釈迦御所領御書

 王これをもちいず。仏、地神・天神を証人として論じかたせ給いたりき。されば、この世界は我らが本師・釈迦如来の御所領なり。されば、四衆ともに仏弟子なれども、優婆塞・優婆夷は仏弟子なれども外道にもにたり。比丘・比丘尼は仏の真子なり。されば、大悲経には、大梵天・第六天・帝釈・四大天王・人王等を一々にめして、三千大千世界を次第にゆずり給いて云わく、この世界を領知して我が真子・比丘比丘尼を供養すべき由をとき給いき。その時、梵天・帝釈等、仰いで仰せに随いにき。
 また、正直捨方便の法華経の譬喩品に云わく「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」等云々。この文のごとくならば、この三界は皆、釈迦如来の御所領なり。寿量品に云わく「我は常にこの娑婆世界に在り」等云々。この文のごとくならば、乃往過去五百塵点劫よりこのかた、この娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。その上、仏滅後一百年に阿育大王と申す王おわしき。この南閻浮提を三度まで僧に付嘱し給いき。またこの南閻浮提の内の大日本国をば、尸那国の南岳大師、この国の上宮太子と生まれて、この国の主となり給いき。しかれば、聖徳太子已後の諸王は皆、南岳大師の末葉なり。桓武天皇已下の諸王は、また山王。

現代語訳

法華経譬喩品第三には「これ我が有するところのものである。その中の衆生は悉くこれ吾が子である」と説かれている。この文のようであるならば、この三界は皆釈迦如来の御所領である。法華経如来寿量品第十六には「我は常にこの娑婆世界にあり」等と説かれている。この文のようであるならば、過去五百塵点劫以来この娑婆世界は釈迦菩薩が自由に支配された国土である。そのうえ、仏滅後一百年に阿育大王という王がおられ、この南閻浮提を三度まで付嘱された。この南閻浮提の内に大日本国においては中国の南岳大師がこの国の上宮太子と生まれて、この国の王となられた。それゆえ聖徳太子以後の諸王は、みな南岳大師の子孫である。桓武天皇以下の諸王は、また山王。

 

語句の解説

三界

欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。

我常に此の娑婆世界に在り

寿量品の文。「我成仏してより已来、復此に過ぎたること百千万億那由佗劫なり。是より来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」とある。

五百塵点劫

法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

阿育大王

3世紀頃の人阿育は梵語アショーカ(A?oka?)の音訳。阿輪迦・阿恕迦・阿恕伽等とも書き、無憂と漢訳する。また大愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝の第三代王、祖父チャンドラグブタがナンダ朝を倒して、マイリア王朝を建て、阿育王は治世の前半を征服戦に費やし、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設した。後半は篤く仏教を信じて諸僧を供養するとともにその慈悲の精神を施政に反映した。さらに、八万四千の塔を造り、仏舎利を供養した。遠くギリシャ・エジプトの地にも使者を派遣して平和の精神を訴えた。

南閻浮提

須弥山の南にある州。起世経巻一に「須弥山王の南面に州あり、閻浮提と名づく、其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車闊のごとし、その中の人面もまた地の形に似たり、須弥山王の南面は天晴瑠璃より成りて閻浮提州を照らせり。閻浮提州に一大樹あり、名づけてという、其の本は亦縦広七由旬にして」とあり、竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて州となす、此の州上に樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば、地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品に「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法が全世界に広宣流布との予言である。ゆえに、御義口伝に「当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり」とある。

尸那国

外国人が中国を指して呼んだ名。尸那は中国の王朝名である秦がなまって伝えられ、それが漢訳されたといわれる。インドではチーナとよばれていた。

南岳大師

05150577)中国北朝時代の僧、天台大師の師。字は慧思、姓は李。河南に生まれる。15歳で出家し法華経を学んだ。20歳の時に妙勝定経を読んで観じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。34歳の時、対論した僧に毒を盛られ死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。41歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まりに来たった天台大師等の弟子の育成にあたった。陳の光大2年(0568)戦乱を避けて南岳に移り、ここで晩年を過ごして大建9年(0577)に没した。なお、日本にあっては奈良時代以降、南岳大師の生まれ変わりが聖徳太子であると信じられていた。

