下山御消息 序講義四

三、本抄と十大部他抄との関係

 富士一門跡門徒存知のことには、十大部が

   ①立正安国論

   ②開目抄

   ③報恩抄

   ④撰時抄

   ⑤下山御消息

   ⑥観心本尊抄

   ⑦法華取要抄

   ⑧四信五品抄

   ⑨本尊問答抄

   ⑩唱法華題目抄

 という順序で記されている。ただし、この順序は年代順でもなければ重要性によって配立されたものでもない。

 本項では、下山御消息をより理解するために、本抄との関連を念頭に置きつつ、これら他の十大部御書の各篇の内容を概略しておくことにしたい。大聖人の仏法の大網はこれら十大部御書の中に示されており、これによって本抄の教学的位置はおのずから明らかになると思われるからである。

①立正安国論

 文応元年(1260)7月16日、当時の鎌倉幕府の最高権力者であった前執権の最明寺入道時頼に上呈された。これは大聖人にとって第一回の国主諌暁であった。門徒存知事には「此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う」(1604-10)とあるが、現存する御正本には二種類ある。一つは大聖人が文永6年(1269)12月8日に写されたもので、千葉・中山法華経寺に所蔵されている。もう一つは、建治・弘安年間に書かれたと推定されている。いわゆる「広本」と称されているもので京都・本國寺に所蔵されている。

 最明寺殿に提出された安国論の御真筆は現存しないが、ほかに身延山延暦寺にも御真蹟があったことが目録によって確認されており、少なくとも三種類の大聖人御直筆の御真蹟が存在していたことになる。更にこの他にも御真蹟断片14紙が10か所に散在している。これは、最明寺に提出される以前の現本を御自身の手元に置かれていて、それをもとに自ら書写されたということであり、他に類例のないことである。これをもって大聖人がいかに安国論を大事にされていたかが拝察される。創価学会版御書全集の安国論は、中山法華経寺本が基準になっている。

 同書は、正嘉元年(1259)の大地震を機縁として、当時相次いだ未曾有の災難の由来を明かし、その解決の方途を示すために御述作された。国主をはじめ人々が邪法を信じ、正法の教えに背いているところに一切の災難の根源があることを諸経の文を引いて明らかにされたのである。このことについては本抄にも「此の災夭は常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず定めて仏法より事起るかと勘へなしぬ、先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る」(0355:02)と仰せられている。

 安国論では、法然の念仏が仏法僧三宝を破壊する邪義であることを指摘され「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:03)と述べられ、災厄を生じている元凶たる謗法を一刻も早く禁ずるよう諌められている。この点について日寛上人は立正安国論愚記において、まず撰時抄の「文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと」(0287:09)との御文を引かれるとともに、本尊問答抄の次の文を挙げられ、安国論における念仏折伏の諸宗破折の意を含んでいることを示している。

 「真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云云、其の証拠を尋ぬ可きなり所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経・此の経に分明なり此に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君・或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻見なり、譬えば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ超高が民の身として 横に帝位につきしがごとし又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし漢土にも知る人なく日本にもあやしめずしてすでに四百余年をおくれり。是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍つて 故最明寺入道殿に奉る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し」(0371:03)

 このように、立正安国論における破折は、その元意においては念仏一宗だけでなく諸宗に及ぶのであり、その点は下山抄を共通するといえるであろう。

 ただし安国論執筆当時は、大聖人にとっては弘通の初めであり、最も流行していた念仏の邪義からまず折伏を加えられたものと拝される。

 これに対して、下山抄の御執筆は建治3年(1277)であり、安国論が著されてから17年後のことである。この間に時代背景も大きく変っていた。つまり、文永11年(1274)10月には、大聖人が立正安国論で警告されていた他国侵逼難が遂に蒙古軍の未曾有の国難として現実のものとなっていった。そして、その蒙古調伏のために一国をあげて盛んに行われるようになったのが真言密教による祈禱であったのである。

 こうした背景と併せて大聖人は撰時抄・報恩抄を相次ぎ著され「宗と申す大邪法・念仏宗と申す小邪法・真言と申す大悪法」(1064:09)と仰せられてるように、大悪法たる真言密経の本格的な折伏に力を注がれている。下山抄もこうした御化導の一環のなかで、真言の破折にも重きを置かれた御書の一つと拝することができる。

②開目抄

 文永9年(1272)2月、四条金吾に賜ったものであるが、もとより門下一同の書である。十大部のなかでは佐渡期の最初の御書である。門徒存知事には「佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604:13)とある。その後、御正本は身延に伝えられていたが、明治8年(1875)身延の大火で焼失してしまった。

 同抄は人本尊開顕の書として、立正安国論・観心本尊抄と共に三大部に数えられる重書である。「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(0186:01)の一節に始まり、五重の相対によって儒教及び外道に比べて仏教の勝れたる所以と成仏の種子である一念三千の法門は法華経本門寿量品の文底に秘沈されていることが明かされている。それとともに法華経の説く通り三類の強敵に値っていることを結論されている。「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」。

