始聞仏乗義 第二章(末代凡夫の即身成仏の原理を明かす)

 ———————————-(第一章から続く)———————————————-

難じて云わく、火より水出でず、石より草生ぜず。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは、仏教の定まれる習いなり。しかるに、我らその根本を尋ね究むれば、父母の精血、赤白二渧和合して一身となる。悪の根本、不浄の源なり。たとい大海を傾けてこれを洗うとも清浄なるべからず。また、この苦果の依身は、その根本を探り見れば、貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり。この煩悩・苦果の二道によって業を構う。この業道即ちこれ結縛の法なり。譬えば籠に入れる鳥のごとし。いかんぞこの三道をもって三仏因と称するや。譬えば、糞を集めて栴檀を造れども、終に香しからざるがごとし。
答う。汝が難、大いに道理なり。我、このことを弁えず。ただし、付法蔵の第十三、天台大師の高祖たる竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して、「譬えば、大薬師の能く毒をもって薬となすがごとし」等云々。「毒」というは何物ぞ、我らが煩悩・業・苦の三道なり。「薬」とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。「能く毒をもって薬となす」とは何物ぞ、三道を変じて三徳となすのみ。天台云わく「妙は不可思議に名づく」等云々。また云わく「夫れ、一心乃至不可思議境、意ここに在り」等云々。即身成仏と申す、これはこれなり。近代の華厳・真言等、この義を盗み取って我が物となす。大偸盗、天下の盗人これなり。
問うて云わく、凡夫の位もこの秘法の心を知るべきや。
答う。私の答えは詮無し。竜樹菩薩、大論〈九十三なり〉に云わく「今、『漏尽の阿羅漢還って作仏す』と言うは、ただ仏のみ能く知ろしめす。論議者は正しくそのことを論ずべきも、測り知ること能わず。この故に応に戯論すべからず。もし仏を求め得る時、乃ち能く了知す。余人は信ずべきも、しかもいまだ知るべからず」等云々。この釈は、爾前の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩、普賢・文殊等もいまだ法華経の意を知らず、いかにいわんや蔵・通二教の三乗をや、いかにいわんや末代の凡夫をやという論文なり。
これをもって案ずるに、法華経の「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」とは、爾前の灰身滅智の二乗の煩悩・業・苦の三道を押さえて法身・般若・解脱と説くに、二乗還って作仏す、菩薩・凡夫もまたかくのごとしと釈するなり。故に、天台云わく「二乗の根敗、これを名づけて毒となす。今経に記を得るは、即ちこれ毒を変じて薬となす。論に云わく『余経は秘密にあらず、法華はこれ秘密なり』と」等云々。妙楽云わく「『論に云わく』とは大論なり」云々。
問う。かくのごとくこれを聞いて、何の益有るや。
答えて云わく、始めて法華経を聞くなり。妙楽云わく「もし三道即ちこれ三徳と信ぜば、なお能く二死の河を渡る。いわんや三界をや」云々。末代の凡夫、この法門を聞けば、ただ我一人のみ成仏するにあらず、父母もまた即身成仏せん。これ第一の孝養なり。
病身たるの故に委細ならず。またまた申すべし。
建治四年太歳戊寅二月二十八日    日蓮 花押
富木殿

現代語訳

難じていう。火から水は出ない。石から草は生じない。悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏教の定まった習いである。しかるに、我等の出生の根本を尋ね究めてみれば、父母の精血・赤白二渧が和合して一身となったのであり、悪の根本、不浄の源である。たとえ大海の水を傾けて洗っても清浄になるはずがない。またこの苦果の依身は、その根本を探ってみれば貪・瞋・癡の三毒より生じたのである。この煩悩と苦果の二道によって業を作る。この業道が我等を三界六道の苦しみの世界に縛りつけているのである。譬えば籠に入れられた鳥のようなものである。どうしてこの三道をもって三仏因と称するのか。譬えば糞を集めて栴檀の香木を造っても、けっして栴檀の香りはしないようなものである。

