最蓮房御返事
文永9年(ʼ72)4月13日 51歳 最蓮房
第一章 (供養への謝辞を述べる)
本文
御札の旨、委細に承り候い畢わんぬ。都よりの種々の物、たしかに給び候い畢わんぬ。鎌倉に候いし時こそ、常にかかる物は見候いつれ。この島に流罪せられし後は、いまだ見ず候。これ体の物は、辺土の小島にてはよによにめでたきことに思い候。
現代語訳
夕方はよくよく用心して、おいでなさい。得受職人功徳法門を詳しく申し上げよう。
お手紙の趣旨は詳しく承った。都からの種々の品物は、たしかにいただいた。鎌倉にいたときには、常にこのような物は見ていたが、この島に流罪された後は、いまだ見ていない。このような品物は、都から遠く離れた小島ではたいそう珍しいことと思われる。
語釈
夕ざり
夕方
得受職人功徳法門
妙覚の職位を受ける人の功徳を説いた法門のこと。
講義
本抄は、文永9年(1272)4月13日、日蓮大聖人が御年51歳の時、佐渡一の谷から、同じく佐渡に流されていた最蓮房日浄に与えられた御手紙である。御真筆は現存していない。
本抄の内容は、初めに供養に対する感謝を述べ、次に最蓮房の書状に応えて第一に妙法の信受、師弟の結縁を喜び、第二に邪師を捨てて正師につくべきことを示し、第三に経証ならびに邪師の名を挙げ、第四に末法正善の師とは大聖人であることを明かし、第五に師弟の因縁を述べ、その行化を励まし、第六に本円戒受持の大功徳を明かし、第七に成仏の境地を述べ、最後に赦免を予見し最蓮房を励まして、結ばれている。
最蓮房は、この年2月の初めごろ、日蓮大聖人に帰伏し弟子となった。そして同月の11日には「生死一大事血脈抄」、20日には「草木成仏口決」等の甚深の御法門書を相次いで賜った。それから二か月後の四月八日には、本抄に述べられているごとく、事実上の師弟結縁が決せられた厳粛な儀式・文底独一本門の円戒をもって御授戒が行われたのである。最蓮房の喜びはいかばかりであったろうか。流罪の身であられながら、泰然自若として甚深の御法門を説き明かされる大聖人の御姿に接し、胸奥より求道の喜び、弟子としての決意が躍動してくる思いであったであろう。その胸中の思いを筆に託して、手紙を書き送られたものと推察される。その手紙に応えられたのが本抄である。
「御札」の内容については、本抄に「去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候」「自今以後は日比の邪師を捨て偏に正師と憑む」と最蓮房が述べていることはうかがえるが、単に決意・喜びの表明の手紙だけではなく、大聖人が「御札の旨委細承り候い畢んぬ」との仰せから拝すると、法門に関して御指南を仰いだことが当然考えられる。本抄の御真筆が残っていないので明らかではないが、冒頭の一行が紙の余白に書かれた追申であるとすると、「御札」とは、得受職人功徳法門に関する質問の手紙であったことが考えられる。
冒頭の「夕ざりは相構え相構えて御入り候へ」との御文は、解釈が分かれるところであるが、いつの夕方か不明であるから、単に「必ずくるように」との御指示だけではないと思われる。本抄に仰せのように、真夜中に大聖人が最蓮房に会われていることや、阿仏房が同じく真夜中に御供養していること、一谷入道の屋敷でも、幾度か大聖人が危険な目にあわれていることなどから拝すると、最蓮房が大聖人のもとへうかがうのも容易ではなく、警護の者達に足止めされるかもしれない状況が推察され、その意味から「夕方はよく用心してくるように」と仰せられたと考えるほうが自然であろう。
次に、京都から届いた種々の物を、御供養として奉られたことに対して、心から感謝を述べられている。その品がどのようなものであるかは不明であるが、鎌倉では日常的にみていた物でも、京・鎌倉から遠く離れ、辺国の佐渡では、流罪になってからは一度も見たことがなかったと仰せである。
そのような京都からの届け物は、最蓮房にとっても、貴重このうえない物であったろう。しかも、とるものもとりあえず、最蓮房は大聖人のもとへお届けしたのである。最蓮房の純真な心が察せられる。
なお、ここで仰せの得受職人功徳法門に関しては、本抄では述べられていないが、本抄の二日後に著されたとされる「得受職人功徳法門」が、富士学林発行の昭和新定御書に収められている。その内容を概説すると、次のとおりである。
受職とは受職灌頂といい、菩薩の修行を尽くして、妙覚の位を得ることである。諸経においては、等覚の菩薩が妙覚の仏になろうとするとき、他方の仏がその菩薩の頂に仏の智慧の法水を灌ぐとされ、したがって、諸経では、受職灌頂は等覚の菩薩に限るとしている。
それに対して、法華経における授職は、聖者よりも凡夫に、善人よりも悪人に、上位よりも下位に、持戒よりも毀戒、正見よりも邪見、利根よりも鈍根、高貴よりも下賤、男よりも女、人天よりも畜生に行うのである。したがって、等覚にかぎらず、五十一位すべてに受職があることになる。
法華経から五十二位の受職について、与えて言った場合には、一位に他の五十一位を具するのであり、そのゆえに五十二位すべてに受職があることになる。奪って言えば、五十二位などという階位は別教の義であり、法華経では、それらを経ずに、直ちに妙覚の悟りを得るのである。
ただし、法華経による受職灌頂の人にも道の受職と俗の受職、修学解了の受職と信行のみの受職の異なりがある。とくに、修学解了の道の者は、自身が成仏するのみでなく、他をも救うゆえに尊いのである。他を利益する僧にあっても、広く人のために説くのは上師であり、ひそかに一人のために説くのは下師である。
日蓮は釈尊から受職し、今、最蓮房に授職した。受職の後は、他のために説くべきである。この法華経を弘める人は常に仏とともにいる人であり、釈尊は変化の人をつかわして、この人を守るのである。なぜなら、この人は如来の使いだからである。
日蓮こそ上師のなかの上師であり、その弟子となった最蓮房もまた、人々に妙法を説く師としての信行・修学を積んでいかなくてはならない。受職灌頂は、儀式のみに終わるのでなく、以後の実践あって初めて、真実の義があらわれるのである。
以上が概要であるが、日付は「文永九年四月十五日の夜半に之を記し畢んぬ」とあり、「日域沙門 日蓮」と署名されている。
第二章 (妙法の信受、師弟の血縁を喜ぶ)
本文
御状に云く去る二月の始より御弟子となり帰伏仕り候上は・自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば恐悦に相存ず可く候云云、経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」とも或は「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」とも云へり、釈には「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住せん」とも、或は云く「初此の仏菩薩に従つて結縁し還つて此の仏菩薩に於て成就す」とも云えり、此の経釈を案ずるに過去無量劫より已来師弟の契約有りしか、我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事・是れ偏に過去の宿習なるか。
現代語訳
お手紙には、去る二月の始めから御弟子となり帰伏したうえは、今から後は人並でないけれども御弟子の一分とお思いくだされば恐悦に存じます、とあった。
法華経には「あらゆる諸仏の国土に常に師とともに生まれるであろう」とも、あるいは「もし法師に親しく交わるならば、速やかに菩薩の道を得るであろう。この師にしたがって学ぶならば無数の仏を拝見することができるであろう」とも説いている。
法華玄義には「もとこの仏に従って初めて仏道を求める心を起こし、またこの仏に従って不退の境地に住するであろう」とも、あるいは法華文句記には「初めこの仏菩薩に従って結縁し、還ってこの仏菩薩のもとで成就する」ともいっている。
この経や釈を考えてみるに、過去の計り知れない昔から師弟の約束があったのであろうか。我らが末法濁世において生を南閻浮提の大日本国に受け、恐れ多くも諸仏出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、心に信じ、身に持ち、手にもてあそぶことは、ひとえに過去の宿習であろうか。
語釈
恒沙
ガンジス河の砂のことである。ガンジス河はヒマラヤ山脈を源とし、東へ流れてベンガル湾に注いでいる大河。インド三大河の一つで、昔から霊験に富んだ河として、人々から尊崇されていた。恒沙とは、ガンジス河の沙のように無数であることを譬える。無量無数のという意となる。
不退地
不退転の地。仏道修行の過程ですでに得た功徳を決して失わないこと。
無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。数限りない「劫」のこと。計り知れないほど長い時間のこと。「劫」は長大な時間の単位。
末法
仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』では、仏の教え(教)だけが存在して、それを学び修行すること(行)や覚りを得ること(証)がない時期とされる。日蓮大聖人の時代には、釈尊滅後正法1000年、像法1000年を過ぎて末法に入るという説が用いられていた。したがって、『周書異記』にあるように釈尊の入滅を、周の穆王52年(BC0949年)として正像2000年説を用いると、永承7年(1052年)が末法の到来となる(ただし釈尊の入滅の年代については諸説がある)。それによると大聖人の出世は釈尊滅後およそ2200年にあたるから、末法の始めの500年中に御出現なさったこととなる。末法の年代について『中観論疏』などには釈尊滅後2000年以後1万年としている。大聖人は、末法万年の外・尽未来際とされている。弘長2年(1262年)御述作の「教機時国抄」に「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し……又当世は末法に入って二百一十余年なり」(439㌻)と述べられている。大集経では、「闘諍堅固」(僧は戒律を守らず、争いばかり起こして邪見がはびこり、釈尊の仏法がその功力をなくす時代)で、「白法隠没」(釈尊の仏法が見失われる時代)であるとされる。
南閻浮提
閻浮、閻浮提とも。閻浮提はサンスクリットのジャンブードゥヴィーパの音写。閻浮(ジャンブー)という名の樹がある洲(ドゥヴィーパ、島)を意味する。贍部ともいう。古代インドの世界観では、世界の中心にあるとされる須弥山の東に弗婆提、西に瞿耶尼、南に閻浮提、北に鬱単越の四大洲があるとされ、「一閻浮提」で南の閻浮提の全体をいう。人間が住み、仏法が広まるべきところの全体とされた。もとはインドの地を想定していたものだったが、やがて私たちが住む世界全体をさすようになった。
宿習
宿世(過去世)に行った思考、言動の影響が生命に積み重ねられ、潜在的な力となっているもの。
講義
最蓮房が手紙のなかで、妙法を信受し、弟子となった喜びと、決意を述べたのを受けて、法華経とその釈の文を挙げ、師弟の深い関係について明かされている。
化城喩品第七には「いつの世にも、諸仏の国土に常に師とともに生まれる」とあり、この経文は三千塵点劫の昔に出現した大通智勝仏の16人の王子が父王から聞いた法華経を重ねて説法(大通覆講)し、それぞれ六百万億恒河沙等の衆生と師弟の契りを結び、その衆生は、その後、いつの世にも、諸仏の国土に常に師とともに生まれて、ともに仏法を実践していったと説き明かしたものである。
これは、釈尊が声聞に対して法華経の迹門で説いた三周の説法(法説周・譬説周・因縁周)のうちの因縁周にあたる。仏が開三顕一を示すのに法説・譬喩説をもって説いても領解しない機根の声聞に対して、大通智勝仏の16王子とその教化を受けた衆生の縁を説き、釈尊はその16王子の1人であり、法華経説法の座に集まった声聞達は、その教化を受けた衆生であることを明かしたものである。
この因縁周の文を引いて大聖人は、あたかも16王子とその教化を受けた衆生のように、大聖人と最蓮房の縁が深いことを教えられているのである。
また大聖人は、同経法師品第10の最後に「もし法師に親近すれば速やかに菩薩の道を得ることができ、この師に随順して学べば恒沙の仏を見奉ることができる」とも説かれていると示されている。ここに「親近」といい「随順」というのは「信受」の異名である。
