始聞仏乗義 第一章(二乗開会の名目と意義を明かす)
建治4年(ʼ78)2月28日 57歳 富木常忍
青鳧七結、下州より甲州に送らる。その御志、悲母の第三年に相当たる御孝養なり。
問う。「止観の明静なることは、前代にいまだ聞かず」の心いかん。
答う。円頓止観なり。
問う。円頓止観の意いかん。
答う。法華三昧の異名なり。
問う。法華三昧の心いかん。
答う。夫れ、末代の凡夫、法華経を修行する意に二つ有り。一には就類種の開会、二には相対種の開会なり。
問う。この名は、いずれより出ずるや。
答う。法華経第三の薬草喩品に云う「種・相・体・性」の四字なり。その四字の中に第一の「種」の一字に二つあり。一には就類種、二には相対種なり。その就類種とは、釈に云わく「およそ心有るものは、これ正因の種なり。一句を随聞するは、これ了因の種なり。頭を低れ手を挙ぐるは、これ縁因の種なり」等云々。その相対種とは、煩悩と業と苦との三道、その当体を押さえて法身と般若と解脱と称する、これなり。
その中に、就類種の一法は、宗は法華経に有りといえども、少分はまた、爾前の経々にも通ず。妙楽云わく「別教はただ就類の種のみ有って、相対無し」云々。この釈に別教と云うは、本の別教にはあらず。爾前の円、あるいは他師の円なり。また、法華経の迹門の中、「舎利を供養す」已下二十余行の法門も、大体就類種の開会なり。
問う。その相対種の心いかん。
答う。止観に云わく「いかなるか、円の法を聞くこと。生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞く。三つの名有りといえども、三つの体無し。これ一体なりといえども、三つの名を立つ。この三つ即ち一相にして、その実、異なりあることなし。法身、究竟なれば、般若も解脱もまた究竟なり。般若、清浄なれば、余もまた清浄なり。解脱、自在なれば、余もまた自在なり。一切の法を聞くこと、またかくのごとし。皆、仏法を具して、減少するところなし。これを円を聞くと名づく」等云々。この釈は、即ち相対種の手本なり。
その意いかん。
答う。生死とは我らが苦果の依身なり。いわゆる五陰・十二入・十八界なり。煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり。結業とは五逆・十悪・四重等なり。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我ら衆生、無始曠劫より已来、この三道を具足し、今、法華経に値って三道即三徳となるなり。
現代語訳
銭七結、下総より甲斐の身延に送られたそのお志は、悲母の三回忌の追善供養のためである。
問う。「止観の明静なることは前代に未だかつて聞かない」と章安大師が讃めた意味はどういうことか。答う。円頓止観の法門を讃めたのである。
問う。円頓止観というのはどういうことか。答う。法華三昧の異名である。
問う。法華三昧とはどういうことか。答う。末代の凡夫が法華経を修行する方法であり、それには二つある。一には就類種の開会、二には相対種の開会である。
問う。この名目はどこから出たのか。答う。法華経巻三薬草喩品第五にいう「種・相・体・性」の四字である。その四字の中の第一の「種」の一字に二意があり、一には就類種、二には相対種である。
その就類種の開会とは、法華玄義巻九下に「およそ心のある者は、皆正因の仏種である。随って経文の一句でも聞くのは了因の仏種である。頭を低く垂れ手を挙げて拝むのは縁因の仏種である」と解釈している。その相対種の開会とは、煩悩と業と苦との三道を、その体をそのまま法身と般若と解脱と称することである。
その中に就類種の開会の一法は、根本は法華経に有るのであるが、少分はまだ爾前の経々にも通じている。妙楽大師は法華文句記巻七下に「別教はただ就類の種はあるが、相対種はない」と釈している。この釈の別教というのは、もとのままの別教のことではなく、爾前経に説かれた円教、あるいは天台家以外の他師の立てた円教のことである。また法華経の迹門の中、方便品第二の「舎利を供養する者」已下の二十余行に説かれた法門も、だいたい就類種の開会である。
問う。その相対種の開会とはどういう法門か。答う。摩訶止観巻一上に「どのようなことが円教の法門を聞くということなのか。それは、この生死の身がそのまま仏の法身常住の身体となり、煩悩がそのまま仏の般若の智慧となり、悪業がそのまま仏の解脱の徳となると聞くことである。三つの名があるけれども、三つの体があるのではない。本来は一体であるのを、三つの名を立てたのである。この三つはすなわち一相であり、その本体は別々ではない。法身が究竟すれば、般若も解脱もまた究竟する。般若が清浄であれば、余の二つもまた清浄である。解脱が自在であれば、余の二つもまた自在である。一切の法を聞くことはまたこのようなものである。皆仏法を具えて減少するところがない。これを円教を聞くと名づけるのである」と解釈されている。この釈は、すなわち相対種の開会の手本である。