答う。あなたの不審は至極もっともなことである。私はこのことを心得ていない。ただし付法蔵の第十三祖で、天台大師の高祖である竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して「譬えば大薬師がよく毒を以って薬とするようなものである」といわれている。毒とは何をさしていったのかというと、我等の煩悩・業・苦の三道のことである。薬とは何かというと、法身・般若・解脱の三徳である。「よく毒を以って薬とする」とはどのようなことかというと、三道を変じて三徳とすることである。天台大師は法華玄義に「妙は不可思議と名づける」といわれている。また摩訶止観巻五上に「一心に十法界を具している。乃至、不可思議境という。意はここにある」といわれている。即身成仏の法門というのはこのことである。近代の華厳宗や真言宗などの学者は、この義を盗み取って我物としている。大偸盗、天下の盗人である。

問うていう。凡夫の我等にもこの秘法の意を理解することができるであろうか。

答う。私見による答えは無益である。竜樹菩薩の大智度論巻九十三には「今、煩悩を断じ尽くした阿羅漢は、仏にはなれないと決まっているのに、かえって成仏するというのは、唯仏のみがよく知っていることである。論議とは正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。このゆえに戯れの論議をしてはならない。もし仏になることができた時は、よく了解することができる。それ以外の人は、ただ信ずべきであって、未だ了解することはできない」といわれている。この釈は、法華経以前の別教に説く十一品の無明を断じた菩薩、円教に説く四十一品の無明を断じた大菩薩である普賢菩薩・文殊菩薩等も未だ法華経の意は分からない。ましてやそれ以下の蔵教・通教の二教における三乗においてはいうまでもない。まして、末代の凡夫においてはいうまでもないと論ぜられた文である。

このことをもって考えると、法華経方便品第二の「唯仏と仏とのみがよく究め尽くしている」とは、爾前経において灰身滅智した二乗が、法華経において煩悩・業・苦の三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となると説かれ、成仏した。菩薩や凡夫もまた同じく成仏することが可能となったと解釈するのである。ゆえに、天台大師は法華玄義巻六下に「二乗の根敗したのを名づけて毒とする。法華経において成仏の授記を得たのは、すなわちこれ毒を変じて薬としたのである。論には『余経は秘密の経ではない。法華経はこれ秘密の経である』とある」といわれている。妙楽大師は法華玄義釈籤巻十三に「『論にいう』とは大智度論である」と注釈している。

問う。以上のような法門を聞いて、何の利益があるのか。

答えていう。始めて法華経を聞くということである。妙楽大師は止観輔行伝弘決巻一の二に「もし三道がそのまま三徳であると信ずれば、よく分段・変易の二種の生死の河を渡ることができる。ましてや三界を渡りうることはいうまでもない」といわれている。末代の凡夫がこの法門を聞くならば、唯自分一人だけが成仏するばかりでなく、父母もまた即身成仏するのである。これが第一の孝養である。病身であるために委しくは書けない。またまた申し上げよう。

建治四年太歳戊寅二月二十八日    日 蓮  花 押

富 木 殿

語句の解説

赤白二渧

赤は母の血、白は父の精。赤白の二渧が和合することにより識が宿り、人間が生まれるという。摩訶止観巻七上には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以って体質と為す」とある。

 

貧・瞋・癡の三毒

十不善業のなかの意の三業。貪欲・瞋恚・愚癡.。十使中の五鈍使。あわせて三毒という。

 

三仏因

法身・般若・解脱の三徳と法身如来・報身如来・応身如来の三身の原因。

 

栴檀

インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。

 

付法蔵

釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。

 

天台大師

538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。

【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

竜樹菩薩

付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

妙は不可思議と名づく

法華玄義の私記縁起に「妙は不可思議を名づくるなり」とある。

 

一心乃至不可思議境・意此に在り

天台大師の摩訶止観巻5上に「「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」とある。

 

即身成仏

衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。

 

華厳

華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。

 

真言

真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。

 

大偸盗

人の物を盗む盗賊、盗人、十悪業のひとつ。

 

阿羅漢

羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。

 