この文は、仏滅後に法華経を説く者には、仏が変化の人をつかわして衛護することを説いたところで述べられたものである。その法師に親近し、随順すれば菩薩の道を得、恒沙の仏を見ることができると説いている。
大聖人がこの文の法師を大聖人に、その師に親近・随順する者を最蓮房になぞらえられているのはいうまでもない。
次に、これらの経文を解釈した天台大師の法華玄義には「本、この仏に従って初めて道心(菩提心)を発したのであるから、またこの仏に従って不退地に住するであろう」とも、また妙楽大師の法華文句記には「初めこの仏・菩薩に従って結縁したのであるから、還ってこの仏・菩薩に従って仏道を成就する」とも述べていることを示し、本従っていた、すなわち「本従」の師によって弟子は成仏へ導かれる。と師弟不二の法理を示されている。
ここで「本従の師」が大聖人であり、最蓮房が大聖人の門下になったのには、必ず遠い過去世からの因縁があったからであろうとの意から、この文を引かれているのである。
なお、法華玄義の「不退地」とは、五十二位では十住の最初、すなわち初住位をいう。円教においては菩薩はここで、一分中道の理を悟り、不退転の位に入るとされる。
日寛上人は三重秘伝抄に「師の曰く『本因初住の文底に久遠名字の妙法、事の一念三千を秘沈し給えり』云云、応に知るべし、後々の位に登るは前々の行に由るなり」と述べられている。
この経釈の法理に照らすならば、大聖人と最蓮房との関係には、「過去無量劫」より以来、師となり弟子となる深い契約があったのであろうと述べられ、末法濁悪の時代に「南閻浮提」のなかでも日本の国に生を受け、師弟の契りを結んで、ともに「諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経」を身・口・意の三業をもって、受持実践しているということは、ひとえに「過去の宿習」という以外ないと仰せられているのである。
「諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経」とは、三世十方のあらゆる仏が一切衆生の成仏のために、必ず出世の本懐として説き明かす法が南無妙法蓮華経であるということである。
本抄にかぎらず、大聖人は最蓮房に、師弟の契りを結んだことはまことに不思議であると仰せになっている。生死一大事血脈抄では「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」(1338:01)、また諸法実相抄では「不思議なる契約なるか……まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」(1361:16)と仰せである。
佐渡御流罪という、大聖人の最大の逆境に際会して大聖人を支える一分の役目を果たし、しかも天台僧であった縁から、生死一大事血脈、草木成仏、諸法実相等の甚深の法門を残されるに至ったということは、不思議という以外ない。そうした万感の意を込めて、大聖人は「師弟の契約」と仰せになっているものと拝するのである。
第三章 (邪師を捨て正師につくべきを示す)
本文
予日本の体を見るに 第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となし善師を悪師となす、経に「悪鬼入其身」とは是なり、日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王・我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず、故に天魔力及ばずして・王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり、然るに今時は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知つて邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり、設い徳は四海に斉く智慧は日月に同くとも法華経を誹謗するの師をば悪師邪師と知つて是に親近すべからざる者なり、或る経に云く「若し誹謗の者には共住すべからず若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣かん」と禁め給う是なり、いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり、釈に云く「若し人本悪無きも悪人に親近すれば後必ず悪人と成り悪名天下に遍からん」云云、
現代語訳
私が日本の姿を見るに、第六天の魔王が智者の身に入って正師を邪師となし、善師を悪師となしている。法華経に「悪鬼其の身に入る」と説かれているのはこれである。
日蓮は智者ではないけれども、第六天の魔王が我が身に入ろうとしても、かねてからの用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに天魔は力及ばずに王や臣下をはじめとして良観等の愚かな法師達に取りついて、日蓮を怨むのである。
しかしながら今の時代は師に正師と邪師、善師と悪師の違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである。たとえ徳は全世界に行きわたり、智慧は日月のように輝いていたとしても、法華経を誹謗する師は悪師であり邪師であると知って、これに近づき親しむべきではないのである。
ある経に「もし誹謗の者がいたならば、ともに住んではならない。もし近づき親しんでともに住むならば、無間地獄に堕ちるであろう」と戒められているのはこれである。
どんなに自身は正直で世間・出世間の賢人の名を得ようと思っても、悪人に近づき親しめば、自然に十度に二度、三度とその教えに従っていって、ついには悪人になってしまうのである。
止観輔行伝弘決には「もし人がもとは悪くなくても、悪人に近づき親しめば後には必ず悪人となり、悪名は天下に広くゆきわたるであろう」とある。
語釈
第六天の魔王
欲界の第六天にいる他化自在天のこと。欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。
悪鬼入其身
「悪鬼は其の身に入って」と読み下す。法華経勧持品第13の二十行の偈の文。三類の強敵の様相を説いた中の一句。三類の強敵には悪鬼が身に入り、正法を護持する者を迫害すると説かれる。人々が心の中の煩悩や邪見という悪に身を支配され、薬叉など鬼神の様相を示し、正法およびそれを護持する人に敵対・反発するさまを表現している。日蓮大聖人は、悪鬼の最も根本で手ごわい者を第六天の魔王(他化自在天)とみなされている。「治病大小権実違目」では、その第六天の魔王は、生命にそなわる根源的な煩悩である「元品の無明」の現れであると明かされている。
天魔
天子魔・第六天の魔王のこと。欲界の第六天にいる他化自在天のこと。欲界は、輪廻する衆生が生存する領域を欲界・色界・無色界の三界に分けるうちの、一番低い段階。欲界には地上と天上の両方が含まれるが、天上は6段階に分かれ六欲天と呼ばれる。そのうちの第六天が他化自在天と呼ばれる。また、この第六天に住む神のことも他化自在天と呼ぶ。「他化自在」は、他の者が作り出したものを自由に享受する者の意。釈尊が覚りを開くのを妨害したといわれ、三障四魔の中の天子魔とされる。
良観
(1217~1303)。鎌倉中期の真言律宗(西大寺流律宗)の僧・忍性のこと。良観房ともいう。奈良の西大寺の叡尊に師事した後、戒律を広めるため関東に赴く。文永4年(1267)、鎌倉の極楽寺に入ったので、極楽寺良観と呼ばれる。幕府権力に取り入って非人組織を掌握し、その労働力を使って公共事業を推進するなど、種々の利権を手にした。一方で祈禱僧としても活動し、幕府の要請を受けて祈雨や蒙古調伏の祈禱を行った。文永8年(1271年)の夏、日蓮大聖人は良観に祈雨の勝負を挑み、打ち破ったが、良観はそれを恨んで一層大聖人に敵対し、幕府要人に大聖人への迫害を働きかけた。それが大聖人に竜の口の法難・佐渡流罪をもたらす大きな要因となった。
愚癡
①愚かであること。因果の道理をはじめ、仏法の教えを理解できないこと。貪欲・瞋恚とともに三毒の一つとされ、最も根本的な煩悩と位置づけられる。無明と同一視される。②一般語として、言ってもかいのないことを言って嘆くこと。泣きごと、不平不満などを言って、ふがいなさを話すこと。愚痴とも書く。
四海
古代インドの世界観では、世界の中心に須弥山がそびえ、その周囲の東西南北の四方に諸天(天界の各層)があり、またその麓に海が広がり、その四方にそれぞれ大陸があるとする。このことから、「一四天・四海」とはこの世界のすべてを意味する。
阿鼻獄
阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
講義
ここでは、師にも正邪・善悪の別があることを明かし、邪悪の師に親近してはならないと戒められている。
現実社会のありさまをつぶさに見てみると、第六天の魔王が智者の身中に入り込んで正師を邪師に、善師を悪師にと変えてしまっている。第六天の魔王とは他化自在天のことであり、この天は多くの眷属を率いて人間界において仏道の妨げをなすのである。
法華経の勘持品第十三に末法の様相を示して「濁劫悪世の中は多くもろもろの恐怖があるであろう。悪鬼がその身中に入った者が、法華経の行者を罵り、謗り、辱めるであろう」と説いている。
他化自在天は、まさしくこの悪鬼の首領とされる。他化自在天は、他の楽しみを奪って自らの楽とするのであり、一切衆生に、成仏という根源の楽を与えんとする法華経の行者とは、全く対極にある存在である。したがって、あらゆる生命の中に入って、脅し、すかして、法華経の行者を迫害するのである。
本抄ではとくに、「智者」の身に入ると仰せられている。この「智者」について大聖人は兄弟抄で「此の世界は第六天の魔王の所領なり……法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1081:15)と仰せられている。すなわち「智者」とは各宗の開祖等であり、彼らが第六天の魔王がその身に入った者であることを御教示されている。
彼らは、本来ならば「正師」「善師」になるべきところを、第六天の魔王によって「邪師」「悪師」になってしまい、その「邪師」「悪師」が衆生をたぶらかしているのである。
その意味からすれば、大聖人はまさしく「智者」であられる。したがって、当然、大聖人に対しても、第六天の魔王がその身に入り込んで「邪師」「悪師」にするところであったが、大聖人は、このことあるを自覚して、かねてから油断なく、深く用心を怠らなかったので、天魔は力及ばずして、権力者達(俗衆増上慢)をはじめとして、良観等の愚痴の僧(僭聖増上慢)に取り付き、法華経の行者である大聖人を迫害しているのである。
ここでは大聖人は、良観等を「愚痴の法師原」と仰せられている。「智者」の身に入るのが第六天の魔王であるが、それがかなわないので「愚痴の法師原」の身に取り付いたのである。また同時に「王臣」に対しても取り付くと仰せられている。すなわち、三類の強敵のうち俗衆増上慢である。道門増上慢、僣聖増上慢は良観等やその弟子等であるから、第六天の魔王は三類の強敵として現れたと仰せである。
こうした経緯によって、同じ「師」といっても、第六天の魔王を斥(しりぞ)けた「正師」「善師」と、第六天の魔王が取り付いた「邪師」「悪師」があるのである。どんなに徳や智慧が勝れ、社会から尊敬されていても、法華誹謗の者は邪悪の師であるから、これには親近すべきではない。「或る経」すなわち大方広十輪経の第五巻に「もし正法誹謗の者には共住すべきではない。もし親近し共住するならば、すなわち阿鼻地獄へ向かうであろう」と戒められているのが、これである。つまり正法誹謗の者に親しみ近づけば、その人は悪道の方向へと引きずられていくと、厳しく戒めているのである。
どんなに自分が、正直な生活・人生を生き、世間・出世において「賢人の名声」を得ようとしても、悪人に交わっていれば、知らずしらずのうちに、十度に二度、三度とその交わる回数に応じて悪に染まり、ついには悪人になってしまうのである。