上宮太子

05740622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈書を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。

聖徳太子

05740622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。

桓武天皇

737806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。

山王

山王権現のこと。総じて滋賀県大津市にある日吉神社のこと。比叡山の守護神であり、延暦寺が創建されると神仏習合思想の影響を受けて法華経守護の神とされた。天台宗の興隆にともなって平安時代から栄え、平安末期には延暦寺の僧が日吉の御輿をかついで、京へ押しかけている。

 

講義

本抄は、前後の御文が欠失していて、御述作年月・与えられた人ともに不明である。文永3年(1266)御述作との説もあるが、明確ではない。御真筆は京都・妙蓮寺および名古屋・円頓寺に分在している。

内容は、法華経譬喩品第三・如来寿量品第十六の経文を引いて、釈尊が娑婆世界の君主であること、また特に日本については南岳大師が聖徳太子と生れて国を治めたことを述べられている。

初めの法華経の譬喩品に説く「今此三界」の文は、この三界が仏の所有する世界であり、そのなかの一切衆生は仏の子である等と三徳を示したものである。

この譬喩品においては、釈尊は始成正覚の仏であるから、その三界に対する主題は今世だけに限られているが、次の如来寿量品第十六には、過去五百塵点劫以来、本有常住の仏として、娑婆世界において常住し、一切衆生を説法教化してきたことが明かされている。

「此の娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり」といわれているのは、寿量品に「我本行菩薩道所成寿命今猶末尽復倍上数」とあるように、久遠五百塵点劫に成仏したが、菩薩としての寿命も尽きておらず、十界具足の立場で、あるときは仏身を示し、あるときは菩薩の道を示し等して、衆生を教化したと述べられているからである。

いずれにせよ、この娑婆世界は、譬喩品に示されているように、ただインド応誕以後だけでなく、久遠五百塵点以来、釈尊の所領であり、仏の慈悲に包まれた世界であるということである。

このことを大聖人がいわれているのは、釈尊がこの娑婆世界の君主であり父母・師匠であるにもかかわらず、他方の仏である阿弥陀如来にあこがれ、その極楽浄土へ往生することを願う念仏信仰の誤りを指摘しようとされたのではないかと推察される。

主師親御書には「釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり一人してすくひ護ると説き給へり、阿弥陀仏は我等が為には主ならず親ならず師ならず、然れば天台大師是を釈して曰く「西方は仏別にして縁異なり仏別なるが故に隠顕の義成ぜず縁異なるが故に子父の義成ぜず、又此の経の首末に全く此の旨無し眼を閉じて穿鑿せよ」と実なるかな」(0385:01)と述べられている。

また曾谷殿御返事には「例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし」(1055:12)と仰せられている。

次に、この娑婆世界のなかでも南閻浮提は阿育大王以来、仏法流布の世界であり、大王は三度にわたって、この南閻浮提を仏法の僧に付嘱したといわれる。

また更に、日本はこの南閻浮提の内にあるが、上宮太子すなわち聖徳太子が仏法を国の根本と定めて以来、仏教国としての歴史を歩んできた。聖徳太子は法華経・維摩経・勝鬘経を特に重んじ、これを解説した「三経義疏」を遺しており、中国・南岳大師の再誕とされる。南岳大師は、法華三昧を証得して天台智者大師の師となった人であり、観音菩薩との示現ともいわれた。したがって、日本は、法華有縁の南閻浮提のなかでも、とりわけ法華経に縁のある国なのである。

つまり「聖徳太子已後の諸王は皆南岳大師の末葉なり」云々といわれているのは、日本の歴代天皇は、聖徳太子の精神を継いで、法華経を重んずべきであるとの御心であろうと推察されるのである。

「桓武天王已下の諸王は又山王」以下の文は欠損のため、何を仰せられようとしたのかは不明であるが、今までの流れから推察すれば、権実相対の立場で、権経の念仏等を日本中で挙げて信仰する大聖人当時の現状を、こうした歴史的な視点と、人間としての当然の倫理から破折されているのではなかろうか。

タイトルとURLをコピーしました