椎地四郎殿御書
第一章(法華経の行者に大難あるを示す)
椎地四郎
先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いしところ、仰せ候いしがごとく少しもちがわず候いき。これにつけても、いよいよはげまして法華経の功徳を得給うべし。師曠が耳・離婁が眼のように聞き見させ給え。
末法には法華経の行者必ず出来すべし。ただし、大難来りなば、強盛の信心いよいよ悦びをなすべし。火に薪をくわえんに、さかんなることなかるべしや。大海へ衆流入る。されども、大海は河の水を返すことありや。法華大海の行者に諸河の水は大難のごとく入れども、かえすこと、とがむることなし。諸河の水入ることなくば、大海あるべからず。大難なくば、法華経の行者にはあらじ。天台云わく「衆流、海に入り、薪、火を熾んにす」等云々。
現代語訳
先日話されていたことについて、彼の人のほうに尋ねたところ、あなたが仰せになられたのと少しの違いもなかった。これにつけてもいよいよ信心に励んで法華経の功徳を得られるがよい。師曠の耳、離婁の眼のように聞いたり見たりされるがよい。末法には法華経の行者が必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし、大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経の行者という大海に、諸河の水が大難として流れ込むけれども、押し返したりとがめだてすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない。天台大師が「多くの河水が海に流れ入り、薪は火を熾んにする」というのはこれである。
語釈
師曠が耳
師曠は中国・春秋時代の宮廷音楽家。晋の平公に仕え、音律によってよく吉凶を占ったといわれる。「呂氏春秋」によれば、平公が鐘を鋳造して楽人にその音を聞かせた。楽人は一同に音の調っていることを喜んだが、一人、師曠だけ整っていないから鋳なおすべきだと主張した。平公が理由を尋ねると「後世において、その音律を聞きわける楽人がでたら、きっとこの鐘の音律の不調和を指摘するでしょう。そうなれば、この鐘の鋳造を命じた君の不名誉になります」と答えた。果たして衛の霊公の時に、楽人師涓という人が出て、この鐘が音律にかなっていないことを指摘、師曠の耳の正しさが証明されたという。このことから、師曠は耳のさとい者のたとえとして用いられるようになった。
離婁が眼
離婁は中国古代、黄帝の時代の人物。離朱ともいう。視力にすぐれ,百歩離れたところからでも細かい毛の先端まで見えたといわれ、目のよい人のたとえとされる。
講義
本抄は弘長元年(1261)4月28日、椎地四郎に与えられたお手紙である。
文中、法華経の「如渡得船」の文を引いて教えられているところから「如渡得船御書」の別名が、また大難が起こっても信仰を貫き、法を弘めることの尊さが説かれているところから「身軽法重死身弘法御書」の別名がある。御真筆は存していない。
御執筆の年次についてはおおむね弘長元年で一致しているが、建治以降、また弘安4年(1281)とする説もある。ここでは、弘長元年(1261)説をとっておく。
本抄をいただいた椎地四郎については詳しいことはわかっていない。
ただ、本抄を拝すると「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」と仰せになっており、また四条金吾許御文にも「しゐぢの四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ・よに・すずしく覚え候へ」(1195:05)との御文があるところから、四条金吾とは親しい間柄にあったようである。そのほか富城入道殿御返事にも「又必ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ」(0995:01)と言われており、富木常忍とも親交があったことがうかがわれる。のみならず富木常忍はかなり椎地四郎のことを心配していたようであり、大聖人も心にかけておられたと拝されるのである。
本抄が弘長元年の御執筆とすると、右に挙げた四条金吾許御文、富城入道殿御返事がそれぞれ、弘安3年(1280)、弘安4年(1281)の御執筆であるところから、あまり目立たないながらも、長年にわたって着実な信心を貫いてきた人ということになろう。
また本抄や富城入道殿御返事の大聖人の仰せからすると、しばしば大聖人に直接お会いしており、少なからぬ信頼があった人のようである。
日興上人が残された大聖人の御遷化記録によると、椎地四郎は大聖人の御腹巻を捧げて葬列に加わっている。
これをみても、特に晩年、大聖人のおそば近くで信心修行の誠を貫いた人であったらしいことが察せられるのである。
本抄では、最初に椎地四郎が何かを大聖人に申し上げ、それについて大聖人が「彼の人」に尋ねられたところ、椎地四郎の話と全く違わなかったと仰せられている。そして、それについても、ますます信心に励んでいくよう言われ、また「師曠が耳・離婁が眼」のように聞いたり見たりしていくように教えられている。
椎地四郎が何を話したのか、また「彼の人」はだれか、内容は全くわからない。弘長元年(1261)4月28日とすれば、大聖人の伊豆御流罪の直前であり、そのことについての情報であったかのもしれない。
師曠、離婁を例として挙げられているところから、椎地四郎は、なんらかの情報を手に入れられる立場にあったとも考えられる。