 日寛上人は開目抄愚記で同抄の御述作の由来について「凡そ当抄の興起は、別して竜口巨難に就いて由って起る所なり、謂く、蓮祖大聖人は正しく末法の法華経の行者にして三徳有縁の仏なり。然るに日本国の上下万民は末だ曾てこの事を知らず。父母宿世の敵よりも強く悪み、謀反殺害の者よりも強く責め、剰え文永8年(1271)9月12日すでに御命に及ぶ。然りと雖も、誹謗の人敢えて現罰を蒙ることなし、諸天等の誓言も殆ど徒然なるに似たり。故に弟子檀那は恐らく疑心を生じ、蓮祖はこれ法華経の行者に非ずと謂う。故に正しく法華経の行者なることを決定し、疑を断じて信を生ぜしめんが為にこの抄を述作するなり」と述べられている。

 また開目抄では「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ」(0223:16)と仰せられ、竜の口の法難において凡身を捨てて発迹顕本されたことを述べられている。

 そして末尾で大聖人が主師親の三徳を具備されていることを「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)と結論されている。この御文は、冒頭の文を承けて大聖人が三徳具備の末法の御本仏であることを自ら宣言されたのであり、同抄の元意をあらわされた重要個所である。ところが、縮冊遺文や昭和定本当においては、「しうし父母」を「したし父母」としている。今日では本抄の御真筆は焼失しまっているために確認しようもないが、日寛上人は文段で、同抄の大意から「しうし父母」が正しいとし、もし「したし父母」としても、三徳のうち親徳に他の二徳を摂して述べられたと拝すべきであると述べられている。

 下山抄においても「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり」(0355:12)と、大聖人が一切衆生に対して主師親の三徳を具備されていることを明確に述べられている。

③報恩抄

 建治2年(1276)7月21日、55歳の御作。大聖人の清澄修学時代の師である道善房が同年3月26日に死去し、大聖人はその知らせを受けて、道善房の追善供養のために同抄を認められ、同修学時代の法兄に当たる浄顕房・義城房のもとに送られた。門徒存知事には「身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604:15)と記されている。

 同抄は冒頭に「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」(0293:01)と説き起こされ、人の人たる所以は報恩にあり、恩を報ずるためには仏法を習い究めてその極理に通達せねばならないとして、道善房のもとを離れて修学の旅に出られた動機を述べられた三大秘法の重要法門に説き及んでいる。報恩抄送状には「此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ 詮なからん人人にきかせなば・あしかりぬべく候」(0330:07)と記されており、おの「大事の大事」について日寛上人は報恩抄文段の序において次のように御教示されている。

 「凡そ五大部の中に、安国論は佐渡已前にて専ら法然の謗法を破す。故にこれ権実相対にして末だ本迹の名言を出さず。況や三大秘法の名言を出さんや。開目抄の中には広く五段の教相を明かし、専ら本迹を判ずと雖も但『本門寿量の文底秘沈』といって、尚末だ三大秘法の名言を明かさず。撰時抄の中には『天台末弘の大法経文の面に顕然なり』と判ずと雖も、而も浄・禅・真の三宗を破して、末だ三大秘法の名義を明かさず。

 然るに今当の中に於て、通じて諸宗の謗法を破折し、別して真言の誑惑を責破し、正しく本門の三大秘法を顕す。これ則ち大事の中の大事なり」

 末法弘通の正法として三大秘法の名目を明示しているのは、五大部御書のなかでも同抄のみである。

 報恩抄のなかで三大秘法に言及されているのは、次の個所である。

 「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給う迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328:13)

 この御文において重要なことは「本門の教主釈尊を本尊とすべし」「釈迦多宝」「脇士となるべし」との語が示す内容である。ここでは、釈迦・多宝の二仏が本門の釈尊の脇士となると仰せられている。したがって、多宝と並ぶ「釈迦」とは本門の「教主釈尊」と同一ではないことが明らかである。

 これをいかに解すべきかで、釈尊を本仏と立てる他門流では苦しい解釈を重ねてきた。安国院日講も録内啓蒙巻第15の中でそれまでの解釈を列挙しつつ、結局は「粗意測り難し、故に衆義並び存して後賢の研覈に備う」と述べ、自ら正解を放棄して後世に委ねざるを得なかったのである。

 この問題についても、下山抄で大聖人が御自身のことを「教主釈尊の大事なる行者」と仰せられた御真意を拝すれば、明瞭となるのである。すなわち、教主釈尊よりも大事なる行者である日蓮大聖人こそが「本門の教主釈尊」にほかならない。すなわち、報恩抄に仰せの「本門の教主釈尊」とは大聖人を指し、釈迦・多宝の二仏がその「脇士」となることは明らかである。

④撰時抄

 建治元年(1275)、54歳の御作。門徒存知には「駿河国西山由井某に賜る,正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り」(1605:01)とある。

 由井某とは駿河国西山に住んでいた。日興上人の外戚に当たる人と考えられている。また、これによって十大部御書のうち、御正本が日興上人の手許にあったごくわずかのこの書のうち上中二巻のみであったことが知られ、令法久住に心を砕かれた日興上人の御心中が忍ばれる。その後、いかなる経過をたどったかは不明であるが、御正本は現在・玉沢の妙法華寺に所蔵されている。

