下山御消息(第二段第二)

下山御消息 第二段第二(仏法実践の方軌)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

また、仏法には賢げなるようなる人なれども、時により機により国により先後の弘通によることを弁えざれば、身心を苦しめて修行すれども験なきことなり。たとい一向に小乗流布の国には大乗をば弘通することはあれども、一向大乗の国には小乗経をあながちにいむことなり。しいてこれを弘通すれば、国もわずらい、人も悪道まぬかれがたし。
また、初心の人には二法を並べて修行せしむることをゆるさず。月氏の習いには、一向小乗の寺の者は王路を行かず、一向大乗の僧は左右の路をふむことなし。井の水、河の水、同じく飲むことなし。いかにいわんや一房に栖みなんや。されば、法華経に、初心の一向大乗の寺を仏説き給うに「ただ楽って大乗経典を受持するのみにして、乃至、余経の一偈をも受けざれ」。また云わく「また声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ」。また云わく「また問訊せざれ」等云々。たとい親父たれども、一向小乗の寺に住する比丘・比丘尼をば、一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近せず。いかにいわんや、その法を修行せんや。大小兼行の寺は、後心の菩薩なり。

 

現代語訳

また仏法についてわかっているように見える人であっても、仏法をどのように実践すべきかは時・機・国・先後の弘通によるべきことを弁えなければ、身心を苦しめて修行しても効果はないのです。たとえ専ら小乗経を流布する国に大乗経を弘通することはあっても、大乗経のみを弘めるべき国に小乗経を弘めるならば国に災いが起こり、人も悪道を免れないでありましょう。

また、初心の人には小乗経と大乗経の二法を並行して修行させることは許されません。月氏の習慣として専ら小乗のみを修行する寺の僧は王路を行かず、専ら大乗の身を修行する寺の僧は逆に左右の両端の路を踏むことはありません。井戸の水や河の水を両者が一緒に飲むことはありません。まして一つの房に住むことはありえません。

この故に、一向大乗の寺で修行する人に対して、仏は法華経で「ただ大乗経典を受持することを願って、他の経典の一偈たりとも受けてはならない」と説かれ、また「声聞を小乗の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親しみ近づいてはならない」、また 「問いたずねてもならない」と言われているのです。たとえ父親であっても一向小乗の寺に住む比丘・比丘尼を一向大乗の寺に住む子息は礼拝しないし親しみ近づくこともありません。まして小乗経の法を修行したりすることがあるでしょうか。大小兼行の寺は後心の菩薩のためです。

 

講義

宗教の五網

仏法を修行するためには「教・機・時・国及び教法流布の先後」という五網を必ず弁えなければなりません。宗教の五網については、「教機時国抄」に詳しく明かされています。今その要点を引用すると、およそ次のようになります。まず教については「一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年.仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、 後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る、後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午に至る六百六十四歳の間に一切経渡り畢んぬ、此の一切の経・律・論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕経・密経あり此等を弁うべし」(御書全集438頁1行目)と仰せです。本抄では法華経が最勝の経であることは当然とされており、「機」以下を問題とされています。

「機」については「二に機とは仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ、仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう故に須臾の間に覚ることを得たり」(御書全集438頁8行目)と示されています。

金師とは鍛冶屋であり、浣衣の者とは洗濯屋です。ここではこうした職業によって仏法理解の機根が異なることを示されています。数息観とは呼吸法であり、不浄観とは浄潔観です。すなわち金師という機根の者には数息観を教え、浣衣の者には不浄観を教えれば覚りが得られるのに、舎利弗はこれを間違えて逆に説いたが故に衆生が覚ることができなかったというのです。

智慧第一の舎利弗ですら、このように衆生の機根を見誤ったということは、末代の凡夫が機根を誤りなく見極めることがいかに難しいかを示しています。したがって、必ず仏の智慧に基づいて一向に法華経を弘通すべきであると述べているのです。

次に「時」については「三に時とは仏教を弘めん人は必ず時を知るべし、譬えば農人の秋冬田を作るに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益無く還つて損す一段を作る者は少損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随つて皆分分に益有るが如し」(御書全集439頁1行目)と述べられています。