しかもそのあと、難がきてもいよいよ強盛の信心を貫いていくべきことを述べられていることから、本抄が伊豆御流罪の直前に記されていたとして推察すると、前年の松葉ヶ谷草庵の襲撃以来、念仏者達の策謀が続き、遂に幕府が直接、弾圧に乗り出そうとする動きがあったころであり、それに関する情報を大聖人に報告したという推測も成り立つのである。
その意味で本抄は、まさに幕府による大弾圧への第一歩が踏み出されようとしている時にあたって、断じて難を乗り越えていく信心を励まされたものと拝せられる。
師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ
師曠、離婁は共に中国古代の人で、それぞれ聴覚、視覚に優れた人の典型とされた人物である。冒頭の「御物語」と仰せになっている内容がなんらかの情報という意味であれば、大聖人がここでこうした例を挙げておられる元意は、これからも世の中の動きをよく察知し、対処していくべきことを椎地四郎に御指導されたと考えられる。
とすれば、信仰の問題と一見、無関係のようにとられがちであるが、そうではない。信仰自体は、世間のいかなる動きにも紛動されない不動のものであるべきであるが、法を護り、令法久住のためには、鋭く社会の動向、人々の機根を見抜いていかなければならない。この両方が相まって初めて時期に適った弘教ができるのである。
但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし
大聖人は立宗の当初から、その前途に大難の降りかかることを予知、覚悟されていたが、ここに幕府権力の迫害が眼前となるに及び、門下に対しても、むしろ、喜んでそれに対処していくべきことを促されているのである。
大聖人は、佐渡御流罪の際、動揺し退転の動きをみせる門下について「天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん」(0234:07、開目抄下)、「此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼て申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり」(0501:05、如説修行抄)等と、常日ごろ法難の起きることを門下に教えておいたと仰せになっているが、本抄を弘長元年の御述作と拝すればそれは明瞭である。
大聖人は、大難がきたならば「弥弥悦びをなすべし」と言われている。なぜなら、難を受けることによって自己の宿業を転換でき成仏への直道を歩むことができるからである。
大聖人は天台大師の言葉を引用され、火が薪によってますます盛んに燃え、大海が河の水をすべて受け入れていく例を挙げられ、大難にあうことによって法華経の行者としての境界をますます広げていき、成仏の道があると信心の極致を教えられている。
ここに引かれている天台大師の言葉は摩訶止観巻五の文であり、「行解既に勤むれば、三障四魔紛然として競い起り……随うべからず畏るべからず……猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾んにし、風の求羅を益すが如きのみ」の文から引かれている。
薪と火の例は、難を薪に、法華経の行者としての境界を火にたとえられている。難は法華経の行者としての自覚と確信をますます盛んにするのである。
摩訶止観の中の「猪の金山を摺り」とは猪が金山を牙ですることによって、金山がますます光り輝くということで、猪が摺るのを難にたとえ、金山が輝くのを法華経の行者にたとえている。求羅とはインドの伝説上の生き物で、風に吹かれて大きくなるとされている。風を難に、求羅を法華経の行者にたとえていることはいうまでもない。
本抄で大聖人は大海と衆流の関係について、法華経の行者を大海に、難を諸河にたとえておられる。「かへす事とがむる事なし」と仰せの御文には、幕府の非道な仕打ちに対し、そこから逃れようとしたり、非難しようとするものでもなければ、怨むのでもなく、悠々と大難を受けていかれる広大な御本仏の御境界を拝することができる。
第二章(宿縁深厚の人なるを明かす)
法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、経に云く「亦不聞正法如是人難度」と云云、此の文の意は正法とは法華経なり、此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり、法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり、貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし、此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし、妙楽大師云く「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く、思惟・修習永く舟航に用たり」と云云、生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず。
現代語訳
法華経の法門を一文一句でも、人に語るのは過去の宿縁が深いと思いなさい。法華経方便品に「亦正法を聞かず、是の如き人は度し難し」とある。この文の意味は、正法とは法華経であり、法華経を聞かない人は済度し難い、という文である。法華経法師品には「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。是の人は則ち如来の使なり」と説かれており、僧も俗も尼も女も一句をも人に語る人は如来の使いである、というのである。いま、あなたはすでに俗であり、この善男子の人なのである。