 同抄には、仏法の実践においては、まず時を知るべきことを論じ、正法・像法時代の仏法弘通の歴史を踏まえ、末法今時において弘通すべきは法華経であり、この法華経を身読した閻浮第一の法華経の行者が大聖人御自身であることを示され、大聖人の仏法が必ず末法において広宣流布することを述べられている。

 仏教伝来の歴史については、撰時抄の内容を更に平易に要約されている。

 また、撰時抄においては、大聖人が主師親の三徳を具備されていること、閻浮第一の法華経の行者であられることを明かされたあと、「仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすといへども今のごとくの大難は一度もなきなり、南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」(0266:13)と仰せられ、更に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを 聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:08)として、三度にわたる予言の的中をもって聖人たる証とされている。また「我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり」(028:06)と述べられている。

 この二つの御文は、日寛上人が「『大人』とは大聖という事なり」と御教示されているように、大聖人が御自ら御本仏の異名たる「大聖人」と称されるべきことを明かされたものであり、御本仏としての境界を宣言されたものと拝さなければならない。

⑤下山御消息

 本文の主題につき、省略する。

⑥観心本尊抄

 文永10年(1273)4月25日、52歳の御時、佐渡で著され、富木常忍に与えられた。門徒存知事には法華取要抄・四信五品抄と共に、「已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り」(1605:08)とある。御正本は現在も中山法華経寺にあり、国宝に指定されている。

 同抄は、仏法の究極たる事の一念三千の法門を末法において観心の本尊として顕することを宣せられており、故に法本尊開顕の書といわれる。末法の初めに地涌の菩薩が出現して本門の釈尊を脇士とする閻浮第一の御本尊が日本に出現することの必要性を経文及び天台大師等の釈によって明かされ、この御本尊を受持する功徳の大なることを説かれている。

 下山抄が未入信の下山兵庫に与えられたのに対し、本尊抄は当時の在家信徒の重鎮であった富木殿へ与えられたものである。また説かれる法門が大聖人の御身にかかわる大事中の大事であったことから綿密に論を尽くされ、表現も極めて慎重を期されて、深き透徹した信解のある者にのみその内容の理解が可能な重書となっている。観心本尊抄送状に「無二の志を見ば之を開柘せらる可きか」(0255:02)と仰せられている。

 また、本文中にも「問うて曰く教主釈尊は」(0242:14)の後に、「此れより堅固に之を秘す」(0242:14)と注し、あるいは「答えて云く宣べず、重ねて問うて云く如何、答う之を宣べず、又重ねて問う如何、答えて曰く之を宣ぶれば一切世間の諸人・威音王仏の末法の如く又我が弟子の中にも粗之を説かば皆誹謗を為す可し黙止せんのみ、求めて云く説かずんば汝慳貪に堕せん、答えて曰く進退惟れ谷れり試みに粗之を説かん」(0253:02)と述べられているように、慎重に慎重を重ねて説かれたのが次の内容である。

 「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず」(0254:08) 

 この御文は、末法に地涌の菩薩が出現して本門の釈尊を脇士とする未曾有の御本尊を建立するとの意であるが、大聖人の正義に反して本迹一致を唱える不相伝の徒輩にとっては到底その深意を理解することはできずに、原文の漢文を誤って解している。すなわち御真蹟の原文は「此時地涌千界出現、本門釋尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此國、月支震旦未有此本尊」となっている。他門流では「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」と誤読しているのである。

 この読み方が誤っていることは同抄の他の例に照らして明らかである。すなわち同様の表現が次のように記されている。

 「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」(0248:01)

 この赤文字部は縮冊遺文によると「小乗ノ釈尊ハ迦葉阿難ヲ為シ二脇士ト一権大乗並ヒ二涅槃法花経ノ迹門等ノ釈尊ハ文殊普賢等ヲ一為ス二脇士一」となっており、いずれも「為ス二脇士一」すなわち「脇士と為す」と読んでいる。にもかかわらず「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」「本門の釈尊を脇士と為す」の文を「本門の釈尊の脇士と為り」と読んでいるのは、余りにも不自然であるといわざるを得ない。

 ともかく、その後に御図顕された御本尊の相貌によって大聖人の御真意は明瞭であるといわねばならない。すなわち、本門の釈尊を脇士となす本尊こそ、地涌千界の上首・上行菩薩の再誕として出現された大聖人の顕される一閻浮提第一・未曾有の御本尊にほかならない。しかしながら、上行菩薩の再誕としての御立場は迹で、その本地は久遠元初自受用身如来であられる。人に約し久遠元初自受用報身如来とは即法に約して南無妙法蓮華経であり、御本尊中央の首題であられる。釈迦・多宝はその左右であって脇士となっているのである。

 その意味で、下山抄における「教主釈尊より大事なる行者」とは、まさに大聖人の御内証の御立場を示されたのであり、教主釈尊とは久遠元初の御本仏に対して脇士となる本門の教主釈尊を指している。