その意味はどういうことか。答う。生死とは、我等が過去の業によって受けた果報としての苦しみの身心である。いわゆる五陰・十二入・十八界である。煩悩とは、見思・塵沙・無明の三惑である。結業とは、五逆・十悪・四重禁等である。法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来である。我等衆生は、無始の昔からこの煩悩・業・苦の三道を具足しているのであるが、いま法華経に値って、三道がそのまま法身・般若・解脱の三徳となるのである。
語句の解説
青鳧七結
青鳧は鎌倉時代の通貨のこと。青鳧は青蚨に同じで、かげろうの意。捜神記等によれば、かげろうの母子の血をとって、それぞれの銭に塗ると、その片方の錢を使えば、残った方を慕って銭が飛び帰るという言い伝えがある。転じて銅銭、孔あき銭のことを青鳧といった。なお諸説がある。七結は、銭の孔に紐を通して一連にしたもの七つをいう。一結は、ふつう100枚、100文である。
下州
下総・現在の千葉県北部。
甲州
甲斐国のこと。現在の山梨県。
観明静前代未聞
摩訶止観の最初にある文。章安大師が天台大師の摩訶止観を撰述するにあたり、その縁由を述べた序分。「止観の明静なる前代に末だ聞かず」と読む。
円頓止観
天台大師の説いた三種止観のひとつ。法華経を根本にした観法で、修行の段階や能力の差にかかわらず、直地に順一実相を対象として、実相の他に別の法なしと体得する止観のこと。妄念を止め、心を特定の対象に注ぐことを「止」といい、止によって智慧を起こし対象を観ることを「観」という。摩訶止観に体系化して説かれている。
法華三昧
法華経に基づき、中道実相の理を観ずる三昧のこと。三七日(3週間)にわたって行道と礼拝と坐禅を兼ねて修し、その間に礼仏、懺悔、誦経などを行ずるもの。半行半座三昧といい、天台大師所立の四種三昧の一つである。妙楽大師の止観大意には「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なる耳」とある。
就類種の開会
すべての衆生が共通かつ本然的にもっている正・了・縁の三因仏性を開発し顕現して成仏すること。就類とは同類の義。
相対種の開会
衆生が本来具足している不成仏の因たる煩悩・業・苦の三道をそのまま法身・般若・解脱の三徳と転ずること。相対とは、反対の義。
正因の種
成仏する正因の種子。正因仏性のこと。三因仏性の一つ。一切衆生が本然的に具えている仏性をいう。涅槃経巻二十七の「一切衆生悉有仏性」等の文によって、すべての衆生に本来、正因仏性が具わっていることが明かされている。
了因の種
了因仏性のこと。三因仏性の一つ。一切衆生が本然に具えている法性・真如の理を覚知する智慧をいう。
縁因の種
縁因仏性のこと。三因仏性の一つ。了因仏性を助けて正因仏性を開発していくすべての善行をいう。
煩悩と業と苦との三道
衆生が六道の生死を続けていく状態を示したもの。①煩悩・衆生の身心を煩わし悩ませる種々の精神作用。無明、貪欲、瞋恚等。②業・煩悩から起こる善悪の身口意の所作。③苦・煩悩、業を因として招く三界六道の苦しみ。④三道・三つが互いに因果となって相通ずること。煩悩から業に、業から苦に、苦から煩悩を生じ、展転していくのである。
法身と般若と解脱
仏に備わる三種の徳相。三徳。①法身・仏の清浄な真身それ自体。②般若・ものの道理を明らかに見通す仏の智慧。③解脱・煩悩の縛から解き放たれ、迷いや苦しみを脱し、自在なこと。
爾前の円
爾前諸教に説かれる円教のこと。釈尊が30歳で成道して以来、法華経を説くまでの42年の間、法華経に誘引するために説かれた方便の経。円教は円融円満で完全無欠な教法のことで、天台大師の教判では化法の四教の第四にあたる。爾前諸教においても、凡夫の位の次第を経なくても、あるいは煩悩を断じなくても成仏すると説くことを爾前の円という。
他師の円
帯権の円ともいう。権教を帯びた円教を信受する機根のこと。在世の衆生が権教によって調機調養されて後、円教を聞いて得脱したことをいう。
華経の迹門
迹門は本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
生死即法身
生死を繰り返す凡身がそのまま常住不滅の法身であるということ。
煩悩即般若