爾前の別教の十一品の断無明

法華経以前の別教の菩薩は、52位のうち、初地の位から一品の無明を断じて一分の中道の理を証し、第十地の位で十品の無明を断じ、最後の等覚位において11番目の無明を断じて妙覚位に入ると説かれている。

 

円教の四十一品の断無明

円教の菩薩は、52位のうち初住位~十住・十行・十回向・十地の40位に40品の無明を断じ、最後の等覚位において41番目の無明を断じて妙覚の仏位に入ると説かれている。

 

普賢

普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

蔵通二教の三乗

蔵教と通教で説く声聞・縁覚・菩薩のこと。

 

唯仏与仏・乃能究尽

方便品の文。「唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」と読む。ここに、爾前経では秘しかくしてきた一念三千の法門が、諸法実相に約して説かれている。ただし、まだ久遠実成を明かさず、本因・本果・本国土がとかれていないから、真実の一念三千だはなく、理の一念三千にとどまるのである。

 

灰身滅智

身を灰にし智を滅するの意。 一切の煩悩を断ち切り心身を全くの無に帰すこと。小乗仏教の理想とする涅槃の境地。灰滅。無余灰断。

 

二乗根敗す……法華は是れ秘密なり

天台大師の法華玄義巻六下の文。根敗とは、五根が敗壊して活用しなくなった状態をいう。二乗根敗とは二乗が煩悩を断じ灰身滅智することをいい、この文はそうした二乗を〝毒〟と呼び、法華経で成仏を許したのは、毒を変じて薬としたようなものであると述べた語である。

 

妙楽

07110782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

二死の河

分段の生死と変易の生死の二種の生死を迷い・苦悩の河にたとえたもの。分段の生死とは、三界六道の迷いの世界に輪廻する凡夫の生死をいう。凡身の寿命がおのおのの業因によって分限し、その形体に段別があるので分段という。変易の生死とは、三界の迷いの世界を離れ、輪廻を超えた声聞・縁覚・菩薩等の聖者の生死をいう。分段の身を変え易め、煩悩の迷いを滅していくゆえに変易という。

 

三界

欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。

 

講義

先に就類種、相対種の開会を示し、とくに煩悩・業・苦の三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳とあらわれると述べられたのをうけて、まず相対種開会の法門に対する疑難を設けられる。

仏法の通常の因果律からいえば、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むのであって、悪因がそのまま仏因になるという相対種開会は理解されがたいのである。「如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや」との疑難が起こるのは至極当然である。ちょうど、糞を集めて栴檀の香木を造るようなもので、たとえ造っても、香りを発しないようなものであるとの譬えは、この疑難の内容をよく表している。

その答えとして、日蓮大聖人は、その疑問は道理であるとされながら、竜樹と天台大師の釈を挙げられている。

まず、竜樹は大智度論巻百において、妙法の〝妙〟の字を釈して「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と述べている。これは、相対種開会でいうと、毒が、煩悩、業、苦の三道にあたり、薬が法身、般若、解脱の三徳にあたる。

名医は、病者の病を治すために、毒を調合して薬とするのであるが、問題は、毒をいかにして病に効く薬とするかにある。その場合、患者の生命自身の力が、名医の調合した毒を自らの病を治す薬に転じているのであって、名医は、患者自身の生命のもつ力をよく知っていて、その力を計算に入れて薬を作るのである。

これを、相対種開会の法門にあてはめれば、名医は仏であり、患者とは、六道の衆生、凡夫にあたる。病は六道の生死を輪廻する衆生の迷いそのものである。

この衆生の迷いという病を治すために、名医たる仏は迷いの病をひきおこす毒である三道そのものを逆に使って、病んでいる衆生の生命のなかで三徳の薬となるよう仕向けるのである。その際、患者自身の生命のもつ力とは、妙法の〝妙〟の力により蘇生した生命力といえるであろう。竜樹は、妙法の〝妙〟の一字を、名医の変毒為薬に譬えたのである。