⑦法華取要抄

 文永11年(1274)5月24日に著され、観心本尊抄と同じく富木氏に与えられた。十大部のなかでは、身延に入山されて最初に著された御書である。

 同抄は、一切経のうちの最第一の教えが法華経であり、法華経はことに末法のため、日蓮大聖人のために説かれた経であることを明かされ、法華経の肝要であるとともに、正像に弘められず末法のために残された秘法が三大秘法であることを「問うて云く如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(0336:02)と述べられている。そして、大聖人当時の天変地夭はひとえに上行菩薩が出現して三大秘法の法門を世界に流布すべき先兆であることを述べられている。

 日寛上人は取要抄文段において「当に知るべし、諸抄の中に或は『寿量の文底』といい、或は『寿量の肝心』といい、或は『三箇の秘法』という。皆これ久遠名字の妙法なり。これ則ち正中の正、妙中の妙、要中の要、故に当流の意は、久遠名字の妙法を肝要と名づくるなり。当に知るべし、三世十方の微塵の経々、無量の功徳は、皆悉くこの要法に帰するなり、今蓮祖大聖、偏に如来の付嘱に任せ、この要法を取って末法今時に弘通したまう相を述ぶ。故に『取要抄』と名づくるなり」と述べられている。

 なお下山抄においても「世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(0346:10)と仰せられているが、この御文の「迹門十四品を譲り給う」とは迹化の菩薩に与える法華経として迹門の法華経を付嘱したということであり、法華経の前半の半分を迹化に、後半の半分を本化地涌の菩薩に譲ったという意味ではない。次下の御文にあるように、本化地涌が弘められるのは「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字」なのである。

⑧四信五品抄

 下山抄と同じ建治3年(1277)、56歳の御作で富木氏に与えられた。門徒存知事には「法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く」(1605:08)とある。

 富木常忍は不審というのは「法華経を修行するためには戒定慧の三学を具える必要がある」という通説を引いて、これをいかに考えるべきかと大聖人に質問したことを指すと思われる。

 これに対して大聖人は、末法の初心の行者は、法華経分別功徳品第十七に説かれる四信及び五品のうちのそれぞれ最初の一念信解・初随喜の位であり、この一念信解・初随喜、すなわち名字即の位にこそ法華経の本意があることを明かされている。そして、初心の者には戒・定の二法を制止して専ら慧の実践をさせるべきであり、以信代慧の原理によって深く信に立脚するよう修行の肝要を示されている。

 更に伝教大師の「二百五十戒忽に捨て畢ぬ」及び「末法の中に持戒の者有らば既に是れ怪異なり市に虎有るが如し是れ誰か信ず可き」の文を引かれて、戒を重んずる考え方を打ち破られている。ここに小乗戒と大乗戒との本質的相違を示唆されるのであるが、これは下山抄における良観批判の御文と重ね合わせるならば、その深意が明瞭となろう。すなわち鎌倉の良観こそまさに市の中の虎にほかならないということである。

 大聖人はまた同抄で、仏教伝来の歴史を記されつつ、伝教大師の功績をたたえられて「此の人先きより弘通する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取つて末寺と為す、日本の仏法唯一門なり王法も二に非ず法定まり国清めり」(0342:17)と、法華迹門の広宣流布の相を述べられている。しかるに弘法・慈覚・智証の三大師が大日経を重んじて、仏法の流れを濁してしまったとして「所詮三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し」(0343:05)と結ばれている。

⑨本尊問答抄

 弘安元年(1278)9月、大聖人の清澄寺修学時代の法兄である義浄房日仲に与えられた。門徒存知事には「本尊問答抄一巻」と記すのみであるが、これは前述したように、同書が未完成のままに日澄師が病に倒れたためと考えあれる。同抄が重要でないということではない。

 同書は十大部の中では最後に著されたものとなっている。下山抄はこれに先立つこと一年であるが、この間に、大聖人がかねてから主張されていた真言や禅宗との法論対決という形で実現しかけたことがある。ところが、いかなる経過をたどったかは不明であるが、結果として公場対決は実現しなかった。

 三沢抄に「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、 此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489:07)と仰せのように、大聖人は真言宗との公場対決を極めて重視されていたが、これは実現しないまま、竜の口の法難を迎えたのであった。

 竜の口の法難を経られて、万一の事態を考慮された大聖人は、門下のことを思われて、信頼すべき人物を対告衆として重要法門を書きとどめられたと拝察される。十大部御書でいうならば、立正安国論と唱法華題目抄を除いてはすべて佐渡已後の御述作である。

 大聖人は、公場対決が実現しなかったことから、以後は後世の弟子に広布の実現を託して、令法久住のために全力を注がれた。本尊問答抄が時期的には十大部の締めくくりとなった背景としてこのような事情があったと推察できよう。