煩悩と般若が一体であるということ。煩悩即菩提のことをいう。
結業即解脱
結業も解脱も本然として一体不二の関係にあること。結業の結とは惑に結縛されていること。業とは所作の意。ゆえに結業とは、煩悩によって起こる所作、六道輪廻の姿をいう。解脱とは、煩悩の結縛を離れて自在を得た状態をいう。結業即解脱とは煩悩を断尽することなく、六道輪廻の姿そのままで仏の自在の力用を得ることをいう。
苦果の依身
凡夫の身心のこと。苦果は悪業の因によって受ける苦しみの果報をいい、六道の衆生の生死・苦しみをさす。
五陰・十二入・十八界
五陰とは、生命活動を構成する色陰・受陰・想陰・行陰・識陰の五つをいう。陰は集積の意で、一切の衆上はこの五陰が集まり和合して成り立っているとされる。十二入とは、六根と六境を合わせたもの。十二処ともいう。さらに六識を加えて十八界という。六根は対象を感知する感覚器官、またはその機能で、これが六境に縁することによって六識を生じ、具体的に物事を認知するのである。この関係を総称して十八界という。また、この五陰・十二入・十八界を三科といい、ともに凡夫の我への執着を打ち破るために説かれた法門である。とくに心に迷う者のために五陰を立てる。心を開いて受・想・行・識の四陰となし、色陰を合わせて五陰とし迷いを破す。とくに色法に迷う者のために十二入を立てる。色を開いて十入とし、心を二入とし、合わせて十二入とし迷いを破す。色心ともに迷う者のために十八界を立てる。色を開いて十界とし、心を八界とし、会わせて十八界とし迷いを破すのである。
見思・塵沙・無明
天台大師が一切の惑を三種に立て分けたもの。見思惑とは三界六道の苦果を招く惑をいい、見惑と思惑とに分けられる。見惑は、物事の道理に迷うこと。後天的、知的な迷いをいい、辺見・邪見等の妄見をいう。思惑は、貪・瞋・痴等の煩悩による本能的な迷いをいう。塵沙惑とは、大乗の菩薩が人を教化する時に生ずる障害をいう。塵沙とはその数が無量であることをたとえる。無明惑とは、中道法性の悟りを妨げる一切の煩悩の根本となる惑をいう。
五逆・十悪・四重
五逆とは五逆罪のことで、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血の五つ。五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。十悪とは、十悪業、十不善業ともいい、身に行う三悪である殺生、偸盗、邪淫、口の四悪である妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪である貪欲、瞋恚、愚癡をいう。四重とは、四重禁の略で、十悪のなかでとくに重い殺生・偸盗・邪淫・妄語のこと。
法身如来
仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022:09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562:01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144:08)等とある。
報身如来
仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022:09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562:01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144:08)等とある。
応身如来
仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022:09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562:01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144:08)等とある。
無始曠劫
無始は始まりがないとの意で、無限・永遠の過去を意味する。曠劫もはてしないかなたの時をさす。
三道即三徳
三道の迷いも妙法を信受することによって三徳に開き仏道を成ずることができること。
講義
本抄は富木常忍が母の三回忌追善のために、身延山におられる日蓮大聖人に青鳧七結を御供養申し上げたのに対し、その返礼として建治4年(1278)2月28日付けで書かれたお手紙である。
内容の大意は、法華経に明かされているところの相対種開会と就類種開会の二種開会について問答形式で説明されながら、とくに相対種開会をとおして、末代の凡夫の即身成仏の法門を述べられ、富木常忍の成仏によって母も成仏することを述べられている。