この道理を妙楽大師の弘決には「かりに人に本来、悪がなくても、悪人に親しみ近づけば、後には必ず悪人となり、悪名が天下に轟きわたるであろう」と指摘しているのである。
私達の一切の行為は、知ると知らずとにかかわらず、所縁の境によって左右される。邪悪の師に縁すれば、知らずしらずに影響を受けて、我が生命も邪悪なものとなってしまうのである。妙楽大師は止観輔行伝弘決巻一の四に次のように述べている。すなわち「たとい発心が真実でなくとも、正境に縁すれば功徳が多い。だが正境でなかったならば、たとい発心に偽妄がなくとも、成仏の種とはならない」と。だから、自身が信順して行動の規範とする師が、正善の師であるか、邪悪の師であるか、これを峻別して選ぶことが大事なのである。
第四章 (経証ならびに邪師の名を挙げる)
本文
所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり、涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪智識に於ては怖畏の心を生ぜよ、悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺さるれば必ず三趣に至らん」法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」等云云、先先申し候如く善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚.関東の良観等の諸師は今の正直捨方便の金言を読み候には正直捨実教・但説方便教と読み・或は於諸経中・最在其上の経文をば於諸経中・最在其下と・或は法華最第一の経文をば法華最第二・第三等と読む、故に此等の法師原を邪悪の師と申し候なり。
現代語訳
結局、その邪悪の師とは、今の世の法華経誹謗の法師である。涅槃経には「菩薩よ、悪象等に対しては心に恐れることはない。悪智識に対しては恐れの心を生じなさい。悪象のために殺されたときは三趣に至らない。悪友のために殺されたときは必ず三趣に至るであろう」とあり、法華経には「悪世のなかの比丘は邪智で、心がひねくれ」等とある。
前々から申し上げているように、善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然・東寺の弘法・園城寺の智証・比叡山の慈覚・関東の良観等の諸師は、今の「正直に方便を捨て」の金言を読むのに「正直に実教を捨て、但、方便の教えを説く」と読み、あるいは「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の経文を「諸経の中に於いて、最も其の下に在り」と読み、あるいは「法華最も第一なり」の経文を「法華最も第二なり、第三なり」等と読んでいる。ゆえにこれらの法師達を邪悪の師というのである。
語釈
所詮
究極のところ、結局。
涅槃経
大般涅槃経の略。釈尊の臨終を舞台にした大乗経典。中国・北涼の曇無讖訳の40巻本(北本)と、北本をもとに宋の慧観・慧厳・謝霊運らが改編した36巻本(南本)がある。釈尊滅後の仏教教団の乱れや正法を誹謗する悪比丘を予言し、その中にあって正法を護持していくことを訴えている。また仏身が常住であるとともに、あらゆる衆生に仏性があること(一切衆生悉有仏性)、特に一闡提にも仏性があると説く。天台教学では、法華経の後に説かれた涅槃経は、法華経の利益にもれた者を拾い集めて救う教えであることから、捃拾教と呼ばれる。つまり、法華経の内容を補足するものと位置づけられる。異訳に法顕による般泥洹経6巻がある。
「菩薩悪象等に於ては……三趣に至らん」
涅槃経巻二十二に「菩薩摩訶薩は悪象等に於て心に恐怖無く、悪知識に於いて畏懼心を生ず。何を以っての故に。是の悪象等は唯能く身を壊して、心を壊する能わず。悪知識は二つ倶に壊するが故に。是の悪象等は唯一身を壊し、悪知識は無量の善身、無量の善心を壊す。是の悪象等は唯能く不浄の臭身を破壊し、悪知識は能く浄身及以(および)浄心を壊す。是の悪象等は能く肉身を壊し、悪知識は法身を壊す。悪象に殺さるるも三趣に至らず、悪友に殺さるれば必ず三趣に至る」とある。
三趣
地獄・餓鬼・畜生の三種の悪道のこと。悪業の報いによって導かれる苦悩の世界で、三悪道・三途ともいう。
悪知識
善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001:08)とある。
善無畏
0637~0735。東インドの王族出身の密教僧。唐に渡り、大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)を翻訳し、本格的な密教を初めて中国に伝えた。主著に『大日経疏』がある。
金剛智
0671~0741。サンスクリットのヴァジラボーディの訳。中インドあるいは南インド(デカン高原以南)出身の密教僧。唐に渡り、金剛頂経(金剛頂瑜伽中略出念誦経)などを訳し、中国に初めて金剛頂経系統の密教をもたらした。弟子に不空、一行がいる。
達磨
菩提達磨のこと。5~6世紀、生没年不詳。菩提達磨はサンスクリットのボーディダルマの音写。達磨と略す。達摩とも書く。中国禅宗の祖とされる。その生涯は伝説に彩られていて不明な点が多い。釈尊、摩訶迦葉と代々の法統を受け継いだ28代目の祖師とされる。以下、伝承から主な事跡を挙げると、南インドの香至国王の第3王子として生まれ、後に師の命を受け中国に渡る。梁の武帝に迎えられて禅を説いたが、用いられなかった。その後、嵩山少林寺で壁に向かって9年間座禅を続けていたところ、慧可が弟子入りし、彼に奥義を伝えて没したという
慧可
0487~0593。中国・南北朝時代から隋の僧。禅宗で菩提達磨に次ぐ第2祖とされる。菩提達磨の弟子となり、名を慧可と改め、6年間修行した。達磨の死後、慧可に帰依する者が多かったが、妬む者も多く、隋の開皇13年(0593)、讒訴によって処刑されて、107歳で死んだ。なお、慧可が達磨に入門するにあたって、積雪中に夜を徹して入門の許可を待ったが許されず、自ら左の腕を切断して求道の心を示し、ついに許しを得て弟子となったという慧可断臂の故事は有名。
善導
0613~0681。中国・唐の浄土教の祖師。道綽の弟子。称名を重視する浄土教を説き、日本浄土宗の開祖・法然(源空)に大きな影響を与えた。主著に『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』など。
法然
1133年~1212年。法然房源空のこと。平安末期から鎌倉初期の僧。日本浄土宗の開祖。天台宗の僧であったが、中国浄土教の善導の思想に傾倒し、他の一切の修行を排除し念仏口称をもっぱら行う専修念仏を創唱した。代表著作の『選択集(選択本願念仏集)』では、法華経をも含む一切の経典の教えを捨て閉じ閣き抛てと排除し、もっぱら念仏をとなえることによって往生を願うべきであると説いた。法然の専修念仏に対しては、当初、後白河法皇や摂政・関白を歴任した九条兼実ら有力者の支持を得たが、やがて諸宗派からの反発が強まる。朝廷・幕府も禁止の命令を出し、建永2年(1207年)、法然らが流罪され、高弟が死罪に処せられた。その後も繰り返し禁圧が続くが、念仏は広がっていった。弟子に親鸞がいる。
東寺
教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(0796)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(0823)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。
弘法
0774~0835。平安初期の僧。日本真言宗の開祖。弘法大師ともいう。唐に渡り、不空の弟子である青竜寺の恵果の付法を受け、帰国後、密教を体系的に日本に伝える。大日経系と金剛頂経系の密教を一体化し、真言宗を開創した。高野山に金剛峯寺を築き、また嵯峨天皇から京都の東寺(教王護国寺)を与えられた。同時代の伝教大師最澄と交流があったが絶縁している。主著『十住心論』『弁顕密二教論』などで、密教が最も優れているとし、それ以外を顕教と呼んで劣るものとする教判を立てた。
園城寺
滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門(比叡山延暦寺)に対する寺門をいう。大友皇子の子、大友与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の3帝の誕生水があるので御井(三井)と呼ばれた。比叡山の円珍(智証)が貞観元年(0859)に再興し、同6年(0864)12月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁(慈覚)門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦4年(0993)には比叡山から円珍門徒1000人余りが園城寺に移り、以降、山門(円仁派)と寺門(円珍派)の抗争が続いた。
智証
0814~0891。平安初期の天台宗の僧。第5代天台座主。智証大師ともいう。空海(弘法)の甥(または姪の子)。唐に渡って密教を学び、円仁(慈覚)が進めた天台宗の密教化をさらに推進した。密教が理法・事相ともに法華経に勝るという「理事俱勝」の立場に立った。このことを日蓮大聖人は「報恩抄」などで、先師・伝教大師最澄に背く過ちとして糾弾されている。主著に『大日経指帰』『授決集』『法華論記』など。円珍の後、日本天台宗は円仁門下と円珍門下との対立が深まり、10世紀末に分裂し、それぞれ山門派、寺門派と呼ばれる。
山門
三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
慈覚
円仁のこと。794年~864年。平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。慈覚大師ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている。
関東
鎌倉の北条執権のこと。
正直捨方便
法華経方便品第2の文。「正直に方便を捨てて」と読む。釈尊が法華経以前に説いた教えはすべて方便であるとして、執着をもたずきっぱりと捨てること。この文は「但だ無上道を説く」と続き、最高の教えである法華経を説くと述べられている。
於諸経中・最在其上
安楽行品の文。「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中にもっともその上」にあり」とある。同様の文は薬王品にもみられる。
法華最第一
「法華最も第一なり」と読む。法華経法師品第10の文。法華経はあらゆる経典の中で最も優れた教えであること。同品には「我が説く所の諸経|而も此の経の中に於いて|法華は最も第一なり」とある。日蓮大聖人は「慈覚大師事」で「一歳より六十に及んで多くの物を見る中に悦ばしき事は法華最第一の経文なり」と仰せである。
法華最第二・第三
慈覚は蘇悉地経等で、法華経は末だ如来秘密の意を究め尽していないとして、如来の事理俱密の意を尽くしていないとし大日経第一・法華経第二とし、弘法は十住心論で衆生の心相を十種に分け真言宗第一・華厳宗第二・法華天台宗第三と立てた。
講義
ここは、邪悪の師とは、具体的にだれであるかを示されている。涅槃経に「菩薩は、悪象等に恐怖心を抱く必要はない。だが、悪知識に対しては恐れの心を生じなければいけない。なぜならば、悪象のために殺されても、地獄・餓鬼・畜生等の三悪道に堕ちることはないが、悪友のために菩薩心を殺されれば必ず三悪道に至るであろう」と説いており、また、法華経勧持品第十三には、末法に現れる悪僧について「悪世の中の僧は邪智にして、その心は諂曲である」等と説いている。
それでは、その邪悪の師とは、具体的に誰をさすのか。
中国では、真言宗の祖・善無畏と弟子の金剛智、禅宗の祖・達磨と弟子の慧可、念仏宗の祖・善導等である。
日本では、念仏宗の祖・法然、真言宗の祖・東寺の弘法、天台宗の比叡山延暦寺第五代の座主で三井園城寺派中興の祖・智証、同宗第三代の座主で山門派の祖・慈覚、京に対して関東の鎌倉極楽寺・律宗の良観等である。
