四条金吾殿御消息
文永8年(ʼ71)9月21日 50歳 四条金吾
第一章 発迹顕本の義を明かす
度々の御音信、申しつくしがたく候。さてもさても、去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給い、しかのみならず、「腹を切らん」と仰せられしことこそ、不思議とも申すばかりなけれ。
日蓮、過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくかありけん。あるいは山にすて、海にすて、あるいは河、あるいはいそ等、路のほとりか。しかれども、法華経のゆえ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。成仏のためならざれば、捨てし海・河も仏土にもあらざるか。
今度、法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ、日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。その故は、すでに法華経の故なるがゆえなり。経に云わく「十方の仏土の中には、ただ一乗の法のみ有り」、この意なるべきか。この経文に「一乗の法」と説き給うは、法華経のことなり。十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり。「仏の方便の説を除く」と見えたり。もししからば、日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか。神力品に云わく「もしは林中においても、もしは園中においても、もしは山谷曠野にても、この中に乃至般涅槃したもう」とは、これか。
現代語訳
たびたびのお便りをいただき、その真心のありがたさは、言い尽くすこともできません。全く去る十二日の難の時、あなたは竜口の刑場まで連れそって下さり、そればかりではなく、腹を切るといわれたことは、不思議という以外にいいあらわせないほどである。
日蓮は過去において、妻子・所領・眷属等のために身命を捨てた所は、どれほど多くあったことであろう。あるいは山に捨て海に捨て、あるいは河、あるいは磯等、また路のほとりであろうか。しかしながら法華経の故、南無妙法蓮華経の題目の故の難ではないので、捨てた身命も、蒙る難等も成仏のためのものではなかった。成仏のためではないから、身命を捨てたその海や河も仏土ではなかったであろう。
今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪にまでなった。流罪は伊東、死罪は竜口。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所である。したがって仏土に劣るものではない。そのわけは、すでに法華経の故に身命を捨てた所だからである。
法華経方便品第二に「十方仏土の中には唯一乗の法のみあり」とあるのは、この意であろうか。この経文に一乗の法と説かれてあるのは、法華経すなわち南無妙法蓮華経のことである。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全くないのである。これを法華経方便品第二には「仏の方便の説をば除く」と説かれている。もしそうであるならば、日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中では竜口に、日蓮が命をとどめおくことは法華経の故であるから、その地は寂光土ともいうべきであろう。法華経神力品第二十一には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においてもこの中に(中略)般涅槃したもう」と説かれているのはこの原理をいっているのである。
語釈
去る十二日の難
竜の口の法難のこと。文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人が相模国竜口(神奈川県藤沢市片瀬)で斬首刑に処せられようとした法難。発端は、大聖人との祈雨に敗れた極楽寺良観が幕府の要人や女房達にとりいって画策したことに始まる。これを受けて内管領で侍所所司でもあった平左衛門尉頼綱は武装した多数の兵を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲って大聖人を捕らえた。この時、同行した頼綱の郎従・少輔房は法華経第五の巻で大聖人の顔を打ちすえたのである。身柄は一時、北条宣時の邸に預けられたが、何の取り調べもなく深夜、竜の口の刑場に連れ出された。刑吏が大聖人の頸を斬ろうとした時、巨大な光り物が上空を横切り、武士達は驚き怖れ、刀を捨てて逃げ伏し、ついに処刑は行われなかったのである。この法難の模様については「種種御振舞御書」に詳しい。
たつのくち
