下山御消息 第十段第二(大難のなか強盛に弘教)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
当御時に成って、あるいは身に疵をかぶり、あるいは弟子を殺され、あるいは所々を追い、あるいはやどをせめしかば、一日片時も地上に栖むべき便りなし。これにつけても、仏は「一切世間に怨多くして信じ難し」と説き置き給う。諸の菩薩は「我は身命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」と誓えり。「刀杖瓦石を加う」「しばしば擯出せられん」の文に任せて、流罪せられ、刀のさきにかかりなば、法華経一部よみまいらせたるにこそとおもいきりて、わざと不軽菩薩のごとく、覚徳比丘のように、竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のごとく、いよいよ強盛に申しはる。
現代語訳
時代は時宗公の治世に移っても、あるいは身に傷を負い、ある弟子は殺され、あるいは追放され、あるいは住居を攻められたために、一日片時も地上に安心して住むことはできませんでした。それにつけても思い起こされるのは、釈尊が法華経安楽行品第十四で「一切世間に怨多くして信じ難い」と説き残され、諸の菩薩が勧持品第十三で「自分は身命を愛さない。ただ無上の道を惜しむ」と誓っているとのことです。
法師品第十の「加刀杖瓦石を加えられ迫害されよう」という文や、勧持品第十三の「しばしば所を追放されるであろう」の文の通りに流罪されたり、刀で切られたならば、これこそ法華経一部を読み奉ったことになると覚悟を決め、あえて不軽菩薩のように、覚徳比丘のように、また竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のように、いよいよ強盛に正法を訴えたのです。
講義
伊豆流罪から赦免された後も、大聖人は、文永元年(西暦1264年)11月、小松原において東条景信に襲撃され、額に傷を負わされ、大聖人を護ろうとした弟子の鏡忍房と信徒の工藤吉隆が殺されたのをはじめ、大難が相次ぎました。しかしながら、これらの諸難はすべて、法華経を行じたが故に起きたものであり、すべて法華経に説かれている通りでした。
大聖人が本抄でその文証としてまず挙げられているのが、法華経安楽行品第十四の「一切世間・多怨難信」の文です。この文は、法華経が仏の諸説の中で最も甚深の法であり、諸経中の最勝なるがゆえに、一切世間に怨多くして信じ難いことを示したものです。諸御書では、安楽行品のこの文と併せて法師品第十の「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」を引かれていることが多い。
例えば、「単衣抄」ではこれらの経文を引かれたうえで「天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に、日蓮・日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり・多宝の証明も・なにかせん・十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年・月氏・漢土・日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん」(御書全集1514頁12行目)と、釈尊滅後、大聖人のみがこれらの経文を身読されたことを仰せられています。
また「南条兵衛七郎殿御書」でも同様に経文を挙げられて、「日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども・法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ」(御書全集1498頁9行目)と述べられています。法華経を読み、解釈した人は数多くいました。しかし、法華経の弘通のゆえに度々所を追われ、刀で斬られるなどの難に遭って、法華経の経文を身読されたのは日蓮大聖人以外誰もいなかったのです。
大聖人は次に勧持品第十三の文を引かれています。この文は、八十万億那由佗の菩薩が釈尊滅後の法華経弘通を誓って、たとえ三類の強敵が競い起ころうと「我等は仏を敬信し、当に忍辱の鎧を著るべし、是の経を説かんが為の故に、此の諸の難事を忍ばん。我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」と述べたものです。
「秋元御書」に「人を恐れ国を恐れて申さずば即是彼怨と申して一切衆生の大怨敵なるべき由・経と釈とにのせられて候へば申し候なり、人を恐れず世を憚からず云う事・我不愛身命・但惜無上道と申すは是なり、不軽菩薩の悪口杖石も他事に非ず世間を恐れざるに非ず唯法華経の責めの苦なればなり」(御書全集1074頁7行目)と仰せられているように、いかなる権威・権力も恐れず、身命を賭して法華経の教え通りに実践していくことこそ「我不愛身命・但惜無上道」の心であり、それが数々の大難を乗り越えられて妙法を弘通された大聖人の御精神であったといえましょう。
また、この経文が三類の強敵の出現を予言した後に述べられている意味も重要です。つまり、経文に「我不愛身命」と説かれていることは、法華経の行者には必ず身命に及ぶ大難があるからです。
ゆえに大聖人は「撰時抄」において「経文に我不愛身命と申すは上に三類の敵人をあげて彼等がのりせめ刀杖に及んで身命をうばうともみへたり」(御書全集291頁18行目)と仰せられているのです。
このことは、法師品に「若し此の経を説かん時、人有って悪口し罵り、刀杖瓦石を加うとも、仏を念ずるが故に応に忍ぶべし」とあり、また勧持品にも「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん、我等皆当に忍ぶべし」とそれぞれ刀杖の難について「上野殿御返事」に次のように仰せられています。
「及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(御書全集1557頁3行目)と。
刀杖の難のうち、刀の難は、文永元年(西暦1264年)11月11日、小松原において東条景信の切りつけた刀によって額に傷を受けられたこと、また文永8年(西暦1271年)9月12日、竜の口で斬首されようとしたことです。杖の難は、竜の口の頸の座に連行される前、松葉ヶ谷の草庵で平左衛門尉の郎従・少輔房によって法華経第五の巻をもって頭を打たれたことがそれに当たっているとされています。
さらに、伊豆と佐渡への二度にわたる流罪は法華経勧持品で説かれる「数数見擯出」に当たるのであり、これらの事実から、大聖人こそ法華経を身読された末法の法華経の行者であることは疑いないのです。
大聖人は建長5年(西暦1253年)に立教開宗されて以来、法華経弘通のゆえにこれらの難にあうとすれば、それこそ法華経を我が身で読み切ることになると覚悟されて、杖木瓦石を加えられながら法華経を弘めた不軽菩薩のように、また命懸けで正法を説いた覚徳比丘のように、さらに正法のために身命をなげうった竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のように、いよいよ強盛に正法弘通に邁進されたのです。