これらの邪師の名を列挙されるにあたり「先先に申し候如く」と仰せられている。文永9年(1272)2月の最蓮房入信から本抄御述作の四月までに大聖人の著されている御書ではそれに触れられたものは見当たらないが、御書として残されたものにかぎらず、大聖人は最蓮房と対面された折、御教示されたものであろう。
大聖人は、これらの諸師の何をもって、邪悪の師と指弾されているのか。その邪悪の根本とは「法華経は最高・究極の法であり、成仏の法である」と説示した仏の金言を曲げたところにある。すなわち、法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」とある経文を曲げ、「正直に実教を捨てて、但方便教を説く」としているようなものである。あるいは同経安楽行品第十四に「諸経の中に於いて最も其の上に在り」との経文を、「諸経の中に於いて、最も其の下に在り」と読んでいるのと同じである。また同じく法師品第十にも「我が説く所の諸経、而も此の経の中に於いて、法華は最も第一なり」とあるのを「法華は第二・第三」等と読んでいるのである。
これらの邪師の読み方については、大聖人が単に言葉のうえでだけ仰せられているのではない。現実に彼らが顚倒した読み方をしているゆえにこのように仰せられているのである。
法華経の「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」を顚倒して「正直に実教を捨てて、但だ方便教を説く」と読んでいるのは各宗派ともそうであるが、なんといっても典型的なものは浄土宗であろう。法然の選択集では浄土以外の、法華経を含む諸経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と主張している。これが実教を捨てていることになるのは当然である。
また「諸経の中に於いて最も其の上に在り」の文を「諸経の中に於いて、最も其の下に在り」と顚倒させている代表は、真言宗であろう。法華教と大日経とを相対して大日教を勝れるというのみか、法華経を華厳経にさえも劣るとして「三重の劣」と主張するに至っては「最在其下」と下しているのと同じである。
「我が説く所の諸経、而も此の経の中に於いて、法華は最も第一なり」の文を「法華は第二・第三」と読んでいるのは、真言宗(東密)とこれに染まった天台真言(台密)である。真言宗が第三と下しているのは、すでに述べたが、「第二」と読んでいるのは、延暦寺第三代の慈覚・第五代の智証以後の天台宗である。彼らは天台宗の座主として、天台大師・伝教大師の教えを継承する立場でありながら、真言密教の邪義に紛動されて、法華経と大日経は理において同じであるが、事において大日経のほうが法華経より勝れるという理同事勝の義を立てたのである。
仏の金言を無視し曲げて自宗の義を宣揚し、法華経を誹謗することは、まさに人々を仏法から遠ざける「邪師」「悪師」であることは明白といえよう。
第五章 (大聖人こそ末法正善の師と明かす)
本文
さて正善の師と申すは釈尊の金言の如く・諸経は方便法華は真実と正直に読むを申す可く候なり、華厳の七十の入法界品之を見る可し云云、法華経に云く「善知識は是れ大因縁なり所謂化導して仏を見たてまつり阿耨菩提を発することを得せしむ」等云云、仏説の如きは正直に四味三教.小乗・権大乗の方便の諸経・念仏.真言・禅・律等の諸宗・並びに所依の経を捨て・但唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師善師とは申す可きなり、然るに日蓮末法の初の五百年に生を日域に受け如来の記文の如く三類の強敵を蒙り種種の災難に相値つて身命を惜まずして南無妙法蓮華経と唱え候は正師か邪師か能能御思惟之有る可く候。
現代語訳
さて、正善の師というのは釈尊の金言のとおり、諸経は方便であり法華経は真実である、と正直に読む者をいうべきである。
華厳経の巻七十七の入法界品を見るべきである。法華経には「善知識は、これは大因縁である。所謂、化導して、仏を拝見し無上の悟りを求める心を起こさせる」等とある。
仏説によれば、正直に四味三教・小乗・権大乗の方便の諸経と念仏・真言・禅・律等の諸宗ならびに所依の経を捨て、ただ唯以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師・善師というべきである。
ところで日蓮が末法の初めの五百年に生を日本に受け、如来の予言のとおり三類の強敵による迫害を受け、種々の災難にあって身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは正師か邪師か、よくよくお考えいただきたい。
語釈
方便
仏が衆生を教化するうえで、真実に導くために設ける巧みな手段、教えのこと。爾前経では、十界の境涯の差別を強調し、二乗や菩薩の覚りを得ることを修行の目的とする方便の教えを説いている。
華厳の七十七の入法界品之を見る可し
華厳経は、東晋の仏駄跋陀羅訳の六十巻本と、唐の実叉難陀訳の八十巻本とがあり、ここでは八十巻本の巻七十七入法界品をさす。初め入法界品や十地品など各章が独立した経典として成立し、のちに現行の華厳経に集成された。入法界品には、善財童子が文珠菩薩の説法を聞いて発心し、その指導によって五十三人の善知識を歴訪して教えを受け、再び文珠のもとに戻り、最後に普賢菩薩の教えによって修行を完成するとあり、大聖人は、善知識の大切なることを示されている。
華厳
大方広仏華厳経の略。漢訳には、中国・東晋の仏駄跋陀羅訳の六十華厳(旧訳)、唐の実叉難陀訳の八十華厳(新訳)、唐の般若訳の四十華厳の3種がある。無量の功徳を完成した毘盧遮那仏の荘厳な覚りの世界を示そうとした経典であるが、仏の世界は直接に説くことができないので、菩薩のときの無量の修行(菩薩の五十二位)を説き、間接的に表現している。
善知識
よい友人・知人の意。「知識」とはサンスクリットのミトラの訳で、漢語として友人・知人を意味する。善知識とは、仏法を教え仏道に導いてくれる人のことであり、師匠や、仏道修行を励ましてくれる先輩・同志などをいう。善友ともいう。悪知識に対する語。
因縁
❶原因・理由のこと。果を生じる内的な直接の原因を因といい、因を助けて果に至らせる外的な間接の原因を縁という。因と縁が合わさって(因縁和合)、果が生まれ報となって現れる。生命論では、一切衆生の生命にそなわる十界のそれぞれが因で、それが種々の人やその教法にふれることを縁として、十界のそれぞれの果報を受けるとする。衆生の仏界は、仏の真実の覚りの教えである法華経を縁として、開き顕され、成仏の果報を得る。❷四縁(因縁・次第縁・縁縁・増上縁)の一つ。果を生む直接的原因のこと。狭義の因の意。❸説法教化の縁由。なお、法華経迹門の化城喩品第7における過去世からの釈尊と声聞の弟子たちのつながりを明かし因縁を示した教説において、正法を信解し未来における成仏の保証を与えられた人々を因縁周という。❹経典をその形式・内容に基づき12種類に分類した十二部経の一つ。ニダーナの訳。縁起ともいう。説法教化の縁由を示すもの。❺因縁釈のこと。天台大師智顗が『法華文句』で法華経の文々句々を解釈するために用いた4種の解釈法(四種の釈)の一つ。世界・為人・対治・第一義の四悉檀で仏と衆生との関係、説法の因縁を釈したもの。
阿耨菩提
阿耨多羅三藐三菩提のこと。サンスクリットのアヌッタラサンミャクサンボーディの音写。無上正遍知、無上正等正覚、無上正等覚などと訳す。最高の正しい覚りの意。仏の完全な覚りのこと。
四味三教
四味とは五味のうち醍醐味を除く乳味・酪味・生酥味・熟酥味。三教は蔵・通・別教をいう。
小乗
乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。乗は「乗り物」の意で、覚りに至らせる仏の智慧の教えを、衆生を乗せる乗り物に譬えたもの。その教えの中で、劣ったものを小乗、優れたものを大乗と区別する。もともと小乗とは、サンスクリットのヒーナヤーナの訳で「劣った乗り物」を意味し、大乗仏教の立場から部派仏教(特に説一切有部)を批判していう言葉。自ら覚りを得ることだけに専念する声聞・縁覚の二乗を批判してこのように呼ばれた。部派仏教は、釈尊が亡くなった後に分派したさまざまな教団(部派)が伝えた仏教で、自身の涅槃(二度と輪廻しない境地)の獲得を目標とする。説一切有部は、特に北インドで最も有力だった部派で、「法」(認識を構成する要素)が実在するとする体系的な教学を構築した。これに対し、大乗仏教は自他の成仏を修行の目標とし、一切のものには固定的な本質がないとする「空」の立場をとる。中国・日本など東アジアでは、大乗の教えがもっぱら流布した。
権大乗
大乗のうち権教である教え、経典。
念仏
阿弥陀仏を念じ極楽浄土への往生をめざすこと。念仏とは仏を思念することで、その意味は多岐にわたるが、大きくは称名念仏・法身(実相)念仏・観想念仏に分けられる。①称名念仏とは、諸仏・諸菩薩の名をとなえ念ずること。②法身念仏とは、仏の法身すなわち中道実相の理体を思い念ずること。③観想念仏とは、仏の功徳身相を観念・想像することをいう。
真言
密教経典に基づく日本仏教の宗派。善無畏・金剛智・不空らがインドから唐にもたらした大日経・金剛頂経などを根本とする。日本には空海(弘法)が唐から伝え、一宗派として開創した。手に印相を結び、口に真言(呪文)を唱え、心に曼荼羅を観想するという三密の修行によって、修行者の三業と仏の三密とが一体化することで成仏を目指す。なお、日本の密教には空海の東寺流(東密)のほか、比叡山の円仁(慈覚)・円珍(智証)らによる天台真言(台密)がある。真言の教え(密教)は、断片的には奈良時代から日本に伝えられていたが、体系的には空海によって伝来された。伝教大師最澄は密教を学んだが、密教は法華経を中心とした仏教を体系的に学ぶための一要素であるとした上で、これを用いた。伝教大師の没後、空海が真言密教を独立した真言宗として確立し、天皇や貴族などにも広く重んじられるようになっていった。天台宗の中でも、密教を重んじる傾向が強まり、第3代座主の円仁や第5代座主の円珍らが天台宗の重要な柱として重んじ、天台宗の密教化が進んでいった。
禅
座禅によって覚りが得られると主張する宗派。菩提達磨を祖とし、中国・唐以後に盛んになり、多くの派が生まれた。日本には奈良時代に伝えられたが伝承が途絶え、平安末期にいたって大日能忍や栄西によって宗派として樹立された。日蓮大聖人の時代には、大日能忍の日本達磨宗が隆盛していたほか、栄西や渡来僧・蘭渓道隆によって伝えられた臨済宗の禅が広まっていた。
【達磨までの系譜】禅宗では、霊山会上で釈尊が黙然として花を拈って弟子たちに示した時、その意味を理解できたのは迦葉一人であったとし、法は不立文字・教外別伝されて迦葉に付嘱され、この法を第2祖の阿難、第3祖の商那和修と代々伝えて第28祖の達磨に至ったとする。
【唐代の禅宗】禅宗では、第5祖とされる弘忍(0601~0674)の後、弟子の神秀(?~0706)が唐の則天武后など王朝の帰依を受け、その弟子の普寂(0651~0739)が神秀を第6祖とし、この一門が全盛を誇った。しかし、神会(0684~0758)がこれに異を唱え、慧能が達磨からの正統で第6祖であると主張したことで、慧能派の南宗と神秀派の北宗とに対立した。日本に伝わった臨済宗や曹洞宗は、南宗の流れをくむ。
【教義】戒定慧の三学のうち、特に定を強調している。すなわち仏法の真髄は決して煩雑な教理の追究ではなく、座禅入定の修行によって直接に自証体得することができるとして、そのために文字も立てず(不立文字)、覚りの境地は仏や祖師が教え伝えるものでなく(仏祖不伝)、経論とは別に伝えられたもので(教外別伝)、仏の教法は月をさす指のようなものであり、禅法を修することにより、わが身が即仏になり(即身即仏)、人の心がそのまま仏性であると直ちに見て成仏することができる(直指人心、見性成仏)というもので、仏祖にもよらず、仏の教法をも修学せず、画像・木像をも否定する。
律