現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
眷属
①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。
流罪は伊東
伊豆流罪のこと。弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。
十方仏土中唯有一乗法
「十方の仏土の中には、唯一乗の法のみ有り」と読む。方便品の文。法華経のみが唯一の成仏の法であるとの意。宇宙の森羅万象ことごとく妙法蓮華経であり、大宇宙には妙法の一法しかないということ。
除仏方便説
法華経方便品第2の文。「十方仏土の中には 唯一乗の法の有り、二無く亦三無し、 仏の方便の説をば除く、但仮の名字を以って衆生を引導したもう」とある。
寂光土
仏法で説く四種類の国土の一つ。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。たんに寂光土ともいう。仏の住む土、絶対的幸福境界の国土で妙法受持の行者の住処をいう。
講義
本抄は、冒頭に「去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなけれ」とあるように、日蓮大聖人の竜口の法難に際し、生死を共にする覚悟でお伴した四条金吾との不思議な師弟の縁を述べられ、この竜口の頸の座こそ、大聖人が発迹顕本された大儀式であることを明かされている。
そしてこの竜口こそ、御本仏の境涯を顕わされた場所であるから仏国土であると断定され、大聖人こそ末法の御本仏であることを教えられている。
さらに、依正不二の原理から、広宣流布、平和楽土建設への信心のあり方を御教示されているのである。
日蓮過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくかありけむ云云
示同凡夫の立ち場で仰せられている。人間は誰しも、何かのために人生をすりへらし、生命を捨てていくものである。人生の目的として明瞭に意識しないにしても、結果的に、事実の問題として、なんのために生きたか、がその人生の価値を決定する。
人間の生命、人生の価値は、総じていえば平等に尊厳なものである。そこに軽重の相対を設け、AのためにBを犠牲にしても止むをえないという考え方は許されない。いわんや社会的地位や財産の多少によって差別をつけることは、絶対にあってはならない。このように、平等に尊厳なものとしなければならないというのは、人間生命のもつ潜在的可能性の故である。たとえ、いまAの方がBよりも、社会に価値を創造しているとしても、十年、二十年後に、果たしてBの方が力ある存在とならないとは限らないからである。
このように、潜在する可能性という観点からいえば、すべての人を平等に尊厳なものとして接することが、人間の基本的な生き方である。そのうえに立って、現実にどう生き、何を創造したかという現実論になると、人それぞれによって、価値の不平等が生ずるのは避けられないことである。その人生の価値を決する要因は、一つは「なんのために生きたか」であり、それに加えて「どのように生きたか」である。
大部分の人は、自分の家族のため、所領――今日でいえば財産のため、あるいは自分の関係する人々のために、一生を終わっていく。これは、凡夫の生死である。もとより、自己の快楽のためや、衝動に身を任せて死んでいく人生に較べれば、家族のため、眷属(けんぞく)のために生命を捨てることは、はるかに尊い。だが、それは、永遠に崩れない福運の源泉とはなりえない。妙法という宇宙生命の当体に人生を捧げ、いかなる難にも屈することなく、自己の信念を貫き通した人生こそ、最も尊く、永劫に尽きない福運の源泉となるのである。
相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり
日蓮大聖人は、竜口の頸の座において、発迹顕本を遂げられた。ここで「日蓮が命を捨てた」といわれているのは、凡夫としての生命であり、上行菩薩の再誕としての垂迹の姿を払って、本地久遠元初自受用身如来とあらわれ、末法御本仏の姿をあらわしたことを示す。
周知のごとく、この竜口でも、幕府の役人たちは、ついに大聖人を斬ることはできなかった。それは「種種御振舞御書」に詳しく記されているように、煌々たる光り物が天空を走り、恐れおののいたために斬れなかったのである。だが、これは、結果として斬れなかったのであって、平左衛門尉頼綱に代表される当時の逆縁の衆生は、すでに大聖人を心で斬ったのである。ゆえに、大聖人は「命を捨てた」と仰せられたのであろう。
建長5年(1253)以来、この竜口に至る大聖人のお振る舞いは、あくまでも上行菩薩の再誕としてのそれであった。すなわち、阿弥陀如来や大日如来の信仰を破して釈迦如来を信ぜよと叫ばれ、爾前権教を破して法華経に帰命すべきことを訴えられた。末法に、法華経を弘めるために、仏の使いとして出現すると予言されている上行菩薩としての活動である。そして、末法に法華経を弘める行者が遭遇すると予告される流罪・死罪等の、あらゆる難を受けられたのである。
