上野殿御返事(山中に財の事) 第二章(法華経の功力を述べ信心を勧める)
弘安2年(ʼ79)8月8日 58歳 南条時光
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釈まなんと申せし人のたな心には、石変じて珠となる。金ぞく王は沙を金となせり。法華経は草木を仏となし給う。いおうや心あらん人をや。法華経は焼種の二乗を仏となし給う。いおうや生種の人をや。法華経は一闡提を仏となし給う。いおうや信ずるものをや。事々つくしがたく候。またまた申すべし。恐々謹言。
八月八日 日蓮 花押
上野殿御返事
現代語訳
昔、釈摩男という人は、手にとった石を珠に変え、金粟王は砂を金としたのである。法華経は心のない草木を仏とするのである。まして、心ある人間はなおさらのことである。
また、法華経は仏となるべき種を焼いたとされている声聞・縁覚の二乗を仏とするのである。まして、生きた種をもつ人はなおさらのことである。法華経は不信の一闡提を仏にするのである。まして、法華経を信ずる者はなおさらのことである。
そのほか申し上げたいことがあるが、また、後日申し上げよう。恐恐謹言。
八 月 八 日 日 蓮 花 押
上野殿御返事
語句の解説
釈まなん
梵語マハーナーマ(Mahānāma)の訳。摩訶那摩等とも書く。五比丘の一人。すぐれた神通力をもっていた。宋の従義の天台三大部補注巻十一には「善見律に云く、釈摩男は是れ仏の叔父の子なり。(中略)釈摩男、諸の瓦礫を執るに、皆ことごとく宝となる。これ過去心力の致すところに因る」とある。
金ぞく王
砂を金にかえたといわれるが、この説話の典拠は未詳。北インド健駄羅国に大法塔を建てたとされる金粟王と同一人物であるかどうかは明らかでない。
沙
まさご。石のきわめて細かいもの。
焼種の二乗
爾前経では、声聞と縁覚の二乗は焼けてしまった種子が芽を出すことができないと同じように、決して成仏できないことをいう。方等陀羅尼経巻二には文殊師利菩薩が舎利弗を「燋穀種の如く更に芽を生ずるや不や」と弾呵している。
生種
発芽できる種のこと。焼種・焦種・燋穀種に対する語。爾前経で焦種とされた二乗、一闡提人、女人を除く菩薩・凡夫の仏性を発芽可能な種にたとえた。
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。正法を信ずる心がなく成仏の機縁をもたない衆生のこと。涅槃経巻二十六には「一闡は信と名づけ、提は不具と名づく、信不具の故に一闡提と名づく」とある。
講義
上野殿の御供養に関し、前章では御供養の品の尊さを述べられたのに対し、ここでは、御供養した対象である法華経の功力の大きさを述べられている。
石を宝石に変えた釈摩男や、砂を金に変えた金粟王を譬喩に挙げ、法華経は草木など非情の存在や、成仏の種子を自ら焼いてしまったとされる二乗、さらには、仏法に縁なき一闡提という不信の衆生ですら仏にする功力があるのであるから、草木と異なって心があり、二乗と違って成仏の種子を有し、しかも一闡提と異なって法華経を熱心に信じている時光の成仏は絶対に間違いないと激励されているのである。
草木成仏・二乗作仏・一闡提成仏
ここに挙げられている草木成仏・二乗作仏・一闡提成仏は、爾前経では絶望的とされたのに対し、法華経でのみ許されたもので、いずれも、法華経の功徳力の絶大さを示すものである。
草木成仏とは非情成仏ともいい、法華経寿量品で明かされている三妙合論中の本国土妙の法理から導きだされるものである。
すなわち、この娑婆世界が仏の本来住する本国土であるというこの説法は、非情の国土、草木もそのままで仏国土であり仏性をあらわすということである。これによって有情の真実の成仏が明確になるとともに、衆生の成仏にとって最も大切な大御本尊御図顕の根拠となっているのである。
「草木成仏口決」に「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く『如来秘密神通之力』云云」(1339:06)とあり、また、「観心本尊抄」に「草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(0239:14)と仰せのとおりである。
このような草木成仏の法理によって、末法の御本仏・日蓮大聖人の御生命が、大御本尊に御図顕されているゆえに、私達凡夫は御本尊に南無し奉るとき、成仏することができるのである。
次に、二乗作仏であるが、爾前・権教では、二乗は仏性の種子を焼いてしまったような存在であり、永久に成仏できないと弾呵されてきたが、法華経において、二乗も作仏しうることが説かれた。
最後に一闡提成仏は、法華経の一切衆生皆成仏道の法理を最もよく表すものといえよう。
一闡提とは、もともと、現世主義、快楽主義をとる外道のことで、仏法に全く縁なき衆生である。仏法を信ずる心すら有せず、そこから、極悪の衆生とも、二乗と同じ焼種の衆生ともいわれたのである。爾前・権教では、当然、一闡提は成仏できないとしていたのであるが、法華経においては、この一闡提すら成仏すると明かされたのである。