❶戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする学派。日本には鑑真が、中国の隋・唐の道宣を祖とする南山律宗を伝え、東大寺に戒壇院を設け、後に天下三戒壇(奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の戒壇)の中心となった。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。❷奈良時代に鑑真が伝えた律宗とは別に、鎌倉時代に叡尊や覚盛によって新たに樹立された律宗がある。叡尊や覚盛は、戒律が衰退しているのを嘆き、当時も機能していた東大寺戒壇とは別に、独自に授戒を行い、律にもとづいて生活する教団を形成した。これを奈良で伝承されてきた律宗とは区別して、新義律宗と呼ぶ。叡尊は覚盛と袂を分かち、西大寺の再興を図り、真言宗の西大寺流として活動した。そこから、真言律宗と呼ばれる。
唯以一大事因縁故・出現於世
方便品の文。「ただ一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう」と読む。その一大事の因縁とは、方便品に「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。」とある。御義口伝には「一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり」(0716:第三唯以一大事因縁の事:05)「一とは中諦.・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり」(0717:第三唯以一大事因縁の事:09)「一とは一念・大とは三千なり此の三千ときたるは事の因縁なり事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり、国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり」(0717:第三唯以一大事因縁の事:12)とある。
日域
日本のこと。
三類の強敵
釈尊の滅後の悪世に法華経を弘通する者に迫害を加える人々。法華経勧持品第13に説かれる。これを妙楽大師湛然が『法華文句記』巻8の4で、3種に分類した。①俗衆増上慢は、仏法に無智な在家の迫害者。悪口罵詈などを浴びせ、刀や杖で危害を加える。②道門増上慢は、比丘(僧侶)である迫害者。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し自身が優れていると思い、迫害してくる。③僭聖増上慢は、聖者のように仰がれているが、迫害の元凶となる高僧。ふだんは世間から離れた所に住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱く。讒言によって権力者を動かし、弾圧を加えるよう仕向ける。妙楽大師は、この三類のうち僭聖増上慢は見破りがたいため最も悪質であるとしている。日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を呼び起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされた。「開目抄」では具体的に聖一(円爾、弁円)、極楽寺良観(忍性)らを僭聖増上慢として糾弾されている。
講義
これまでの「邪師」「悪師」に対し、では末法の「正師」「善師」はだれなのかを明かされている。
邪悪の師が、仏の金言を曲げて読む者をいうのであるから、正善の師というのは、釈尊の金言のごとく正しく経を読み、実践する人をいうことは明白である。仏の金言をそのとおりに拝するとはどういうことかといえば、「諸経は方便の教えであり、法華は真実の教えである」と、正直に信受する者をいうと仰せである。そしてその金言のとおりに身に行い、口に読み、意に思っているのは大聖人のみなのである。
それについて「華厳の七十七の入法界品之を見る可し」と仰せられているのは、徳生童子と有徳童女とが、善財童子に対して「善知識」、すなわち正善の師に随順する功徳を説いている部分をいうと思われる。
また法華経の妙荘厳王品第二十七に「善知識こそ我らを化導して、仏を見たてまつり菩提心を発させる大因縁である」と説いている文を挙げられ「善知識」がいかに大切であるかを教えられている。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」との仏説によるならば、正直に四味三教・小乗・権大乗の方便の諸経、すなわち念仏・真言・禅・律等の諸宗、ならびに諸宗が拠りどころとしている経教をすべて捨てて、仏がただ一大事の因縁をもって世に出現し説いたところの妙法蓮華経を説く師を正師といい、善師というべきである。
「唯以一大事因縁の妙法蓮華教」とは、法華経方便品第二に「諸仏世尊は、唯だ一大事の因縁を以っての故に、世に出現したまう」とあるように、仏がこの世に出現した本意の法である。
ではその一大事因縁とは何かといえば、方便品の次下に「諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまう。舎利弗よ。是れを諸仏は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと為す」とあるように、衆生に仏知見を開示悟入させることにある。すなわち、一切衆生を仏道に入らせることが仏の出世の目的なのである。その妙法蓮華経を説くことが一切衆生を仏道に入らせる「正師」「善師」の条件であり、逆にその法華経から衆生を遠ざけるのは衆生に仏の道を閉ざすことになるから「邪師」「悪師」となるのである。そこで、末法において、現実に、その法華経を弘めているのはだれか。日蓮大聖人は末法の初めの五百年に、この日本国に御出現になって、仏が滅後の末法を予見して、勧持品に説き明かした未来記のとおりに、三類の強敵を受け、種々の大難にあわれながら、身命を惜しまず南無妙法蓮華経と唱え弘められた。その日蓮大聖人は「正師」か「邪師」かを、よくよくこれを見極めよと仰せられている。すなわち、事実をもって判断しなさいと言われているのである。
第六章 (法華経身読の事実を挙ぐ)
本文
上に挙ぐる所の諸宗の人人は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども・予が如く弘長には伊豆の国に流され・文永には佐渡嶋に流され・或は竜口の頚の座等此の外種種の難数を知らず、経文の如くならば予は正師なり善師なり・諸宗の学者は悉く邪師なり悪師なりと覚し食し候へ、此の外善悪二師を分別する経論の文等是れ広く候へども・兼て御存知の上は申すに及ばず候。
現代語訳
先に挙げた諸宗の人々は、自分こそ法華経の意を心得て法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難にはあっていない。日蓮は弘長元年には伊豆の国に流され、文永八年には佐渡の島に流され、あるいは竜の口で斬首刑の座にすわる等、このほか種々の難は数えきれないほどである。
経文のとおりであるならば、自分こそ正師であり、善師である。諸宗の学者はことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい。
このほか、善悪の二師を区別する経論の文等は多くあるけれども、あらかじめ御存知であるので申し上げるまでもない。
語釈
伊豆の国
旧国名。現在の静岡県の東部、伊豆半島。日蓮大聖人は弘長元年(1261)5月12日から弘長3年(1263)2月22日まで伊豆の伊東に流罪された。
佐渡嶋
新潟県の佐渡ヶ島のこと。北陸道七か国の一国。神亀元年(0724)遠流の地と定められて以来、承久3年(1221)に順徳上皇が流されるなど多くの人々が流されている。日蓮大聖人は文永8年(1271)10月から同11年(1274)3月まで、佐渡に流罪にあわれた。
竜口の頚の座
文永文永8年(1271)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、謗法を禁じ正法を用いなければ「立正安国論」で予言したように自界叛逆難・他国侵逼難が起こると再度、警告された。これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守兼佐渡国の守護であった北条宣時の邸宅に勾留された。ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。しかし突如、光り物が出現し、その試みは失敗した。この斬首の謀略は、大聖人を迫害する一派が、正式な処分が決定する前に護送中の事故に見せかけて、暗殺を図ったものと推定される。大聖人は、竜の口でのこの暗殺未遂によって、末法の凡夫(普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹)を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初の自受用身という本地)を顕されたのである。この御振る舞いを「発迹顕本」と拝する。この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた本間重連の依智(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は10月10日に依智をたって佐渡へと向かわれた。
講義
前に挙げた諸宗の人々は「我こそ法華経の意を得て、法華経を行じている者である」などといっているが、大聖人のように、法華経を行じて流罪・死罪等の種々の法難を、はたして誰が受けているであろうか。法華経のために三類の強敵による大難を受けた者はだれ一人としていない。したがって、仏説に照らして、大聖人こそ「正師」であり「善師」であることは明確であり、諸宗の僧はすべて「邪師」であると確信しなさい、と仰せである。
ここで諸宗の祖を「我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者と名乗」っているとし、大聖人はそれに対して現実に難にあっている身であると仰せられているのは、法華経の修行が身口意の三業にわたらなければならないなかで、諸宗の祖は、自分では意業に法華経を読んだと、口でいっているが、それに対して、大聖人は身業をもって法華経を読んでいると仰せられているのである。真実に法華経を読むということは、身業において読むことにあり、それがなければ真実の法華経の修行ではないとの大聖人の強い御確信であることが拝される。
なお、大聖人が「上に挙ぐるところの諸宗の人々」と仰せられているように、法華経を修行していると「名乗り」出ているのは、彼らのなかでは天台の座主である「園城寺の智証」「山門の慈覚」であろう。智証は法華論記十巻等を著しており、慈覚は法華迹門観心十妙釈、法華本門観心十妙釈等を著している。法華経を講じたりしているのはもちろんである。しかし、彼らが口には法華経を講じていても、その法華経観は先に述べたように法華経を大日経に劣る位置にみているのであるから、正しいはずもなく、まして、大聖人のごとく法華経のゆえに難にあうことなどまったくなかったのはいうまでもない。
その他の諸宗の祖達は、法華経を依経としていないから、法華経の意を得ているとか法華経を修行する者であるということはないのであるが、彼らは、念仏等も開会の後は法華経であるとの邪義を立てて、法華経を意に得ていると言っていたのである。
しかし、その実は、法華経は大日経より劣ると誹謗したり、法華経で成仏はできないから捨てよなどと言っていたのであるから、意に得たなどということ自体、おこがましいといわなければならない。
口業・意業において法華経を読んでいることにかろうじて相当するのは、天台大師や伝教大師といった、像法の正師のみである。しかし、いうまでもなく末法の正師ではないから、これらの人は末法においては論ずるまでもないのである。
そのほかに善悪二師を分別する経論は多いけれども「兼て御存知の上」であるから述べないと仰せられているのは、最蓮房は天台の学僧として、諸宗と法華経の違いをはじめ、僧としての基本的なことは心得ているので、そうしたことには触れないといわれたものと拝される。
第七章 (師弟の因縁を述べ、行化を励ます)
本文