農作業において時を誤れば全く収穫が見込めないのと同じように、仏法においても時を誤って弘通すれば、衆生は皆悪道に堕してしまいます。更に仏法独自の時の捉え方として正・像・末の三時があります。現在は末法の時であり、この末法に適った法を、時に適って行じなければ成仏は思いもよらないのでする。

次に「国」については「四に国とは仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国.熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国.大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く之を勘うべし」(御書全集439頁13行目)と仰せのように、それぞれの国・社会はそれぞれの歴史や地理や文化レベル等、多様であり、これらをよくわきまえて仏法を弘通しなければならないと説いています。

また、仏法的に見れば、それぞれの国にも、一向小乗の国もあれば、一向大乗の国、また大小兼学の国もあり、そのことも弁えることが大切であるとされています。同抄の後段に説かれるように、日本の国は一向大乗であり一向法華経の機の国です。

最後に「教法流布の先後」については「五に教法流布の先後とは未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり必ず先に弘まれる法を知つて後の法を弘むべし先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず、瓦礫を捨てて金珠を取るべし金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ」(御書全集439頁16行目)と示されています。なお、日本における仏教弘通の次第については以下の段に記されます。

教法流布の先後を知るという原則からすれば、一向大乗の国には小乗教を弘通すべきではない。後述するように、日本においては伝教大師によって円頓の戒壇が建立され、法華経が流布したのです。したがって、その後、小乗経や権大乗を弘めることは、仏法の原則に反するのです。

また修行者という立場からいうならば、まだ縁に紛動されやすい初心の者が大乗教と小乗教を兼学することは許されません。

大小兼学がインドにおいて固く禁じられていた実例として、智証は授決集巻上「便に次品の二乗を遠ざくるの義を決する第十六」において「西国の三蔵云く、『西天には大小二乗の僧同路を行くを得ず。謂く一の大路に於いて分かって三街と為し、中央を以って王の路と為す。即ち大乗の僧之を行く。左右の狭路は百姓の路と為す。即ち小乗の僧之を行く。分かつ所以は、二部寺を異す。河を分かって飲まず、相見ること亦希なり』と」述べています。

このようにインドの習慣としては、大乗経を修行する僧は王の道である中道の道を歩き、小乗を修行する僧は左右の狭い道を歩き、両者は同じ道を歩くことがなく、同じ河の流れの水を飲むこともなく、互いに姿を見ることさえ稀であったといいます。まして、大乗教の僧が一つの家に住むことはありえないのです。

また伝教大師は顕戒論で、玄奘の大唐西域記を引いて、インド・西域の諸国に大乗を修学する国、大小を兼学する国、ただ小乗を学する国の三種があるように、仏寺も一向大乗寺、一向小乗寺、大小兼行寺の三種があることを示すとともに、大乗修行の在り方として「初修行の菩薩は、其の小儀の比丘と同じく房舎に居せず、同じく牀に坐せず、同じく路を行かざる事を」と述べています。

このように大乗を修行し学ぶ者はその初心の段階においては大小を兼学することは許されないのであり、それ故に譬喩品第三に「但楽って、大乗経典を受持して、乃至、余経の一偈をも受けざる有らん、是の如き人に、乃ち為に説くべし」とあるように、もっぱら大乗経典である法華経を信じて、たとえ一偈であっても他の爾前権経を信じ持ってはならないとされています。次に、安楽行品第十四には「又、声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ。亦、問訊せざれ」とあり、声聞を求める小乗経の僧や尼、俗人の男女に親近してはならないし、またそのような人々を問いたずねてもならないと説かれています。

このように大乗と小乗は厳しく峻別しなければならないのであり、たとえ親であっても小乗経だけを修学する一向小乗の寺の僧尼を、大乗教だけを修行する一向大乗の寺に入った息子は礼拝することもなく、親近することもなく、ましてその小乗教の修行をしてはならないのです。大乗教と小乗教を共に修学できるのは、仏道を長く修行し縁に紛動されることのない後心の菩薩だけです。

以上は、仏法の考え方になじまない光基に対して、正しい仏道修行の在り方を教えられたものであり、宗教的な無知から念仏や禅を取り入れていた当時の武士階級の人々の風潮に対する警鐘ともなっています。なお、大小兼学が始まったのは仏教が中国及び日本に伝わってからです。インドにおいては厳格に大乗と小乗の区別がなされていたのです。

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