なお題号の始聞仏乗義は、本抄の最後の問答で「問う是くの如し之を聞いて何の益有るや、答えて云く始めて法華経を聞くなり」とある御文からとられたものである。もとより、この題号は御真筆にはなく、後世に名づけられたものである。
御真筆は、中山法華経寺に所蔵されている。
さて、本抄は冒頭に青鳧七結が、下州の富木常忍から亡き母の追善供養のためにと、甲州の身延におられる日蓮大聖人のところに送られてきたことを述べられている。
そして、以下に、円頓止観の法が凡夫の即身成仏の法を説いていることを述べられ、富木常忍の成仏によって亡き母も成仏することを教えられているのである。
はじめに、天台大師が摩訶止観に明かした円頓止観が法華三昧の異名であることを述べられ、この法華三昧の修行による開会に就類種・相対種の二種があることを示される。そして、この二種のうち、就類種は法華経だけでなく爾前の経にもあるが、相対種の開会は法華経に限ることを教示されるのである。
円頓止観について
本抄ではまず、天台大師の著した摩訶止観十巻を、章安大師が“前代未聞”の法門と讃えているのであるが、いったい摩訶止観のどの法門を讃えたかといえば、止観に説かれている円頓止観の法門であると答えられ、その円頓止観とは、法華三昧の異名であることを述べられている。
つまり、天台大師の説いた止観に三つあり、漸次止観、不定止観、円頓止観の三種で“三種止観”とも呼ばれる。
止観というのは、仏教の修行の方法で、「止」と「観」とから成る。「止」とは、心を一定の対象にそそぎ止めて心が外界の諸現象にひきずられて散乱・動揺するのをおさえることをいい、「観」とは、「止」によって不動になった心が正しい智慧を起こし、事物の実相の真理を観察することをいう。
ここから「止」を定、寂、静などともいい、「観」を慧、照、明などともいい、止観は定慧、寂照、明静としても使用される。
そのことは章安大師の「止観明静前代未聞」の言葉にも明らかであろう。
ところで、三種止観の漸次止観とは、散乱する心をおさえ、一定の対象に心を止める「止」の修行をおさめながら、浅きから深きへと次第に事物の実相の真理を「観」察しつつ悟っていく方法をいい、不定止観とは修行者の性格や能力などの個別差に応じて修行の順次次第が定まっていないものをいう。これらに対し円頓止観とは初めから、直ちに実相を対象として、たちどころに悟るのをいう。
天台大師は、漸次止観を次第止観という書に、不定止観を六妙門という書に、そして、最後の円頓止観を摩訶止観に述べているのである。
ではなぜ、円頓止観が前代未聞なのかといえば、修行者における性格、能力の個別差や修行の段階の差にかかわらず、直ちに実相の対象として、即座に悟る修行法であり、全く法華経によったものだからである。それゆえに妙楽大師は「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名たるのみ」と止観大意に記しているのである。
この妙楽の言葉を受けられたのかであろうか。日蓮大聖人は、円頓止観を法華三昧と述べられている。
法華三昧は、もともと法華経にもとづく三昧で、とくに天台宗では、法華経により中道実相の真理を観ずる修行法のことをさしている。法華経の三昧によってなぜ機根等によらない円頓の止観を成じうるかといえば、己心の仏性を開覚する就類種の開会のみでなく、煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と転ずる相対種の開会を可能にするのが法華経だからである。
二種の開会について
二種の開会とは、法華経巻第三薬草喩品第五の文に由来している。その文とは「唯だ如来のみ有って、此の衆生の種相体性、何の事を念じ、何の事を思い、何の事を修し、云何に念じ、云何に思い、云何に修し、何の法を以て念じ、何の法を以て思い、何の法を以て修し、何の法を以て何の法を得ということを知れり」である。
この文は、ただ如来、仏だけが衆生の種類や、衆生それぞれの姿、形、衆生それぞれの本質、衆生それぞれの改まらざる性分を知っており、また、衆生それぞれの修行の仕方や内容を知っているという意味であるが、この「衆生の種、相、体、性」の〝種〟について、天台大師は法華文句巻七上で、仏の種子と解し、就類種と相対種の二種の開会を挙げたのである。
本抄で日蓮大聖人は、法華経薬草喩品の文を解釈した法華文句巻七上を要約されて「薬草喩品に云く……」とされている。
