ覚悟の自害であっても身に苦通があることは当然のことであるから、平生本心の時に臨終の姿として「身心に諸の苦痛無く」と願ったことに全く相反しているゆえに、狂乱のうえの自害であったことが明らかです。生前の願いからいって、狂乱していなければ身を投げることなどするはずがないからです。

第二に、善導は「身心快楽にして禅定に入るが如く」と述べていますが、固い大地に身を投げて死んだ姿はその願いとはほど遠い。そもそも諸の禅定の中に身を投げて捨身することなどどこにもありません。どうして「身心快楽」と言えるでありましょうか。これもまた、善導が狂乱に陥っていたことの証左です。

第三に、往生礼讃には「上の如く念々相続して畢命を期となすとは十即十生し百即百生す」とあり、他に勧めて教化するに「畢命を期となす」と釈しながら、自らは捨身自絶するのはまさに狂乱のゆえにほかなりません。

なお、大聖人は本抄等で、善導が14日から27日まで14日間、顚倒狂死した旨を記されていますが、これについては諸伝には見られません。これは、善導の臨終の日に関して、新修往生伝に「永隆二年三月十四日」とあり、また玄暢の帝王年代禄には「永隆二年三月二十七日」とあることが知られており、大聖人はこれらの両説を踏まえられて、善導は14日に身を投げて14日間顚倒して、27日に死んだものと判じられたと考えられます。

本抄では次に善無畏が仮死した時、閻魔王の責めにあったことを挙げられています。この話は、彼自身が講述し、一行が筆記した大日経疏巻五に出てきます。すなわち、「阿闍梨の言わく、少かりし時、嘗て重病に因りて、神識を困絶せんに、冥司往詣して、此の法王を覩たり…因りて放されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に繄持せられし処に、猶瘡痕あり、旬月にして癒えたりき」とあります。大聖人は「善無畏抄」で次のように仰せられています。

「一時に頓死して有りき、蘇生りて語つて云く我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け鉄の杖を以て散散にさいなみ閻魔宮に到りにき、八万聖教一字一句も覚えず唯法華経の題名許り忘れざりき題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ息続いて高声に唱えて云く今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子・而今此処多諸患難・唯我一人能為救護等云云、七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき、今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき」(御書全集1233頁1行目

このように閻魔王による善無畏への訶責に関する諸御書の記述は、大日経疏よりやや詳細ですが、「破良観等御書」には「善無畏三蔵の鉄の縄七すぢつきたる事は大日経の疏に我とかかれて候上・日本醍醐の閻魔堂・相州鎌倉の閻魔堂にあらわせり」(御書全集1291頁4行目)と仰せのように、当時の京都の醍醐寺と鎌倉の閻魔堂には、これを題材とした画が描かれていて、よく知られていたのでありましょう。このゆえに本抄で、「汝等此の事疑いあらば眼前に閻魔堂の画を見よ」と喝破されたのでありましょう。

いずれにしても大聖人は、善無畏が閻魔王の責めにあったのは釈尊の主師親の三徳が具わることを説いた法華経を誹謗したゆえであり、その責めから許されたのは、法華経譬喩品第三の「今此三界」の偈文を唱えたことによるとされている。この点について日寛上人は、「此の文を唱うる所以は三徳に背くことを悔ゆる故に又救護を乞ふ故なり」と釈されています。

しかし、善無畏はその後も真言密教を弘め、堕地獄の相を現じて亡くなりました。大聖人は「報恩抄」に栄高僧伝巻第二の「今、畏の遺形を観るに、漸く加縮小し、黒皮隠隠として骨其露なり」との文を引かれ、「彼の弟子等は 死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(御書全集316頁2行目)と厳しく断じられています。彼の門下たちは、堕地獄の相であることを知らずそのまま記したのであるが、それが師の堕地獄を期せずして証明していたのです。

信行によって、隋代に立てられた三階教は、その教義の内容から第三階宗とも普法宗とも呼ばれています。すなわち、仏法を三種に分類し、一乗を第一階の法、三乗を第二階の法とし、第三階を普帰普法としました。この普帰普法とは、一切仏・一切法・一切僧に帰す普真普正法を意味するとし、仏滅後500年、次の1000年においては一乗や三乗の別法によって悟りを得ることができましたが、末法の現在においては衆生の機根が鈍根なるがゆえに、この第三階の普法によって一切の悪を断じて一切善を修めなければならないと主張したのです。

信行禅師が法華経を持つ女性に破折された話は出典は不明ですが、日寛上人は主師親三徳抄で、唐の懐信の釈門自鏡禄巻上の文を引かれています。これは三階の法を説く僧が法華経を持つ優婆夷に責められた話ですが、同じく唐の僧詳は法華伝記巻第九にも記され、両書の内容はほとんど同じです。自鏡禄には次のように記されている。

「慈門寺の僧孝慈、年五十ばかりなり。幼少より已来、信行禅師の三階の法を説くに依りて以て苦行を修す。常に乞食を業と為し六時に礼懺し糞掃衣を著す。住所の処は随いて三階の仏法を説きて朦俗を勧誘す…後に一時、岐州に在りて三階の仏法を説く。時に一優婆夷有りて法華経を持し、又有縁に勧めて同じく法華経を持す。…其の優婆夷、大衆中に焼香し発願して言う。『若し某乙の法華経を持することの仏意に称わざれば、願わくば某乙見身に悪病に著し、大乗をして共に法華経を持すれば此の罪報を得ることを知らしめん。又願いて生身に地獄に陥入し、衆の同見を願わん。若し某乙の法華経を持することの仏意に称順すれば、願わくば禅師も亦爾るべし』と。この優婆夷の発願の時に当たりて、其の禅師神打ちを被り音を失いて語らず。西の高座にて上唱し、集録する者も亦音を失いて語らず。更めて五箇の老禅師有るも亦音を失いて語らず。其の先に法華経を誦するを捨てし数人は、此れに因りて便ち発心して法華経を誦し、改めて殷重に生ぜり」

また、信行が現身に大蛇となって弟子を飲み干した話も自鏡禄巻上に見られます。

「神都福先寺の僧某乙、一時忽然として命終し、遂に業道中に信行禅師の大蛇身と作れるを見る。遍身総て是れ口なり。又三階に学びし人の死すれを見れば、皆此の蛇身の口中に入り去る処知る莫し。

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