釈迦如来御書

 釈迦仏にはすぐべからず。釈迦如来は正しく法華経に「悪世末法の時、能くこの経を持たば」等云々。善導云わく「千の中に一りも無し」等云々。いずれを信ずべしや。また云わく「日蓮がみる程の経論を善導・法然上人は御覧なかりけるか」と申すか。もしこの難のごとくならば、先の人の謬りをば後の人のいかにあらわすとも、用いるべからざるか。もししからば、なんぞ善導。

現代語訳

教主釈尊は、正しく法華経分別功徳品に「悪世末法の時、能く是の経を持つ者は」と説かれている。善導は「千人中一人も無し」とのべている。いづれを信ずべきであろうか。また、いわく「日蓮が見るくらいの経論を善導・法然上人は御覧になっていないはずはない」というのか。もしこの疑難によるならば、昔の人の後謬を後世の人はなにはどうであれ明確にしてはいけないのか。

 

語句の解説

悪世末法の時能く是の経を持つ者

分別功徳品に「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、則ち為れ已に上の如く、諸の供養を具足するなり」とある。

善導

06130681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等がり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。

 

千中無一

善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。

 

経論

三蔵の中の経蔵と論蔵のこと。経とは、仏が説いた教法。論とは仏自ら論議した法理。また仏弟子が教法を論じ注釈したもの。

 

法然

11331212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(121280歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。

 

講義

本抄の御真筆は京都・本圀寺にある。しかし前後が欠落した断片であるため、本抄を与えられた人の名や御述作年月日については不明である。だだ御執筆の内容から文永年間といわれており、更に文永3年(1266)との説もある。

内容は念仏破折の御文である。最初に釈迦仏の言葉と善導の言葉を引用・比較されている。そのまえに「釈迦仏にはすぐべからず」と仰せであるのは、一切の言葉のなかで仏の言葉に過ぎるものはないと、大前提を示されているのであろうか。その釈迦仏が、出世の本懐たる法華経の分別功徳品に、悪世末法の時に、よくこの経を受持する者は諸の供養を具足する者であると説いている。それに対して善導は、千人のうち一人も成仏できないと主張している。成仏できるという仏の言葉か、成仏できないという人師の言葉か、どちらの言葉を信ずるべきか、と仰せである。仏の言葉と人師の言葉ではおのずから明らかではないかと、明証をもって示されているのである。

これは念仏者が、千中無一という善導の言葉を拠り所に、法華経を誹謗していることに対する破折であろう。法然をはじめ念仏者が根拠としたのは曇鸞・道綽・善導といった人師の言葉であった。それに対して大聖人は、法の浅深・高低を定めるには、仏の金言を仰ぐべきであると教えられ、仏の言葉でもって破折されたのである。このことは、大聖人が諸御抄で強調されているところである。

次に念仏者達の主張として、大聖人が用いられた経論を善導・法然ほどの人が見ていないわけがない、それらの経文は承知のうえで、千中無一等とのべているのであろう、との意見を挙げられている。それに対して大聖人は、もしその論理が正しいとすれば、昔の人は何一つ誤りはなかったことになり、後世の人は一切その誤りを指摘できないことになるではないか、と反論されている。

念仏者の主張の奥には、善導・法然らは大学僧であり、日蓮ごときに何が分かるかという傲慢も潜んでいたであろう。それに対して大聖人が鋭く反駁されたのである。

この仰せのあとには「若し爾らばなんぞ」との御言葉が続いている。大聖人は更に念仏者らの考えの誤りを指摘されているのであろう。

なお、ここで大学僧等の例として挙げられている善導が、実は念仏を修するに至った動機として、経蔵で眼を閉じて手探りで得た経が観無量寿経であり、以後念仏を修めたという故事の持ち主であることが、なんとも皮肉である。最蓮房御返事には次のように仰せである。

「善導和尚と申す人は漢土に臨淄と申す国の人なり、幼少の時・密州と申す国の明勝と申す人を師とせしが・彼の僧は法華経と浄名経を尊重して我も読誦し人をもすすめしかば善導に此れを教ゆ、善導此れを習いて師の如く行ぜし程に過去の宿習にや有りけん、案じて云く仏法には無量の行あり機に随いて皆利益あり・教いみじと・いへども機にあたらざれば虚きがごとし、されば我れ法華経を行ずるは我が機に叶はずは・いかんが有るべかるらん、教には依るべからずと思いて一切経蔵に入り両眼を閉ぢて経をとる観無量寿経を得たり、披見すれば此の経に云く「未来世の煩悩の賊に害せらるる者の為清浄の業を説く」等云云、華厳経は二乗のため法華経・涅槃経等は五乗に・わたれども・たいしは聖人のためなり、末法の我等が為なる経は唯観経にかぎれり」(1431:01)と。

経蔵に入って両眼を閉じて手を伸ばしたところ、たまたま手に当たった経が観無量寿経であったのである。しかもそれには煩悩に染められた者のために説くとあったものだから、これこそ自分にとっての最適の経だと喜んだのである。一切経を冷静に比較検討し、選んだものではない。仏道修行の肝心をくじ引きのような手段で決めたのであり、念仏者達が善導を大変な学者だと思っているが、大聖人からすれば笑止千万なのである。なお、法然は善導ほどひどくなかったようだが、意に染まる経典がなかったところ、43歳に至って偶然、善導の主張を知り、感ずるところあって念仏に入ったというのである。大同小異というべきであろう。

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