 同抄では、まず末法では釈尊を本尊とするのではなく、法華経の題目を本尊とすべきことを教釈を引いて論証し、法華経こそ釈尊をはじめ、十方諸仏の能生の根源であると説かれている。続いて日本へ仏教が伝来して以来の歴史を詳述して諸宗を破折され、殊に日本一国を謗法で毒した源である弘法・慈覚・智証の三大師の誑惑を明らかにされ、真言が亡国の法である現証として、源平の戦いと承久の乱とを挙げられている。そして蒙古の調伏の祈禱を真言によって行うならば、三たび亡国の因になるであろうと警告されている。

 最後に大聖人が顕される御本尊について「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へどもいまだ見へさせ給はず、日蓮は其の人に候はねどもほぼこころえて候へば地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり」(0373:17)と述べられている。

 今、下山抄を対照とすれば、この御文は、実に仏滅後二千二百三十余年の間、未曾有であった御本尊を顕されているのが大聖人であり、それは大聖人が「教主釈尊より大事なる行者」であるからこそ可能なのである。

⑩唱法華題目抄

 文応元年(1260)5月、39歳御作、対告衆は特に記されていない、御正本は所在不明であるが、日興上人による写本があり、由井家が所蔵しているという。門徒存知事には「此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり」とある。

 十大部御書の中では最も早く著された御書であり、立正安国論上呈の2ヵ月前にあたる。内容は爾前経と法華経との相違すなわち権実相対に主眼が置かれ、いわば法華経入門として簡明に法門が説かれている。また、念仏が直接の破折の対象となっていることにおいても下山抄と共通しているといえよう。

 同抄は15問答で構成されており、まず法華経の題目はたとえばその文義を知らずして唱えてもその功徳が莫大であることを述べられ、流通分たる法華経分別功徳品第十七と随喜功徳品第十八の意をとって「謗法と申すは違背の義なり」(0004:16)と述べられ、続いて五十展転の功徳を示されている。

 しかしながら、多くの初心の人々は、念仏者等の悪知識によってたぶらかされ、成仏を妨げられるとして、涅槃経と法華経勘持品第十三の意を取って「末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候」(0006:01)と仰せられている。

 続いて本尊と修行法に言及され、法華経八巻、一品、あるいは題目をもって本尊と定めるべきこと、行儀は本尊の御前においては座立行を行い、常の所行としては題目を唱えるべきことを示されている。更に法華経を弘めるべき機根と時について触れられ、法華経を弘めない者は天魔であると断じられている。そして法門をもって邪正を糺すべきであって利根と通力によってはならないと結ばれている。

四、本抄が十大部に選定された理由

 ここで、再度、十大部御書における問題点を整理しておきたい。

 門徒存知事に挙げられた十大部御書のなかで、現時点でほぼ完全に存するものは、立正安国論・観心本尊抄・法華取要抄・四信五品抄・撰時抄の五編であり、これに断簡多数の現存する下山抄を加えると、十大部のうち御真蹟が伝わっているのは六編を数えることに成る。

 更に、明治8年に焼失した開目抄と報恩抄は身延の記録によると御真蹟が存在していたことが確認されている。残る唱法華題目抄と本尊問答抄については、御正本の所存が不明であるが、いずれも日興上人の写本がある。

 さて、十大部御書という名称は、日興門流以外では用いられていることを聞かない。しかし、三大部という名称は早くから用いられており、日蓮大聖人御入滅後67年にあたる正平3年(1348)には、既に身延山第5世の日代に祖書三大部見聞という著名が見えている。これに比べると五大部という名称の初出は更に200年ばかり下る。即ち要行院日統の著に五大部講義と見えるのが初出である。また日寛上人が報恩抄文段において「五大部」の語を用いられたことは前述した通りである。

 なお、門徒存知事に記された十大部の順序については、そのようになった理由が種々考えなれるのであるが、まず観心本尊抄・取要抄・四信五品抄の三編は富木氏に与えられたことから、これを一括して並べられたこと等により順不同となったことが考えられる。また観心本尊抄が門徒存知事では6番目に記されていることを踏まえると、十大部選定の段階では五大部や三大部という分類はまだなかったとも推定される。

 さて、前項における十大部御書の概念によって、下山抄が他の九編の御書と内容的に深くかかわっていることを確認した。もっとも大聖人の御書においては、こうしたことは下山抄に限ったことではなく、それぞれが密接にかかわっており、一つの御書の元意、あるいは一つの御文の深意を把握するためには、御執筆の時期、背景を踏まえつつ、法門の全体観の上から理解する必要があるといってよい。

 しかしながら、大聖人が因幡房の立場を借りてではあるが、本抄において末法の御本仏としての御内証を明示されていることは、他抄における重要法門の正確な理解に資すること大であり、換言すれば本抄の存在は、大聖人の御相伝に基づいた日興門流の教義の正統性を裏付けるうえで極めて重要であるといえるであろう。また、本抄を与えられた下山兵庫が必ずしも仏法に明るい人ではなかったから、あくまでもその論述は平易に展開され、本尊抄のように漢文の読み方をめぐって紛糾することもない、不相伝家の他門流の本抄の改竄説を唱えたのも、かつてそうした本質の重要性を物語っているといえよう。