この法華経を一文一句でも聴聞して心に染める人は、生死の大海を渡ることのできる船のようなものである。妙楽大師が「だれでも、一句なりとも心神に染めるならば涅槃の岸に到るのに助けとなる。更にそれを思惟し修習するならば、以て生死の大海を舟で渡るのに永く支えとなるであろう」等と言っている。生死の大海を渡るのは妙法蓮華経の船でなくては叶わないのである。
語釈
生死の大海
生死の苦しみのこと。六道に輪廻して解脱することのない生死の苦しみが、海のように深く果てしないところから、生死海、生死の苦海という。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
講義
このなかに「法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」「此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし」の御文が出てくる。前は「人に・かたらん」とあるように化他について述べられ、後は「聴聞して神にそめん」とあるごとく、自行面の信受について述べられている。
この段は、最初に滅後末法において弘教することの困難なことと、それ故の尊さについて教えられ、次いでその根本としての受持の信心によって成仏は疑いないと説かれているのである。
「一文一句なりとも」の御文は弘教にせよ、信受にせよ、ともにその難しさと尊さを一言にして示されたものである。もちろん一文一句でよしとするわけではなく、広く弘教し、また一切を信受すべきなのは当然であるが、一文一句なりともと言われることによって、正法を弘教・信受することの難しさと尊さの二つをより鮮明に御教示されているのである。
弘教について、大聖人は二つの経文を挙げておられる。最初の方便品の文は正法を聞かない衆生は救えないということで、正法を説く以外に衆生救済はありえないことを述べたものである。次の法師品の文は、それ故に正法を説くことは、仏の使いとしての尊い実践であるということをあらわしている。
弘教の尊さを説かれたあと、正法を一文一句でも聴聞して信受する大功徳を、妙楽大師の文を引いて教えられている。ここで〝一句〟といわれるのは妙法蓮華経のことである。妙法蓮華経の一法は一切万法を含んでいるのであり、それを信受することは仏法の全体を直ちに信受したことになるのである。
「思惟・修習永く舟航に用たり」の思惟とは仏法の法理を思惟することで〝学〟にあたり、修習とは実践することで〝行〟にあたると考えられる。「一句も神に染める」のが〝信〟であり、この妙楽大師の言葉は「信行学」の重要性をあらわしたものといえるであろう。
第三章(如渡得船の所以を示す)
抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取多宝如来はつなでを取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ、四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。
四月二十八日 日 蓮 花 押
椎地四郎殿え
現代語訳
そもそも法華経薬王品の「渡りに船を得たるが如し」とあるなかの船というのは、教主大覚世尊が巧智無辺の船大工として四味八教という材木を取り集め、正直捨権とけずって邪正一如と切り合わせ、醍醐一実という釘を丁と打って、生死の大海へ押し浮かべ、中道一実の帆柱に界如三千の帆を上げて、諸法実相の追い風を得て、以信得入の一切衆生を取り乗せて、釈迦如来は楫を取り、多宝如来は綱手を取られるとき、上行等の四菩薩は呼吸を合わせてきりきりと漕いでいかれる船を「渡りに船を得たるが如し」の船というのである。
これに乗ることができる者は日蓮の弟子・檀那等である。よくよく信じられるがよい。四条金吾殿に会われたらよくよく語られるがよい。くわしくはまた申すであろう。恐恐謹言。
四月二十八日 日 蓮 花 押
椎地四郎殿へ
語釈
如渡得船
「渡に船を得たるが如し」と読む。法華経の行者は、渡りに船を得たように、苦しみと迷いの彼岸から、悟りの彼岸に向かうことができる、とのたとえの意。
教主大覚世尊
大覚とは仏のことで、世尊とは、仏の十号の一つ。あらゆる人々から尊敬されるの意で、この二つの語を合わせて仏を意味する。
巧智無辺の番匠
巧智とは巧みな智慧・才能。番匠は昔地方から交代で京に上り、宮廷の営繕に従事した大工のことで、転じて大工一般をさす。無量無辺の智慧を持った大工の意で、仏を意味する。
四味八教
四味と八教のこと。四味とは、五味(乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味)のうち、前の四味のこと。天台は釈尊一代の経を五時(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)に分け五味に配した。すなわち四味は法華経以前の華厳時・阿含時・方等時・般若時の経をさす。八教は化法の四教(三蔵教・通教・別教・円教)と化儀の四教(頓教・漸教・秘密教・不定教)を合わせたもの。法華経は超八でこれらを超えている。
正直捨権
正直捨方便のことと。法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