ここから、この〝妙〟の一字を、天台大師は法華玄義で「不可思議」ということであると述べ、さらに摩訶止観巻五では、一念三千を「不可思議境」と呼んでいる。

なお、天台大師は維摩経文疏巻九で、相対種開会を不思議種、就類種開会を思議種と立て分けている。就類種開会は、通途の仏教の因果でいう、善因を積んで善果である仏果を成ずる開会であるから、凡夫の思議しやすいものである。しかし、相対種開会は、通途の因果の考えではとらえられない開会であるから〝不可思議〟といったのである。

このように、相対種開会、即身成仏の法門は、凡夫の思議しがたき秘法であるから、つぎに「凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや」との問いを設けられ、凡夫は信ずる以外にないことを強調されている。

ここで引用されている竜樹の大智度論の文の内容は、爾前経で永不成仏と断定されていた阿羅漢が法華経に来て作仏することができたのは、その理由をただ仏だけが知っているのである。論議とは内容を知ってできることで、知り得ないで論じてもになってしまう。戯論をしてはならないのである。ただただ自ら仏に成ってみてはじめて了解できるものであるから、未だ成仏していない者は、信ずる以外になく、戯れの論議はすべきではない、というものである。

この文で〝信ずるしかない〟といわれたのは、別教の菩薩や円教の大菩薩、普賢、文殊等の大菩薩であり、ましてや、二乗や末代の凡夫が法華経の妙法の力を知ることができるはずがなく、ただ信ずる以外にはないと強調されているのである。

ここから、法華経の妙法は真実の秘密の法門になるのであり、法華経以外の余経は秘密の法門とはいえないのである。そのことを、大智度論巻百で「余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり」と述べたのである。

秘密について天台大師は法華文句巻九下で「昔説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自知するを名けて密と為す」と釈しているのを見ても、法華経こそが秘密の法門なることが明らかである。

結局、相対種開会、即身成仏の法門は「唯仏与仏、乃能究尽」の秘密の法門であり、凡夫の思議しがたき法門なのである。

では、そのような秘密の不可思議の法門を聞いていかなる利益があるのであろうか。

大聖人は、その答えとして「始めて法華経を聞くなり」と述べられている。

つまり、この答えが本抄の題号である始聞仏乗義の由来になるのであるが、相対種開会の即身成仏の法門を聞いて始めて、真の意味で法華経を聞いたことになるのである。なぜなら、法華経は一切衆生皆成仏道の経典であり、仏の出世の本懐は、一仏乗、即身成仏を説くところにあったからである。

それゆえ、凡夫の即身成仏を可能にする相対種開会の法門を聞かない限り、その他の法華経の種々の法門を聞いてはいても、それは聞いたことにならないのである。

法門を聞くとは、法門を信ずることと同義である。ゆえに、大聖人は、妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一の「若し三道即是れ三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る况や三界をや」という文を引かれて、相対種開会の法門を信ずることの重要性を強調されているのである。

三道即三徳と開く相対種開会の法門を信ずるならば、三界六道を輪廻する凡夫の迷いの境界である分段の生死と三界六道を離れた声聞、縁覚、菩薩の聖者の生死である変易の生死の二種の生死を越えて、即身成仏するわけであるから、ましてや三界六道の迷いなどもののかずではない、というのが、妙楽大師の文の内容である。

最後に「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」と述べられ、富木常忍が、この相対種開会の法門を聞き、信じたということは、自身の即身成仏のみならず、父母の成仏をも可能にしたことになるのであり、これこそ第一の孝養なりと称えられている。

なお、いまは、本文に即して相対種開会、即身成仏の法門について解説してきたが、本抄の元意を拝するには法華経寿量文底の三大秘法の南無妙法蓮華経を信受し、勤行・唱題に励むことこそ唯一の成仏の直道であることを前提にして読んでいかねばならないことはいうまでもない。したがって本講義中、「大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の譬えにおける仏とは、末法の御本仏日蓮大聖人であり、〝妙〟の一字の力とは、三大秘法の南無妙法蓮華経の仏力・法力を指すと拝すべきである。

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