 本抄の著された建治3年(1277)は、既に前年の報恩抄をもって五大部のすべてが終了し、これによって大聖人の仏法における重要法門の大網が整足されたことになる。つまり、三大秘法の建立という御化導の究竟に向けて、御自身の法門を周到に論述され、いよいよ末法万年にわたる一切衆生救済の根源であり出世の御本懐たる大御本尊の建立へと最後の御化導に入られるのである。この意味でも、本抄は大聖人の一期の御化導にいて重要な位置を占めており、日興上人が本抄を十大部の一つとして選定された所以もここにあると拝することができよう。

本抄の大意

 下山抄は、大聖人が因幡房日永の立場を借りて下山氏に送られた啓蒙の書でありながら、大聖人御自身の御内証の一端を明かされた重要な御書である。したがって決して偶発的に御内証が明かされているのではなく、周到に論旨を運ばれている。そのことは、以下の本文の流れを見ることによって明らかになるであろう。本抄の別名を法華本門抄という所以もここにある。

 本抄御執筆の時期は第一回の蒙古襲来から3年後で、いつ再度の来襲があるかわからないという不穏な時代であり、そうした不安な世相の中で、仏法の正義に目覚めるべきことを大聖人は繰り返し訴えられている。

 なお、本抄を与えられた下山兵庫五郎光基は、念仏の強信者であったが、この光基に対する、いわば仏法入門となっている。すなわち身延の草庵における大聖人の説法の内容を紹介するという体裁をとりながら、正・像・末という仏法流布の歴史を辿り、法華経の正統性と、法華経に予言された大難を乗り越えてこの法華経を身読した大聖人こそが、教主釈尊よりも更に根源的な仏、すなわち久遠元初の御本仏であられることを文証と理証を通して明快に示されている。 

 本稿においては、以上のような概念を踏まえて、基本的には日亨上人編纂の御書全集に従って、本抄を14段に分けた。それぞれの段落ごとの大意は次の通りである。

第一段 因幡房が法門の聴門に至る経過(0343:01~0343:08)

 「例時には阿弥陀経をよむべきではないのか」という光基から因幡房宛ての詰問に対して、因幡房がそれまで退転なく読誦してきた阿弥陀経を止めて、昨年より法華経の自我偈を読誦している現状、及び阿弥陀経読誦を止めた理由を書き出して本抄が始まる。

 すなわち本抄執筆の3年前文永11年(1274)の夏の頃、当時既に有名になっておられた日蓮大聖人が身延に入山された。その大聖人にお目通りしに行くという人があり、因幡房は様子を見るだけでもいいという気持ちから、大聖人の御説法を御庵室のうしろに隠れてそっと聴聞する機会に恵まれた。これが阿弥陀経読誦をやめるきっかけとなったと説明する。

第二段 宗教の五綱と大小兼行の戒め(0344:01~0344:11)

 その折に聴聞した法門の内容はおよそ以下に述べる通りである。

 まず法華経と阿弥陀経などの諸経とを比べたときに、その勝劣が天地雲泥であることは今更いうまでもないが、法華経を修行するにあたっては大小・権実・顕密を弁え、更に弘通すべき時と衆生の機根とを考えねばならない。しかし今の日本では、人々は阿弥陀経を重視して法華経を軽視しているばかりか、時や機根や弘通の先後によって修行法が異なることを誰ひとりとして弁えていない。故にいかに修行しても功徳がないのである。弘教の順序として、小乗が流布した国に大乗を流布することはあるが、その逆は許されず、まして初心の行者が大乗と小乗を兼ねて修行するようなかとがあっては断じてならない。と。

第三段 鑑真より伝教大師に至る仏教の歴史と正直の行者(0344:12~0346:02)

 像法時代に日本へ天台法華宗の章疏をもたらした鑑真は、当時の衆生の機根が未熟であったので、天台法華宗を弘めることはせず、小乗の戒壇を建立した

 その後、伝教大師は、律宗等の南都六宗と禅の奥義を究めたばかりでなく、天台法華・真言の二宗の勝劣を究めた。やがて延暦21年(0802)に高雄講経によって、伝教大師は法華第一を明らかに示し、六宗の高僧をして帰伏状を出さしめた。この歴史的事実に加えて法華経及び伝教大師の文証によって、法華経が諸経の中でも最も勝れていることが明かされる。しかして正直の初心の行者であるべき姿は、爾前の諸経への執着を捨てて純粋に法華経を修行するところにこそある。と論される。

第四段 正像末の弘通と上行喜薩の出現(0346:02~0347:05)

 次に弘通の順序に関しては、釈尊は正・像・末の三時を区分し、そのそれぞれの時に弘通すべき経と人とを定められた。すなわち正法1000年のうち前半は小乗の教えを迦葉・阿難らが弘め、その後半には権大乗の教えを馬鳴・竜樹等が説き、像法1000年には法華経迹門の法門を天台大師・伝教大師等が弘通したのである。