したがって、上行再誕として大聖人がこの世になすべきことは、いっさいを終えられたのであり、数々の受難は、大聖人が末法の法華経の行者であることを、完璧に証明しきったともいえる。ここに、上行再誕としての垂迹を払って、末法の本仏としての、独自のお振る舞いに入られた、その壮大な転機が竜口において展開されたのである。
もとより本抄において、大聖人は、自ら仏の境地に入ったとか、発迹顕本したということも、いわれてはいない。だが、国土世間に託して「仏土におとるべしや」といい、さらに「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」と仰せられているのである。これは、まさに、御自身が末法の本仏であるとの自覚を、間接的に表明されたものにほかならない。
第二章 金吾の至誠を賛嘆す
かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ、
現代語訳
このような日蓮にともなって、法華経の行者として腹を切ろうと言われたことは、かの中国の弘演が自分の腹をさいて、主人の懿公の肝を入れたことよりも、百千万倍すぐれたことである。
日蓮が霊山に詣でた時には、まず四条金吾こそ、法華経の故に、この日蓮と同じように腹を切ろうと言いましたと申し上げよう。
語釈
弘演
公演とも書く。中国の春秋時代、前0660年頃、衛の懿公に仕えた忠臣。弘演は衛国が狄人に攻め滅ぼされ、主君の懿公が殺され、はらわたが散乱しているのを見て、自分の腹をさいて主君の肝を隠して、主君の恥をかくし、名誉を守ったという。肝をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。
講義
四条金吾が、竜口において大聖人にお伴して、大聖人と共に死ぬといった信心の純粋さと強さを、重ねて誉められている。しかし、ここで讃嘆されている意味は、冒頭のそれとは一段と深い意義と比重を込められていることはいうまでもない。
なぜなら、前章で、竜口の頸の座が、まさに大聖人の発迹顕本を遂げられた、仏法上の重大儀式であることを明かされたうえで、それを受けて、その大聖人にお伴した四条金吾を称えられている段だからである。
本章冒頭の「かかる日蓮に」と仰せられているのは、凡夫としての大聖人ではなく、発迹顕本される大聖人、末法御本仏としての大聖人という意味である。そして、その四条金吾の決意を「法華経の行者として腹を切ろうとした」と、大聖人と同じ境地において判ぜられているのである。したがって、それは、中国の故事にある弘演の忠義などよりも、はるかにすぐれたものである。
弘演が主君の恥を隠すために、自分の腹を切ったのは、あくまで懿公という個人への忠誠による。そのような行動にかりたてたものは、封建道徳の絆であったろう。それに対して、四条金吾が大聖人と共に死のうとしたのは、自身、法華経の行者としての内発的な自覚から出たものであり、それゆえにこそ、はるかに尊いことなのである。もし、封建的な忠誠概念からいうならば、四条金吾は主君のために死ぬべきであって、法華経のために死ぬということは本分にもとるものだということになるに違いない。法のために殉ずるという精神こそ、封建道徳の絆を自ら解き放った、時代を越えて不滅なるところの、人間性の輝きをなしているのである。
法華経の御故に日蓮とをなじく云云
法華経はすなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。大聖人は、その妙法と人法一箇の仏であられる。そして、大聖人と四条金吾の関係は師弟である。だが、大聖人は「日蓮のために」とはいわれない。あくまで、法を中心とし、法を根本として、そのもとに、師弟不二の立ち場、自覚を教えられているのである。
法華経に「如我等無異」――我が如く等しくして異ること無からしめん――と。仏は衆生を自分と等しい境地に入らしめることをもって究極の目的とするのである。これは、キリスト教、ユダヤ教などにおいて、神が自分と等しくなろうとする人間に対して、厳しい罰を加えるというのと、根本的に違うのである。
ここに、仏の慈悲の広大さ、深さと、仏法精神の崇高さ、偉大さを、正しく知らなければならない。それと同時に、いかなる人であれ、妙法のもとに全て平等であるとの理念が、自己の行動のうえに、社会的活動のうえに、具現化されていかなければならないであろう。
十方仏土の中には法華経より外は全くなきなり
いかなる世界へ行こうと、法華経すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経以外の法はないということである。逆に、この妙法を受持した人の住し活躍する所は、いかなるところであろうと、仏国土となるとの原理でもある。ゆえに「若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」と仰せられているのである。