では、就類種と相対種とはいかなる意味であろうか。まず、「開会」とは衆生の生命の内にある仏の種子、仏性を開発して、衆生が仏果を開くことをいう。その仏種、仏性の開発の仕方に二つあるというのが二種の開会である。
まず、就類種とは、同類種ともいい、原因と結果が同じ種類でなければならないとの前提に立って仏性を開発する仕方である。
どういうことかといえば、仏種、仏性が仏果と同類のものでなければならないから、仏性開発の修行法は、煩悩を排し、迷いを除き、染法をしりぞけながら、ただただ清浄なる仏性を開き仏果に至ろうとするのである。
この就類種開会とは三因仏性を開発することに他ならない。ゆえに、日蓮大聖人は、天台大師の法華玄義巻九下、法華文句巻七上の取意としての「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」の文を引用されているのである。
ここにいう正因の種とは、一切衆生が本然的に具えている仏性のことで、この正因の仏性を事実の上に顕して覚知する智慧を了因の種といい、経文の一句でも聞き、理解したり、了解したりすることのなかに現れてくるものである。また縁因の種とは、〝低頭挙手〟して仏や化導の師を敬うことや仏前に香華、灯明を供えること、合掌することなどにみられるように、了因仏性を開発する助縁となる善根功徳を指す。
さて、本文にも「宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず」と説かれているように、就類種開会は、その根本は法華経にあるといっても、爾前の円教にも説かれていて、必ずしも法華経独自の法門とはいえないのである。
なぜなら、涅槃経一つとっても「一切衆生悉有仏性」と説き、あらゆる衆生に仏性有りとするがゆえに、その仏性を育て開いて仏果に至ると、事実上はともかく教えの上だけでも衆生の成仏を説いているからである。
また法華経においても、迹門が明かしているのはこの就類種開会である。その一つとして、大聖人は法華経方便品の文を挙げられている。
その文とは、「諸仏は滅度し已って 舎利を供養する者は 万億種の塔を起てて 金銀及び頗黎 硨磲と碼碯玫瑰瑠璃珠もて 清浄に広く厳飾し 諸の塔を荘校し 或は石廟を起て 栴檀及び沈水……」に始まる部分で「……諸の過去の仏の 現に在すとき或は滅後に於いて 若し是の法を聞くこと有らば 皆な已に仏道を成じたり」で終わる〝二十余行の法門〟である。
この部分は偈頌から成っており、四句を一行としてちょうど〝二十行〟になる。残る〝余行〟とは、この部分の前にくる「又た諸の大聖主は 一切世間の 天人群生類の……」に始まり「……是の如き諸の衆生は 皆な已に仏道を成じたり」で終わるところであろう。
それはともかく、この方便品の文を見ると、童子が戯れに砂を集めて仏塔を作っても、また、人が散乱の心をもってひとたび南無仏と唱えても、画像、仏像も一華でも供養しても、仏道を成ずることができることを明かしている。これなどは縁因仏性の例であろう。
また、法を聞くものは仏道を成ずるとの表現もあり、これなどは了因仏性を指していることがわかる。
つぎに、相対種開会についてみると、本文で、大聖人は「其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」と述べられている。
相対種開会の〝相対種〟とは、敵対種ともいい、煩悩と菩提、迷いと悟り、染法と浄法、生死と涅槃、善と悪などの、相互に対立する異なった種類のものをいい、たとえば、悪を開いて善に会するというような場合、相対種開会という。
つまり、就類種開会の場合は、清浄なる仏性、仏種と相対立する煩悩や業や苦などの染法を排除しつつ仏種を開発し仏果に至るのであるが、この相対種開会は、自らに相対立する煩悩などの染法を包みこみ、むしろ、染法あるがゆえにこそ自らの開発も促進されるという力を仏種そのもののなかに見いだした法華経の独創的な法門である。
この相対種開会を端的にあらわしているのが煩悩即菩提、生死即涅槃である。
煩悩と菩提、生死と涅槃はまさしく相対立する異種類のものであるが、人間から煩悩や欲望を否定し去ったならば、人間は生きることすらできなくなるであろう。この煩悩断滅をめざして修行をしたのが、小乗教徒であったことはいうまでもない。しかし、人間の煩悩を菩提を求める方向に転じたとき、むしろ、煩悩を燃えたぎらせることが菩提への修行を促進させるということになるのである。
要は、煩悩があることが問題なのではなく、どのように煩悩の質を高め、価値づけるかにあるのである。このような観点から、相対種開会の法門は衆生の生命のあり方を、その本源まで遡って導き出した法華経の独妙の法理であるといえるであろう。