 そして今、末法は上行菩薩が出現して法華経本門を弘通すべき時にあたっており、その瑞相は既にあらわれている。しかるに諸宗の人師等は経の浅深に迷い、仏の付嘱の筋を忘れて、機根をも考えず自分勝手に宗派をたてている。ことに律宗等の小乗経は、インドにおいて正法時代の前半に弘通された小法であり、日本においては天台法華宗の流布の前提として、衆生の機根を調えるという役目をもっていたに過ぎない。だからこそ像法時代の末に伝教大師が出現し、叡山に法華経円頓の戒壇を建立した時、日本国をあげて小乗の戒壇は捨てられたのである。

第五段 良観ら鎌倉律師の批判(0347:06~0349:09)

 現在の律師は、このようにとっくに破られ捨てられた小乗の経典を取り出して、これに法華経の大戒を盗み入れることによって公家や武家を欺き、自ら国師であると萬じているのであって、天下第一の欺瞞者というべきである。涅槃経において釈尊は像法・末法の悪比丘の姿を予言して「戒律をもっているかのごときの比丘」と述べているが、鎌倉極楽寺の良観こそまさにその悪比丘であり、彼に欺かれた日本国の人々は経文通りに現世では亡国の、後世には無間地獄の苦悩に陥らなければならない、と警告される。ところが責められた良観すなわち両火房は、讒言によって日蓮大聖人を亡き者にしようと画策し、このため、大聖人が身命を捨てて国主を諌暁されても、国主等は彼にたぶらかされ、誰一人大聖人の讒言を用いようとしなかったのである。

第六段 両火房の祈雨(0349:09~0351:04)

 極楽寺良観の本質が法華経勘持品第十三に説かれる第三の強敵、すなわち僭聖増上慢であると見定められた大聖人は、文永8年(1271)6月、折しも良観が幕府より祈雨を命ぜられたことを伝え聞き、彼のもとへ使者を遣わして祈雨の勝負を申し入れ、良観はこれを受けた。

 ところが当初の期限であった7日どころか14日かけて祈っても雨は一滴も降らず、かえって暴風が起き、勝負は誰の眼にも明らかとなった。しかるに良観は、潔く敗北を認めて邪見を翻し山林に隠れるべきところを臆面もなく弟子檀那に顔をさらし続けたのみならず、大聖人を陥れんと画策したのである。このような大悪人の讒言を用いるならば、現世の亡国と後生の無間地獄を招くことは疑いない、と大聖人は再度警告された。

 更に、こうした祈雨の失敗の前例として、弘法や善無畏・金剛智・不空らを挙げ、それに対し、天台大師や伝教大師の場合はその祈りによって慈雨が降ったという史実を指摘される。

第七段 三類の強敵と法華経の行者(0351:05~0352:03)

 再度、勧持品と涅槃経の経文を引き、仏説と当時の日本の状況とを照らし合わせて、三類の強敵とその役割を究明されていく。すなわち第三の強敵を呼び起こした日蓮大聖人こそが法華経の行者であり、また良観がいたからこそ経文が虚妄でないことも証明されたことになる。

 この経文が真実であるとすれば、良観に帰依して日蓮を迫害する国主は、経文である通り現世には亡国、後世に無間地獄はもはや疑いないではないか、と三たび警告され、経文の予言通りの諸天による治罰が、日本の歴史始まって以来未曾有の大事たる蒙古襲来として現実になろうとしていることを示されている。

第八段 叡山の密教化への歴史(0352:03~0354:09)

 仏教以前の時代は衆生の機根が良かったが故に、外典を以て世も治まったのであるが、時代の進展とともに聖賢も出現せず福徳の人も滅じてきたために三災七難が起こり、外典では到底治まらなくなってきた。そこで仏が出現されて以後、内典のうちに小乗経を用いることによって世は治まった。しばらくそこで保つことはできたが、時代の推移につれ人の悪は増長し、やがて小乗経では治まらなくなったので、次には大乗経を用い、更にそれも治まらなくなって伝教大師が法華円頓の戒壇を比叡山に建立し、世を治めたのである。

 しかるに、弘法大師という天下第一の自讃毀他の輩が伝教大師入滅後に公家の人々をだまして真言宗を立てた。この真言の誑惑は、比叡山第三代座主の慈覚や第五代の智証に及んだ。この二人は、真言が法華経に勝るとして伝教大師の正義を歪曲してしまい、そのために王法の世界も下剋上の世となってしまったのである。それでもしばらくは儀式上、法華経読誦の伝統は絶えなかったが、後白河法皇の時代になって、座主明雲によって法華の三部経読誦が真言の三部経に取って代わり、天台山は名ばかりで真言の山と化した。これが決定的な一国亡国の先兆となすのである。

第九段 末法の様相と立正安国論の提出(0354:09~0355:11)

 末法に入ると、この真言に加え、禅・念仏の悪法が並び起こってきた。承久の乱の際、真言によって祈禱を行った後鳥羽院らは幕府を倒そうとしたが、かえって臣下たる北条氏によって流罪されるはめになった。結局は、日本国の万民が真言に加えて禅宗・念仏宗の悪法を用いたために、前代未聞の下剋上を招いたのである。しかるに、承久の乱で勝利した北条義時は文武を究めた人物であった故に、その後しばらく世は治まった。