只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨て偏に正師と憑むとの仰せは不審に覚へ候、我等が本師釈迦如来法華経を説かんが為に出世ましませしには・他方の仏・菩薩等・来臨影響して釈尊の行化を助け給う、されば釈迦・多宝十方の諸仏等の御使として来つて化を日域に示し給うにもやあるらん、経に云く「我於余国遣化人・為其集聴法衆・亦遣化随順不逆」此の経文に比丘と申すは貴辺の事なり、其の故は聞法信受・随順不逆・眼前なり争か之を疑い奉るべきや、設い又在在諸仏土・常与師倶生の人なりとも・三周の声聞の如く下種の後に・退大取小して五道・六道に沈輪し給いしが・成仏の期・来至して順次に得脱せしむべきゆへにや、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん有り難き事なり。
何れの辺に付いても予が如く諸宗の謗法を責め彼等をして捨邪帰正せしめ給いて・順次に三仏座を並べたもう常寂光土に詣りて釈迦多宝の御宝前に於て我等無始より已来師弟の契約有りけるか・無かりけるか・又釈尊の御使として来つて化し給へるか・さぞと仰せを蒙つてこそ我が心にも知られ候はんずれ、何様にも・はげませ給へ・はげませ給へ。
現代語訳
ただいまのお手紙に、今後は日ごろの邪師を捨てて、ひとえに日蓮大聖人を正師として帰依していくといわれているのは、いぶかしく思われる。
我らの本師である釈迦如来が法華経を説くために出世されたときには、他方の仏や菩薩等がやってこられて、釈尊の振る舞いや化導を助けられた。それゆえ、釈迦・多宝・十方の諸仏等のお使いとしてきて、化導を日本に示されることもあろう。
法華経に「我、余国に於いて化の人を遣わして、其の為に聴法の衆を集め、亦(また)化を遣わして随順して逆らわじ」とある。この経文に比丘というのは、あなたのことである。そのゆえは「法を聞いて信受し、随順して逆わじ」というのは眼前に明らかである。どうしてこれを疑うことができようか。
たとえまた「在在諸の仏土に、常に師とともに生まれる」という人でも、三周の声聞のように、下種された後に大乗を退転し小乗に堕ちて五道・六道に深く沈んできたのが、成仏の時がきて順次に得脱されるゆえであろうか、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて日蓮の弟子となられたのであろう、ありがたいことである。
いずれにしても、日蓮と同じように諸宗の謗法を責め、彼らを、邪法を捨てて正法に帰依させて、順次に三仏が座を並べられている常寂光土に詣でて、釈迦・多宝の御前で「私達は無始以来、師弟の約束があったのでしょうか、なかったのでしょうか。また、釈尊のお使いとして来て、化導してくださったのでしょうか」と尋ねたときに、「そのとおりである」との仰せを受けてこそ、自身の心も納得されることであろう。なんとしても励まれるがよい、励まれるがよい。
語釈
他方
釈尊が主宰する娑婆世界以外の、他の仏の国土。
来臨
他人がある場所に来てくれることを敬って言う語。
影響
常に仏の説法・教化を助け、その会座を荘厳するために、影や響きのように仏菩薩が現れること。
行化
説法・教化を行うこと。
多宝
法華経見宝塔品第11で出現し、釈尊の説いた法華経が真実であることを保証した仏。過去世において、成仏して滅度した後、法華経が説かれる場所には、自らの全身を安置した宝塔が出現することを誓願した。釈尊が法華経を説いている時、見宝塔品で宝塔が地から出現して空中に浮かんだ。宝塔が開くと、多宝如来が座していた。多宝如来は釈尊に席を半分譲り、以後、嘱累品第22まで、釈尊は宝塔の中で多宝如来と並んで座って(二仏並坐)、法華経の説法を行った。
十方の諸仏
四方(東・西・南・北)、四維(南東・南西・北西・北東)、上下の十方にいる仏。すなわち、すべての仏たち。
我於余国遣化人・為其集聴法衆・亦遣化随順不逆
法華経法師品第10の文。「我余国に於いて、化人を遣わして、其れが為に聴法の衆を集め、亦化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして、其の説法を聴かしめん。是の諸の化人、法を聞いて信受し、随順して逆らわじ」とある。
三周の声聞
法華経迹門における仏の三周りの説法(法説・譬説・因縁説)によって、開三顕一の法門を理解し成仏の記別を受けた声聞のこと。法華経の会座において開三顕一の法門を聞いた声聞の中には、法理を聞いてすぐに覚りを得ることができる上根の声聞もいれば、法理を聞いてもよく分からず譬え話や因縁話を聞いて初めて分かる中根・下根の声聞もいた。故に同じ法華経迹門の法理を聞いても、覚りには前後があり、法説・譬喩説・因縁説の三つの説法にしたがって、それぞれの法を聞いて得道したのである。最初に、方便品第2の開三顕一の法理を聞いて、智慧第一といわれる舎利弗が法門を理解し、譬喩品第3において華光如来という記別を受けた。中根の声聞は、その法理を聞いても理解することができなかったため、釈尊は譬喩品の三車火宅の譬えをもって説き明かした。この譬喩説を聞いて理解したのが神通第一といわれた目犍連、頭陀第一の迦葉、論議第一といわれた迦旃延、解空第一の須菩提の四大声聞であり、授記品第6で記別を受けた。それでもまだ理解できなかった下根の声聞は、化城喩品第7の三千塵点劫以来の因縁を聞いて初めて理解することができた。これが富楼那や阿難、羅睺羅などの弟子である。下根の声聞は五百弟子受記品第8・授学無学人記品第9において記別が与えられた。
下種
「種を下ろす」と読み下す。仏が衆生を成仏に導くさまを植物の種まき・育成・収穫に譬えた、種熟脱の三益のうち最初の種。成仏の根本法である仏種を説いて、人々に信じさせること。仏が衆生に仏種を下ろすという利益を「下種益」という。釈尊が生涯にわたって説き残した膨大な諸経典には、仏種が明かされていない。唯一、法華経本門の如来寿量品第16で「我本行菩薩道」と述べて、釈尊自身が凡夫であった時に菩薩道を実践したことが、自身の成仏の根本原因であったと示しているだけである。日蓮大聖人は、寿量品の文の底意として示された仏種を覚知し拾い出して、それが南無妙法蓮華経であると説き示され、南無妙法蓮華経を説き広めて末法の人々に下種する道を開かれた。それ故、大聖人は下種の教主であり、末法の御本仏として尊崇される。
退大取小
大乗から退転し、小乗に陥ること。
五道
迷いと苦悩の五種の境界のこと。地獄界・餓鬼界・畜生界・人界・天界をいう。修羅界を加えると六道となるが、経論によって修羅界は餓鬼界・畜生界あるいは天界に含まれるとされる。
六道
十界のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界。古代インドの世界観で、衆生が生存する6種の領域をいう。凡夫は迷いに満ちたこの六道で生死を繰り返すとされる。これを六道輪廻という。輪廻からの脱却を解脱といい、これは古代インドの人々にとって最終的に達成すべき理想とされた。仏教では、古代インドの伝統思想であるバラモン教の教えや同時代の新興思想である六師外道などの教えでは、生死の因果について知悉しておらず、それどころか無知であるため、誤った行いとなり、したがって解脱は得られないとされる。そして、むしろ仏道を学び修行することによってこそ解脱できると説かれる。六道のうち地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道といい、これに対し修羅・人・天を三善道という。また、三悪道に修羅を加えて四悪趣という。修羅を除いて五趣という。
謗法
誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
三仏
法華経見宝塔品第11から始まる虚空会に集った釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏のことで、すべての仏を意味する。
常寂光土
四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
講義
ここは、最蓮房の手紙に「これからは、邪師を捨てて、ひとえに大聖人を正師とたのむ」と述べていることを「不思議に覚える」と仰せられ、深い使命をもって生まれてきたことを示唆されている。
「不審」と仰せられているのは、最蓮房の発心を危ぶまれているのではなく、佐渡のような地で、妙法に帰依し、大聖人を守る人が出現したことには非常に深い意義があるといわれているのである。
すなわち、釈尊が法華経を説くために出世したとき、他方の仏・菩薩等が、あたかも影の身に従い、声の響きに応ずるように集まってきて、釈尊の行化を助けたことを述べられ、その他方の仏・菩薩等が、釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使いとして、衆生教化のために、この日本国に出現されたのであろう、と仰せである。すなわち、最蓮房がその他方の仏・菩薩であろうかと仰せられているのである。
その経証として、法華経の法師品第十に「我れは余国に於いて、化人を遣わして、其れが為めに聴法の衆を集め、亦た化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして、其の説法を聴かしめん。是の諸の化人は、法を聞いて信受し、随順して逆らわじ」の文を挙げられている。この文はそのまえに「若し善男子・善女人有って、如来の滅後に四衆の為めに是の法華経を説かんと欲せば、云何んが応に説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し応に四衆の為めに、広く斯の経を説くべし」と衣座室の三軌を示したうえで、仏はさまざまな国に化人を派遣してその説法を助けると述べているのである。したがって、これを末法にあてはめれば、仏の滅後に法華経を弘める人が大聖人であり、仏が化人をつかわしてといっているのが、最蓮房等をさすことになる。大聖人はその文に「亦た化の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして、其の説法を聴かしめん。是の諸の化人は、法を聞いて信受し、随順して逆らわじ」とあることから、最蓮房はこの経文の「比丘」にあたると仰せになっているのである。
次に、最蓮房を三周の説法で得脱した声聞にたとえられている。三千塵点劫の昔、大通智勝仏の十六王子によって化導を受けた衆生は「いつの世にあっても、諸仏の国土に常に師とともに生まれる」という人であったが、その後、「退大取小」、すなわち大乗の法から退転して、小乗の法を取って堕落し、五道・六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の生死の苦悩の世界に迷ってしまった。その声聞達も、機が熟し成仏の時が到来して、法華経において授記を受けたのである。それと同じく、最蓮房は大聖人の弟子として常に師とともに生ずる人であったが、退大取小して苦に沈み、ようやく機根が熟して、念仏・真言等の邪法・邪師を捨てて、大聖人の弟子になったのであろうとされ、まことに不思議なことであると仰せである。
三千塵点劫の化導のときの衆生には発心・未発心の二類があり、発心のなかにも不退・退大の二類がある。日寛上人は三重秘伝抄に「大通覆講の時に発心・未発心の二類あり。若し久遠下種を忘失せざるは、法華を説くを聞きて即ち発心するなり。若し其れ久遠下種を忘失せば、妙法を聞くと雖も、而も未だ発心せざるなり……彼の発心の中に亦二類あり。謂く、第一は不退、第二は退大なり。彼の未発心の人は即ち是れ第三類なり。而るに今日得道の二乗は、多分は第二退大にして、少分は第三類なり」とある。法華経説法の座に集まった声聞は、かつては大通智勝仏の十六王子の一人に化導され、その説法を聞いて発心し、そのまま不退を貫いた者は得道したが、発心しなかった者、発心したが途中で退転した者は、苦に沈み、五道・六道を輪廻したあと、ようやく機根が熟して法華経の説法の座で授記を受けたのである。最蓮房がまさにそれであり、妙法を信受しながら途中で退転し、苦に沈んでいたのが、今、大聖人にお会いしたのは、まさに機根が熟したのである。「何れの辺に付いても」とは「在在諸仏土常与師俱生」の人であれ、未発心あるいは退大取小して悪道流転を経てきた人であれということである。そのいずれにせよ、今世で大聖人の門下となった以上は、諸宗の謗法を責め、彼らをして邪法を捨てさせ、正法の法華経に帰伏せしめていくべきであると仰せられている。そして、次の世には釈迦・多宝・十方の諸仏が座を並べている常寂光土に詣で、釈迦・多宝の御宝前において大聖人と最蓮房が久遠の昔から子弟の約束があったかなかったか、また釈尊の御使いとして、この末法に大聖人の妙法弘通を助けるために、生を日本に受けたかどうか尋ねてみたとき「そのとおり師弟の約束があり、師の弘教を助けるために世に出たのである」という仰せを受けるなら、はっきりと自らの使命を自覚できるであろうと仰せられ、そのためには、なんとしても自行化他の実践を励んでいくことが肝要であると激励されている。