この相対種開会の意味を、大聖人は「煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する」と説かれたのである。
三道の当体を〝押えて〟とは、三道を捨てたり、断ち切ろうとしたりするのではなく、三道をありのままにとらえて、これを、仏種を開発し仏果を開くための機縁にしていくとき、煩悩は即般若の仏智に、業は即解脱の仏徳に、苦は即法身の仏身になるといわれているのである。
天台大師も、前述した法華文句巻七上で、相対種開会を説明する際に「種とは三道是三徳の種なり。浄名に云く、一切煩悩の儔を如来の種と為すと、これ煩悩道に由りて即ち般若有ることを明かすなり。また云く、五無間皆解脱の相を生ずと、これ不善に由りて即ち善法解脱有るなり。一切衆生は即ち涅槃の相にしてまた滅すべからずとは、これ生死に即して法身と為すなり、これ相対に就いて種を論ずるなり」と論じ、煩悩道によって般若あり、不善の業によって善法解脱あり、生死の苦に即して法身ありと、三道即三徳を明かしているのである。
さらに、本文に摩訶止観巻一上の「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し……」の文を引かれている。
この文は、天台大師が三種止観のうち円頓止観を説明するなかで述べたもので、生死即涅槃、煩悩即般若、結業即解脱、という相対種開会が示されている。そのうえ、法身、般若、解脱の三つの名は、仏に具わる三種の徳相で、三徳ともいうが、三つの名に分かれてはいても、それぞれの名に対応する本体があるわけではなく、ただただ仏身そのものを表しているにすぎず、三即一相であると注釈している。それゆえに、法身究竟すれば、般若も解脱も究竟し、般若が清浄なれば、法身も解脱も清浄になり、解脱が自在なれば、他の二つも自在になるのである。
三道即三徳
では、今まで何度も述べてきた三道即三徳について、本文にそってもう少し詳しく説明すると、まず、三道であるが、生死=苦は「我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり」と説かれている。生死は六道を輪廻する衆生・凡夫の苦しみの生命それ自体を指しており、その生命活動は五陰により営まれ、十二入・十八界という、外界を感覚し認識する働きがあって支えられていく。しかし、六道を輪廻する衆生の生命活動である限り、五陰も十二入・十八界も迷いと苦しみを招くものでしかないのである。
この、生死の苦しみの生命をもたらす因として、煩悩と業がある。
煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑をいい、業とは、五逆・十悪・四重等をさし、三惑にまとめられる煩悩が原因となって、五逆・十悪・四重等の業を結び、その業の報いとして、六道の生死を流転する苦しみの生命という果報を受けるのである。それゆえ、生死の苦しみは煩悩→業→苦の次第を経て形成されるのである。
この凡夫の迷いと苦しみの生命自体が、そのまま、仏種、仏性を開発するきっかけとなって仏果を成ずることができるというのが、前述したように、相対種開会である。
仏果を成ずるとは、仏身となることであり、凡夫の生命自体が即、仏の生命になることである。仏身にはおのずから三徳と三身がそなわっている。三徳とは三つの徳用、働きのことで、法身は、真理に安住する常住の仏身のことであり、般若は、仏が働かす清浄で一切に透徹した智慧のことであり、解脱は煩悩と業の束縛から離れて自在を得た状態のことである。この三徳はそのまま三身となり、本文にもあるように、法身=法身如来、般若=報身如来、解脱=応身如来となって、三道即三徳=三身が成立するのである。
凡夫の迷いと苦しみの生命それ自体がそのまま究極の真理を体とする仏の生命それ自体としての法身に、凡夫の生命を煩わし悩ます種々の精神作用としての煩悩・三惑がそのまま仏の智慧としての般若に、煩悩を因として起こす五逆・十悪等の業はそのまま仏の慈悲の自在なる振る舞いとしての解脱に止揚されるのである。
ところでこれまでの説明は、どこまでも二種の開会の内容、とくに相対種開会の卓越した法門の内容を明らかにしてきたことになるが、では、いかにすれば末代の凡夫が相対種の開会を事実の上で為し得るのかという実践的な問題は説かれていない。
わずかに、本章の最後に「我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり」と述べられ、〝今法華経に値つて〟との言葉が実践的な問題への方向を暗示されているにすぎない。
この問題は本抄の後半に説かれるのである。