邪正一如
衆生の生命は性悪・性善ともにそなわっており、善悪は一如であること。爾前の諸教では成仏できなかった二乗・悪人・女人が十界互具・一念三千を説く法華経に至って成仏を許され、平等大慧の法が確立したことを示している。
醍醐一実
醍醐は醍醐味のことで、最高の味をいい、一実は真実義である一乗法のこと。四味八教の爾前教に対して、法華経をいう。
中道一実
法華経に明かされた中道実相の妙法。界如三千が三千をさすのに対し、一念をさす。
界如三千
あらゆる存在が十界・十如是・三千の諸法を具えていること。十界は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩仏。十如は相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等。十界が互具して百界・十如是が互具して千如是。五陰・衆生・国土の三世間を互具して三千世間となる。これを界如三千とも一念三千ともいう。
諸法実相
諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358:01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359:03)とある。
以信得入
譬喩品の偈。「信を以て入ることを得」と読む。「汝舎利弗すら、尚此の経に於いては、信を以って得たり、況や余の声聞をや、其の余の声聞も、仏語を信ずるが故に、この経に随順す、己が智分に非ず」とある。智慧第一の舎利弗すら、信によって悟ったのである。
多宝如来
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
上行等の四菩薩
涌出品に出てくる上行菩薩を筆頭とする無辺行・浄行・安立行の四菩薩のこと。
函蓋相応
函と蓋とのように、両者が相応じて一体となっていること。出典は大日経疏20巻。中国唐代の仏教書。善無畏説、一行記。
四条金吾
(~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王御前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
講義
法華経の「如渡得船」の文を引かれ、まことに見事な譬えをもって「妙法蓮華経」が一切衆生を成仏の彼岸へ運ぶ大法であることを説かれている。
「如渡得船」の文は法華経薬王品第二十三にある。
「此の経は能く一切衆生を救いたまう者なり。……清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者を満たすが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復た是の如く」。
この文は、法華経が、不幸に沈む民衆を救うことを、種々の譬えをもって示したものである。本抄ではこのなかの船の喩えを用いられ、生死の大海を渡る船として妙法の功力を教えられているのである。
まずこの船をつくった、巧智かぎりない大工は釈尊であり、一代仏教のうち四味八教、すなわち爾前の諸経を船をつくる材木になぞらえられている。しかし、その材木をただ並べても船はつくれない。正しく削って船の部分部分とするにふさわしい形にととのえられなければならない。それを「正直捨権とけずりなして」といわれ、次に船として組みあげられることを「邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて」といわれている。すなわち爾前の諸経の教えも、法華経の部分とされることによって生かされるのである。
「中道一実のほばしら」「界如三千の帆」「諸法実相のおひて」はともに法華経の肝要である一念三千の法が成仏への要法であることを示されている。「中道一実」は一念三千の〝一念〟であり、これを帆柱にたとえ、「界如三千」は〝三千の諸法〟であり、これを帆にたとえ、「諸法実相」という仏の教えを、成仏の彼岸へ向かって進ませる追い風にたとえられたのである。
その船に乗ることのできる衆生は妙法を信ずる人である。「以信得入の一切衆生」といわれているのがそれで、どんな衆生も差別なく成仏へ導く船ではあるが、信なくしては乗り込むことができないのである。更に、釈迦如来が楫をとるとは、釈尊が成仏の彼岸へ正しく導く教主であることをいわれ、多宝如来が綱手をとるというのは釈尊の法華経を正しいと証明した多宝如来を、彼岸の仏界から、この船を綱で引っぱって助けてくれていることになぞらえられたのである。
また、上行等の四菩薩がそれに呼応して船をこぐといわれているのは、四菩薩は妙法の信仰と弘教を実践する生命の働きの象徴であり、したがって成仏の彼岸へ進める原動力の働きにあたるからである。ただし、ここでいわれている上行等の四菩薩は因位の菩薩界の代表としての立場であって、末法に妙法を弘通する導師としての立場には触れられていない。
「是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」と仰せになって、この譬えを締めくくられている。日蓮大聖人の弟子・檀那として、法華経を正しく信じ持っている者のみが成仏への航路を間違いなく進んでいける。このことは、大聖人こそ、末法の一切衆生を成仏せしめる唯一の正法の教主であり、末法の御本仏であられるということにほかならない。我々は、この大聖人の仏法の正しさをいよいよ深く確信するとともに、一人でも多くの人々を、この大船にすくいあげていきたいものである。