第八章 (本円戒受持の大功徳を明かす)
本文
何となくとも貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ、結句は卯月八日・夜半・寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者なり、此の受職を得るの人争か現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん、若し今生妙覚ならば後生豈・等覚等の因分ならんや、実に無始曠劫の契約・常与師倶生の理ならば・日蓮・今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したもう可きや、如来の記文仏意の辺に於ては世出世に就いて更に妄語無し、然るに法華経には「我が滅度の後に於て応に斯の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」或は「速為疾得・無上仏道」等云云、此の記文虚くして我等が成仏今度虚言ならば・諸仏の御舌もきれ・多宝の塔も破れ落ち・二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀となり.方・実・寂の三土は地・餓.畜の三道と変じ候べし、争か・さる事候べきや・あらたのもしや・たのもしや・是くの如く思いつづけ候へば我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。
現代語訳
何ということではないけれども、あなたに去る二月のころから大事の法門を教え申し上げた。そのうえ、四月八日の夜半、午前四時ごろに妙法の本円戒をもって受職灌頂してさしあげた。
この受職を得る人は、どうして現世であっても妙覚の仏とならないことがあろうか。もし今生が妙覚ならば、後生がどうして等覚等の因位の分際であることがあろうか。実に、無始の昔からの約束であり、「常に師とともに生ぜん」という理ならば、日蓮がこのたび成仏するのに、あなたがどうして離れて悪道に堕ちることがあろうか。
如来の記した経文は、仏の本意からみるとき、世間・出世間にあって全くうそはない。しかし、法華経には「我が滅度の後に必ずこの経を受持すべきである。この人は仏道において成仏するのは疑いないであろう」とあり、あるいは「速やかに為れ疾く、無上の仏道を得たり」等とあるのに、この経文が事実でなくて私達の成仏が今度うそであるならば、諸仏の御舌も切れ、多宝の塔も破れ落ち、二仏が並座しているところは無間地獄の焼けた鉄の床となり、方便土・実報土・寂光土の三土は地獄・餓鬼・畜生の三悪道と変じるであろう。どうして、そのようなことがあろうか。
ああ、頼もしいでないか、頼もしいでないか。このように思い続けていると、我らは流人であっても身心ともにうれしいものである。
語釈
結句
結局。そのうえ。
寅の時
現在の午前4時ごろをいう。古来、丑寅の時刻は一日のうちで夜から昼に向かう中間の意味をもつとされる。日寛上人の開目抄愚記には「丑寅の時とは陰の終り、陽の始め、即ちこれ陰陽の中間なり。またこれ死の終り生の始め、即ちこれ生死の中間なり」と述べられている。
本円戒
本門の円頓戒のこと。一切衆生が速やかに成仏するうえで守るべき規範のことで、妙法蓮華経の五字(御本尊)を持つことをいう。
受職潅頂
妙覚の職位の授受の時に行われる。智水を受者の頭に注ぐ儀式のこと。密教では阿闍梨位の授受の時に行われる伝法灌頂のことをいう。
妙覚
菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。等覚位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで登って得脱したとされる。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に帰り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という
今生
今世の生のこと。先生、後生に対する語。
後生
後の生。死んで次に生まれてきたときは順次生といい、それ以後の生は順後生という。
等覚
❶仏の異名。等正覚。等は平等の意、覚は覚悟の意。諸仏の覚りは真実一如にして平等であるので等覚という。❷菩薩の修行の段階。五十二位のうちの第51位。菩薩の極位をさし、有上士、隣極ともいう。長期にわたる菩薩の修行を完成して、間もなく妙覚の仏果を得ようとする段階。
因分
因位の分際の意で、仏果を得るための修行の位。
無始曠劫
無始は始まりがないとの意で、無限・永遠の過去を意味する。曠劫もはてしないかなたの時をさす。
悪趣
趣とは境界の意で、十悪・五逆・謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。地獄とは苦しみ、餓鬼は食物はじめいっさいの物について、求めて得られない状態、畜生は弱い者には威張るが、強い者には媚びて恐々としている状態、修羅は争いに明け、争いに暮れる状態である。日寛上人の分段には「これはこれ四悪趣なり、『生死の河に堕ち』とは上の六凡をもって通じて生死となし四聖をもって用いて涅槃となすなり、性抄に『分明ならざるに似たり』と云云」とある。
妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
即為疾得・無上仏道
法師品の文、「則ち為れ疾く無上の仏道を得たり」と読む。受持の功徳を示す文。即身成仏・直達正観の依文である。
諸仏の御舌
神力品に説かれている。十方分身の諸仏が舌を梵天につけ法華経は不妄語であると証明したこと。
多宝の塔
多宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並座している時の虚空会の儀式をいう。塔中に対して、嘱累品以後の説法を塔外という。その多宝塔中の儀式に礼拝の住処がある。多宝の塔とは、総じて生命論からいえば、仏界を内在する一切衆生の尊厳なる生命をさしていい、別しては大御本尊であり、信受に約して御本尊を信ずる者の当体をいうのである。阿仏房御書に「貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり」(1304:07)とある。
二仏並座
宝塔品の中で、多宝の塔が開き、釈迦多宝の二仏が並座して、十方分身の諸仏が集まる儀式である。閉塔を証前、開塔を起後のほうとうという。本門の説法をおこすための序であり、ゆえに「本門の密序という。
無間地獄
阿鼻地獄のこと。阿鼻はサンスクリットのアヴィーチの音写で、苦しみが間断なく襲ってくるとして「無間」と漢訳された。無間地獄と同じ。五逆罪や謗法といった最も重い罪を犯した者が生まれる最悪の地獄。八大地獄のうち第8で最下層にあり、この阿鼻地獄には、鉄の大地と7重の鉄城と7層の鉄網があるとされる。
方・実・寂の三土
方便有余土・実報無障礙土・常寂光土のこと。これに凡聖同居土を加えたものを四土(天台大師が一切衆生の住する土を四種に類別したもの)という。方便有余土は略して方便土ともいい、二乗と別教の十住から十回向までの菩薩・円教の十信の菩薩の住する土をいう。実報無障礙土は略して実報土ともいい、別教の初地から等覚までの菩薩・円教の初住から等覚までの菩薩の住する土をいう。常寂光土は仏の住する国土をいう。常寂光は三徳に対応し、常は法身、寂は解脱、光は般若であり、三徳を具えた世界とされる。
地・餓・畜の三道
三悪道のこと。悪業によってもたらされる3種の苦悩の世界のこと。地獄・餓鬼・畜生の三つをいう。
講義
最蓮房には、去る2月のころから「大事の法門」を教えたと仰せられている。この月は最蓮房の入信の月であるから、入信直後から、種々、大聖人に法門上の質問をし、大聖人がそれに答えられるということが行われたのであろう。文永9年(1272)2月11日には「生死一大事血脈抄」、同月20日にも「草木成仏口決」等をもって御教示されている。
そのうえ、4月8日の夜半・寅の時刻(午前4時ごろ)に、妙法の本円戒をもって「受職灌頂」されたのである。ここに仰せの「受職灌頂」とは、「久遠一念元初の妙法を受け頂くことは最極無上の灌頂なり」(0867:01)と百六箇抄に拝せられるように、久遠元初の大法である文底秘沈・事の一念三千の南無妙法蓮華経を授受する厳粛な儀式である。
なお、授職灌頂については、文永11年(1274)に著された放光授職灌頂下に述べられている。
その冒頭には「問う、本門授職の相貌如何。答う、本門本有の実成の授職は此の宗の眼目・骨髄・心符等に之有り。輙く之を記す可からず。問う、授職の法躰は如何。答う、本門の授職の法躰をば唯仏と仏とのみ無量劫の中に於いて之を説きたもうとも説き尽くしたもう可からず。但し詮要を取って説きたもうに但是れ妙法蓮華経の五字也」と、妙法蓮華経の五字が授職の法体であることを明かされている。
更に、授職灌頂することは「授職とは付嘱の義なり。又云く、授記の義なり。又云く、決定成仏の義なり。又云く、入正定聚の義也」と、付嘱・授記などと同じ義であるとされ、しいて違いをいうとすれば、授職は自利、付嘱は利他であるが、互いに具しているともされている。
受職灌頂する際に「妙法の本円戒」をもって行ったと仰せられているが、大聖人の仏法における戒とは何か。
末法の戒は妙法を受持することに尽きる。教行証御書には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(1282:10)と仰せである。これを「具足の妙戒」「金剛宝器戒」ともいう。つまり、妙法を受持する一行に万戒の功徳を具えて、受持即持戒となり、わざわざ別に戒を持たなくとも、最も勝れた持戒となるのである。
したがって「此の受職を得るの人」は、受持即観心・直達正観であるから、現世において凡身のまま即妙覚の仏と顕れるのである。すなわち即身成仏・一生成仏である。
今生において妙覚の仏果、極位に到達してしまえば、後生が「等覚等の因分」、すなわち菩薩の境界に戻るはずがない。大聖人と最蓮房が久遠以来の師弟の契約・常与師俱生の道理であるならば、師匠である大聖人が成仏するのに、その教えを正しく受けた弟子が悪道に堕ちるはずはないと仰せられ、最蓮房に対して、強く励まされているのである
「如来の記文」は、「仏意の辺」においては、世間・出世間について少しの妄語もない。「仏意の辺」と仰せられているのは、「機情の辺」に相対していわれている。機情の辺とは、衆生の機根・心情に即応することで、仏意の辺とは、仏の本意をいう。衆生の機根に合わせて説く場合は、方便として、必ずしも真実でないこともあるが、仏意の辺においては、世間の法においても、出世間の法においても、仏は妄語をいわないのである。伝教大師は三大章疏七面相承口決において名・体・宗・用・教の五重玄を仏意・機情の二面から釈しているが、そこでは、例えば「名」は仏意においては体や用と一体不二であるが、機情の面では「名」は体を説明する仮のものとして立てられているとする。このように、仏意と機情とは説き方が異なるのであり、今、大聖人は仏意の辺においては全く妄語はないと仰せられているのである。