 しかし、やがて真言の邪法が関東に下って根を張り、念仏及び禅も盛んとなって、人々の法華経への帰依が完全に廃れてしまう。そこで未曾有の天変地夭が起こる。仏典によってその理由を見極められた大聖人は、立正安国論にこの災難を止める方途を記して北条時頼に提出した。しかし幕府からは無視されたばかりでなく、逆恨みした念仏者によって草庵を襲撃され、更には幕府によって伊豆へ流罪されるに至ったという経過を述べられる。

第十段 仏の三徳と発迹顕本(0355:12~0356:13)

 経文によるならば、日蓮大聖人こそ日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり主君の使いであることは明らかである。この大聖人を迫害する幕府はわざわざ災いを招いていることになる。やがて伊豆流罪は赦免となったが、大聖人は、法華経法師品第十等の経文通りの難を呼び起こしてこそ法華経を身読できるのである、と仏法の正義を主張し続けられた。

 そこへ予期した通り刀杖の難が起こり、また文永8年(1271)9月12日には竜の口で頸の座に臨まれ、一分の失もないのに佐渡へ流罪となられた。このとき、「法華経のために命を捨てるほど嬉しいことはない」と弟子に語り、また平左衛門尉頼綱に対し、未来のことを予言された。

第11段 最後の国諫と身延入山(0356:14~0348:06)

 大聖人に対する流罪・死罪の処罰は、幕府の根本法たる貞永式目中の起請文に背くものであるとともに、ひいては法華経の大怨敵となる行為であると指摘され、賢明なる国王であれば身命を賭した大聖人の諌言を詳しく聞くべきところを、聞こうともせず用いようとしないことすら不思議であるのに、それどころか頸をはねようとしたことはもってのほかであると厳しく弾訶されている。よって幕府の重罪は許されるべくもなく、忠臣を虐殺した夏の傑王や殷の紂王の如く現世に亡国の憂き目を見、後生には無間地獄を免れないと、四度警告されている。

 佐渡流罪より赦免された直後の文永11年(1274)4月8日に平左衛門尉に対面した際、大聖人は蒙古が今年中に必ず攻めてくるであろうと予言され、三度目の諌言をされたが、幕府がこれを用いなかった。故に「三度の諌めを用いざれば去れ」という故事に従って身延へ入られたと述べられている。

第12段 三徳具備の仏に背く念仏者等の謗法(0358:07~0361:12)

 再び法華経譬喩品第三の文を挙げ、法華経の行者を軽賤憎嫉する者は阿鼻地獄に入る、とある経文の通り、阿弥陀等の爾前の諸経に執着したり、法華経と並べて行じたり、あるいは自分たちの経が勝れているとしたり、あるいは更に法華経の行者を辱しめるという謗法の行為が無間地獄の因となるのである、と念仏等の謗法を破折されている。

 また念仏者の本師たる善導は千中無一の邪義を唱え法華経を誹謗したために顚倒狂死し、真言の祖・善無畏は三徳の教主釈尊を貶めて大日如来を崇めたために閻魔の責めにあって無間地獄に堕ち、禅宗の三階信行禅師は釈尊の一代聖教を時と衆生の機根に適わない別教であると下して自らの作った経を崇重したが故に現身に大蛇となった、と仏に背く行為たる謗法の罪の本質とその報いとを明かされている。

第13段 一国講法の現状と末法の御本仏たる内証の開示(0361:13~0363:13)

 日本国の人々は、たとえ法華経を持ち釈尊を崇重しようとも、真言・禅・念仏による謗法を断じない限りは無間地獄を免れ難く、しかも法華経の行者たる日蓮大聖人を蔑み、慢心を起こしている。そして、かつて予言した通り蒙古の脅威が次第に強くなり、内心では後悔し始めてはいても、大聖人を信じようとしないでいる。大聖人を軽んじ諸宗の僧を貴んだが故に法華経の敵となり諸天の大怨敵となったために国が滅びようとしているのである。彼らがいかに蒙古軍の防備に努めたとしても、教主釈尊よりも更に大事な法華経の行者たる日蓮大聖人を迫害したその大謗法の重罪から免れることができるだろうかと述べられ、最後に、真言による祈禱では国難を救えるはずがないと、大聖人の帰依を強く勧告して本抄を結ばれていたのである。

第14段 因幡房よりの諫言第(0363:13~0363:11)

 ここから因幡房の地の文に戻り、彼自身の覚悟と光基への諌暁を述べる。すなわち、理にかなった大聖人の主張に対して、これをよく吟味もしないで流罪にまで処した幕府のやり方は理不尽であるとの感想を述べ、彼が阿弥陀経の読誦をやめたのは下山殿のためであり、強いてこれを読誦せよというのであれば、下山殿のやり方も理不尽となるが故に謗法の罪は免れない、と警告する。

 世間では親や主君や師匠の言には善悪につけて必ず従うべきであると言われているが、これは誤りであり、真実の恩を報ずるためには、一時的には背くように見えても正義を貫くことが大事である。この私の言を用いねば、必ずや後悔先に立たずという結果になるであろう、と因幡房よりの諌言を述べて本抄を結ばれている。

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