四条金吾御書 第一章

 鷹取のたけ、身延のたけ、なないたがれのたけ、いいだにと申し、木のもと、かやのね、いわの上、土の上、いかにたずね候えども、おいて候ところなし。されば、海にあらざればわかめなし。山にあらざればくさびらなし。法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか。
これはさておき候いぬ。なによりも承ってすずしく候ことは、いくばくの御にくまれの人の、御出仕に人かずにめしぐせられさせ給いて、一日二日ならず御ひまもなきよし、うれしさ申すばかりなし。えもんのたゆうの、おやに立ちあいて上の御一言にてかえりてゆりたると、殿のすねんが間のにくまれ、去年のふゆはこうとききしに、かえりて日々の御出仕の御とも、いかなることぞ。ひとえに天の御計らい、法華経の御力にあらずや。
その上、円教房の来って候いしが申し候は「えまの四郎殿の御出仕に御とものさぶらい二十四・五、その中にしゅうはさておきたてまつりぬ、ぬしのせいといい、かおたましい、むま・下人までも、中務のさえもんのじょう第一なり。あわれ、おとこや、おとこやと、かまくらわらわべは、つじちにて申しあいて候いし」とかたり候。

—————————————–(第二章に続く)———————————————

 

現代語訳

鷹取の嶽、身延の嶽、七面の嶽、飯谷といい、木の下、萱の根、巌の上、土の上と、どのように尋ねても、生えているところはない。海でなければ海藻はなく、山でなければ茸はないのである。同じように法華経でなければ成仏の道はないのである。これはしばらく置くとしよう。

何よりもお聞きして爽快であることは、ずいぶん御主君に憎まれていたあなたが、その主君の出仕の人数の内に召し具され、しかも一日二日だけではなく毎日暇もない由、嬉しくて言いあらわせないほどである。

池上右衛門大夫が親に背いたが、主君の一言で勘当が許されたことと、あなたが数年の間憎まれ、去年の冬は大変だと聞いていたが、今では逆に毎日御主君の出仕にお供しているのは、どうしたことであろうか、ひとえに諸天のお計いであり、法華経の御力ではないだろうか。

その上、円教房がこちらへ来ていたが、彼がいうには「江馬の四郎殿の御出仕のお供の侍は二十四、五人で、そのうち御主君はさておき、本人の背の高さといい、面魂といい、また乗った馬や従えている下人までも中務左衛門尉が第一である。ああ、彼こそ男だ、男だと、鎌倉の童子が辻でいい合っていた」と語っていた。

語句の解説

鷹取のたけ

鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。標高1036㍍。七面山の東、身延山の南にある。

 

身延のたけ

山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。この身延山と鷹取山のはざまを身延沢という。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(12829月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。

 

なないたがれのたけ

七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。山頂付近に1,982.4mの三角点があるが、登山道からやや離れたところにある最高地点の標高は1,989mである。山頂付近が身延町の飛び地となっており、山頂は身延町と早川町の境になる。東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なる。

 

いいだに

山梨県南巨摩郡身延町大野にある地名。

 

くさびら

①野菜・青物。②キノコの総称。③獣の肉。

 

えもんのたいう

池上右衛門大夫宗仲のこと。建長8年(1256)ごろ、日蓮大聖人に帰依し、弟宗長とともに信仰に励んだ。文永12年(1275)、建治3年(1277)と2度にわたり父・康光に勘当され苦境に立つが信仰を貫き、本章にもある通り勘当も解かれ、弘安元年(1278)には逆に父を帰依させている。

 

円教房

日蓮大聖人の弟子の一人と思われるが詳しいことはわからない。

 

えまの四郎

江馬入道光時の子、親時のこと。生没年不詳。

講義

本抄は、別名を「九思一言事」ともいう。建治4年(1278125日、主君・江馬氏の不興もようやくおさまり、四条金吾に明るい春がやってきたことを喜ばれている。

しかしながら、四条金吾にとって最大の問題である所領問題はまだ解決をみていないし、主君の覚えがよくなるとともに、いっそう気をつけていかなければならないのが同僚のざん言である。そういうときこそ心を引き締めていかねばならないことを、孔子の九思一言等の例を引いて教えられているのである。事実、これによって四条金吾への迫害は終わったのではなく、同僚にはかえってねたまれる結果となり、翌々年の弘安2年(1279)には、何者かに命をねらわれることとなる。

 

ぬしのせいといひ、かを・たましひ・むま・下人までも、中務のさえもんのじゃう第一なり。あはれをとこやをとこや

 

これは四条金吾が晴れて出仕するさまをみて鎌倉の子供達が、その立派なさまを形容したものだが、人々の話題になるほど金吾の威風は堂々と、あたりを圧するものがあったのであろう。

信仰の実証とは、社会のなかに、何かの面で信仰の力を示していくものでなくてはならない。しかもそれは、たんに地位や名誉だけで事足れりとするのであってはならない。社会に妙法の力を定着させるものとしてそれらは十分に考えられなければならないが、その根本には、信仰をしている者として、一種の人間的魅力がなければならない。自らの人生に対する確かな信念、他を慈しむ心の広さ等がその人の魅力を形づくって、地位や名誉といった環境を輝かせていくものである。

四条金吾が立派に見えたのは、もちろん背が高く、容貌も堂々としたものがあったのかもしれないが、何よりも、主人の不興をかった苦しさを乗り越えてきたという強い確信、喜びが、毅然とした姿として人々の心をうったのではなかろうか。

大聖人の仏法は本来、人間革命の宗教である。日々の実践が、鏡をみがくごとく、その人の内面をみがきあげ、やがてその人全体を、さらにはその環境さえも輝かせていく。人々に「何か」を感じさせていける人こそ、人間革命を成し遂げた人であるともいえよう。

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