その仏の証文として法華経の文を引かれている。如来神力品第21には「仏の滅度の後、末法においては、必ず南無妙法蓮華経を受持すべきである。この人が必ず仏道を成就(成仏)することは決して疑いない」とあり、あるいは宝搭品第十一には「この経を受持する者は疾く無上の仏道を得る」とある。もし、これらの記文がうそであり、大聖人と最蓮房の師弟の成仏が虚言となるならば、法華経に説かれているすべての法理はうそとなるのであるから、その法華経を如来神力品第21で真実と証明した「諸仏の御舌」は切れることになり、見宝搭品第11で「釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と証明した多宝如来の「多宝の搭」は破れ落ち、境智冥合・即身成仏を顕示する二仏並座の師子座は、かえって無間地獄の熱鉄の床となり、二乗・菩薩・仏の依報の土である「方便・実報・寂光の三土」は法華経説法の座ですべて仏の寂光土に摂せられているのであるが、それらも、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の世界と変わってしまうことになる。このようなことがあろうはずがない、と大聖人は揺るぎない御確信を述べられ、このように、妙法受持の者が凡身のままで永遠に崩れざる最高の仏の境界にあることを思い続けていると、大聖人も最蓮房も、ともに流人の身ではあるが、身も心もともにうれしさが満ちあふれてくると仰せである。
第九章 (自在無碍なる成仏の境地を述べる)
本文
大事の法門をば昼夜に沙汰し成仏の理をば時時・刻刻にあぢはう、是くの如く過ぎ行き候へば年月を送れども久からず過ぐる時刻も程あらず、例せば釈迦・多宝の二仏・塔中に並座して法華の妙理をうなづき合い給いし時・五十小劫・仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむと云いしが如くなり、劫初より以来父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し。
現代語訳
大事な法門を昼夜に思索し、成仏の理を時々時刻々に味わっている。このように過ごしているので、年月を送っても長く感じず、過ぎた時間も、それほどたっているように思えない。例えば釈迦・多宝の二仏が多宝塔の中に並座して法華経の妙理をうなずきあわれたとき、五十小劫という長遠の時間が経っていたにもかかわらず仏の神力によって諸々の大衆に半日のように思わせた、と法華経従地涌出品第十五に説かれているようなものである。
この世界の初め以来、父母・主君等のお咎(とが)めを受け、遠国の島に流罪された人で、私達のように喜びが身にあふれている者はまさかいないであろう。
それゆえ私達が住んで法華経を修行する所は、いずれの所であっても常寂光の都となるであろう。私達の弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されるということは、言いようがないほどうれしいことである。
語釈
沙汰
①物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。裁定。また、裁決・裁判。②決定たことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。③便り。知らせ。音信。④話題として取り上げること。うわさにすること。⑤問題となるような事件。その是非が問われるような行為。
劫初
劫のはじめ。
御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
遠国
律令制では、諸国を都からの距離によって近国・中国・遠国の三種類に分けていた。このうち遠国には、関東以北、越後(新潟県)以北、安芸(広島県の西部)・石見(島根県の西部)以南の各国、および土佐国(高知県)が含まれた。日蓮大聖人御誕生の地である安房国(千葉県の南部)も遠国の一つにあたる。
一乗
一仏乗のこと。成仏のための唯一の教えの意で、「すべての者が成仏できる」という法華経の教えのこと。
常寂光
四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
天竺
中国および日本で用いられたインドの古称。
霊山
法華経の説法が行われた霊鷲山のこと。久遠の釈尊が常住して法華経を説き続ける永遠の浄土とされる。日蓮大聖人は、法華経の行者が今ここにいながら往還できる浄土であるとともに、亡くなった後に往く浄土でもあるとされている。
本有
本来ありのままに存在すること。もともとそなわっていること。①生命に本来そなわる特質、本然的に繰り返す現象。②久遠から常住している意。
寂光土
四土の一つ。天台宗では法身の住む浄土とされる。法華経に説かれる久遠の仏が常住する永遠に安穏な国土。これをふまえて、万人の幸福が実現できる目指すべき理想的世界のことも意味する。法華経如来寿量品第16では、釈尊は五百塵点劫という久遠の過去に成仏した仏であり、それ以来、さまざまな姿を示してきたという真実が明かされる。そして、その久遠の仏が、娑婆世界に常住しており、一心に仏に会おうとして身命を惜しまない者のもとに、法華経の説法の聴衆たちとともに出現すると説かれている。したがって、娑婆世界こそが久遠の釈尊の真実の国土であり、永遠不滅の浄土である常寂光土と一体であること(娑婆即寂光)が分かる。それに対して、釈尊が方便として現した種々の仏とその住む国土は、この久遠の釈尊のはたらきの一部を担う分身の仏であり、不完全な国土であるので、究極の浄土ではなく、穢土ということになる。
講義
ここでは、時間にも縛られない、また環境にも左右されない、自受法楽の境界を語られている。「大事の法門」である即身成仏の大仏法をば昼夜にわたって究め、成仏の理をば瞬間瞬間に念々の生命に味わい実感していると語られている。この時期は、開目抄、観心本尊抄をはじめ重要な御書を次々と御述作になり、末法の衆生に大事な法門を残されたのである。
このように暮らしていると、年月が、あっという間に過ぎていくように感ずると仰せである。苦の境涯、恨みの生命の感ずる時間は、長い。流罪になる者の常として、時間は極まりなく長く感じられることであろう。しかし、大聖人にとっては、令法久住のために、大事の法を説く日々であり、時間が短く感じられるとの仰せである。
成仏とは生命の奥底からの満足感、充実感であり、久遠元初の南無妙法蓮華経を体として顕現する仏界の生命は、現在の瞬間の一念に無始の過去と無終の未来を包含する。
その例として、法華経涌出品第十五の文を挙げられている。法華経説法の虚空会の儀式において釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並んで坐り、法華経の妙理をうなずき合った時、すなわち釈尊が妙法蓮華経を説き、多宝が合意し証明したとき、従地涌出品第十五で、久遠の弟子である地涌の菩薩が涌出して、五十小劫という長い期間、種々の讃法をもって仏を賛嘆恭敬し、妙法蓮華経と唱えた、その間、仏は黙然として坐し、もろもろの四衆も黙然としていたが、仏は神力をもって「五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ」とあるように、仏の不可思議な力用によって会座の大衆に「半日の如し」と短く思わせたのである。
これは、地涌の菩薩が仏を賛嘆した期間の長さを、仏の神力に寄せて述べたもので、天台大師は法華文句巻九上で「解する者は短に即して而して長なれば、五十小劫と謂う。惑う者は長に即して而して短なれば、半日の如しと謂う」と釈し、五十小劫という長時を半日のように思ったのは惑者のゆえであるとしている。しかし、ここで大聖人がこれを引かれた目的は、惑者ということにあるのでなく、妙法にそのように長時を短時と思わせる力があるということにある。
そして、この世が始まって以来、父母・主君等の御勘気を被り、遠国の島に流罪された人のなかで、我らのように身に余る喜びをもって生きた者は他にないであろうと述べられている。
ここでは「我等」と仰せられていることに留意したい。すなわち、この流罪は大聖人のみでなく、最蓮房にとっても、大きな喜びであると仰せられているのである。大聖人にあっては、佐渡流罪は、法華経が真実であることを証した、喜悦きわまりない出来事であった。最蓮房にあっても、佐渡での生活は不幸の極みであったが、それが縁で大聖人の仏法に巡りあえ、成仏が決定するのであるから、これほどの喜びはないのである。大聖人は御自身の喜びを述べながら、最蓮房に、自身の喜びに気づくべきことを教えられているのである。
成仏の境界にある者には、「流罪の地・遠国の佐渡ヶ島」という厳しい環境も「常寂光の都」となる。南無妙法蓮華経を受持して修行する所は、どのような環境であれ、「常寂光の都」と変わるということである。四条金吾殿御消息にいわく「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや……若し然らば日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか……竜口に日蓮が命を・とどめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか、神力品に云く「若於林中若於園中若山谷曠野是中乃至而般涅槃」とは是か」(1113:06)と。ここに仰せのように法華経のゆえに「命を・とどめをく」所が、仏土になるのである。その意味からすれば、佐渡の地こそ、御本仏の御命をとどめられる所であり、また、最蓮房にとっても、末法の妙法を信受して法華経の信者として命をとどめおく所であるから、まさしく「常寂光の都」となるのである。
したがって、大聖人門下の弟子檀那となる人は「一歩を行かずして」法華経の説法が行われた「天竺の霊山」を見ることができ、永遠の仏国土である「本有の寂光土」へ昼夜に往復できると仰せである
ここで「一歩を行かずして天竺の霊鷲山を見ることができる」とは、法華経の儀式が妙法信受の人の生命に現出するゆえであり、「本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ」と仰せられているのは、朝に夕に妙法を唱えることが「寂光土」へ帰っていることになるからである。
第十章 (赦免後の再開を約して励ます)
本文
余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん、貴辺の御勘気疾疾許させ給いて都へ御上り候はば・日蓮も鎌倉殿は・ゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り京都へ音信申す可く候、又日蓮先立つてゆり候いて鎌倉へ帰り候はば貴辺をも天に申して古京へ帰し奉る可く候、恐恐謹言。
四月十三日 日蓮花押
最蓮房御返事
現代語訳
あまりにうれしく思うので、約策を一つ申し上げよう。あなたの御流罪が早く許されて都へ上られたならば、日蓮も鎌倉殿(北条時宗)は許さないと仰せられても、諸天等に申して鎌倉に帰り、京都にお手紙を差し上げよう。
また日蓮が先に許されて鎌倉に帰ったならば、あなたを、諸天に申して故郷に帰られるようにしよう。恐々謹言。
四月十三日 日 蓮 花 押
最蓮房御返事
語釈
鎌倉殿
鎌倉幕府・将軍のこと。
古京
①古い都②故郷。
講義
最後に赦免について約束をされて、最蓮房を励まされている。最蓮房の発心があまりにうれしいので、ここに一つの約束をしようと仰せられ、大聖人よりも早く、最蓮房の流罪が許されて、都へ帰ることができたならば、大聖人の流罪を鎌倉殿が許さないといっても、諸天等に祈って鎌倉に帰ってみせよう、そして、京都の最蓮房へ手紙を出すことにする。
また大聖人が先立って許され、鎌倉へ帰れば、最蓮房のことをも諸天に祈念して古京(京都)へ帰ることができるようにしようとのお約束である。
流罪地・佐渡での危機の日々にありながら、法華守護を誓った諸天等に命じて、必ず赦免を実現すると断言されている。
とくに最蓮房が赦免される可能性を先に挙げられているところに、細かい御配慮が感ぜられる。
その後、大聖人はこの御返事から2年後の文永11年(1274)3月に赦免となって、鎌倉へ帰られ、第三回の国主諌暁の後、同年5月に身延へ入山された。
最蓮房は、大聖人の身延御入山後に赦免され、京都に帰ることができたという。大聖人の仰せが現実となったのである。