十方とは、宇宙の全てを包含した言葉である。大宇宙のなかには、地球上の人類と同等あるいは、さらに高度な文化をもつ生物の社会が存在しうると推定されている。人類が、将来、そうした社会に行けるようになるかどうかはわからないが、かりに、いかなる世界に行ったとしても、永遠に崩れることのない幸福確立の法は、三大秘法の妙法を根底とする以外にないというのである。
いわんや、この地球上の世界において、いずこの国へ行こうと、どのような社会に入ろうと、あるいは、いかなる分野にあっても、そこを最も幸福に満ちた、平和と栄光の世界にしていく法は、妙法を根底にすることなのである。仏土、仏国土とは、人間の尊厳を根幹とし、人間が最も人間らしく、平和に、充実して生きていける世界ということである。
第三章 諸天の加護を明示す
又かまくらどのの仰せとて内内・佐渡の国へ・つかはすべき由承り候、三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く「則遣変化人為之作衛護」疑あるべからず、安楽行品に云く「刀杖不加」普門品に云く「刀尋段段壊」此等の経文よも虚事にては候はじ、強盛の信力こそありがたく候へ、恐恐謹言。
文永八年九月二十一日 日 蓮 花 押
四条金吾殿
現代語訳
また鎌倉殿の仰せだといって、内々に佐渡の国へ配流されることを聞いています。
三光天子の中で月天子は、光物となってあらわれて竜口の頚の座で日蓮を助け、明星天子は四、五日前に下ってきて日蓮に見参したのである。いまは日天子だけが残っている。必ず守護があると強く思っている。
法華経法師品第十には「則ち変化の人を遣わして、之れが為に衛護と作さん」とある。疑ってはならない。安楽行品第十四には「刀杖も加えず」とあり、普門品第二十五には「刀尋いで段段に壊れなん」と説かれている。これらの経文はよもや虚事ではあるまい。強盛な信力こそもっとも尊いことである。恐恐謹言。
文永八年九月二十一日 日 蓮 花 押
四条金吾殿
語釈
かまくらどの
鎌倉幕府・将軍のこと。
三光天子
日天子、月天子、明星天子の三つをいう。法華経の会座に列なった諸天善神である。法華経序品第一に「名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり」とある。
明星天子は四五日已前に下りて
「種種御振舞御書」によると文永8年(1271)9月13日の夜、本間六郎左衛門邸での出来事である。
則ち変化の人を遣わして之が衛護と作さん
法華経法師品第十の文。若し法華経の行者が危害を加えられようとする時、必ず諸天善神がさまざまな姿をもって加護をするとの意である。
刀杖も加えず
法華経安楽行品第14に「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」とある。
講義
やがて佐渡へ配流されるであろうとの話を聞かれた時の心境を述べられている。すでに9月12日の竜口においては月天子の守護があり、依智における13日夜の明星天子の現証を挙げられて、三光天子のうち、残る日天子の加護が必ずあると大確信を述べられ、四条金吾に、いよいよ強盛なる信心に立つよう激励されている。
三光天子の加護について
竜口の光り物については科学的には、巨大な隕石の落下による〝火球〟が、その正体であったと考えられる。「明星天子云云」については種種御振舞御書に「天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば……」(0915:12)と述べられているが、これも、空気中の電気が球状になって青白く光る現象を起こしたのであろうとの科学的説明は考えられる。
だが、ここで問題は現象の自然科学的な解明ではない。大聖人が諸天善神に対し、守護せよとの一念を向けられたとき、なぜ、そのような現象が起きたのであろうか。しかも御本仏の一念によって、大宇宙それ自体が御本仏を守護する働きをして作用してくることが重要なのである。
諸天善神とは、もちろん、画像、木像にあらわされている神などではない。仏法でいう「神」とは、自然界、生命の作用、働きなのである。
われわれが、妙法を持ち、自分の生命を妙法の当体と顕わしてゆくときに、環境としての自然、さらに社会のもつあらゆる力がわれわれの幸福を守り、増進する作用として働くのである。
竜口の刑場において、今まさに大聖人の頚をはねようとした役人は、夜空にあらわれた光り物に驚いて、ついに大聖人の頸を斬ることができなかった。さらに依智滞在中、庭の梅の木にかかった光り物、これらの事実はただ偶然の出来事として済まされるものではない。どのようしてそのような現象が起きたかは科学的に説明できるにしても、なぜ起きたかは、科学によっては説ききれるものではない。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。